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風との約束








 心地よい暖かさに包まれて、ヴァルデミールは目覚めた。身じろぎすると、ぷにゅぷにゅと心地よい何かに手が当たる。
 まぶたを薄く開けると、その柔らかいものの正体は、レースのフリルのついたネグリジェの中に隠れていた。
(ひええ)
 いっぺんに目が覚め、飛び起きた。彼は昨夜、生まれてはじめて、女性と同衾したのだった。
 理子の自室のクイーンサイズのベッドの上で、理子の胸に抱かれ、なでられているうちに、いつのまにか眠ってしまった。
 ――ただし、黒猫の姿で、である。残念なことに、お行儀の悪いことを企んだとたんに魔力が不安定になり、魔族の彼は猫に変身してしまうのだ。
(赤い眼鏡をかけていない社長は、かわいいんだニャあ)
 朝の光の中で、理子のふくよかな寝顔を飽かず眺めていたヴァルデミールは、ネグリジェのリボンにちょっかいを出したくなった。男らしくも、猫らしくもある悪戯心というものである。
 そっと肉球をリボンに伸ばしたとき、大変に不幸なできごとが起こった。
 理子がその瞬間、くるりと寝返りを打ち、ヴァルデミールの上にのしかかってきたのだ。
「ふぎゃああっ」


「うむ。ひと仕事の後の味噌汁はうまい」
 弁当工場の戦場のような激務を終え、相模家では遅い朝の食卓を囲んでいた。
 ずっと寝込んでいた四郎会長も、ヴァルデミールが戻ってきてからすっかり朗らかになり、食欲も戻ってきたようだ。
「おや、ヴァル。その顔はどうした」
「ニャ、ニャんでもありません」
 ヴァルデミールはあわてて、眉間にできた青あざを押さえる。
「ふむ、昨夜は少しはしゃぎすぎたようだの」
 老会長は、ふたりが熱い初夜を過ごしたと信じて、すこぶるご機嫌だ。
「早いところ、式の日取りも決めねばならんな」
 そのことばを聞いたとたん、理子はお茶を吹いた。
「な、な、なにを言い出すの。お父さん、式ってなに!」
「おまえたちの結婚式のことに決まっておろうが。今の若い者は手順を踏むということを知らん。ものごとは順序を間違えずに行なわねばならんぞ。まずお披露目をして世間様に認められてから、子どもを授かり、りっぱな家庭を築く。それが世の中というものだ」
「コドモ。カテイ」
 ヴァルデミールは、目をぱちくりさせた。「わたくしと、社長とがですか?」
「ほらほら、その『社長』ということばがいかん。男らしく『理子』と呼び捨てにせんか」
「と、とんでもニャいです。そんな畏れ多いこと」
「だーかーら! おまえたちは夫婦とニャるのだろう」
 いつのまにか、四郎にもヴァルデミールのことばが移っている。
「だが、確かにヴァルの言うことも一理ある。女房が社長で、亭主がパートでは釣合いが取れん。よし、明日からさっそくおまえは、相模弁当工場の専務に昇進だ」
「お、お父さん」
「結婚は一にも二にも勢いが肝心。何事も、考えこむからうまくいかない。さっさと互いの気が変わらんうちに既成事実を作ってしまうのだ」
 娘が結婚する最後のチャンスを手放すまいと、老父は必死なのだった。


「会長も気がお早いんだから」
 理子の様子をちらと見やりながら、ヴァルデミールは口の中でもごもご呟いた。
「おまえは私と結婚するのが、そんなに嫌なのか」
 からかうように理子が言った。「そうだろうな。私の体重では、いつかベッドの上でおまえのことを圧死させてしまう。こわくて逃げ出したくなっただろう」
「とんでもニャい。逃げるだニャんて」
 彼はぶんぶんと首を振った。「社長のお体で圧死できるニャら、わたくし本望というものです。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「わたくしはノロマだし、弁当二十七個の売り上げ金の計算もできニャいし、おまけに……一番肝心のときには猫に変身してしまうし。このままじゃ、会長の望んでおられるふたりのコドモニャんか、とても」
 おずおずとヴァルデミールは顔を上げた。「これでは、どんニャにわたくしが社長を大好きでも、結婚する資格がありません」
「資格?」
 理子はくすりと笑って、彼の細い首にふくよかな両腕を回した。
「りっぱな資格があるぞ。この私がおまえを好きなのだからな。これ以上の資格が必要か?」
 また変身しないように、なるべく軽くついばむようなキスを交わす。
「ヴァル。結婚してくれ」
「しゃ、社長……うれしくて死にそうです」
「『社長』はいいかげんにやめろ。結婚してからも社長、専務と呼び合うのはごめんだ」
「そう言えば」
 ヴァルデミールは突如あることに気づいて、あわて始めた。
「専務とはいったい、ニャんの役職ですか。主任と専務では、どちらが偉いのですか」
「そりゃ、専務に決まっている。専務とは会社の取締役なのだからな」
「そんニャあ」
 ヴァルデミールは、へたへたと床に座り込んだ。
「どうしましょう。わたくし、シュニンより出世してしまいました……」


 ゼファーが工場の中庭に出ると、アラメキアのワダンガ火山を思わせるほど、工場長がせわしなく煙草をふかしていた。
 いらいらしているのは彼だけではない。工場のみんなが、どことなく落ち込んでいるのがわかる。
 社会全体の景気が急激に悪くなりつつある。『坂井エレクトロニクス』も例外ではなく、その大波をまともにかぶり始めた。
 製品が売れていないわけではない。天城博士の発明した『全自動高速乱切り機』の注文がどんどん舞いこみ、連日の残業を強いられるほどなのだ。
 だが即金で支払ってくれる客は、ほとんど皆無。どこも台所事情が苦しい中小企業同士、お人よしの坂井社長は、泣きつかれてつい約束手形での支払いや分割払いを許してしまう。
 その一方、原材料の支払い期限は待ったなしだ。したがって売れば売るほど、経営は苦しくなる。
 そして、何よりも工員たちのやる気をなくしているのが、この機械の導入先では、当然のように余った人員のリストラが行なわれていることだった。
 自分たちの作っている機械が、人々を幸せにしていない。士気が落ちるのは当然だろう。
 ゼファー自身もこのところ空腹になると、じくじく胃が痛むのを感じていた。
(俺も、年だな)
 苦笑しながら、彼は工場長のところに歩み寄った。
「瀬峰主任」
 今やふたりは、ちらりと目を交わすだけで、互いの苦労をいたわり合える戦友同士だ。
「ようやく、明日の分の納品の目途が立った。やれやれだ。いつまでこんな綱渡りのような毎日が続くんだろうな」
「そのことだが」
 ゼファーは唇をしばし引き結んで、それから言った。
「従業員を、あと五人ほど採用できないか」
「なんだと」
 工場長は、これ以上意外なことばを聞いたことがないというように目を丸く見開いた。
「みんな疲れきっている。連日の残業は、もう限界だ。これからも注文が増える目算がある以上、人を増やすことで対処するしかない。それに――」
 工場の外の暗闇で、ゼファーを睨みつけた男の姿が目に焼きついている。
『これが、多くの人間を泣かせている乱切り機械の工場か!』
 もし自分たちの作っている製品が人々の職を奪っているなら、たとえひとりでも二人でも多く雇い入れて、仕事を分かち合うことで償いをするのが、会社の責務だと思った。
「だが、あと五人分の給料を払う金がどこにある!」
 工場長は、予想された反論を返してきた。「今でさえも、毎月の資金繰りに苦労しているのに」
「その方法が、俺にはわからん。だから相談している」
 工場長は、無精ひげの生えた顎をごしごしと撫でて、しばし考え込む。
「方法がないことはない。今いる52人の従業員の給料を十%ずつ減らす。その金で、五人雇える」
「なるほど」
 だがゼファーは、その考えに首を振った。
「俺の指揮していた魔王軍で、同じことをしたことがあった。人間との大きな戦いを控えて、兵を増強した分、ひとりあたりの糧食の割り当てを減らしたのだ」
「それで、どうなった」
「完敗だった。俺の軍の兵は全員、腹を減らして力を出せなかった」
 ふたりは、顔を見合わせて大笑いした。
「正直、工員たちの給料を減らすのは、最後の最後の手段だ」
 工場長は力なく言った。「うちの給料はもともと少ない。みな今でも苦しい生活をしている。病気の親をかかえてる奴もいれば、三人の子どもがいる奴もいる。かくいう俺も」
 彼は、薄い頭頂をぽりぽりと掻いた。「今の給料がもらえなければ、仕送りができなくなる。下の息子には休学してもらわねばならん」
「そうか」
 ゼファーは、沈痛な思いで聞いていた。
 できれば、来月から主任手当を断ろうと決意している。それくらいの痛みを引き受けなければ、会社はいつまで経っても何も変わらないと。
 だが、それぞれの内情を聞いてしまうと、その覚悟を他の者に押し付けることは、とてもできないことだと思える。
「人を増やすのは、もうひとつ理由がある」
 ゼファーは、自分がずっと考え続けてきたことを打ち明けた。
「うちの会社の弱いところが見えてきたのだ。今までは顧客から注文を取ってきて、その注文どおりの製品を作るだけだった。だが、今度の乱切り機械はそうではない。相模弁当工場で働いている俺の部下が、ニンジンを楽に切る機械が欲しいという要望を持っていた。それを実現する機械を天城博士に頼んで発明してもらった。……それと同じことを、すればいい」
「つまり、おまえの言っていることは」
 工場長はうーんと唸って、眉根を寄せた。
「【マーケティング】というやつだ。注文を待つのではなく、相手のニーズを調査し、こちらから新製品を提案する」
「まーけてぃんぐ、と言うのか」
 横文字に弱いゼファーにとっては、初耳のことばだ。
「しかしだな。それができる優秀な人材は、みんな大企業に行ってる。こんな下町辺りにはころがっていないぞ」
「いなければ育てる。苦しい戦いの中でこそ、優秀な兵は育つものだ」
 ゼファーは、冬空を仰いだ。
 四百年間、アラメキアで続けてきた戦いの日々が思い出される。多くの命が、魔王である彼の野望のために失われた。
 もし、その命たちに詫びる術(すべ)があるとするならば、今目の前にいる人々の生活を失わぬように、力を尽くすしかないのだ。


「あ、ユーリおにいちゃん」
 園庭のすみに立っていた雪羽が、イチイの垣根のすきまから覗いているユーラスを見つけて、うれしそうに駆け寄ってきた。
「どうしたの? 学校は?」
「う、うむ。ちょっとな。食後の散歩だ」
 本当は、給食のあとの昼休み、クラスの友だちにアリバイ工作を頼み、こっそり裏塀を跳び越えて学校を抜け出してきた。
 ナブラの若き王だった頃、よく宮殿を抜け出して酒場に行ったことを懐かしく思い出す。
「あ、また来てる」
 度のきつい眼鏡をかけた女性教諭が、彼の姿を見つけてヒステリックにわめいた。
「なんなの、あなたは。どこの小学校。名前を言いなさい」
「大崎先生」
 雪羽は垣根の前に立って両手をひろげ、通せんぼした。「この人、悪い人じゃないよ。雪羽のお友だち」
「雪羽ちゃん、小さい女の子がヨソのおにいちゃんに近づいたら、だめなのよ。何をされるかわからないからね」
「雪羽がだいじょうぶって言ってるのよ。どうして信じないの?」
 猫なで声を出していた教諭は、一転してムッとした表情になり、「知りませんっ」と体をひるがえして行ってしまった。
 雪羽のような話し方をする子どもを、『可愛げがない、生意気だ』と大人はひどく嫌うものだ。そして、その負の感情を、回りの幼稚園児たちは鋭敏に感じ取る。
 雪羽の置かれている苦境が、ユーラスにはよくわかるような気がした。
「すまぬ、魔王の娘。余のせいで、ますますそなたを困らせてしまったな」
「ううん」
 雪羽は首を振って、にっこり笑った。
「だって、うれしかったもん。ユーリおにいちゃんが雪羽のことを見ててくれて」
「余のできることは、見ていることだけだ」
 ユーラスがどんなに気づかっても、このイチイの垣根から向こうに助けに入ることはできない。この戦いは雪羽に与えられたもので、誰かが代わってやることはできないのだ。
 ユーラスは垣根越しに、せいいっぱい腕を伸ばして雪羽の髪をなでた。
 今までの九十年の人生で経験したことのなかった、柔らかな思いが胸を駆け上がるのに戸惑いながら。


 雪羽を寝かしつけたあと、佐和は奥の部屋から出てきて、ゼファーの前にぺたんと座った。
「ゼファーさん、相談があります」
「なんだ」
「雪羽を転園させたいんです」
 佐和はどう話すべきか、しばらく迷った。
「雪羽が、幼稚園で仲間はずれにされているの。先生も、あまり雪羽のことを良く思っていないらしくて……。きのう、パートの仲間から、隣町の幼稚園の話を聞きました。ひとりひとりをじっくり見てくれる、とても良い幼稚園だって。……でも、月謝やスクールバスの費用をあわせると、今の幼稚園より一万円以上多くかかってしまうんです」
 佐和は、すがるような眼差しでゼファーを見つめた。
「苦しいのは、わかっています。でも、私ももっと家計を切り詰めるし、パートの時間を増やせるように頼んでみますから。雪羽にだけは悲しい思いをさせたくないの」


 日曜日、ゼファーは娘を連れて、公園に出かけた。
 耳や鼻の先が痛くなるほどの寒い昼下がり。毛糸の帽子や佐和の編んだ青いマフラーで、羊のようにもこもこになった雪羽は、いつもよりずっと親に甘えていた。
「父上ぇ。抱っこ」
「まるで赤ん坊だな。雪羽は、もう五歳になったのだろう」
「今日だけ、赤ちゃん」
 ゼファーは娘を抱き上げると、冷たく柔らかい頬に自分の固い頬を押し当てた。
「雪羽は、幼稚園で友だちがいないそうだな」
「え?」
「母上が先生から聞いて、やっと知った」
「ちがうよ。ほんとうはたくさん……」
「黙って、聞きなさい」
 ゼファーは、ぽんぽんと娘の背中をあやすように叩いた。
「別の幼稚園に変わらせてやりたいと、母上は考えている。それで雪羽がつらい思いをしなくてすむなら、それが一番よいのだろう。だが――」
 魔王は何度もためらった挙句、続けた。「俺は、そうさせないつもりだ」
「父上……?」
 雪羽は、父親の声が小刻みに震えているのに気づいた。
「工場の経営は、今厳しい。俺は、責任ある立場としてできるだけのことをせねばならぬ。そのために、最悪の場合は生活がもっと苦しくなるかもしれない。雪羽を隣町の幼稚園にやる余裕がないのだ」
 雪羽はこっくりとうなずくと、父の胸のマフラーに顔をうずめた。
「でも、母上は――」
「母上は、俺が説得する」
 ゼファーは妻の泣き顔を思い浮かべて、ちくりと胸が痛むのを感じる。
 それを振り切るようにして、続けた。
「金のことだけが理由ではないのだ。戦いというものは、逃げることも必要だ。だが、踏みとどまることは、もっと必要だ。俺はおまえに魔王の娘として、最初に逃げることを学んでほしくはない」
「魔王の娘……ユーリおにいちゃんも雪羽のことをそう呼ぶよ」
「そうだ。おまえは、魔王ゼファーの娘だ。雪羽」
「うん」
 元気よく、少女はうなずいた。その声には、幼いながらも強い誇りがにじみ出ていた。
 ゼファーは雪羽を、すとんと地面に下ろし、手をぎゅっと握りしめた。
「足を踏みしめて、相手を見つめろ。顔を下に向けるな」
「うん」
「俺もそうする」
「うん、父上といっしょだね」
「雪羽、がんばれ」
「父上も、がんばれ」
 冬の吹きすさぶ寒風の中を、大きな父と小さな娘は顔をまっすぐ前に向け、心を熱くしながら、ともに歩いた。








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