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さかさまさかさ




「台風が来ますよ」
 と叫びながら、強風に背中を押されるようにして、天城研究所の扉から飛び込んだヴァルデミールは、居合わせた面々の中に雪羽の姿を見つけて驚いた。
「姫さま。ニャぜ、こんなむさくるしい場所に!」
「おまえに言われたくはない」
 むっつりと答えたユーラスは、作業台の上に折れ曲がった黄色い傘を広げ、一心にピンセットを操っている。
「学校の帰り、傘が風でさかさまになっちゃったから、直してもらってるの」
 雪羽はソファで、マヌエラといっしょにココアを飲みながら、少し恥ずかしそうに弁解した。
 何度も断ったのに、ユーラスは「修理してやる」と自分の傘を代わりに差し出して、さっさと壊れた傘を持っていってしまった。しかたなく、その後ろについてきたわけなのだ。
 「しかたなく」と言い訳しながらも、雪羽は心のどこかで、傘が壊れたおかげで、こうして彼の家に来られたことを喜んでいる。
 今年の春、雪羽はユーラスに絶交を宣言した。ゼファーが一時的にアラメキアのことを忘れてしまったとき、彼が父に剣を向けたからだ。

『そなたが父上の敵であろうとするなら、もう二度とそなたには会わぬ――立ち去れ!』

 あのときの記憶はぼんやりして、どこか別人の話のようなあいまいさが伴うのだけれど、それ以来、ユーラスと雪羽は、どちらともなくお互いを避けるようになった。
 台風が接近しているからという理由で、ユーラスが学校の帰りに迎えに来てくれたのも、久しぶりだったのだ。
「ふうん。うまいもんだ」
 ヴァルデミールは頬杖をついて、ユーラスの器用な手先を感心しながら見つめた。
 折れたシャフトの継ぎ目が、小さな部品でしっかりと補強されていく。
 ナブラ国の国王、かつては宮殿で何百人もの召使にかしずかれていた存在が、机にかがみこんで子ども用の小さな傘を懸命に修理している。運命というものは、実に不思議なものだ。
「キノコにニャった傘でも、こんなふうにすれば直るんだニャ」
「キノコ?」
「壊れてさかさまにニャった傘を、リコさんは『キノコ』と呼んでいたよ。『マツタケ』と呼ぶ人もいるんだって」
「わしの子どものころは、『おちょこ』と呼んだな」
 転移装置の下にもぐっていたアマギ博士が現われ、会話に加わってくる。
「全部、おいしそうな名前ですわ」
「おちょこが美味しそうだニャんて、王妃さまは酒飲みだニャ」
「こいつが大酒飲みなのは、ナブラの宮殿にいたころからだ」
 何げない、けれどマヌエラへの親しい気持が感じられるユーラスのつぶやきに、雪羽はちくりと心が痛くなった。
「さあ、できた」
 元通りに開くようになった黄色い傘を、雪羽はうつむきながら、小さく「ありがとう」と言って受け取った。
「さあ、修理が終われば、長居は無用」
 ヴァルデミールは、ぴょんと立ちあがり、うやうやしく手を差し出した。「姫さま、風がまた一段と強くニャってきました。わたくしがお送りしますので、早く帰りましょう」
「こらこら、おまえは何しに来たのだ」
「あ、そうだった」
 相模屋弁当の専務は仕事を思い出して、持ってきた大きな保冷バッグからデラックス幕の内弁当三つを取りだした。
「毎度あり。これが今日の分だよ。それと台風で明日来れないと困るから、冷凍のお惣菜をいろいろ持ってきた。新商品だから、また後で感想を聞かせてね」
 相模屋弁当では、毎日販売するお弁当のほかに、小分けして冷凍した惣菜セットも売り出すことにしたのだ。
 なかなか買い物に行けないお年寄りの家庭に届けると、「いつでもチンして食べられる」と、とても喜んでもらえる。
 さらに、四郎会長のように歯が悪く飲みこみにくい人のために、よく煮込んで柔らかくした惣菜も、秋山のおばさんを中心に開発中だ。
 だから、こうやって弁当を届けながら、人々がどんなものを欲しがっているのかを知ることは、とても大切なのだ。
「おまえも、すっかり昔のアホ面に戻って、よかったな」
 アマギ博士が満足そうに言った。「仕事のことで悩んでいたころは、顔も青白く憂いを含んで、えらく美男子に見えたぞ」
「それって、ほめられてる気が全然しニャい」
「ほめとらん」
「ひどーい」
 不服そうに口をとがらせながら、ヴァルデミールは保冷バッグに冷凍惣菜を戻し始めた。「シュニンの工場へ行って、事務の高瀬さんにあげようっと」
 マヌエラは彼をなだめようと、あわてて必殺の呪文を唱えた。「ヴァルさん、お子さまは大きくなられましたか」
 とたんにヴァルデミールは、にへらと笑み崩れた。
「すごく大きくニャったよ。生まれたときの百倍はある」
「それじゃ、ゴジラだ」
「毎日、少しずつかわいく、かしこくニャっていくんだ。赤ちゃんてすごいニャ」
「なんというお名前でしたっけ。確か、命名のときは、ものすごく悩んでおられましたね」
 ツボをついた質問のおかげで、ヴァルデミールは有頂天になって保冷バッグからどんどん惣菜を出して机に並べる。
 マヌエラは、それをせっせと運んでは、冷蔵庫にしまいこむ。
「ハル! 『晴』と書いてハルと呼ぶんだ」
「素敵なお名前。ヴァルさんとも似ていますわ」
「本当は、ノリコの『ノ』とヴァルデミールの『ヴァ』を合わせて、『ノヴァ』という名前にしようと思ったんだよね。『新星』と書いて、『ノヴァ』」
「それは、今流行のドキュンネームだのう」
「うん、リコさんにも反対されたんニャ。商売人の名前は、一に読みやすく、二に覚えやすく。名刺を渡すとき、すぐに読めニャいとダメだって」
「なるほど」
「ハルだったら、春に生まれたことも思い出せるし」
「なるほど、なるほど」
「今では、ハルを見るたびに、本当にハルって顔してるニャって思うんだ」
 残りの四人は笑いをこらえながら、顔を見合わせる。
 この話は、もう幾度聞かされたかわからない。新米の父親にとって我が子の命名の顛末は、アラメキアの建国に匹敵するくらいの一大事なのだ。
「それより、ぐずぐずしていると、台風が来てしまうぞ」
「あ、そうだ。姫さま、早く帰りましょう。きっとシュニンや奥方さまが心配しておられますよ」
「うん」
 雪羽は立ちあがって、マヌエラに「ココアをごちそうさま」とお辞儀をし、ユーラスに向き直った。
「傘をなおしてくれて、ありがとう」
「ああ」
 研究所の扉を苦労して開けて、外に出る。風がさっきより強くなったようだ。
 ヴァルデミールは自分の雨がっぱを雪羽に着せてから、宝物のようにそっと抱きあげて、自転車の後ろに乗せた。
「しっかりつかまっててくださいよ」
「うん」
 雪羽は、ぎゅっと腕を回して、温かい背中に顔を押しつけた。なんだかなつかしい匂いがする。
 小さいころは、よくこうやってヴァルデミールにおんぶしてもらった。そのころの従者はいつも、『姫さまが一番大切です』と口癖のように言ってくれたっけ。
 今のヴァルデミールの一番は、わたしではない。理子さんとハルだ――ユーリお兄ちゃんにとって、マナお姉ちゃんが一番なように。
 すっかり暗くなった空には、街灯を反射して光る雨粒が、たくさんの銀色の斜線を描いていた。


 工場の天窓に雨粒が当たる音が反響しているのを聞くのが、ゼファーは好きだった。
 それは、生まれ故郷のアラメキアの洞窟で、天井からしたたる雫の音を思い出させる。深く、深く自分の中へと潜りこんでいくような、落ちついた気分にさせてくれる。
 ラインに沿って、機械の電源が落ちているのを確認しながら歩いていると、高瀬雄輝の声が聞こえてきた。
「ひとつひとつの機械や部品が、この会社の財産なんだ。ひとつ欠ければ、機械全体が使い物にならない。人間だって同じだ」
   それに対する返事は聞こえてこない。たぶん雑談の相手は、今年の春に入った新入社員だろう。
 新工場に移転した坂井エレクトロニクスは、【コンパクト乱切り機】の大量生産に本格的に乗り出した。今はまだ月間八十台がいいところだが、ゆくゆくは二百台を目標にしている。
 そのために、新しく社員も雇い入れた。春山の部下に就く営業経験者がひとり。製造部門にも新卒がふたり。
 雄輝がここに勤めるようになってから二年が経つ。高卒で最年少だった自分に、初めての後輩ができたと喜んでいたら、ふたりとも専門学校卒。ひとりは雄輝より年上だったのだ。さぞ、やりにくいことだろう。
 必死で指導しようとしても、その熱意は、ともすれば空すべりに終わっているようだ。
「今は仕事の全体像が見えないからつまらないと思うけど、その工程でしか見えないことが、必ずある。将校だって、最初は歩兵から始めるっていうし」
 そのセリフを聞いて、ゼファーは吹き出しそうになった。雄輝が入社したてのころ教えたことと、一言一句同じではないか。
 あのときは、ろくすっぽ聞いていないように見えたのにと、胸が熱くなった。
 次の世代は確実に育っているのだ。どんなに頼りなく、後を託するには心もとなく見えても。

『あとは、次の世代にまかせよ』

 いつか見た夢の中で、精霊の女王がゼファーに言ったことばだ。次の世代にすべてを託すことができれば、自分の役割は終わる。それは、いつの日のことになるのだろうか。
 工場の照明が全部消え、あらかたの工員たちが帰ったあと、搬入口にしょんぼりと座っている雄輝に、ゼファーは自販機の缶コーヒーを差し出した。
 ゼファー自身も製造主任になってまもなく、苦境に立つたびに、社長からおごってもらった缶コーヒーに幾度救われただろうか。
「借り物の鎧では、戦えないぞ」
「え?」
「自分が身をもって経験した言葉でなければ、人には伝わらない。どんなに拙くてもいい。自分の言葉で語ってみろ」
「……はあ」
 ふたりは並んで、雨まじりの風に揺れる街路樹を見つめながら、熱いコーヒーを口に含む。
「次の世代を育てることは、むずかしいな」
「むずいです。ほんと」
 800歳と20歳。年齢は天と地ほど違うが、ふたりの男は同じ戦いを共有していた。

「瀬峰主任。ちょっと」
 雄輝を帰宅させてから工場に戻ると、二階の事務室のガラス窓から社長が手招きをしていた。
 ゼファーは急いで階段を昇った。
 工場長がソファに座って、ぽかんと呆けた表情をして彼を見上げた。
 ゼファーは眉をひそめた。「どうした」
「ずっといろいろ考えてはおったのだよ」
 社長はいつもの、とりとめない調子で話し始めた。「いつまでも頭の固い老いぼれが上に立っていては、会社の発展の妨げになる。工場移転も見届けた。ここらが潮時なんじゃないかってな」
「……つまり?」
 禿げ頭をくるりくるりと撫でてから、社長は答えた。
「わたしも、そろそろ引退しようと思う」
「……」
「後継者のことだが、息子の亮司を呼びもどすつもりだ。うちの業績を説明したら、やりたいと張り切っている」
 小さな目がうるんでくる。「うれしくて、たまらんのだ。赤ん坊を背負いながら女房とふたり、みかん箱を並べて部品を作った頃のことがやたらと思い出されてな。がんばってきてよかったよ。工場を続けてきて、本当によかった」
 社長の前を辞した工場長とゼファーは、外付け階段を降り、雨を避けて建物の軒下に立った。
「商社マンの息子が、小さな子会社に出向になったそうだ。つまりは、体のいいリストラということなんだろう。それなら、これを機に帰ってきてくれと社長が拝みたおしたわけだ」
 立ち昇る煙草の煙は、風にもみくちゃにされて、たちまち四散した。
「あの息子は、子どもの頃から親の仕事を毛嫌いしていたと聞いたよ。まさか、世界相手に何百万ドルのビジネスをしていた男が、単価数円の部品を扱う零細工場に興味を持つとは。いったい、うちをどう経営していこうと言うんだろうな」
 ゼファーは軒先からしたたる水滴が地面を流れていくのを見つめた。
「だが、社長はうれしそうだったな」
「ああ。いつかはこの日が来るとは思っていたが……さびしいな」
 ある者は年老いて去っていき、ある者は新しい息吹を携えてくる。人が変われば、組織のありかたも変わっていく。
 いくら、それを止めようとしても、時間という潮流を前に、彼らになす術はないのだった。


「ただいまあ」
 ヴァルデミールは、玄関でびしょぬれの体をタオルで拭いて、靴を脱いだ。
 雪羽を家に送り、弁当工場の見回りに寄ったあたりで、急に激しい嵐になった。
 台風は夜明け前に最接近するというが、パートさんたちの出勤と重なると困ったことになる。朝のだんどりを少しでも楽にしようと工場内で準備をしていたら、こんなに遅くなってしまった。
 家の中はしんと静まり返っている。
 リビングは明かりがついているのに、誰もいない。
(おかしいニャ)
 寝室に入ろうとしたとき、理子が中から立ちふさがるように飛び出てきて、思わずよろけてしまった。
「リコさん?」
「ヴ、ヴ、ヴァル、あ、あの、は、は、は」
「くしゃみですか」
「ハ、ハ、ハルがっ」
「ハルが?」
 しがみついてきた理子を抱きとめ、そのままずるずると引きずって、寝室へ入る。
 ハルのベビーベッドをのぞきこんで、「うわ」と叫ぶ。
 手足を折り曲げるようにして窮屈そうに寝ているのは、五歳くらいの男の子だ。
「晩御飯のあと、ついうとうとして、起きてみたら、ハルが大きくなっていた」
 理子が、さめざめと泣きだす。「最初は別人かと思った。でも、目も鼻も耳の形も、首の後ろのタテガミも、どう見たって、ハルなんだ」
「ニャんだ。そんニャことですか」
 ヴァルデミールは軽々と息子を抱き上げると、頬にたくさんキスした。
「さあ、ハル。起っきして。服がビリビリだから、着替えようね」
「お、お、驚か、ない、のか」
 理子は呼吸困難に陥って、言葉が続かない。
「ニャぜ驚くんです。誰だって成長期が来たら大きくニャるのは、当たり前でしょう」
 ヴァルデミールは、首をひねった。「そういえば、姫さまのときは、ずいぶんゆっくりでしたね」
「……アラメキアの魔族は、みんなそうなのか」
「だいたい、生まれて何日かで歩き始めます。わたくしも、そうでした。一晩で急に背が伸びて、ニ、三歳で大人の背丈にニャるんです」
 夫は不安げに青ざめて、妻を見た。「まさか、地球では、そういうことはニャいのですか」
「普通は、ニャい……」
「どうしましょう……」
 すっかり目を覚ましたハルは、ほとんど裸同然のかっこうで、笑いながら部屋じゅうを駆け回り始めた。
「きゃはは。かーか、とーと」
 そのとき、歩行器のカラカラという音が聞こえて、がらりと引き戸が開き、祖父の四郎が現われた。
「おい、ヴァルや。雨戸の戸じまりは――」
「じーじ!」
 見知らぬ男の子に指差されて、四郎は目をぱちくりさせた。
「誰だ、この子は。うちで何をしている」
「お義父さん、あ、あの……この子は、ハルです」
「何?」
「半年前に生まれた、このうちの子ども、相模ハルです。ちょっと、と言うか、ものすごく、大きくニャっちゃったけど」
 するすると引き戸が閉まった。「どうも、夢を見ているらしい」というつぶやきを残して、歩行器の音が遠ざかっていく。
 理子とヴァルデミールは、途方に暮れて顔を見合わせた。
「どうしたら、いいのでしょう」
「とりあえず、大きな服を買いに行かねば」
 妻は、うつろな目をしながらも、目の前のことに懸命に焦点を合わせようと試みていた。「靴もだ。まさかこんなに早く歩けるようになるとは思わなかった。普通なら、そろそろ寝がえりを打って、それから、はいはいをして、つかまり立ちをして、普通なら、ゆっくりと成長していって、普通なら――」
 絶句して、唇を噛みしめる。
「リコさん」
「どうして、この子は普通じゃないんだ。普通でいいのに。ほかには何も望まないのに。こんなに急に大きくなったことを、どうやって回りに説明したらいい」
 ぼとぼとと涙をこぼす母親の膝に、ハルはよじ登って、にゅーっと下から覗きこんで笑った。
「かーか、あめ、あめ」
「ハル」
 ヴァルデミールは男の子を抱き上げて、ぎゅっと頬を寄せた。「わたしの大切な息子。キミは、わたしのアラメキアの血をちゃんと引いているんだね」
「とーと」
「普通でニャくて、だいじょうぶだよ。わたしが、かーかとハルを守るから。どんニャ雨が降っても風が吹いても、わたしが傘にニャるから」
「ヴァル」
 理子は手の甲で涙をぬぐうと、夫の肩にこつんと頭をぶつけた。
「こんな細くてヤワな傘じゃ、すぐに折れてしまいそうだぞ」
「だいじょうぶです。サカサマにニャった傘でも、すぐに修理できる方法を習いましたから」
 轟々と叩きつけるような嵐の夜、三人の親子はしっかりとお互いを抱きしめ合った。
 



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