「たとえ何千年、何万年かかったとて、必ずおまえに復讐してやる。精霊の女王」 魔王ゼファーは、喉に食い込む革紐を引きちぎらんばかりの叫びをあげた。 その身体には、神の祝福によって編まれた7重の鎖がかけられ、見る者を狂わすという虹彩のない紫の瞳は、銀糸でまぶたを 縫いとられ開くことはない。両手足は聖なる4本の剣で、巨大な円形の結界に釘付けられていた。 精霊の加護を受けた美しい世界アラメキアをめぐって、人間と魔族の間に400年間続いた戦争は、中立を保っていた 精霊が人間側に加担したことから、魔王の敗北によって終止符が打たれた。 ゼファーは捕らえられ、今人間の王たちと精霊の女王の前で裁きを受けんとしている。 「魔王よ。おまえの呪われた肉体は、いかなる力をもってしても滅することができぬ」 おごそかで悲しげな精霊の女王の声が、アラメキア最深の洞窟にひびく。 「我が霊力によりおまえの魔王としての力をすべて封印したうえで、永久に異世界に放逐する。無力なひとりの人間として 生きることによって、おまえのその醜い野望を浄化するがよい」 彼女が指先から光のしずくを垂らすと、結界は作動し、まばゆい光体で魔王を包み始めた。 ゼファーは意識を失う最後の瞬間に言い捨てた。 「肝に銘じていろ、精霊の女王。俺は……戻ってきて……おまえのアラメキアを……滅ぼす」 (ここは、どこだ……) 固い岩の感触と、耳慣れない喧騒で目を覚ました。 定まらない意識をかかえたまま起き上がると、灰色の固くつるりとした地面がどこまでも連なるのが見える。 彼が倒れていたのは、壁と壁の狭いすきまだった。 そのむこうには、精霊祭の仮装行列でもあるのだろうか、奇妙な服を着た大勢の人間が足早に歩いていた。 新しい体をあやつりかねて、よろめきながらすきまを抜け出ると、頭上はるか高みまで広がるのは、おびただしい数の林立する尖塔の群れだった。 アラメキアのどこにも、巨大な魔王城でさえ、これほどの高さでそびえる塔はなかった。 人の群れをよけて進み、正面のガラス板を見つめる。 そこに写るのは、漆黒の髪を持ち漆黒の眼をした人間の男の姿。回りを歩いている人間どもと似た形の黒い服を着ている。 これが今の俺か。 骨を噛み砕くことすらできぬ細い顎の脆弱な肉体。牙も角も鋭い爪も何一つ備えてはいない。 どう見ても30歳に満たないこの人間が、齢800歳をかさねた魔王だとは。 ゼファーが怒りと失望でうめき声をあげていると、そばに小柄な人間の若い娘がふたり寄って来た。 「いけてるお兄さん。ジョシコーセーと遊ばない?」 まるで食ってくれと言わんばかりに肌をあらわにした、目のふちを塗った女どもに、彼はちらりと視線をくれた。 アラメキアの言葉でも、魔族の言葉でもないのに、不思議と彼女たちの言うことは理解できる。 精霊の女王の霊力がまだ彼の身に及んでいるためだろう。 「ここは、なんという世界だ」 彼の問いに、ふたりの娘は顔を見合わせてきゃあきゃあ笑った。 「ばっかじゃない? ここは東京の渋谷だよ」 トーキョー。 この異世界は、トーキョーという名であるらしい。 ゼファーは路傍に腰かけて、自分が放逐されてきたこの異世界を日がな一日観察した。 このトーキョーというところは、アラメキアの人間の町のどことも似るところのない、不思議な世界だった。 地面にはほとんど黒い土がなく、灰色の岩か、神殿の床のごとき文様の板で固められている。 木は一定の間隔をおいて直線状に植えられており、町全体で何かの結界を形作っているものと思われた。 アラメキアではあれほど咲き乱れていた花々も、ここではところどころに配置される四角い箱を除き、すべて禁止されているようだった。 何かの呪術が行われている特殊な聖域。それがトーキョーの正体なのだろう。 ここでは人間が幅をきかせ、我が物顔に闊歩している。 広い道ではものすごい速さで、アラメキアのゴーレムに似た生き物が行き来していた。金切り声をあげ目を光らせるくせに、なぜか生命の息吹が感じられない。 その体内には人間が乗って、行く先を命じているようだった。 魔王の乗り物だったグリフォンも、使い魔だったガーゴイルも天かける姿を見かけない。ただときどき生命のない鉄の鳥が、はるか上空を飛んでゆくばかり。 ここには魔族の好む暗闇がなかった。洞窟も地底もなく、地下にさえ太陽や月が天井にはりつき、煌々と人間の行く道を照らしている。 精霊の女王がこの異世界を魔王の追放地に選んだわけがわかった。 トーキョーは、彼の味方になるひとりの魔族もいないのだ。 絶望が彼の心に忍び寄り始めた。 夜がやってきても、街は昼間と同じ明るさを保っていた。 空腹を感じたゼファーは、「金をよこせ」と彼に因縁をつけてきた馬鹿面の人間を拳で殴り倒して、その腕に噛みついた。 しかし牙のない彼には、わずかな肉しかちぎりとることができない。しかもそれはとんでもなく不味かった。 人間になったため、人間を食物と感じられなくなってしまったのだろう。 しかも、たった一発殴っただけの拳は骨が折れたかと思うほどじんじん痛む。なんという軟弱な身体なのだろう。 血と肉を口から吐き捨てると、彼はそのまま食べ物を求めてあてどなく歩き始めた。 街角にあるガラス張りの部屋に、人の流れに巻き込まれるようにして入った。 突き当たりの氷室のように冷えた棚の上に、小さな三角形の物体が並んでいた。一見果物のようで、黒い皮が一枚白い果肉をおおうようにかぶっている。 食べ物だと直感し、もう一枚おおっていた透明の皮を破ると、かじりついた。 「お客さま! レジでお支払いいただかないと……」 あわてて駆け寄ってきた店の主らしい男を睨む。 人差し指をすっとその額にあてると、主はぼんやりとした表情でつぶやいた。「どうぞ、ごゆっくり……」 魔の力がすこしは残っていたらしい。ゼファーはそのまま次々と他のいろいろな三角形を胃の中に納めた。 アラメキアにもこんな美味な食べ物はなかった。呪術を思わせる禍々しい形といい、魔王にふさわしい食物だ。 となりの棚には、酒やあらゆる種類の液体が飲み放題だった。 他の人間たちが遠巻きに見つめる中、満足した彼はゆうゆうと店を出た。 ふたたび街を歩き始める。色とりどりの灯りが地上の星のようにまたたく中、大通りの縞模様の道を踏みしめながら、ゼファーは藍色の夜空を見上げ、ひとり笑った。 魔族がいないのなら、それでいい。 俺はこの異世界で人間の王として君臨する。 そして、いつか必ずアラメキアに大軍を率いて攻め込む。 覚悟していろ。精霊の女王。トーキョーに俺を送り込んだことを後悔させてやる。 |