第九話  死を紡ぐもの(1)                   back |  top | home




「それが、我が矢上一族のご神刀、天叢雲か。初めて拝んだよ」
 暴風の名残に黒い髪をなびかせながら、龍二の肉体に取り憑いた誠太郎は含み笑った。
「だが半遮羅。ふたたび仏の教えにそむいた今のおまえには、聖なる剣の鞘を払うはおろか、腰に帯びているだけで、焼けるような痛みがあるのではないか?」
「それがどうした。貴様ごときを倒すのに、腕一本で十分だ」
「おや、当てずっぽうで言っただけだが、図星だったか」
 半遮羅は脇に差していた霊剣を、鞘ごと地に投げ捨てた。
 わざと挑発に乗っているつもりだった。誠太郎がどれだけ妖力の強い夜叉と言えど、器は龍二という人間。強靭な己の肉体を持つ夜叉の将に、あらゆる点で敵うわけはないという自負がある。
 木の鞘はくるくると床を回転し、呆けたような目をして横たわっている詩乃の足元に当たって、止まった。
 その少女を見たとたん、半遮羅の内なる憤怒の壷があふれ、はらわたを焦がした。たかが食物に過ぎない人間に、どうして自分がこれほど動揺するのか。矢上統馬としての意識をすべて捨て去り、狂気に身をゆだねた今の彼には、思い出すことができない。
「満賢なんぞに尻尾を振る、下等な夜叉の分際で。二度と偉そうな口を利けなくしてやるぜ」
 半遮羅は、苛立ちをすべて目の前の敵との戦闘に向けようと、拳を握りしめた。
「相変わらず、おまえはわかりやすい奴だな、『翔次郎』」
 誠太郎は、わざと統馬の幼い頃の名を口にした。彼我の圧倒的な実力差に気づいているはずなのに、それでも動じる気配を見せない。
「面白いように俺の術中にはまってくれる。昔から、おまえを俺の望むとおりに動かすのは容易いことだったよ。ひとこと、おまえを焚きつけるようなことばを言えばよい。
あの川遊びのときも、そうだったよなあ。――信野と出会うたときも」


 半遮羅の内側の、まったく切り離された頭の片隅で、わずかに統馬の心が残っていた。
 誠太郎がつぶやいたことばに呼び覚まされ、ひとつの景色が思い浮かんだ。
 夏の濃密な空気の底を、夕風がふわりと掻き回す。茜色に草木が染まる。
 濡れた着物の裾からボトボトとしずくを垂らしながら、八つになったかならぬかの翔次郎は丘を登っていた。
 先に立って歩いていた四歳年上の兄が、振り向いて笑った。
「下の村の子どもたちと、川で何やら言い合うておったようだな」
 弟は足元のぼうぼうの草をじっと見たまま、水の滲みた草履を黙々と踏みしめる。反発しながらも、兄は彼の手本であり師だった。
「おおかた騒ぎすぎて、遊びの邪魔をしたのだろう。下の村の者たちとは仲良くするよう努めねばならぬぞ」
「わかっている。邪魔など、しておらん」
 小声で、せいいっぱいの反駁。
「女の童がひとり、おまえの乱暴なふるまいに泣きそうになっていた。可愛い女子ゆえ、おまえとて気を引きたかったのはわかるが」
「誰も、そんなこと思うてない!」
 彼はその次の日から、信野のほうを見なくなった。全身で彼女の気配を感じていたのに、絶対に目は合わせなかった。
 いつも、そうだった。幼い頃の彼は、誠太郎を通してものごとを見ていた。そして、なにかにつけ誠太郎のことばの端々から叩き込まれた。村人たちは誠太郎だけが大事であり、翔次郎にはなにも期待していないのだと。あらゆる点で秀でた誠太郎の前で、自分は影であり落伍者であり余計者なのだと。
 それもこれもすべては兄の、長い時をかけた罠だったというのか?


 誠太郎が上着の懐から短剣を抜き、切りかかってきた。
 問題なくかわしたと思った半遮羅は、次の瞬間、胸をざっくりと裂かれていた。
「……なに?」
「たわけが。怒りに我を忘れて、まだ気づかぬのか」
 空気はあたかも、とろりとぬめる水の底。さらに幾本もの太い鎖に巻きつかれているかのように身体の動きが鈍い。いつからか、呼吸すら満足にできなくなっている。
「この結界の中では、ぬしはただの木偶の坊よ」
 小屋に近づいたときに統馬が感じた違和感の正体。あれは、重力だったのだ。
 満賢の魔鏡の作り出す閉じられた空間の中では、あらゆる物理の法則が変わる。時を数百年前に戻すことも。
 そして重力を数十倍にすることも、もちろん自在。さらに満賢の選んだ者だけ、その被害をこうむらぬことも可能なのだ。
 誠太郎は反対に、まるで風を翼としているように軽やかに跳んだ。短剣を巧みに操り、斬りつける。軽い刀身の衝撃すら、何十倍にもなって圧しかかってくる。
 白緑の髪の夜叉の上半身は、たちまち血に染まった。肺が押し潰されるためか、口からも血反吐をはく。
「ああ、こうしていると、昔手合わせしたことを思い出す。翔次郎、地面にころがっていた、おまえの無様な恰好を」
 ぎらぎらと勝利に酔う目を見開きながら、誠太郎は容赦なく攻撃の手を強めていく。


 苦痛の中、もうひとつの思い出が統馬の心をよぎる。
 まだ元服には間がある頃、ときどき屋敷の裏庭で、兄弟は刀を合わせた。誠太郎は、いつも手加減しなかった。年かさの強靭な身体が繰り出す木刀の衝撃を、半泣きになりながらも真正面から受け止めようとして、はじき返される。まっすぐで迷いのない剣には、ときおり巧妙に隠された殺意が覗いていた。
 口の中に血の味。土を舐め、悔しさに涙する。
 徹底的に、完膚なきまでに力の差を見せつけられた。おまえは遥かに俺より劣っているのだ、と。おまえが俺に勝てるものは、何もないのだ、と。
 兄が弟に対して抱く憎悪を、弟が兄に対して抱く無力感を、父や母でさえ見抜けなかった。それほどふたりは傍からは仲良く見えたのだ。兄は偽りの笑みを浮かべることで。弟はすべてを諦めることで。
 誠太郎。あんな幼い頃から、おまえは俺を殺したいほど憎んでいたのか。おまえはいつも高みから、俺をあざ笑っていたのではなかったのか。ただ一つの誇りすら持たず、劣等感のかたまりだったこの俺を。
 おまえはどれくらい、俺のことを憎んだ? 俺はどれくらい、おまえのことを憎んだ?
 答えのない問いを叫びながら、凍えた心は過去を反芻し続ける。


「く……はは」
 半遮羅は血まみれの唇を開き、のけぞるようにして笑った。
 回避することもできないまま、為すすべなくすべての攻撃を受け続けている。しかし、なおそこに白く光るのは、自分の身が痛めつけられることを欲して、恍惚と血の儀式を受けている、戦いの求道者(ぐどうしゃ)の目だった。
 今度は、誠太郎が戦慄して動きを止める番だった。不気味さに怖気を振るい、ぎりと歯を噛む。なにくそと一気に片をつけようと、血にぬめった短剣をひるがえしたとき。
 気がつけば、その場の状況は一気に逆転していた。
 それまでほとんど空を切るだけだった半遮羅の拳は、こともなげに敵の身体をとらえた。
 重力に身体を慣らし終えたのだ。わずか数瞬で、誠太郎は完全に屈服させられていた。
 龍二のものだった腕やあばらの骨は砕かれ、もはや用をなさない。
「腕一本で十分だと、言ったろ?」
 楽しげに、半遮羅は敗者の耳元にささやいた。「ただの蚤の分際で、本当に俺に勝てると思っていたのか」
「いいのか、統馬」
 仰向けに地面にめりこむほど組み伏せられ、それでもなお、不敵な笑いを浮かべながら誠太郎は言った。
「天叢雲がなければ、この肉体を滅ぼさずに俺を調伏することは不可能だぞ。龍二という男は、おまえの仲間だったんじゃないのか」
「貴様といっしょに、魂まであとかたもなく粉々に砕いてやるよ」
 半遮羅は、龍二の命などに頓着していない。人間そのものが、毘沙門天の怒りの化身となった今の彼にとって、滅ぼすべき存在なのだ。
「いや、待て。半殺しのまま、かろうじて生かしておくのもいいな。その目の前でこいつの親兄弟を手始めに、夜叉追いの末裔をすべて八つ裂きにして食ってやろう。
――いや、それでも足りぬ。人のおかしたすべての罪業をあがなうには足りぬ。目につくあたりの人間、ひとり残らず殺してくれる」
「統馬!」
 目に見えない結界に阻まれて為すすべなく、なおも久下はありったけの力で呼び続けていた。
「正気に返りなさい! もう一度、御仏の教えに立ち戻るのです!」
「久下よ」
 その壁の内側では、草薙が項垂れてつぶやく。
「我らは二百年の時を夜叉の将との戦いに費やし、――挙句の果てに、最強の夜叉を野に放ってしまうのやもしれんな」
「あきらめてはなりません、草薙。毘沙門天の三等分の力を得た今の半遮羅が、心のおもむくままに破壊と殺戮を始めたら、この国は終わってしまう」
 後悔の唇を噛みしめながら、久下は全身を震わせた。
「御仏よ。わたしはどうすればよいのですか。……何のために、わたしは今まで数代の時を転生してきたんだ!」
 その祈りに似たつぶやきは、突然襲ってきた夜の闇の咆哮にかき消された。久下は総毛だって、音のした方に向く。
 半遮羅の妖気に引き寄せられたと見える無数の夜叉が、空と地上を真っ黒に埋め尽くすように、結界に迫っていた。


「統馬。おまえは哀れな男よのう」
 苦しい息の下で誠太郎はなおも、揶揄するように続けた。
「信野のときと同じく、二度までも愛する女に裏切られるのだからな」
「なんだと……」
 敵の視線の先が自分の背後であることに気づき、半遮羅は思わず振り返った。途方もない重力が、今なお彼の動作を鈍くしていたことは、やはり否めない。
 そこには、詩乃が立っていた。
 乱れた衣服をまとい、うつろな瞳を漂わせながら、その手には、彼が今投げ捨てたばかりの天叢雲が抜き身となって握られている。
 半遮羅は誠太郎にかけていた手を放し、棒立ちになった。
「ほうら。やはり、おまえを思い通りに策にはめるのは、かくも簡単なこと」
 誠太郎は喉の奥で笑いを殺しながら、命じる。
「詩乃。その刀で、目の前の夜叉を串刺しにするのだ」
「はい」
「もし、こいつを仕損じるようなことがあれば、即座に舌を噛み切って命を絶て」
「はい――。誠太郎さま」
 答えながら、詩乃は洞然と微笑んだ。





                   
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