第九話  死を紡ぐもの(4)                   back |  top | home




 北宇和郡内の県立病院の玄関ホールで待っていると、久下が出てきた。
「矢萩くんの様子は?」
「あまり良くないのです」
 二日間つきっきりだったためか、顎ひげも伸び放題、顔色もよくない。
「怪我のほうもひどくて、1ヶ月絶対安静を言い渡されているのですけど、問題は心のダメージのほうです。自分が詩乃さんにしたことを思い出したらしく、なんてひどいことをしてしまったんだろうって、ずっと泣いています」
「そんな……」
 詩乃は困惑のあまり、ことばを喉をつまらせた。
「だってあれは、誠太郎さんに憑かれてやったことで、矢萩くんのせいではないのに」
「ないとは言いきれません。龍二くんにも、詩乃さんを奪いたいと思う悪しき欲望が心にあって、そこを誠太郎につけこまれたのですからね。自分でもそのことが、よくわかっているのです」
「私、全然恨んでいないって、直接会って伝えられないでしょうか」
 久下はきっぱりと首を振った。
「詩乃さんがそうしたい気持ちもわかりますが、今は、そっとしておいてあげたほうがいいでしょう。龍二くんにとって詩乃さんの顔を見るのは、理屈ではなくまだ辛いでしょうから。……統馬だけでも、見舞いますか?」
「俺もやめておく」
 統馬は、仏頂面で答えた。「あいつと会って、思わず絞め殺さないという自信がない」
「はは……わかりました。ふたりとも、いったん東京に帰ってください。もう学校が始まっているのでしょう。何かあれば、また連絡します。
僕は引き続き、病院にいます。矢萩のおうちの方も付き添ってくれていますが、僧侶として龍二くんの心の救いのために何かしたいのです」
「わたしも、もうしばらくここにいようと思う。不出来とは言え、龍二はわたしの弟子じゃからな」
 草薙はポケットから這い出し、久下の肩にちょこんと乗る。
「あたりに夜叉の気配は消えたものの、副将の満賢はまだ滅びてはおらぬ。詩乃どのも統馬も、くれぐれも用心めされよ」
「わかった、ナギちゃん」
「行くぞ。詩乃」
「はい」
 玄関の自動ドアを出て行く統馬と、その後ろにつき従う詩乃の後姿を見つめて、草薙はため息をついた。
「『行くぞ、詩乃』か。……統馬のやつ、何やらふっきれたようじゃな。一時はどうなるかと思うたが、まことに重畳なことじゃ」
「……あのふたり、ゆうべはどこまで進んだのでしょうね」
 とつぶやく久下の肩から、草薙はもう少しで転げ落ちそうになった。
「ど、ど、どこまでって、どういうことじゃ」
「だって、草薙、昨晩あのふたりの姿を見ましたか? 見てないでしょう」
「ま、ま、まさか! しかし、統馬はまだ夜叉の血を持っておる。夜叉と人間が交われば……」
「だから、詩乃さんの乳房には、もう半遮羅の種字があるかもしれませんよ?」
「しまったあぁ。わたしとしたことが」
 ボカボカと自分の頭を肉球で殴る白狐に、久下は大笑いした。
「冗談です。統馬は見かけどおり硬い男ですよ。そんなことはしません。それに」
 エレベータに向かって歩き出す、コツコツという靴音が響く。
「今はまだ無理でしょう。吉祥天さまによって肉体を浄化されたとは言え、詩乃さんの味わったことはまぎれもなく現実なのですからね」
「そうじゃった……」
「でも、今ふたりのむつまじい姿を見て、あらためてはっきり悟りました。僕は統馬にとって、もはや必要ない存在となってしまったのですね。半遮羅の封印の鍵となる新しい真言も、僕ではなく詩乃さんが授かった。おまけに、夜叉の将との戦いにおいても、もう僕の霊力ははるかに及ばない」
「久下……」
「詩乃さんさえいれば、統馬はやっていけるんです。寂しいですけど、今生が、僕の慈恵としての最後の転生かもしれませんね」
「く、久下よ。わたしもなんだか寂しくなってきたぞい」
「戒律破りますけど、今夜はふたりでヤケ酒でも飲みましょうか」
「わたしは鋼じゃから、飲めんわい!」


 松山空港のロビーで、統馬と詩乃は搭乗案内を待っていた。
 座っている椅子の腕のすきまから、詩乃がそっと手を出すと、無言のまま統馬の指がそれにからまる。
 ふたりはこの数日、片時も離れず過ごした。眠るときも幼子のように手をつないで眠った。
 久下から何度も念を押して言われていた。
「詩乃さんの身体は癒されました。でも、心が受けた痛みは簡単に癒えることはありません。時間が経てばそれだけ、強い苦痛となって襲ってくることもあるでしょう。
どうか無理をしないで。平気なふりをしないで、自分をいたわってあげてください」
 本気で心配してくれる人が回りにいることが、詩乃にはむしろ嬉しかった。自分を偽り、強がっていた頃のあの孤独にくらべれば、なんと今は安らかなことだろう。
 夜叉との戦いはまだこれからも続く。いつまでこうしていられるか、わからない。でも、何が起ころうと、統馬は絶対に彼女を離さないと約束してくれた。
 今だけは何もかも忘れて、その幸せにひたっていたい。
 涙ぐむのをこらえようと、ふとロビーのテレビに目をやったとき、そこに映し出されたものに詩乃は凍りついた。
「どうした」
 統馬も、その視線の方向に向く。
 画面では、全国ネットのニュース番組が放送されていた。
 『東京T市の公立高校で立て籠もり』という字幕。
 「――今朝9時半ごろ、何者かによって東京都T市の高校が占拠されました。しかし、いつどのように校内に侵入したのか、犯人の目撃情報もまったくなく、事態は謎に包まれております。身代金などの要求も今のところは入っていない模様です。校内には、まだ40人ほどの生徒が閉じ込められているものと見られ、確認を急いでいます。機動隊も幾度となく侵入を試みましたが、不思議な見えない壁のようなものに阻まれており、その原因さえまだわかっていない状態です。このことから、犯人は国外のテロリスト集団で、未知の兵器を使っているのではないかという見方もあり、当局は慎重な対応を迫られています。なお……」
 ふたりは強ばった顔を見合わせた。
 テレビの中でまくしたてる女性レポーター。その遠景にあったのはまぎれもなく、T高校の校門だった。


「戸塚先輩!」
 T高校門の前で、報道の腕章をつけた一団たちといっしょにいたのは、3年の戸塚トシキだった。文化祭の日、ノートパソコンに憑いていた夜叉を祓われた、ペンネームを「とっと」という高校生作家である。
「きみたち、どうして?」
 駆け寄ってきた詩乃と統馬に、彼は眼鏡のレンズの背後の目を大きく見開いた。「学校には来てなかったのか」
「はい。東京に帰る途中の空港で、ニュースを見たんです」
「驚くなよ。中に取り残されているのは、2年D組の生徒たちだ」
「うちのクラス!」
「だから僕はてっきり、きみたちも中にいると思っていた」
「いったい、何があったんですか」
「今朝一時限目の授業中に突然、校内に轟音が鳴り響いたんだ。地震を思わせる揺れに全員が運動場に飛び出したとき、あの建設中の新校舎に」
 と、白い遮音幕に被われた鉄筋の工事現場に向かって、指でくるくると渦を描いてみせた。
「何やら禍々しい黒雲のようなものがとぐろを巻いていた。と言っても、その黒雲が見えたのはどうやら僕だけらしい。回りの連中は何も気づいていなかった」
「一度夜叉に憑かれたおまえだからこそ、満賢の妖力を感じとれたのだろう」
 統馬のことばに、戸塚と詩乃が同時に聞き返した。
「満賢?」
「ここにいるのは、やっぱり満賢なの?」
「この学校の敷地全体が何者も立ち入れぬ結界になっている。やつの魔鏡の作り出したものだ」
「そいつが、誰であるにせよ」
 戸塚は、説明を再開する。
「僕たちは教師の指示に従って校門から外に出た。不思議なことに、そのときは中から外に出ることはできた。だが、二度と入ることができなかったんだ。今朝から、突入を試みた機動隊員が何人か怪我を負っている。すっぱりと体が見えない刃物で切られたような傷だったらしいんだ――彼らの取材によると」
 戸塚は、テレビ局のクルーをくいと顎で指し示した。有名な小説家でもある彼が、マスコミにT高内であったことを詳しく教える。その代わりに、警察への取材などで知りえたことは、いちはやく伝えてもらう。暗黙のうちに、そういう取り決めが行われているのだろう。
「そういう殺傷力の強いレーザー兵器を研究している国が世界のどこかにあるらしいということで、外国のテロリストがここを占拠したんじゃないかという専門家の談話が、もっぱらテレビのワイドショーでは流されている」
「D組の生徒たちがいるのは、その建設中の校舎の中なのか?」
「ああ、そういうことだ。くまなく本館を調べてもあのクラスだけがいなかった。一時限目はホームルームだったはずなのに、なぜあんなところにいるのか理由はわからない。ただ、テレビの望遠カメラに、3階部分に彼ららしき人影が映っていることは確かだ」
「あらましはわかった。恩に着る」
 統馬はためらうこともなく、校門に向かって歩き出した。
「だめだよ。入るのは危険だ。さっきも言ったが、この周囲はぐるりと、まるでレーザー兵器が……」
「だいじょうぶだ。この結界は俺だけは受け入れるはず。俺のために作られた罠だからな」
「統馬くん!」
 詩乃は置き去りにされはしまいかとの不安から、あわてて彼のもとに駆け寄った。
「待って、私もいっしょに行きたい」
 にこりともせずに統馬はふりかえった。「当然だ。来い」
「うん!」
「僕にもできることは、あるか?」
 戸塚の申し出に、小さくうなずく。
「警察や報道関係者には、おまえからうまく言いつくろっておいてくれ」
 言い残して詩乃を抱きかかえると、警官の制止より早く、統馬は校門を飛び越えた。


 ブンと耳の内側からかぶさる不快な音と眩暈。その瞬間、結界を通り過ぎたとわかる。
 内部は見渡すかぎり誰もいなかった。広い学校の敷地全体が、しんと不気味に静まり返っている。
 グラウンドを横切ると、目指す建設現場。遮音幕がばさばさと風にひるがえる。内部には、もう校舎の形がほぼ出来上がっており、むき出しのコンクリートが冷え冷えとした肌をさらしている。
「なぜ、満賢はD組のみんなを?」
 詩乃の消え入るようなつぶやきに、統馬も静かに答えた。
「俺にもっとも近しい人間たちだからな。しかも夜叉追いと違って、霊力がない。俺をおびき寄せる人質として、一番たやすく手中に収められる」
「そんなことまで調べているのね……」
 この数日に満賢が起こしたできごとを、ふたりは思い出していた。魔鏡の作り出した偽りの過去の世界。詩乃の受けた辱め。誠太郎との死闘。瀕死の傷を負った龍二。
 統馬は目を細めて、校舎に影さす白濁した太陽をにらみあげた。
「満賢、待っていろ。おまえには必ず、この報いを受けさせてやる」
     


                   
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