第九話  死を紡ぐもの(5)                   back |  top | home




 そこは、校舎と呼ぶには殺伐とした空間だった。
 扉もなく、窓もない。机も黒板もなく、生徒たちの歓声も響かぬ教室。さながら、コンクリートで作られた学校の骸骨。まだ完成してもいないのに、どこか古(いにしえ)の廃墟のような埃っぽい空気が吹き抜ける。
 静かだ。それでいて、夜叉の妖気はますます濃くなってくる。
 突然、うつろな空間に幾重にも反響して、場違いな甲高い笑い声が響いた。
 コの字になった廊下の曲がり角から長い影が現われ、ふたりの少女が軽やかなステップを踏むように飛び出してきた。
「嶋田さん、山根さん!」
 詩乃が叫ぶと、ふたりは足を止め、統馬と詩乃をじろじろと見る。
「あらあら、今ごろ来てる」
「学校サボって、ふたりでおデート? いいなあ」
 彼女たちは底意地の悪い笑みを顔に貼りつけながら、近寄ってくる。
「弓月さん。あんた結局ね、自分のことだけが可愛いのよ」
「そうそう。ひとりぼっちで寂しいから今は私たちに友だちヅラしてるけど、ほんとは友だちだなんて思ってないでしょ。心の奥では、くだらないことでキャーキャー騒いでるブス、って軽蔑してるでしょ」
「いったいどうしたの、ふたりとも……」
 修学旅行でもずっと同じ班で、打ち解けていたはずの山根と嶋田は、別人のように顔を醜くゆがめて詩乃をにらみつけると、もと来た方に駆けていってしまった。
「待って、山根さん、嶋田さん!」
 あわてて追いかけようとする。しかし、それをさえぎるように、今度は反対の曲がり角から、もうひとりの女生徒が姿を現した。
「朋美!」
「あんたは昔からそうなのよ。人の持つものをなんでもうらやんで。影でこっそり立ち回って、根こそぎひとりじめにしていくのよ」
 朋美は腕組みをしながら、ついと顎を持ち上げる。
「私が、矢上くんを好きだってこと知ってたくせに。そのことを知ったら、とたんに気を引くようなマネして。それまで全然興味なんかない素振りしてたのにさ。
あんたは、なんでも自分が一番じゃなきゃ気がすまないのよ。そのためなら、誰の気持ちだって平気で踏みにじって利用する女なのよ」
「違う……ちがう、朋美。私、まさかあなたが本気で統馬くんのことを……」
「うるさいっ!」
 朋美は、どんと詩乃の身体を突き飛ばすと、階段に向かって廊下を駆け出した。
 あわてて、あとを追いかける。
 手すりの枠がまだ取り付けられていないコンクリートの階段を登ろうとすると、上からD組のクラスメートたちの顔が大勢、にゅっとのぞいた。
 どの顔も、あざけりと憎しみに彩られている。
「ばっかみたい。先生の前でだけ、いい子ぶっちゃってさ」
「おい、きのうの数学の宿題、間違ってたじゃねえか。弁償しろ」
「あんたがちゃんとクラスをまとめないから、体育祭も合唱コンクールも負けたのよ!」
「下駄箱、調べてみたら? あんたの靴、またゴミバケツに捨てといたわよ」
「おもしろいから、またみんなでハブってやろうぜ」
「つまんない、こんなクラス。あんたが委員長してるせいよ」
 高い吹き抜けの空間に、幾重にもこだまする声。
「やめて! やめて!」
 詩乃は、耳を押さえて絶叫した。崩れ落ちそうになる彼女を、統馬がわきから腕で支えた。
「落ち着け。詩乃。ちゃんと目を開いてみろ」
「え……」
「忘れたのか。ここは満賢の創った魔鏡の世界。ここにあるものはすべて、真であって真でない。おまえが心のままに作り出している世界だ」
「私の、……心?」
「おまえがずっと学校に対して抱いていた、あらゆる恐怖心だ」
 統馬は、腰の天叢雲を鞘走らせる。
 清浄の光があたりに満ち、階段から見下ろしていたよそよそしい顔は陽炎のごとくにゆらめいて、消え去った。
「わたしが、……彼らを生み出していたのね」
 ガクガクと鳴る膝をどうにか正し、詩乃は大きく何度もあえいだ。
「今のは、本当の2Dのみんなじゃない。本当のみんなは……」
 詩乃ははっと顔色を変える。「まさか、本当のみんなは、もう満賢に……」
「上に行こう。3階だと言っていた」
 刀を木の鞘に戻すと、統馬は先に登りはじめた。
「俺は子どものころ、ずっと兄から思い込まされてきた。俺は無用の存在で、俺のなすことはことごとく愚かで、足りぬことであると」
 まだしゃくりあげている詩乃に、背中越しに声をかける。
「だが、一歩家を離れれば、村の者たちがいた。老いた者も幼い者も、強い者も弱い者も、さまざまな暮らしの中で異なる考えを持って生きていた。彼らに触れることができたゆえ、俺はかろうじて自分を見失わずにいた。
だが、学校は違う。
ここにいる者はみなひとつの考えに凝り固まっている。人はここで生きるために心を殺し、澱となって底に沈んだ悪意は、たやすく束ねられて巨大な力を持つ。俺も多くの夜叉どもを見てきたが、学校はその中でもっとも巨大な夜叉の巣窟だ」
 統馬は足を止め、あとからついて上がってくる詩乃の頭に手を置いて、くしゃくしゃと撫でた。
「詩乃。おまえはこの中で、よく自分を失わずにいられたものだと思う。おまえは俺より強い」
「統馬くん……」
 詩乃の目に、また新たな、しかしまったく理由の違う涙があふれる。
 2階から3階に向かおうとしたとき、けたたましい靴音を立てて、ひとりの男が踊り場に現れた。
「福島先生!」
「おまえのせいだ、矢上。おまえがこの学校に現れたから!」
 破れた上着を半分肩からぶらさげながら、2Dの担任はふらふらと2階の廊下に降り立つと、その場にうずくまった。
「いったい、どうしたんですか?」
 最悪の予想にうろたえながら詩乃が尋ねると、教師は唇の片側をひきつらせた。
「上は地獄だ……。身の毛のよだつような怪物に、D組の生徒が襲われていってる。矢上統馬の身代わりだと言われてな」
「え……」
「いったいおまえは、奴らの逆鱗に触れるような、どんなことをしでかしたんだ。俺たちは誰も、奴らをやっつけてくれなどと頼みはしなかった。
だいたい、この世からすべての悪を滅ぼすなどと、そんなことは不可能だ、絵空事だ。世の中は、そういうものと共存していくようにできてるんだ」
 統馬は、無表情のまま教師を見下ろしている。
「それなのに、どうして俺たちがおまえのせいで、こんな目に会う! 早く行って、生徒たちを救え。黙って、おまえが殺されてこい。おまえさえいなければ、T高は平和だった。すべてはうまく行っていたんだ」
「先生、そんな……」
 詩乃は必死に叫ぶ。
「この学校が平和だったなんて。高崎ミツルくんのことを忘れたんですか。田無さんや殺された生徒たちのことを。たくさんの、不登校やイジメや、夜叉のせいで苦しんでいた生徒たちのことを、先生は見ないふりをしていただけなんですか!」
「わかった」
 統馬は、詩乃をさえぎって短く答えた。
「俺が行こう」
「そうしてくれ」と、福島は媚びるような笑顔を見せた。
「奴らに抵抗するなよ。これ以上生徒が死んだら、おまえのせいだからな」
 統馬がそばを通り過ぎようとするとき、教師はわずかに眉尻を上げた。
 木刀の一閃。
 統馬の放った鮮やかな突きは、福島教諭の喉元を的確にとらえた。
「じゃあ、なぜその地獄から、おまえだけ逃れられたんだ?」
 壁際まで吹っ飛んだ男に、統馬は氷のような視線を浴びせる。
「相変わらず、擬態が巧い。得意になったときに、その眉を上げる癖さえなければな。――満賢」
「うっふふ。ばれてしもうたか。さすがじゃな。夜叉追いの統馬、いや半遮羅」
 廊下の隅の暗がりで、突かれた顎を痛そうにさすりながら、教師だった者は、ぐにゅぐにゅとその面相を変えた。
「知ってのとおり、わしは老いぼれ。腕力でおまえに敵う道理はない。あわれな小心者の知恵じゃよ。こうやって顔を変えて、窮地から逃れようとするのも」
「K県で、ふたつの町の民をだまして互いに憎み合わせたのも、その変装のしわざか」
「ほっほっほ、そのとおり。その隙に誠太郎がおまえを鏡の中の極楽に引きずり込めば、万事はすべてうまく行くと思ったのにのう」
「極楽だと……」
「それが失敗したときのため、次善の策も授けてあったのじゃ。誠太郎のやつめ。その策どおりに、その女といっしょに死んでくれればよかったものを」
 満賢は齢を重ねた老人の姿に戻っていた。皺でたるみきった瞼の下に、小さい目の光だけが異様なほど鋭い。
「夜叉の将にしてやるなどという思いつきの戯れごとを信じ込み、おまえを倒そうなどと力もないくせに欲を出しおって。そうでなければ、おまえは今ごろ他愛もなく、元通りに人間を食らう悪鬼に戻っていたろうに」
「言いたいことは、それだけか」
 統馬は低く答えた。その静かな物言いの中に、途方もない憤怒が隠されている。彼は今、生まれてはじめて誠太郎のために怒っていた。 満賢によって、ただの捨て駒にされた兄のために。
「おっと。おまえの刀を受けるつもりはない。せいぜい、この結界の中で死ぬまで踊るがよいわ」
 立ち上がるが早いか、副将は老人らしからぬ俊敏さで身体をひるがえすと、統馬が電光石火で抜いた刀の切っ先に触れることもなく、その場から消え去った。魔鏡が作った結界の中では、あらゆる物理の法則を変えることができる満賢。確かに、倒すのは並大抵のことではない。
 歯噛みしながら天叢雲を鞘に収めようとしたとき。
 階上から複数の女生徒の甲高い悲鳴が聞こえてきた。
「2Dのみんなが!」
 詩乃は、素早く階段を駆け上がり始めた。
 3階。校舎が完成すれば、その一番奥の教室になるはずの、コンクリートの壁と柱に囲まれただけのスペース。
 かつては、あれほど教室の扉をくぐるのが怖かった。
 射抜くような視線と、冷ややかな無言と薄笑いにさらされるたびに、息ができなくなった。
 でも、今は彼らとのあいだを隔てる扉はない。
 ためらわず、詩乃は教室の中に飛びこんだ。
「弓月さん! 矢上くん!」
 2年D組の38人は、ふたりを見て一斉にどよめき立った。
「みんな、無事なのね」
 確認しようと見渡す間もなく、
「いったいどうやって、ここに?」
「外はどうなってるの? 何が起きてるの?」
「T市の中心が細菌兵器でやられてるって本当か?」
「携帯も圏外だし、全然情報入らなくて」
 悲鳴に似た矢継ぎ早の質問が彼らを取り囲む。しかし、詩乃の目を一瞬で釘づけにしたのは、窓の外の景色だった。
 教室の窓には、翼を得た魔物どもが幾百、幾千の鈴生りとなってとりついていたのだ。思わず条件反射的に、結界の真言を彼女の口をついて出てくる。
「詩乃」
 ショートカットの女生徒が、彼女の正面に立った。頬に涙の痕が筋となって残る、蒼白な顔。髪の毛もぼさぼさだ。
「朋美」
「ありがとう。助けに来てくれたんだね。……こわかった」
「まったく、どうなってやがるんだ」
 級友たちよりも頭ひとつ抜き出た神林が、人ごみを掻き分け、やってきて大声でまくしたてた。
「いきなり、クラス全員この部屋にワープさせられて、中はずっとこの調子だ。学校の外には機動隊が取り囲んでいるのが見えるし、うかつに出ることもできない。
しかも、あの窓の外の化け物が見えてるのは、俺と嶋田かおりと山根優香、それに崎原朋美の4人だけらしいんだ。例の修学旅行で因縁のあった4人だよ」
 苦笑しながら、頭をポリポリと掻く。
「鞍馬寺での修行の甲斐あってか、俺にもようやく霊的覚醒者のはしくれとしての能力が身についたらしい。喜ぶべきことなのに、喜べん。こんなおぞましいものが見えるくらいなら霊的能力なんぞいらないと、遅まきながら気づいたよ。山根と嶋田は怖さのあまりずっと、ぴいぴい泣いてるし」
「ぴいぴい泣いてなんていないわよ!」
 教室の隅でうずくまっているらしいふたりの、泣き声まじりの抗議の声が届く。
「このタイミングからして、矢上と弓月委員長、きみたちの留守を狙われたということは火を見るより明らかだ。とすれば、おまえたちが助けに来るのを待つしかない。俺はずっとそう言い続けて、みんなをこの場にとどめていたんだ。女どもは、崎原朋美が率先してまとめてくれてた。まったく、山根と嶋田とは大違いだぜ」
「私たちだって、ちゃんとみんなを励ましてたわよ、バカ林!」
「というわけで、状況はまあこんなとこだ、師匠。俺たち、これからどうすればいい?」
「……ああ、そうだな」
 驚いたことに、統馬は小さく笑い始めた。こんな開けっぴろげな笑い方をする彼を初めて見た。不思議そうに見つめている詩乃に、照れくさげにつぶやく。
「満賢のほうがずっとよく、わかっていたようだ。この学校が俺にとって、どんな場所なのか」
   そのことばと同時に統馬の気持ちが伝わってくる。夜叉として数百年生きてきたあいだ、おそらく慈恵と草薙以外の人間には向けられたことのなかった、あたたかく柔らかい感情。友情と呼べるもの。
「きっと、そうだね」
 詩乃は無性にうれしくなり、答えた。
 だが次の瞬間、統馬は笑顔を消し、窓の外を見やった。
「詩乃。今すぐ俺の封印を解いてくれ」
     


                   
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