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雨雲パズル




 二日雨が降って、三日晴れる。この季節は、そんな日々の繰り返しだ。
 そして雨雲のすきまから覗く青空は、とてもやさしい色をしている。あるときは、ショールをかぶった異国の貴婦人の瞳のように。
 あるときは雲のかけらを遠くに蹴り飛ばして、さあ探してきて嵌めてごらんと、ゲームに誘うように。


 工場の敷地全体が禁煙となってから、工場長は、すっかり元気をなくしたように見えた。
「タバコをやめると健康にいいと言うが、あんたを見てると、そうとも言えないな」
 とゼファーが言うと、「まあな」と苦笑しながら答えた。
「うちのかみさんなんかは喜んでるよ。今までタバコ代がバカにならなかったからな」
 と、工場の塀の縁に生えた丈の低い雑草をつま先で蹴飛ばす。ダンゴ虫が一匹、あわてて逃げていった。
「だが、どうにも気勢があがらなくてな。45年たまりにたまったタバコの毒を抜くのに、俺の体が悲鳴をあげてるらしい」
「ものごとが変わるときは、痛みをともなうものだ」
 ゼファーの慰めのことばにも耳に入らず、工場長は半分別のことを考えながら、黒ずんだ、皺だらけの手を握ったり開いたりした。
「実は、この秋で、65になるんだ」
 その数字の意味することに、ゼファーは最初ぴんと来なかった。なにせ、自身は800の齢を重ねている。65など、まだまだ若造の部類に思える。
「定年ということか」
「ああ、できれば、このまま働き続けるつもりだったんだがな」
 小さな町工場では、定年などあってないようなものだ。現に旋盤工の矢口も、70を過ぎてまだまだ現役として働いている。
「来月にでも工場長の職を辞するように言われた」
「新社長にか」


 坂井エレクトロニクスは、この四月に大きな変化があった。
 坂井社長の息子、坂井亮司が今まで働いていた総合商社を辞めて、社長の座につき、それまでの社長が会長に納まったのだ。
 新社長は連日、銀行や大口の取引先を挨拶に回りつつ、二階の事務所にこもりきりで、毎朝の朝礼以外は、工場にほとんど顔を出さない。
 新社長発案の改革は、文書での通達という形で、次々と発表された。
 「工場内の全面禁煙」は、その改革のひとつだ。顔を合わせるわけでもないので、文句も言えない。何があっても自分の考えを押し切るという新社長の強固さを、工員たちはひしひしと感じた。
「亮司くんもなあ、勉強のよくできる、真面目ないい子だったんだが」
 古参の工場長は、新社長が中学生のときから、ここで働いているのだ。
「あのときは、まだ食うや食わずの、カツカツの時代だった。貧乏で苦労したからだろうな。汚い、油くさいと、あのころも工場の中には絶対に入ろうとしなかった」
「そうか」
「気心を知り尽くしている社長が引退し、現場を知らない息子の代になった。そろそろ潮時じゃないかと思えちまったんだよ」
 工場長は口をすぼめ、頬をひくひくさせた。やはりたばこが吸いたくて、たまらないのだろう。
「従業員も八十人を超え、工程もどんどん複雑化してくる。このニコチンまみれの老骨のどこを叩いても、新しい体制についていく自信も気力も出てきやがらない。そこに今回の話だ。いっそ65の誕生日を迎える日に、すっぱりと辞めてやろうかと思ってる」
「決定事項なのか」
「まあ、正直言うと、まだ迷ってる」
 ゼファーは、悄然として言った。「あんたがいなくなると、痛いな」
「過去の遺物など、いないほうがいいんだよ」
 工場長は微笑み、ゼファーの肩を叩いた。「次の工場長は、おまえだ、瀬峰主任。おまえなら安心して、後をまかせられる。この町工場を、世界に名をとどろかすような企業に育て上げてくれ」
「俺にできるだろうか」
「えらく弱気だな。魔王さんよ。おまえらしくもない」
 ゼファーは、「ああ」と口の中でつぶやき、うなずいた。「わかった。俺にできるだけのことはしよう」
「ふう。そうと決まったら、なんだか気分がさっぱりした」
 男たちは、腕をいっぱいに広げて、背伸びをした。
「じゃあ、ぼつぼつ午後の仕事を始めるか、工場長」
「もう、その工場長というのも、よしにしよう。来月からはヒラに戻るんだから、『佐々木』と呼んでくれ」
「……佐々木?」
 彼は、振り返った。「まさか、俺の名を知らなかったというんじゃないだろうな」
 笑いながらふたりが建物の中に入っていくと、工場内で騒ぎが持ち上がっていた。


「じーじ、さんぽ、はやく、はやく」
「わかった。せかせるでない、ハルよ」
 相模弁当の創業者、相模四郎会長は、歩行器をかたかた押して玄関を出た。
 孫のハルは祖父のかたわらで、ひとときもじっとすることなく、くるくる走り回っている。髪がぼうぼうと伸び、うなじから背中にかけては、一すじのタテガミが生えている。手や足はすらりと細く、黒く大きな瞳と、浅黒い肌は父親そっくり。ジャングル育ちの野生児という風貌だ。
「あら、相模さん。おはようございます」
「おはようございます。町田の奥さん、いい天気ですな」
「お孫さんとお散歩ですか。いいですねえ」
「ははは」
 彼らと別れてから、町田さんは、お隣さんと垣根越しに感慨深げに言葉をかわした。
「ほんとうに、よその子どもって大きくなるのが早いわねえ。ついこないだご出産のお祝いを言ったと思ったのに」
 彼女の感想は、実に鋭い点をついている。
 ハルは体の大きさは五歳児に見えるが、本当は、一年前の春に生まれたばかりなのだ。
 アラメキアの魔族は、子どものうちは成長が著しく速い。一晩のうちに、二、三歳分大きくなっていることもめずらしくない。
 ヴァルデミールの魔族の血を受けついでいるハルも、生後半年のとき、いきなり今の大きさまで成長してしまった。
 もちろん、中身はほとんど一歳児と変わらないから、厄介だ。だあっと走って行って、行方不明になってしまうし、バランスを崩して、すぐにころぶ。大きな体を小さく折り曲げるようにして、父母にだっこをせがむ。
 ハルを一歳検診に連れて行くと、保健所では大騒動が持ち上がった。大学病院に連れていくように言われ、成長ホルモンの分泌、下垂体や視床下部などを、さんざん調べられたが、結局、誰もはっきりしたことはわからなかった。
「まったく、みんな騒ぎすぎなのだ」
 四郎会長は、平然と茶をすすりながら娘の理子に言った。「少々ほかの子と育ち方が違うからと言って、騒ぐことはない。ハルはハルなのだ」
「そのとおりです。おとなにニャれば、ちゃんとおとなにニャりますから、心配はいりません」
 父と夫の、のんびりと楽天的な会話を聞いていると、泣きべそをかいていた理子も気持ちが静まってくる。
「わかったよ。ハルはハルだ。誰よりもかわいい、わたしとヴァルの息子だ」
 そうやって、家の者がおおらかに構えていると、最初は気味悪そうにひそひそ噂をしていたご近所や工場の従業員たちも、すぐに忘れた。
 今は別にハルを見ても、何とも思っていないらしい。慣れとは、すごいものだ。
 四郎会長は、足腰の調子がよいときは、少し遠出をすることにしていた。ひとりでは心配な距離も、ハルがそばにいるというだけで心強い。
 何度も、歩行器の荷台に腰かけて休み休み、とうとう小一時間かけて、天城研究所までたどりつく。
「天城のじいさん」
「なんだ、相模のじいさんか」
 新しい座標軸の計算に取り組んでいた天城博士は、うさんくさそうな目でじろりとにらんだきり、手元に視線を戻した。四郎会長は、さっさと中に入り、勝手にソファに座った。
「あいにく、手がはなせない。茶は出さぬぞ」
「わかっておる。持参の水筒がある」
 『全自動乱切り機』の開発をきっかけに、顔なじみになった天城博士と四郎会長とは、ときどきこうして互いを訪れている。会ったからと言って、共通の話題も趣味も何もない。だが、黙っていっしょにいるだけで、妙に心地がよいのだ。
 ユーラスもマヌエラも中学校に行ってしまっているので、ハルは広い裏庭で、ひとりでモンシロチョウを追いかけ始めた。
 初夏の風が、タンポポの綿毛を一本、開け放した窓から運んでくる。そして、綿毛のように白い老人たちの髪の毛も、ふわふわと撫でていく。
「あれ、お義父さん」
 相模家の婿が、弁当と冷凍食品の配達にやってきた。
「どうしたんですか。こんニャ、むさくるし……じゃニャくて、シブい場所にいらっしゃるとは」
 ヴァルデミールも、すっかり営業トークが板についてきたようだ。
「うむ。おまえの来るのを待っていた。ここまで歩きすぎて、すっかり腰がくたびれてな」
「じゃあ、配達がてら、いっしょに帰りましょう」
 ヴァルデミールは、半年前から教習所に通い、必死で練習して自動車の免許を取ったばかりだ。ライトバンがあれば、弁当の配達も格段にスピードアップするし、その分、家族といっしょにいる時間が増えるからだ。
「とーと!」
 ハルも大喜びで、父親にむしゃぶりついてきた。「あそぼ、あそぼ」
「うわ、気持ちの良さそうニャ緑の芝生だあ。……あの、少しだけ遊んできていいですか」
「行って来い」
 窓から、二匹の猫がじゃれ合うように、父と子が歓声を挙げてころげ回っているのが見える。
「ヴァルは、変わったな。男になった」
 天城博士が手を止め、まぶしそうに目を細めた。
「ああ」
 四郎会長はうなずいた。
「ひとつの手で家族を守ること。もうひとつの手で相模弁当と従業員たちを守ること。毎日、ふたつの拳をひとつずつ握りながら、誓いの儀式のように確かめておるよ」
「そうか。もう、ネコジャラシに飛びつく手はないのだな」
 ちょっと前まで、ネコジャラシと遊ぶヴァルデミールを見て、研究の疲れを癒していた天城博士は、少しだけさびしく感じるのだった。
「よい後継者ができて、幸せだな。相模のじいさん」
「おまえこそ、その年でまだ夢を追いかけている。うらやましいよ、天城のじいさん」
 ふたりの老翁たちは、互いを見て、にやりと笑った。
「せいぜい、長生きしようではないか」


「ブラック企業? うちの会社が?」
 もう昼休みが終わる工場内で、従業員たちは、IT担当の高瀬雄輝の持ち込んだノートパソコンの前に、わいわい群がっていた。
「どうした」
「あ、主任。工場長」
「坂井エレクトロニクスが、ブラック企業リストの中に載ってるんだって」
 口ぐちの説明によると、ネット上のフォーラムの一角に、そのブラック企業リストなるものはあるらしい。就活中の大学生もよく見るので、彼らがその悪い評判を鵜呑みにすれば、来年からの人材募集が、ひどくむずかしくなるだろうというのだ。
「ブラック企業……」
 英語がほとんど天敵とも言えるほど苦手なゼファーだが、『ブラック』の意味するところは、おおよそわかる。
「工場の外壁の塗装を、黒にしたのが、やはりよくなかったのか?」
 数秒間、乾いた風が吹き抜けた。
「わ、私も、実はよくわからないの」
 事務員の高瀬奈津が、さりげなくフォローする。「ねえ、雄輝、わかるように説明してくれる?」
「ブラック企業とは、絶対に入ったらいけない会社を呼ぶときの就活生の使う隠語です。具体的には、労働基準法などそっちのけで、仕事がめちゃくちゃきつかったり、サービス残業を強制したり、上司や先輩が日常的にパワハラまがいの言動で圧力をかけてきたり。それで社員がどんどん辞めても、また大量採用で補充する……つまり、社員を使い捨てながら成り立っている企業が多いです」
「なんだよ、それ」
 従業員のひとりが、ぽかんと口を開けた。「全然、うちの会社と違うじゃねえか。なんで、うちがそんなふうに呼ばれるんだよ」
「仕事がきついってことだろう。納期が近いと、残業もけっこうあるし」
「けど、そんなこと言ってたら、日本の町工場は全部、ブラック企業になっちまうよ」
「大量採用ってところが、ひっかかったんじゃないか。去年は四人、今年は六人入れただろう」
「一番、ショックなのは、そのフォーラムに書き込まれてる体験談なんですよ」
 雄輝がうわずった声で、説明を続けた。「ほら、ここ。『学校の先輩から聞きましたが……』で始まって、あとは就業時間とか、作業内容とかすごく具体的だし、実際にここで働いてた人から本当に話を聞いたんだなって、思える」
「この中の誰か……?」
 みな、思わず互いの顔を見交わしそうになって、あわてて目をそらす。仲間の裏切りを疑うなど、今までの坂井エレクトロニクスの中には存在したことのない感情だった。
「もう、いい」
 ゼファーが厳しい声で宣言した。「この話は、終わりだ。これ以上の詮索はするな」
「はあい」
 従業員たちはみな、のろのろと午後の仕事の準備へと散っていく。
「でもさ。確かに、このところ……ちょっとキツいよな」
「……ああ」
「いきなり、会議とか勉強会とか増えたし。業務改善点を書いて出せって言われても、わかんねえし」
 ボヤき始めたのは、資材係の重本だ。工場長と同じく、全面禁煙になって元気がなくなったひとりだ。
「問題意識を持てって言われても、あんまりわかんないんだよね」
 工場のあちこちに張られたスローガンを見上げて、研磨係の水橋らも言う。
「別に不満もないし。そりゃ、会社がもっと儲かりゃいいとは思うけど」
「円安とか、電気代の値上げとか、私たちがいくら考えても、別によくならないし」
 誰かがぼんやりとつぶやき、別の誰かが答える。ちらりと二階の事務室の窓を見て、言いたいことを飲み込み、全員がそのまま黙り込んだ。


 ゼファーが事務室のドアをノックすると、「ああ、ちょっと座って待っててくれ。瀬峰主任」という太い声が聞こえた。
 半透明のパネルの向こうに社長デスクがあり、新社長はパソコンのキーを機関銃のように叩いていた。
 55歳の坂井亮司は、父親とは対照的に大柄で、全身に自信と活力がみなぎっている。
「すまないね。もう少しで終わるから」
「ああ」
 ゼファーはソファに座って待った。
「すまん、すまん。長いこと待たせて、悪かったね」
 新社長はにこにこしながら、向かいにどっかりと腰をおろした。
「財務体質を、ひとまず健全というところまで持ってきつつある。外堀を埋めておかないと、肝心の本丸の改革には手をつけられないんだよ」
 さすがに、日本という国を牽引してきたと言われる総合商社マン。この数か月で、彼は坂井エレクトロニクスの金の流れの実態を完璧に調べ上げた。
 商社時代につちかった人間関係を武器に、金融機関と個別折衝して新たな融資を受け、財務基盤をしっかりと固め直すところまで来ている。
 なみはずれた機動力に、人脈。加えて、ことばにも説得力がある。
「きみや佐々木くんには、工場をまかせっきりにして悪いことをした。どうだね、そっちのほうは」
 ゼファーは、今日の業務報告と、それから午後一番の時間に、工員たちのあいだで話題になった『ブラック企業』の話をした。
「ばかばかしい」
 亮司は、鼻であしらうような調子で返した。「それじゃ、業績が好調で右肩上がりの企業は、すべてブラック企業になってしまう。気にすることはない。そんなものは、能力もやる気もない落伍者の言い訳だよ」
「今うちの社員の中に、そう感じているヤツがいるということは、やはり問題だと思うが」
「まったく、これが零細企業のダメなところだ。意欲も目標もない人間のふきだまりになっている」
 眉根を寄せているゼファーに気づき、新社長は口元をほころばせた。
「ああ、すまん。きみたちを責めているんじゃない。僕は僕なりに、小さいころから親父の働く姿を見ていて、これじゃダメだよなと思っていた」
 彼はソファから立ち上がって、窓のそばに立ち、稼働している工場を見下ろした。
「まったくひどいものだった。学校に持っていく給食費も遠足代も、支払いに必要だからと親父に取り上げて持ってかれた。あれじゃ、未来への展望などない。ゆきあたりばったりの経営には、社員の教育に時間を割く余裕もない」
「……」
 幼いころの恨みが、これほどまでに、彼の心の奥に深くに巣食っているのか。
「今度の社長交替にあたり、親父には、絶対に社員をリストラするなという条件を出されている。もちろん、それは守るつもりだ。だが、その代わり、こちらの基準に合う、優秀な社員への再教育が必要だ。途中で脱落するヤツは、必要ない。『ブラック企業』だなんて、負け犬みたいなことをほざいているヤツは、こっちから願い下げだね」
 ゼファーは立ち上がって、彼の隣に立った。
「社長。工場内を全面禁煙にしたことだが」
「ああ。工場長が何か言っていたかい?」
 亮司は、ごしごしと鼻の横を指でこすった。「せめて、敷地内に喫煙スペースを設けてくれと頼まれたもんでね。きっぱりと断った。女性の雇用促進という面でも、福利厚生の面でも、全面禁煙は絶対にゆずれない改革の柱だ」
「わかっている、だが」
「瀬峰くん、きみはタバコを吸わないと思っていたが、反対なのかな」
「いや、禁煙は正しいことだと思う。だが、正しいことが、どんなときでも正しいわけではない」
「あ、何を言ってるんだ?」
「社長、あそこを見てくれないか」
 ゼファーは、眼差しをガラス越しに工場の搬入口のほうへと向けた。
「うちの工場の中で、喫煙者は、工場長、資材係の重本、溶接の林、プレスの岡崎、ほかにも数人いる。年齢も部署もばらばらだ。そんな奴らが、タバコを吸うときだけ、あそこに集まっていた。何が起こったと思う?」
「わからん」
 ゼファーは、ほほえんだ。「ほとんどが他愛のない雑談だ。愚痴だったり、そっちが悪い悪くないの水掛け論だったり。だが、そんな中から、ほんのときたま、部署を超えたすばらしいアイディアが生まれることもあった。そのうちいくつかは、今のラインで採用している」
「ほう」
「おそらく、彼らに会議の席でよいアイディアを出せと言っても、何も出てこないだろう。新しい考えというのは、たいてい誰にも強制されず、自由でくつろいだ雰囲気にいるときに生まれるのだと思う」
「それで?」
 社長の声に、冷たいものが混じり始めた。
「研磨係の矢野は、木曜の午後になると、とたんに作業効率が良くなり、すばらしい仕事をする。なぜだか理由を訊いたら、社交ダンスを習い始めたらしい。そこの男性講師がイケメンで、絶対に遅刻はしたくないと、気合を入れて仕事をするからだ。なら最初から気合を入れればよいと思うが、それはできないらしい」
「ばかな」
 口の中でつぶやく社長を横目に、ゼファーは続ける。「組立係の横田と小西は、仲が悪く、よくケンカでラインが止まる。だが、見かねてふたりを離して配置したら、かえって作業効率が下がる。やつらはケンカでストレスを発散し、互いに競争しながら仕事をこなすことで、大きな能力を出していたんだ。ケンカも仕事の一部だったわけだ」
 曇りのない窓ガラスを、そっと確かめるように指の腹でなでる。高瀬奈津は、事務室のこの窓を、使命感を持っていつもピカピカに磨き上げている。事務員は工場でいっしょに働けないから、せめて、互いがよく見えるようにと。
「社長。確かに、うちの会社の従業員すべてが、同じではない。経験も、生きてきた道すじも違う。欠点もたくさんある。ある者は工場全体を見ようとするし、ある者は自分のラインのことしか考えない。残業よりも家族との時間を優先したい者もいる。趣味を一番と考える者もいる。ある者は、新製品の開発が何より大事で、ある者は、納期を厳守することが何よりも大事だと思っている。みな、それぞれの考え方で生きている。それぞれのやり方で会社を愛している。それでよいのではないか」
「ほんとうに?」
 社長は、裏返った声で訊き返した。「そんなものは、組織ではない。ただのバラバラの烏合の衆だ」
「全員が、同じ考えや、同じ能力を持つ必要はない。それぞれの立ち位置で、喜んで仕事ができれば、それでよいのではないか。上に立つ者のすべきことは、ひとりひとりを知ることだ。全員の個性を知ったうえで、適した部署に適切にあてはめ、時に応じて一番動きやすい陣形へと配置することだ」
「僕は、何も知らないから、工場内のことに口を出すなということかな」
「そうじゃない。そういうことを言ってるわけじゃない」
 亮司は、背広のすそをパンとはらって、窓から離れた。
「そうか。わかった」
 彼は事務所のドアの前で立ち止まり、おだやかにゼファーに笑いかけた。
「瀬峰主任。きみとは分かり合えると思っていたが、残念だよ」
 社長が出て行ったあと、ゼファーは窓から工場をじっと見わたした。上から見ていると、80人の従業員がせわしなく動いているのが、よく見える。
 しかし、心の中までは見えないのだ。
 この中の誰が、自分の働いている会社を「ブラック企業」とおとしめるのか。
 この中の誰が、働くことに喜びを見いだせず、人知れず満たされぬ思いを抱えているのか。
 ゼファーは小さな声で、いとおしげに80人ひとりひとりの名をつぶやいた。




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