第八話  うつつに惑うもの(6)                   back |  top | home




 風が吹くたびに心が騒ぐ。つい後ろを振り向いてしまう。
 晩秋の矢上郷は、にわかに活気づいていた。祝言の支度に皆が走り回っているだけではない。統馬の提案した直接選挙による評定衆制度についての論議が、井戸端で風呂場で、あらゆるところで人々の話題となっているのだ。
 当然のことながら、父誠之介はその話を一笑に伏した。そんなまどろっこしい仕組みで、まつりごとが動くかと呆れたように言うだけだった。
「ほら、言ったとおりだろう」
 誠太郎が苦笑まじりに統馬を振り返る。
「古いやり方に慣れた者にとっては、そう簡単に受け入れられる話ではない」
「いや、俺はあきらめないぞ」
 時間がかかるのは、承知の上だった。だが、誠太郎が味方についてくれるかぎり、できない相談ではない。
 父の世代はやがて老いる。待っていれば若い者たちの時代が来る。村人たちも、理屈はわからずとも、そこから来る新しい息吹を期待しているように見えた。
 誠太郎の才覚と話術、統馬の歴史を見通すという風変わりな霊力があれば、不可能はない。祝言のあと、統馬の総領としての披露目の式がある。そのときに集まった一族にもう一度話してみることにしようと、誠太郎と統馬の意見は一致した。
 信野との祝言は、あと四日後にせまっていた。
 忙しく厨房で立ち働きながら、信野はますます美しく、そして溌剌として見えた。
 ときおり統馬と目が合うと、恥ずかしそうにうつむいて微笑む。そうして、けやきの大笑いを誘うことになる。母の冴がそれを満足げに見守っている。
 そんな彼らの傍らで、誠太郎はいつもの鷹揚な、しかしどこか寂しそうな笑顔で立っている。強く否定はしているものの、彼も心から信野のことを想っていたのだろう。
 とうとうある日、統馬はいたたまれなくなって、
「兄上、何も言わずに、俺のことを殴れ」
 と言ったら、本当に殴られた。
「この野郎。まさか本当に殴るなんて! そんな話があるか!」
「あはは。俺は根が素直で正直者なんだ」
 顎を痛そうに押さえてうずくまっている統馬を、誠太郎は腰に手を当てて見下ろしながら、愉快そうに笑った。


 何もかもが、順調だった。闇は消え、人の心は通い合い、すべてのものごとは未来に向かって進んでいく。
 だが、何故だろう。ときおり、何か大事なものが欠けている気がする。風の中から誰かに呼ばれたようで、幾度となく振り返るのだ。
「統馬……くん」
 誰かのなつかしい声。忘れてはならぬもの。
「しの」
 許婚の名をつぶやくたびに、違う面影が頭の隅をよぎるように思える。


 上屋敷の裏庭を歩いていた統馬は、奇妙なものを垣のそばの草むらの中に見つけた。
 それは、刀の鍔(つば)だった。
 雨露と草の汁にさらされているはずなのに、その鈍い光沢は磨きぬかれた名剣の持つものだった。
「これ……は」
(統馬。ようやく見つけてくれたな)
「なに!」
 統馬は驚きのあまり、取り落としそうになった。
(わたしは、草薙。思い出せぬか。天叢雲と一対の剣である草薙じゃ)
「ご神刀の、天叢雲?」
(今のおまえは、ようやくわたしを感じることができるようになった。真実を知りたいと内で強く望んだからじゃ。――よいか、矢上家当主、矢上統馬。大事なことを告げる。心して聞くがよい)
 半信半疑でいた統馬も、そのことばにあわてて正座して、刀鍔の前にうやうやしくひれ伏す。
「……神仏のご託宣をお伝えください」
(この世界は、偽りの世界じゃ。まことの世では、矢上郷はとっくの昔に滅び、四百年に及んでいる)
「なん……だって」
(おまえは、四百年後の世界から、この地に迷い込んだ。そして、そのことさえも悪しき力によって忘れさせられているのじゃ)
 立ち上がろうとして、ぺたりと地面に尻餅をつくと、統馬は呆然とつぶやいた。
「嘘だ……」
(嘘だと思うなら、天叢雲の祀ってある部屋に入ってみるとよい。わたしの言うことが真実であることは、すぐにわかる)
 長い間逡巡してから、ようやく自分を制して立ち上がり、歩き始める。
 真実を見たくない。しかし確かめずにはおれないという気持ちが、足取りにも、血が出るほどきゅっと噛みしめた唇にも、表れていた。
(わたしは、この世界に来てからずっと不思議に思っておった。もしここが本当に四百年前の世であり、四百年後のおまえが元の自分の肉体に入り込むことができたのなら、天叢雲やこの草薙も、同じように元あった場所に戻っているはず。あの『ご神体の間』にな。しかしそういうことは起きなかった。天叢雲は目に見えねども、今もおまえが腰に帯びている。
だから、こう結論するしかなかったのじゃ。――ここは天叢雲の存在しない、まったく別の世界なのじゃと)
 草薙に促され、統馬は静かに広間の奥のふすまを開けた。
 明かり取りの小さな格子窓があるだけの狭い奥の間には、驚くべきことに水の面から反射したような、ゆらゆらと朧ににじむ光が満ちあふれ、壁や天井をまばゆく照らし出していた。
 その中央の掛け台には、先祖代々の神剣・天叢雲が祀られているはずだった。だが、そこにあったのは刀とは別のものだった。
 恐れに震えながらも中に入った統馬の目を射たのは、一枚の大きな鏡。銅を鋳造して鏡面に磨き上げた円い鏡だった。
 その痛いほどのまぶしさに、思わず目を片袖でかばった統馬に、草薙が静かに語りかける。
(この世界を作っているものの中心が、この鏡じゃ。鏡とは、現(うつつ)を写すものと誰もが思うておる。じゃが、決してそうではない。見る人の心が見たいと望むものを、鏡は現として写すのみ。統馬よ。真実を見つめよ)
 痛む目を強いて開けて、銅鏡を見つめた。
「――魔鏡」
(思い出したか)
「ああ。思い出した」
 ゆっくりと腕を下ろし、険しい目をなお鏡に注ぎ続けながら、統馬は言った。
「これは、魔鏡。夜叉八将の副将・満賢の持つ法具だ」
 ひざまずき、両手で鋳物の縁をつかんで鏡を持ち上げると、不思議な光は消え、あたりは元通りの薄闇と静寂に包まれた。
「弓月と、龍二はどこにいる?」
(もうすでに、この世界から現代へとはじきとばされた。わたしだけがおまえを連れ戻しに、ここへ戻ってきたのじゃ)
「なぜ、こんなことになったんだ」
(統馬。おまえは心の奥底でいつも、矢上郷が滅びたことをたえず悔いていた。現実を変えられたらといつも願っていた。その願いを鏡が映し出したのが、この世界じゃ)
「俺の心が、この世界を作り出したと言うのか?」
(そうじゃ。おまえはここで、自らの願うとおりの歴史を作り出す力を持った。そしてすべてはこの魔鏡の妖術であることも知らずに、理想郷として、ここで生き続けようとしておったのじゃ)
「どうすれば、ここを脱出して元の世界に戻れる?」
(この鏡を割ることじゃ。そうすれば、この世界は要をなくし、崩壊して、元の世界が現れるじゃろう)
「ここで生きている者たちはどうなる。すべては俺の心が作り出した幻だったのか」
(いや、鏡の奥の世界と言えど、やはりもうひとつの現(うつつ)。人々も生きて呼吸して存在しておる。だが、鏡の破れとともに、すべては泡と消え去り、無に帰するじゃろう)
「無に……」
 統馬はそのことばを聞き、苦悩に顔をゆがめた。
「俺に、一度ならず二度までも、自分の村が消えていくのを見届けろと」
(辛い気持ちはわかる。しかし、それしか本当の世界に戻る方法はない。おまえがそれでもなお、ここにずっと住まうと思い定めるなら、話は別じゃが)
 刀鍔である草薙は、そこまで言うと言葉を途切れさせ、ふっと笑い声を漏らした。
(いや、その方がおまえにとっても、詩乃どのにとっても、よいことなのかもしれんな)
「……よいこと?」
(毘沙門天の力をますます増し加えているおまえの行く末が、そしておまえが隠していたものが、わたしにもようやく見えてきたのじゃ。おまえが何故、あれほど詩乃どのの想いを拒んでいるのかもな。その手のひらを頑なに閉じたまま)
「俺は……」
(言わずともよい。おまえの苦しむ気持ち、痛いほどわかる。この偽りの世界に逃げ込みたくなったことを責めはせぬよ。
詩乃どのもまだ若い。若くて心根のしっかりした女子じゃ。きっとおまえがいなくてもやっていける。龍二もそばにいるしな。
じゃがのう、統馬。詩乃どのは強がってもやはり泣いておったぞ。「統馬くんのことを忘れたくない、忘れられない」、とな)
 鏡を胸に抱いたまま、統馬はゆっくりと立ち上がる。
 ふすまを開けると、はっと身体を強ばらせた。広間には矢上の家の者が勢ぞろいして、不思議そうな面持ちで待ち受けていたのだ。
「いったい、どうしたのじゃ、統馬」
 父の誠之介、その隣には誠太郎。
 母の冴。けやき。そして信野。統馬の友人や、大勢の家人や下働きの若衆たち。
「それは、ご神体の「神鏡」ではないか。その手に持ち出して、どこへ行こうとする」
 統馬は目を伏せた。
 優しく慈しみにあふれた人々。統馬のことを心から愛してくれる者たち。この邪悪な魔鏡によって生かされていることも知らずに、日々の暮らしを紡いでいる村。
「父上。母上。兄上――みんな」
 そして、統馬は自らの心をさらに痛めつけようとでも言うように、視線をひとりの少女に定めた。
「信野」
「統馬さま」
 信野は静かに彼のそばに近寄り、彼のかたわらに立った。
 彼だけを見つめる澄んで輝く瞳。おだやかに微笑む、ふっくらとした唇。
「統馬さま。ごいっしょに来てくださいまし。準備が大変なのです。もう、祝言まであと三日しかないのですから」
 その言葉を聞いた瞬間、統馬の中にすべてを押し流すほど、猛り狂ううねりが生まれた。
「信野……」
 そして、いきなり両腕を高く上げると、持っていた銅鏡をありったけの力で床に叩きつけた。
「赦して……くれ!」
 鏡が粉々に砕けた瞬間、火焔にあおられた紙がまくれあがるように消えていく矢上郷の姿が映り、そしてあとかたもなくなった。
 気がつくと、元通りシャツとジーンズを着た姿で、何もない草むらの真ん中に座り込んでいた。
 蕭蕭(しょうしょう)と山から降りる冷風が吹きつけて、あたりの木々を揺らし、西に傾き始めた陽が黄金色に草葉を染め上げている。
「ちくしょう……」
 統馬は力任せに、足元の枯れ草を鷲づかみにして、引きちぎる。
(すまぬ、統馬よ。わたしはご神刀と崇められながら、過去も今も、おまえとおまえの一族を守ることができなんだ。ほんとうに、すまぬ――)
 言っても詮無いこととは知りながら、それでも草薙は、打ちひしがれている統馬に謝らずにはいられなかった。
 しばらくそうしていた後、
「統馬」
 白狐の姿に戻った草薙は、いつまでもその場から動こうとしない彼を慰めるように、足元に鼻先をちょんとつける。
「こことあの世界とは時間の流れがまったく違う。あれから一時間と経っていないはずじゃ。たぶん詩乃どのと龍二は、ジープに戻ってわたしたちの帰るのを待っているのであろう」
 詩乃の名前を聞いて統馬はわずかに、涙に濡れて焦点を失った瞳を上げて丘のふもとを見やった。
「歩けるか」
「ああ」
 精根尽き果てた仕草で、ゆっくりと草薙を拾い上げ、天叢雲を脇に抱える。
「行こう――」



                   
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