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色葉ひらひら




 夫が、どうも挙動不審だ。
 むろん、夫と言っても過去の話。この異世界に来て、互いに十歳の姿となってからは、肩を抱かれたことも、唇を寄せたこともない。
 それでも、マヌエラにとって、ユーラスはいつも思いを占める存在なのだ。気がつけば、授業中でも自分の席から、彼の背中を見つめている。うなじにかかる蒼い髪の一本一本まで数えてしまう。
「天城麻奈くん。先生の言うことを聞いていますか」
 そういうときに限って、先生は答えられない質問をマヌエラに当てるのだ。
 給食が終わると、週に二、三度、ユーラスはそそくさと教室を飛び出してしまうことがある。どうも、こっそり学校の外に出ているようで、同じクラスの男子生徒たちに、給食当番を代わってもらったり、先生へのアリバイ工作を頼んでいるらしい。
「教えてくださいな。悠里は、いつもどこへ行っていますの?」
「し、知らないったら」
 照れて顔を赤くした悪ガキたちは、わざとらしく口笛を吹き始める。大人っぽい色気をまとったマヌエラに詰め寄られると、ユーラスと固く交わした秘密の誓いも、ついぐらつきそうになるのだ。
「一刻を争うのです。大叔父さんの葬式のことを、悠里に至急知らせなければならないの」
 天城麻奈と天城悠里は、遠い親戚ということになっている。
「連絡が遅れて悠里が出席しそこねたら、せっかく死んだ大叔父さんが生き返ってしまいますわ!」
「そ、それは大変だ」
 わけのわからない説明に納得して、彼らはあわてて行き先を教えてくれた。
「イチイ幼稚園?」
 首をかしげる。なぜかわからないが、第六感がぴんと働く。陛下に、浮気の虫の気配がするのだ。
 裏の通用門のほうに急いでいると、同じクラスの川越美空と数人の女子生徒たちが、ばっと彼女の前に立ちはだかった。
「あら、天城さん、おひとりでどこへ行くつもり」
「あなたがたには、関係ございませんわ」
 マヌエラは、冷ややかに答えた。
「まあ、えらそうに。『いろはにほへと』も知らないくせに」
 彼女たちは、小ばかにしたようにキャアキャア笑った。
 先週の国語の授業のとき、マヌエラは先生に当てられて、『いろは歌』について答えることができなかったのだ。
「四年の国語でとっくに習っているはずなのに、忘れたの?」
 それ以来女子生徒たちは、ことあるごとにマヌエラをからかった。
 しかたがないではないか。つい四ヶ月前まで、彼女はアラメキアに住んでいたのだから。
 家に帰って、ユーラスに聞くと、
「要は、『あいうえお』四十七文字をすべて使った歌があるのだ。余も、最初にこの世界に来たときは、わけがわからなかった」
 と慰めてくれた。
「『色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 けふ越えて  浅き夢見じ 酔ひもせず ん』……この最後の『ん』を忘れずに大声で叫ぶのが、コツのようだぞ」
「子どもが習うには、むずかしい歌ですわ」
「彼らには意味がわからずとも、ただ覚えるだけでよいらしい」
「いったい、どんな意味がありますの?」
「花は美しく咲いても散ってしまう。我々の人生もいつまでも同じではない。 人生の山道を越えていくときに、はかない夢を見たりぼんやりしていては、この世のほんとうの有様を知ることはできない――というほどの意味だ」
「まあ」
 それを聞いたとき、マヌエラは感激のあまり、思わず涙ぐんだものだ。「なんと深く、傾聴すべきことばでしょう」
 アラメキアで今まで持っていたナブラ王妃としての位も、必死で磨いた教養も、この異世界では何の役にも立たない。それどころか、今目の前にいるわずか十歳の級友たちにさえ、「天城さんて、頭わるーい」と嘲られている毎日。
「ほんとうに、人生というのは無常ですわ」
 ふっと溜め息とともに漏らしたことばに、美空たちはポカンとした。
「何言ってるの、この子」
「いえ、あなたたちには理解しがたい、この世の理です」
「なまいきーっ」
「やっちゃえ!」
 女生徒のひとりが、マヌエラの髪をひっつかもうと腕を伸ばした。
 マヌエラはその腕を逆につかむと、ひょいとひねった。
 尻餅をついている子のそばを、軽やかに通り過ぎると、振り返って微笑む。
「あなたがたでは、陛下のお相手には百年早いですわ」


 冬はもうすぐ、そこまで来ていた。
 街路樹の色づいた葉もあざやかさを失い、北風が吹くたびに、はらはらと舗道に錦を敷きつめる。
 いつも昼休みになると、イチイ幼稚園の垣根の陰から雪羽のことを覗き見する美少年がいる。
 彼のことを、光源氏になぞらえて『垣根の君』と呼んだのは、産休教師の南天音(みなみあまね)先生だが、それがいつのまにか近所の主婦の間にも広がり、『垣根の君ウォッチャー』なるものまで出現しているらしい。
 今日も昼休みに園庭に出たとき、少年が覗いているのを見つけた天音先生は、「おや?」と思った。
 彼の隣に、いつもは見かけない少女が立っているのだ。
「まあ、なんてきれいな女の子」
 ふたり並ぶと、まるでヨーロッパの王室の肖像画のようだ。まわりの空気がきらきら光り輝いている。
(やっぱり、ああいう美男美女には、ちゃんと小さいうちからお相手がいるのね)
 彼氏いない暦23年の天音先生は、がっくりと肩を落とす。
(どうしよう。ユーリお兄ちゃんが来てること、今日は雪羽ちゃんには知らせないほうがいいかな)
 雪羽ちゃんにとって、たぶん初恋だしと、あれこれ勝手な感傷にひたっていると、ベテラン教諭の大崎先生が玄関に現われた。
「また来てる、あの小学生!」
 憤懣やるかたない様子で、叫ぶ。
「いいじゃないですか。じっと雪羽ちゃんのことを見守ってくれているだけですよ」
「近所で悪い噂になっているんです。どうせ、昼休みに学校を抜け出して来ているんでしょう。そろそろ、小学校の校長先生に通報したほうがよさそうですね」
「待ってください。そこまでしなくても……」
「私に意見なさるとは、偉くなられたものですね、南先生も」
 大崎先生は、眼鏡の奥からジロリとにらんだ。「私は、この幼稚園の園児のためを思って、言っているんです。今は、私立小学校受験の時期です。幼稚園に万が一にも変な噂が立てば、お受験に不利になってしまうかもしれないんですよ」
 そう言われると、天音先生は何も反論できない。
「だからこそ、私は雪羽ちゃんの変な妄想もやめさせたいのです」
 大崎先生は、無言の後輩教師に向かって、さらに言い募る。
「小学校によっては、受験生を試験会場で遊ばせて、その様子を観察するところもあります。もし、雪羽ちゃんの『アラメキアごっこ』を真似する園児が出てきてしまったら、それこそ大変。何よりも、雪羽ちゃん自身の将来のためにもよくないことです」
「そうでしょうか」
 天音先生は口の中でこっそり、聞こえないようにつぶやいた。お受験のため、将来のため。そんな理由で子どもの自由な発想を禁止してしまっていいのだろうか。
 本当は、アラメキアが実在するとは、いまだに信じられないときがある。落ち葉が風にひらひらと葉裏を返すように、信じることは疑う気持へと、たやすく変わる。
 でも、信じられないからこそ、信じたい。わたしひとりだけでも、雪羽ちゃんの言うことを信じたい。教師として、それがただひとつ自分にできることだと、天音先生は固く心に誓ったのだ。


「魔王の娘のところへ来るために、学校を抜け出しておられたのですね」
 マヌエラの笑みを含んだ口調に、ユーラスはぴくりと頬を引きつらせた。
「ええ、お気持はわかりますわ。大きくなれば、あの子はさぞ美しくなるでしょう」
 彼女の考えていることは、大方予想がつく。金の斑を散りばめた深青色の目には、怒りの炎がチロチロ燃えている。
 若く血気さかんな頃のユーラスは、けっこう女性にだらしなかった。麗しい女性がいると見れば、毎晩でも忍んで出かけ、片っぱしから王宮に召した。
 さすがに年を重ねるにつれて、そういうこともなくなったが、今のユーラスの行動を妃の目から見れば、あまりにも雪羽に執着しているように見えるのだろう。
 そんな意味ではないのに。ただ、魔王の娘のことが大切に思えるだけだ。恋人に寄せる気持とは、まったく別の意味で。
「誤解するな。余はただ……」
 我ながら情けなくも、必死に弁明を試みる。
「心配をしているだけだ。偶然通りかかったとき、雪羽が仲間はずれにされているのを知った」
「仲間はずれ?」
「ほら、今でもひとりで遊んでおるだろう。他の子どもたちは、雪羽に近づこうとしない。先生に止められておるようだ」
 マヌエラが息を飲む気配がした。
「まあ、なんてこと」
「そなたも気づいておろう。この国はアラメキアとはまるで違う」
 ユーラスは、物憂げにつぶやいた。
「古い伝統と歴史を持ち、『いろはにほへと』のような繊細な言葉づかいが子どもの頃から教えられているのにもかかわらず、人の苦しみを推し量り、自分のこととして感じることは、誰にも教わっておらぬ。それゆえ平気で、自分たちとは異なる者を仲間はずれにしたり、馬鹿にしたりする」
 ユーラスはふと隣を見て、「しまった」と思った。
 マヌエラは、ぎりぎりと歯を噛みしめ、両手の拳を震えるほどに握りしめている。
(忘れていた。この妃は――)
 下町育ちで、男勝りのおてんばで、めっぽう正義感が強いのだった。
 垣根の向こうではちょうど、眼鏡をかけた中年の女性教師が、地面にお絵描きをしている雪羽のそばに立って、盛んにお小言を言っているところだった。
「雪羽ちゃん、羽のある馬の絵を描いちゃダメって言ったでしょ」
「でも、アラメキアの馬は羽が生えてるんだよ」
「アラメキアの話は、しちゃいけません!」
 気づいたときは、止める間もあらばこそ、マヌエラは生垣を乗り越えていた。
『黙って聞いていれば、そこのババア!』
 とんでもない卑語に気を遠くしながらも、ナブラ王は、妃がせめてアラメキア語を使ってくれたことを神に感謝した。


 その日の夕方、ユーラスとマヌエラは、瀬峰家を訪れて、暗くなるまで雪羽といっしょに、コタツでお絵描きに興じた。
「羽の生えた馬はペガサスと呼び、グリフォンとともに王族の乗り物なのですよ。羽に三本、青い線を染めこむのが、ナブラ王家の印なのです」
「青いウサギを見たことはある? 地球にはいないそうですね」
 マヌエラは画用紙にクレヨンでいっぱいに、何枚も何枚もアラメキアの動物や植物を雪羽のために描いてやる。あたかも、今日アラメキアを否定された分だけ、取り戻してやろうとするかのように。
 幸い、幼稚園では大きな騒ぎになる前に、ユーラスがマヌエラを羽交い絞めにして引きずり戻した。
 生垣の外に出たとたん、妃は両手で顔を覆い、わっと泣き出した。自分が小学校で受けている辱めを思い出したのだろう。
「わかっただろう。余が魔王の娘を気にかけている理由が」
 彼は妃の背中をさすりながら、ポツリと言った。もちろん、それだけが理由ではないことは、彼自身が一番よく知っているのだが。
「ユーリお兄ちゃん、マナお姉ちゃん、ありがとう」
 戸口からいつまでも手を振っている雪羽と佐和に見送られて、ふたりは天城研究所への帰路に着いた。
 街路樹の道をたどりながらマヌエラは、梢から離れた葉を、地面に落ちる前につかまえようとした。
「これも、色葉(いろは)ですね」
「ああ、そうだな」
 街灯に照らし出され、ショートカットの少女の影が舗道の上でくるくる踊る。落ち葉が一枚、彼女の掌の中に納まり、くっきりと紅く浮き上がって見えた。
「不思議ですわ」
「なにがだ」
「わたくしは今日、魔王の娘をご覧になる陛下の横顔があまりに優しかったので、激しく嫉妬しました。もしわたくしが魔女ならば、呪い殺したいと思うほどに」
「……」
「でも、今はそんな醜い気持は、すっかり失せたのです。あの子の生まれつき持っている不思議な力なのでしょう。あの子は、この異世界にあって、誤解を受け続けながらも、なお気高いものを持っています。わたくしはすっかり、その魅力にやられてしまいましたわ」
 マヌエラはユーラスを見つめると、けなげにもにっこり笑った。
「陛下。わたくしを離縁なさいませ。わたくしは間違っておりました。いろは歌にあるとおり、『我々の人生もいつまでも同じではない』のですわ」
「妃――」
「魔王の娘との婚姻は、アラメキアにとっても朗報となるでしょう。おふたりはきっと、人間と魔族の架け橋となってくださいましょう。わたくしは、心から祝福申し上げます」
 その言葉を裏切るように、頬に涙が光っている。
「マヌエラ!」
 ひらひらと葉裏をひるがえしながら、落ち葉が舞い散る。
 その下で、十歳の少年は、少女をしっかりと抱きしめた。





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