第八話  うつつに惑うもの(2)                   back |  top | home




 下水という下水から、夜叉があふれだした。
 町はそうとしか言えない光景だった。統馬がコインランドリーの店から飛び出すと、目の前のマンホールの蓋が空まで弾けとび、高架下の暗渠のフェンスが長い爪で引き裂かれ、夜叉たちが、ぶよのように往来を埋め尽くしていた。
 無論、霊力のない者に見える光景ではない。だが、残業帰りのサラリーマンやOLたちも、突然通りを吹き抜ける生臭い烈風に、何か異様な気配だけは察するのか、足早に走り去っていく。
「なんということじゃ」
 洗濯機の中から詩乃によって助け出され、彼女の手の中でしばらく目を回していた草薙も、ようやく身を起こして両耳をぴんと立てた。
「賭けてもよい、ついさっきまではT市の中にこれほどの夜叉はいなかった。いったいいつの間に」
「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・ドバンシャナン、アビュダラ・ニサトバダトン・ソワカ!」
 統馬が最速最強の除悪趣真言を唱え、霊剣の鞘と刀身を右と左に振りかざすと、周囲数十メートルの夜叉が音もなく、光の渦に飲み込まれた。
「くそ、きりがない。……何故いったい、こんなことになったんだ。草薙!」
「わからぬ。急激に何かに吸い寄せられるようにして、夜叉が集まっておる。まるで水が排水溝に一気になだれこむような勢いじゃ」
 離れた味方と会話を交わしているわずかな隙にも、また統馬の周囲には、見るだにおぞましい異形の群れが集まってくる。
 ざわざわ、ざわざわと。
『半遮羅さま』
『なぜ、我らを疎みなさる』
「なにっ?」
 統馬は彼らの口々のつぶやきを聞いて、驚愕した。
『夜叉の将、半遮羅さま。どうぞ命令をくだされませ。我らはあなたのしもべ。ともに人間を襲い、その肉を飽きるほど食らいましょうぞ』
 ただ呆然と、切先を下げるしかない。
 まさか――、奴らを呼び寄せていたのは俺だというのか?
「矢上くん!」
 詩乃の悲鳴がひときわ大きく響き渡る。
「矢上くんの目が……」
 詩乃も草薙も、あっけにとられて見つめる。大勢の夜叉にかしずかれているとしか見えない統馬の瞳は、暗闇の中、爛々とした白色の光を放っていた。


 愛媛県・松山空港。
 一階の到着ロビーから外に出ると、ちょうど矢萩龍二の運転するジープが車寄せにすべりこんできた。
「よ、久しぶり」
 龍二は、意外にも暢気な調子で片手を振る。統馬は無言で2人分の荷物を放り込むと、自分はひとりで後部座席に陣取った。
 しかたなく、詩乃は龍二の隣の助手席に乗る。
「高校は何て言って休んできたの?」
「えっと、親の離婚について田舎で親族会議を開くからって。先生も何も言わなかったわ」
「統馬は……、まあ、卒業する気がないから、理由をでっちあげる必要もないか」
 答える気配のない相手をちらりとバックミラーで確かめると、龍二は真顔になってアクセルを踏み込む。
 ジープは高速道路に入って次第にスピードを上げると、南伊予地方へと進路を取り、爆走した。


「統馬の持つ夜叉としての力が、あまりに大きくなりすぎているのです」
 久下はそれまでの会話を結論づけるように、そう言った。
 あのおぞましい光景から一夜明けた朝。
 草薙と、駆けつけた久下の真言陀羅尼の霊力で夜叉は四散して、なんとか事なきを得た。草薙が強力な防護結界を張ることで、統馬の体に起きた異変もようやく影をひそめた。
「今まで、気づきませんでした。それまでは夜叉の将を倒すのは、百年か、せいぜい数十年に一度。短期間にこれほどの急激な変化は訪れなかった」
「夜叉の将を一体倒すごとに、残りの将にその分の妖力が増し加えられているのではないかというのが、久下とわたしの立てた仮説じゃ」
 草薙は結界を張るため、あれ以来詩乃のもとを離れ、ぴったりと統馬の肩に貼りついている。
「毘沙門天は己の霊力を八等分して夜叉八将に与えた。ひとり減れば七等分。もうひとり減れば六等分というように、力は均等に将たちに分配されるシステムなのじゃ」
「それじゃ、今は……」
 詩乃は総毛立つような思いで訊ねる。
「残りは宝賢、満賢、そして半遮羅の三人。この三体に、毘沙門天の力が三等分される計算になる」
「そのあまりに強大さゆえに、私の封印も限界が来ているのでしょう。だから、統馬の人間の体から漏れ出した半遮羅の妖力に、新しい狩り場ができたと勘違いした夜叉どもが引き寄せられた……」
 事務所の面々は、沈うつなムードで黙り込む。夜叉追いのひとりが夜叉を呼んでいたというのでは、洒落にもならない。
「俺のことは、もういい」
 さすがの統馬も憔悴の色は隠せないが、それでも強がるしか術(すべ)を知らない男だった。
「問題は、宝賢と満賢のほうも同じように力を増し加えていることだ。そのことを知る奴らがこのまま黙っていることはありえん」
「残念ながら、事態はまさにそのようになっています」
 久下は、吐息をついて書類に目を落とした。
「龍二くんの報告は、今説明したとおり。愛媛県全体の急激な犯罪上昇率。そして、南伊予に頻発する災害と異常気象。……何よりも、旧矢上郷の近辺に起こっている奇怪な殺人事件。
時が時だけに、統馬の故郷に近いということが気になります。
そして、九州のK県の市町村合併にからむ地域同士の深刻な対立は、警察の組織まで巻き込んで、もはや戦争一歩手前と言っても過言はないらしいのです。
鷹泉のお嬢さんも現地入りして、不眠不休で事態の解決に当たっていますが……、私にも来てほしいとSOSを寄こすということは、よっぽどのことです。相当上位の夜叉がらみと見て間違いないでしょう」
「伊予には、俺がひとりで行く」
「それしかないのう。K県のことにはメディアも大きな関心を寄せておる。統馬が歴史の表舞台に出ることは、極力避けねばならぬ。ましてや、微妙な政治の問題がからんだ一件。こいつが乗り込んだところで話がややこしくなるだけじゃ」
 草薙が吐息をついた。「だが、……気がすすまんのう。久下もいないのに、かの地に戻るのは」
「いつもなら、僕が帰ってくるまでお待ちなさいと引き止めるところですが、事態がそれを許してくれないようです。いつものんびりと構えている龍二くんの、あの切迫した様子はただごとではない。
すぐに愛媛に飛んでください。龍二くんも現地で待機してくれているし、草薙もいる。僕もK県の情勢に目途が付き次第、すぐに駆けつけます」
「私も、行かせてください」
 詩乃は必死に声を張り上げた。このままでは、ひとり事務所で留守番をしろと言われかねない。
 久下は彼女にじっと目を注いだ。
「詩乃さんも、統馬と行ってくださいますか?」
「はい!」
「久下、何を言っている」
 統馬が信じられないというふうに、僧侶を見た。
「今回は詩乃さんの力が必要です。滅びた矢上郷を間近で見て、あなたは平静でいられますか」
「あたりまえだ!」
 噛みつくように叫び返す彼の顔にかすかに浮かんだ苦しげな表情を、久下は見逃さない。
「いいえ、詩乃さんには行っていただきます。
そして統馬。くれぐれも気をつけて、そして決して忘れないでください。
……もし悪しき思いの虜になれば、封印の術は解け、あなたは永久に夜叉の姿に戻ってしまうことを」


「東京でもいろいろとあったそうだな」
 車の中で、龍二はひとりでしゃべり続けた。
「ことによると、統馬、おまえは久下さんに厄介払いされたのかもな。東京の真ん中で夜叉に戻られるより、愛媛のド田舎に隔離しておいたほうが、犠牲になる人間も少ない」
「矢萩くん――」
 抗議の意味でにらみつける詩乃に、彼は口元をほころばせた。
「冗談だよ。勘弁してよ。ほんとうに、ふたりが来てくれてうれしいんだ。すぐに助っ人が必要だった。このあたりが夜叉の将の狩り場になりかけているらしい」
 高速を降りると、ほどなくジープは、細くうねうねと曲がる山道を登っていった。樹木が両側から覆いかぶさり、色づいた葉が、はらはらと舞い落ちては、車体に貼りつく。
「うちの親父から、東京にいた俺に連絡があったんだ。一応、矢萩の血を継いで修行をしてきた家柄だから、まがりなりにも霊力はある。その親父の言うには、このところ、日ごとに頭を締めつけるほどの強力な妖力を感じると」
 そして、原因不明の死亡事故の状況を、龍二はかいつまんで話した。
 いずれも旧矢上郷の近辺の住民が犠牲になっていること。その死に方がいずれも尋常ではないこと。――そのうちのある者は首が、ある者は胴体がすっぱりと切れていた。まるで鋭利な刃物にやられたように。
 警察では熊に襲われたと公表しているが、傷から言ってそんなことはありえない。切り取られた遺体の一部はいくら山を捜索しても見つかることはなかった。
 そこまで話すと、龍二はおもむろに車を停め、運転席から降りて、道をふさいでいるバリケードを脇にどけた。
 そのバリケードには、
『国有地 許可なく立ち入りを禁ず』
 という文字が書いてある。
「俺は、鷹泉さんから立ち入り許可証をもらってるんだ」
 運転席に戻ってくると、詩乃に説明する。
「旧矢上郷のあたり一体が、国有地になってる。古来からいろいろ不吉な噂のあった土地でね。戦前から地主の一族はとうに死に絶えているそうだ」
 さらに車を進める。道はそのあたりから、舗装もされぬ石とぬかるみに変わっていた。このためにジープが必要だったのだ。
 しかし、その悪路すら、雑木林に阻まれるところまで来た。
「こっからは、歩きしかない。詩乃ちゃん、だいじょうぶ?」
「は、はい」
「今から険しい道を登るから、荷物は最小限にして、あとは車に置いていってくれ。だいじょうぶ。誰もここを通りかかる人はいない。盗まれやしないよ」


 龍二の手を借り、詩乃は枯れ枝を踏みしだきながら、晩秋の雑木林を登っていく。
 統馬は相変わらず、無言だ。飛行機の中でも、ジープの中でも、ひとことも口を利かなかった。彼の上着の胸ポケットに入っている草薙でさえ、ほとんどしゃべろうとしない。
 旧矢上郷が統馬と草薙にとって、いかに辛い思い出の地か、ふたり以外の者にはわからないだろう。
 代わりにあれこれと気を配って、明るく話しかけてくれたのは、龍二だった。
 いつのまにか、龍二の優しさがじわりと沁みてくる。そうして初めて、統馬のことばによって傷つけられた心が、酷くささくれだっていたことがわかるのだ。
「できれば、ほかの男と添って――」
 統馬くんは私が他の人と結婚して、なんとも思わないの? 矢萩くんと仲良く話してるのを見ても、何も感じない?
 それが私への思いやりだなんて、卑怯だ。
 詩乃はずっと、そんなやるせない思いを抱えて、知らず知らずのうちに龍二の手をきつく握り返しながら歩いていた。
 林を抜け、なだらかな斜面を降りていくと、水のない沢に出た。一面のすすきが、陽光を浴びながら揺れている。
「川が……」
 抑えそこねた統馬のつぶやきが聞こえた。
「ああ、ここは昔、川だったらしいな」
 龍二がこともなげに答えた。
「40年前、上流にダムが出来て、それ以来、水は枯れてしまったらしい」
 上屋敷と下の村を隔てていた、あの川だろうか。そのことも知らなかったほど、統馬はもう長い間ここに帰ってきていなかったに違いない。ことによると、何百年も。
 信野と統馬が、子どものころ出会った川。
 詩乃はざわざわと、いっそう心が乱れるのを感じた。
 どうして、こんなところに来てしまったんだろう。信野のことを思い出している矢上くんの横顔など、見たくはなかったのに。
「そっちのほうで、切断された死体が見つかったんだ」
 龍二が低い丘のひとつを指差す。
「何か、怪しい気配を感じるか?」
「いや」
 統馬は短く答えた。「行ってみよう」
「統馬……そちらは」
 草薙の懸念を宿した声を聞き、詩乃はそれがまさに矢上郷のあった方向であることを悟った。
 統馬はなお先頭を保って、すすきの原を登っていく。その背中は、まるで死地に赴く人のようにゆらゆらと頼りなく見えた。
 頂上に着くと、見晴らしのよい平地が広がっていた。
 青空はいつのまにか、動きの早い雲に取って代わられ、湿った風が霧を運んできた。
「このへんはこの季節、けっこう霧が出るんだよな」
 龍二がひとりごとのようにつぶやく。その声にさらに招き入れられたかのように、あたりはみるみる乳白色に染まった。
「あ……」
 詩乃が息をのむ。
「どうしたの、詩乃ちゃん」
「ううん、気のせい」
 強く、かぶりを振った。
「なんだか川の音が聞こえたように思えて……」
 彼らは、一斉に来た道を振り返った。
 その瞬間、一条の陽光が空から大地を突き抜けるように差し込み、わずかにふもとの霧を払った。そして、そこに現れたのは、きらきらと広く浅く水をたたえる川。
「そんなバカな!」
 龍二の叫びを後にし、統馬は向かっていた方向に駆け出した。草薙がそのはずみで肩から振り落とされて、あわてて詩乃が拾った。
 追いかけ、走る。頭の中は半ば狂乱に囚われ、半ば今から起こることを予測しつつ。
 立ち止まった一行の眼前に白い幕の中から姿を見せたのは、割れ竹の組垣。昼餉の支度らしい煙。そして大小の屋敷や土蔵。
「統馬……」
 草薙の呆然とした呼びかけの余韻が消える頃、統馬は押し殺した声で言った。
「ここは、四百年前の矢上郷だ……」
 

                   
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