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風はどこから来て




 夜明けの白さの中に立って、ずいぶん日が長くなったのだなと気づく。
 工場の敷地の隅に植えられた木から、花びらがはらはらと散るのを見て、ヴァルデミールは訳もなく泣きたくなった。
 桜は、この国の人にとって特別な花だという。アラメキア人がリューラの花を恋しく思うのと同じだろう。
 冷たさの中にわずかの温もりを隠し包んで、風が吹く。また、花びらが舞い落ちる。
 薄く、はかない命。白い夜明けの中の、白い影。


「今日は、お花見弁当を二百、デラックス弁当を五十個増産します。デラックス弁当には、百円割引券つきのサクラのシールを張るのを忘れニャいで。みニャさん、がんばってください」
「はい!」
 この季節、ビジネス街では新入社員の姿が目立つようになる。彼らが割引券を使って、それから後もずっとリピーターになってくれれば、相模屋弁当にとって、百円割引は決して損ではない。
 産休をとっている社長の理子の代わりに、ヴァルデミールは、朝早くから卸市場を回っておいしい食材を探したり、弁当を売っているスーパーや駅の売店をめぐっている。その甲斐あって、相模屋弁当の売り上げは好調だ。
 理子が帰ってくるまで、絶対に会社をつぶすわけにいかない。
 もし食中毒が起きたら。
 発注ミスで大量に売れ残ってしまったら。
 味付けが辛すぎて、お客が愛想をつかしていったら。
 いろいろなことを考えると、夜も寝られないことさえあった。
 完成した弁当が、バイクやバンで次々と配達されていくのを見て、ようやくヴァルデミールは大きく息を吐いた。
「あいつも、うまくやったよな」
 従業員の誰かが、数人で工場の裏で立ち話をしている。
「日本語もへたくそな外国人のくせに。社長に取り入って婿におさまったら、とたんに重役だ」
「玉の輿って、男の場合は何て言うかな。タマの輿? ははっ。あいつ元気そうだもんな」
 ――何を言っているのかさっぱりだが、悪口であることは、しゃべり方でわかる。
 それに、そのうちのひとりは、彼といっしょに工場の責任を担っている、古参の専務だ。
 膝から下がすーっと感覚をなくしていくようだ。体の内側がからっぽで寒いのに、頬は燃えるように熱い。
 ヴァルデミールはそっとその場を離れると、工場の敷地内にある相模家に戻った。
 最初はとぼとぼと。次第に歩幅を広げて、玄関を開けるときには元気を取り戻して。
「ただいまあ!」
 台所では、理子が朝食の支度をしていた。
「あ、リコさん。だいじょうぶですか?」
「これくらい、大丈夫だ」
 理子は、大きなお腹に刺激を与えないように、そろそろと振り返った。「すまない。何もかもヴァルにまかせて」
「ううん、ちゃんと、うまくやっていますから」
「顔色が悪いな。それに痩せたみたいだ」
「気のせいですってば」
 理子にとって、妊娠期間中はトラブルの連続だった。
 長いつわりがやっと終わったと一息ついた頃、切迫早産の恐れがあると入院になった。治療のあと、安静にしながらの自宅療養。やっと妊娠九ヶ月まで無事にこぎつけ、あとは出産を待つばかりになった。
「わたくしの子どもだから、落ち着きがニャくて、じっとしていニャいのかなあ」
 ヴァルデミールは、理子の具合の悪さを自分のせいにして、しょげてしまう。
「もし、毛むくじゃらでツノが生えた子だったら、どうしよう」
「それでもいい。ヴァルの子だから、きっと世界で一番可愛い」
 妻は、夫のたてがみのような長い髪を撫でて、なぐさめた。母親になった理子は、心身ともに今までの何倍も、大きくてたのもしい。
「さ、できた。お父さんを起こしてきてくれないか」
「はい」
 ヴァルデミールは奥の和室に行き、ベッドでテレビを見ていた義父の四郎を助け起こして、着替えを手伝った。
 脳梗塞をわずらっている四郎会長は、この頃は少しずつ、できないことが増えていく。リハビリに行ったりして頑張ってはいるのだが、どんな訓練も、年齢と追いかけっこをしているようなものだ。
 その分、生活の中で、婿であるヴァルデミールに頼らねばならないことが増えていくのだ。
「ヴァルや、おまえちゃんと寝ているのか」
 四郎は、彼の手と杖の力を借りながら台所に向かう途中、心配そうに言った。「わしが夜中に目を覚ますと、いつも居間から灯りが漏れているぞ」
「ごめんニャさい。つい、消すのを忘れちゃうんですよね」
 ヴァルデミールはできるだけ明るく、うそをついた。本当は夜も眠れないので、つい起き出して、いろいろ考えてしまうのだ。
 朝食が終わると、日課の得意先回りに出かける。
 家を出たとき、先ほどの専務が工場の出入り口にいるのが見えた。悪口を言われたことを思い出して、ずきんとみぞおちが痛む。
 しばらく歩くと、我慢できなくなったヴァルデミールは公園のトイレに飛び込んだ。
 このところずっと、食べたものを胃が受けつけないのだ。なぜだか自分でも理由がわからない。
「理子さんも、つわりのときは、こんニャに大変だったんだ」
 妻の苦しみを分かち合えたような気分になって、ヴァルデミールは少しだけ慰められた。
 理子はもう何年もずっと、弁当工場の経営者として苦労してきた。母が亡くなり、父は病に倒れ、兄姉に頼ることもできず、たったひとりで重荷を背負ってきたのだ。
 その苦労を夫の自分が背負うのは、あたりまえだ。どんな悪口を言われたって、冷たい目で見られたって、相模屋弁当を守らねばならないのだ。
 口をゆすいで、トイレの外に出たとき、くらりと目まいを感じた。
「あれ、変だニャあ」
 春の陽ざしがふりそそいでいるはずなのに、あたりがどんどん暗くなる。
 ベンチに座ろうとして、ヴァルデミールはそのまま、何もかもわからなくなってしまった。


「ヴァルが行方不明?」
 一日の仕事が終わって工場を出ようとしたとき、ゼファーは佐和の電話を受けた。
『得意先回りに行くと、朝出たきり、何の連絡もないんですって』
 おろおろと訴える佐和。そのそばでは、雪羽が母のエプロンの紐を、ぎゅっと不安そうに握っているのが見えるようだ。
「わかった。心当たりを探してみる」
 ゼファーは門の外に出ると、道の真ん中でゆっくりと体の向きを変えながら、宵闇に目を凝らした。
 彼の体を淡い黒の光輪が取り囲む。やがて、風に乗って、かすかな呼び声が聞こえてきた。
『……シュニン』
「ヴァルデミール」
 ゼファーは迷わず走り出した。風の方向をたどっていった先は、工場のそばの大きな公園だった。もう何年も前、ゼファーを捜しに地球に来たヴァルデミールと、初めてめぐり会った場所。
 あのときと同じく、彼は小さな黒猫になって身体を丸め、「みゃお」と鳴いていた。
「よかった。いなくなったと聞いて、心配したぞ」
 手を伸ばしたが、黒猫は身を縮めるだけで、彼の腕に飛び込んでこない。
「どうした」
『わたくし、人間に戻れニャくニャってしまいました』
「なんだと?」
『こんニャことをしてる場合じゃニャいのに――早く、いっぱい働かなきゃニャらないのに、どうがんばっても人間にニャれないんです』
 猫の大きくて真っ黒な瞳から、きらきらと涙が伝い落ちる。
『どうしましょう。シュニン。わたくし、どこがいけニャいんでしょう。どこが間違っているんでしょう』
「落ち着け。ヴァルデミール」
 ゼファーはむりやり、腕の中に彼を抱き上げた。
『落ち着けですって! じゃあ誰が代わりに仕事をやってくれるんですか! 手伝ってもくれニャいくせに、気休めを言わニャいでください』
「ヴァル」
『「大丈夫か」って訊かれるのも、もううんざりです。無理して「大丈夫」って答えるたび、よけいにツラくニャるんです。もう放っておいてください。悪口ニャんて聞きたくありません。人間のことばニャんて、わかりたくありません!』
「ヴァルデミール」
『シュニン。助けて……助けてください』
 ヴァルデミールは、遠吠えのような声で泣き始めた。今まで溜めに溜めていた気持ちを全部吐き出すように、長く細く泣く。
 ゼファーはそのあいだ、何もしゃべらなかった。
 「お前の気持ちはよくわかる」とも、「こうしたらいい」とも言わない。
 ただじっと黒猫を抱きしめ、艶を失った毛並みをゆっくりと撫で続ける。その暖かい腕の中でヴァルデミールはけだるい、不思議な安堵に包まれた。
 なぜ、もっと早くこうしなかったのだろう。彼にとって憩える場所は、最初からここだったはずなのに。
 全身の毛がゆっくりと毛羽立っていく。そして、気がつくといつのまにか、人間の姿に戻っていた。
 通りかかった中年女性が、全裸の若者を抱きしめているゼファーを見て、「ひょええ」と変な叫びを上げて、走り去っていった。
 ゼファーは急いで工場に戻り、洗い替え用の作業服を持ってきて従者に着せると、相模家まで送っていった。


 泣き腫らした目をしてうなだれて玄関に立っているヴァルデミールを見て、四郎と理子はことばを失った。
「すみません」
 ヴァルデミールはそれだけ言って、小さく身を震わせた。
「まあ、あがれ」
 居間のソファに座って、ゼファーからあらましを聞いた理子は、涙を流しながら、ぽつりと言った。
「どうして――どうして、そんなにつらい思いをしていたのに、打ち明けてくれなかったんだ」
 四郎会長は、理子に「おまえは、あっちに行っていなさい」と静かに命じた。
「だってお父さん。私は」
「おまえが一緒だと、ヴァルは言いたいことも言えなくなる」
「……」
 理子が悄然と出て行くと、四郎は杖を頼りに立ち上がって、呆けたようにソファに座っている義理の息子の前に立ち、険しくも優しい目でじっと見下ろした。
「なぜ打ち明けてくれなかったとは、わしは決して言わぬぞ。言えないものなのだ。口にすることすら、自分がゆるせないのだ。わしもそうだったから、よくわかる」
 ヴァルデミールは、焦点の合わない目を上げた。「お父さん」
「その意気地のなさ、脆さ、弱さ。それは、おまえが男だからだぞ。男とはそのように、頑固でもろくて弱いものなのだ」
「……」
「理子に言えぬ気持ちも、よくわかる。そうさせるのは、幻想だ。男は強くあれかしという、ロマンなのだ」
「菓子というマロン――」
「よいか。ヴァル。わしも、同じ頑固でもろい男のひとりだ。おまえの味方だ。悪口を言うやつらなど放っておけ。おまえの値打ちがわかれば、恥じて言わなくなる。おまえに値打ちがなければ、あきれて言わなくなる」
「はいっ」
 どこかちぐはぐでユーモラスな父子の会話を聞きながら、ゼファーはそっと部屋を立ち去った。
「もう心配はいらんだろう」
 夜目にも白いハクモクレンに向かって、息を吐く。それは自分に言い聞かせると同時に、その花の向こうに立っている誰かに語りかける口調だった。


「リコ……さん」
 明かりを消した部屋に入ると、ヴァルデミールは上着を脱いで、静かにベッドの中にもぐりこんだ。
 答えの代わりに、妻のふくよかな腕が彼を抱きしめた。
「ごめんニャさい」
「あやまるのは、私のほうだ」
 理子の涙まじりのため息が聞こえた。「私はおまえに、とてもたくさんのものを背負わせてしまった。自分でも負いきれなかった重い荷物なのに」
「違うんです。わたくしはリコさんに荷物を背負わされたんじゃニャい。リコさんのために、自分が背負いたかったんです」
「ヴァル……」
「わたくしは本当は立派じゃニャいのに、立派にニャろうとしました。だから工場の皆さんに笑われてしまいました。はじめから、『助けてください』とお願いすればよかったんです」
「つらい思いをさせたな」
「黙っていて、ごめんニャさい」
「どうすれば、ヴァルの心が癒せるか、少しでも楽になれるか教えてくれ。なんでもするから」
「ええと、ええと」
 ヴァルデミールは長いあいだ必死で考えた。
「それでは、わたくしの顔をニャめていただけませんか」
「ニャめる?」
「猫にとって、それが最高の癒しニャんです。親猫が子猫をニャめると、どんな病気やケガも治ってしまいます。きっと心だって元気にニャれます」
「――わ、わかった」
 ふたりは真赤になりながら、向き合った。理子はおずおずと、ヴァルデミールのおでこをぺろりと舐めた。
「にゃん」
「どうだ?」
「力が抜けるう。リコさんはプロですね」
「そんなに気持ちいいか」
 調子に乗って、理子がヴァルデミールの上におおいかぶさったとき。
「ううっ」
 彼女は苦しげに身体を折り曲げ、彼にドサリとのしかかった。
「うげえ。リコさん。苦しい」
「ヴ……ヴァル。始まったかもしれない」
「お……お産が始まったんですか」
 四郎会長が、不審な物音に気づいて部屋の扉を開けると、理子を抱きかかえたヴァルデミールが、廊下を猛然と走ってくるのに出くわした。
「お父さん、病院に行ってきます!」
「わ、わかった」
 四郎は、玄関を飛び出していくふたりを呆然と見送った。
「ヴァルのやつ、あの相撲取りのような理子を、羽根枕のように軽々と抱っこしておった」


 明け方、電話を取ったゼファーの耳に、ヴァルデミールの興奮した声が飛び込んできた。
「生まれました。シュニン」
「ふたりとも無事か」
「はい、とっても元気です。男の子でした。ツノも尻尾も生えてません。肌はつるつるで毛深くもありません。でも……でも、首筋から背中にかけて、ほんの一筋だけ、たてがみが生えてるんです。わたくしにそっくりの、小ちゃいたてがみです。ニャんだか、それを見たら泣けて、泣けてきて……可愛いんです。ものすごく可愛いんです」
「そうか。会社の帰りに見舞いに行くから、ゆっくり見せてくれ」
「はい。ありがとうございました、シュニン」
 佐和と、目をこすりながら起きてきた雪羽に、ゼファーは報告した。
「男だそうだ」
「わあ、男の子!」
「でも、ヴァルさん、だいじょうぶかしら」
 佐和が懸念を宿した声で言った。「赤ちゃんを育てるのは大変よ。夜は寝られないし、朝は早いし。ヴァルさん、ますます疲れてしまわないかしら」
「だいじょうぶだろう。男というのは、いったん調子に乗れば、空でも飛べるものだ」
「あなたも?」
「父上も?」
 妻と子から同時に発せられた問いに、ゼファーは笑った。
「そうだな。佐和と雪羽のためなら、飛べるだろうな」
「飛んで!」
 ふたりを両腕に抱き寄せると、魔王は窓から、青く透きとおっていく暁の空を仰いだ。
「それは、今日の風しだいだ」




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