第八話  うつつに惑うもの(7)                   back |  top | home




 小屋の中は暗かった。窓は打ちつけられ、その板の隙間からわずかに西日が差し込んでいるだけの内部には、饐えたような空気が漂っていた。
 龍二は、埃だらけの床板の上にぼろぼろの茣蓙(ござ)があるのを見つけ、その上にそっと詩乃を横たえた。呼吸が楽になるように、胸元のリボンをはずす。
「気分、だいじょうぶか」
「ええ……」
 まだ眩暈に襲われながら、詩乃は考えを定めようと、むなしく苦闘していた。
 何か肝心なことを忘れている。ふたり以外にも、もっと誰かがいたはず。ここに来たのは、もっと違うことのためだったはず。
「詩乃ちゃん」
 彼女におおいかぶさるようにして詩乃の髪を撫ぜていた龍二は、いきなりキスした。
「好きだ、詩乃ちゃん」
 彼の腕の中で身動きのできない詩乃に、味わうように幾度も唇を重ねる。
「龍二……くん」
「今夜、俺の家に来たとき言おうと思っていた。きみが高校を卒業したら、結婚しよう」
「結婚……」
「俺はずっと、きみのそばにいたいんだ。きっと幸せにする」
 龍二は返事を待つことなく、詩乃の服を脱がせ始めた。
「やめ……、て」
「きみだって、誰かとひとつになりたいだろう。寂しいんだろう。ひとりぼっちはイヤなんだろう」
「そう……だけど」
「じゃあ、何も考えるな」
 違う。
 ひとりぼっちは確かにいやだ。愛する人のそばにずっといたいと願った。
 でも、それは。でもそれは……、この人じゃない。
 瞼の裏で蛍のような光が飛び交う。熱い涙があふれでて、心に積もった雪を溶かしていく。
 忘れてはいけない、大切な記憶。背中の温もり。激しいことば。
『おまえは、俺が見てやる。一生、俺が見ていてやる』
「統馬くん!」
 詩乃は大声で叫びながら、龍二の身体を押し戻し、身を起こした。
「何故……忘れていたんだろう。統馬くん。私は、統馬くんと……」
 彼はじっと詩乃を見下ろしていた。
「統馬くんは、どこ?」
「やれやれ、思い出しちゃったんだ」
「矢萩くん?」
「副将だなんて威張ってるけど、あいつの霊力もあてにならないなあ」
 にやりと、笑った。いつもの、のんびりとした邪気のない笑みとは、まるで違う笑み。
「思い出さなかったほうが、楽だったのに」
 詩乃ははっとした。その悪しき予感が形を取る前に、とっさに防御のための真言が口をついて出る。
「オン・ビソホラダ・ラキシャ・バザラ……」
「うるさいっ!」
 龍二は片手で詩乃の頬を叩き、沈黙した彼女の首筋をぎゅっとつかむと、耳元に嘲るようにささやいた。
「小ざかしい女め。統馬なんぞに入れこみおって。
――「しの」という名前の女は、どいつもこいつも同じよな」


「おかしいのう。どこへ行ったのじゃろう」
 龍二が乗り捨てたジープに戻った統馬と草薙は、座席に誰もいないのを知ると、途方に暮れてあたりを見回した。
「あれは……!」
 統馬が真っ先に気づいた。毒々しい妖気が、一本道の尽きた向こうから立ち上っている。木立ちの狭間に、ぼろぼろのスレート葺きの小屋の屋根。
「待て、統馬。なにやらおかしいぞ」
 言われるまでもなかった。
 妖気には「匂い」がある。それが知ったものであればあるほど、その匂いは嗅ぎ分けやすくなる。
 そして今、小屋の中から押し隠そうともせず芬芬(ふんぷん)と漂ってくるのは、確かに覚えのある匂いだった。
 何者かの作った結界に入り込むときの、くらりとする違和感が襲ったが、それも意に介せず、統馬は木の扉を開け放った。
 強い西日の射す戸外に慣れた目は最初、暗い納屋の内部を映し出さなかった。
 やがて、ぼんやりと暗闇の中から溶け出すように見え始めたのは、二本の白い素脚。淡い色の下着がまくりあがって、のぞいている小さな腹部。顔は乱れた髪の陰に沈み、ほとんど見えない。
「詩乃どの……」
 茣蓙の上に寝かされた少女は、人形のように動かない。ただ、かすかに顎が震えた。何かを言おうとしているが、声が出ないのだ。
「――弓月」
 四百年前、臼井の軍勢に集団で犯されて殺されたけやきの姿と、目の前の愛する少女とが統馬の頭の中で重なった。そのとたん、何かが粉々に砕ける。
「ひとあし違いだったな」
 走り寄ろうとするのを遮るように、部屋の隅から、長い髪をほどいた龍二が腕組みをして現れた。
「まさか、あの異次元から戻ってくるとは思わなかったよ。せっかく苦労して、頭の切れる久下とおまえらを引き離したのにな。まあ、満賢さまの幾重にもめぐらした策略のひとつが、めでたく功を奏したわけだ」
「おまえ、……龍二ではないな」
 草薙が噛みつくように言うと、彼は「ふん」と鼻を鳴らして、笑った。
「統馬なら、俺が誰だか一目でわかるだろう。血を分けた兄弟ゆえな」
「まさか、おぬし! 誠太郎か」
 草薙は狼狽して、叫ぶ。
「誠太郎……。おまえも、あれから夜叉に堕ちておったのか……。よりによって龍二に取り憑いたとは」
「さすがに同族の矢萩の血だけある。憑いてから十日と経っていないが、この身体はしっくりと馴染むよ」
「……誠太郎」
 喉の奥から搾り出すような声で、統馬が言った。
「弓月にいったい、何をした……」
「わかっているくせに? あの祝言の夜、信野はおまえに譲ってやったのだ。今度は俺がおまえの惚れた女をいただく番。さすがに生娘はうまかったぜ」
「き……さまっ」
「四百年、この瞬間を待っていた。夜叉となってなお、おまえの後塵を舐めなければならなかった俺の恨みを返す日をな。おまえさえこの世からいなくなれば、九番目の夜叉の将として代わりに毘沙門天さまの力をいただけるのは、この俺なんだよ」
 ざわり。空気が動いた。
「統馬?」
 草薙が総毛だって、かたわらの主を見つめる。
「誠太郎。俺はさっきまで夢を見ていたよ」
 統馬の口元には静かな微笑が浮かんでいた。
「おまえと笑い合って暮らしている夢だった。本当は、もう二度と戻れぬ場所なのに。俺とおまえが並んで天を戴くことは、もう未来永劫、有り得ぬはずだったのに」
「統馬、いかん。憎しみに囚われてはいかん!」
「もう、遅い!」
 内側から巻き起こった暴風が、小屋の屋根を空へと吹き飛ばした。
「誠太郎。今日こそおまえを一寸ごとに刻んでやる」
 空気が悲鳴を上げて裂けた。それとともに、統馬の着ていた上衣が無数の繊維となって、千切れ飛ぶ。
 白緑の髪が風をはらんで、滝壷の飛沫のように広がった。
 そして、何の感情も映さぬ白い瞳。あるのはただ、冷徹なまでの破壊の本能。
 吹き飛ばされ、小屋の隅の柱の残骸に打ちつけられて地面にころがった草薙は、誰かが遠くから叫ぶ声を聞いた。
「統馬ぁ!」
 久下尚人だった。
「統馬。龍二くん。――詩乃さん」
 駆け寄ろうとして、結界の力に阻まれ、その場で蹈鞴(たたら)を踏む。
「久下よ、遅すぎた」
 自分からは一歩も動くことができない草薙は、吐き出すように叫んだ。
「草薙、これはいったい……」
「誠太郎が龍二に取り憑いておる。統馬は詩乃どのを奪われた怒りのあまり、自ら夜叉に転じた」
「……そんな」
 異形の姿が、その背中から折り畳まれた黒い翼を広げていくのを見て、久下はがっくりと膝をついた。
「なんとかせい。慈恵。なんとしてでも、もう一度半遮羅を封印するのじゃ」
「できません」
 ただ茫然と、首を横に振る。
「ひとたび自分の意志で封印の術を破った者には、同じ封印は効力がなくなるのです」
「なんじゃと」
 誰かに助けを求めるような目で、久下は空を見上げた。
「統馬は、もう人間の形に戻ることができない。――そういうことです」



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