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いちごいちえ




 ぐうっと拳をつくり、何度もゆるめては固める。
「よしっ」
 ユーラスは、小さくつぶやいて歩き始めた。
 力が戻った。とうとう、あの頃の自分に戻れたのだ。
 ユーラスが王から東の勇者に任ぜられ、人々の歓声に送られて仲間とともに旅立ったのは、十五歳のとき。
 若く、力に満ち、輝いていた。長い苦難に満ちた旅の後、ついにアラメキアに仇なす邪悪な魔王を封印し、数十年の歳月が流れた。
 ふたたび魔王を追いかけて地球に来ると決意したときは九十歳だった。
 時間神セシャトに自分の年齢を代償として差し出したために、非力な九歳の少年になってしまってから早や六年。今年の春からは、地元の公立高校に通い始めるまでに成長した。
 この日のために、剣の修行も肉体の鍛錬も欠かしたことはなかった。
 すべては、もう一度魔王ゼファーを倒すため。
「ユーリお兄ちゃん!」
 アパートの前の道で、ひとりでなわとびの練習をしていた少女が、爪先立って伸び上がるようにして手を振った。
 色素が薄く、透き通るような肌に薄紅色の唇。小学五年生になったばかりの少女は、先月会ったときよりもほんの少し大人びた顔を、火照らせて赤く染めている。
 憎き仇、魔王の娘、雪羽。
「日曜なのに、学校があったの?」
「……剣道の部活だ」
「それ、高校の新しい制服?」
「……ああ」
 白金の鎧にはおよそ程遠い、真新しい黒の詰襟。水晶の剣とあまりにかけ離れた竹製の刀。それが今の、勇者の装備のすべてだ。
 今にも途切れそうな会話をぽつぽつ交わしながら、ユーラスは内に満ちていた闘志が、水をかけられたように急速にしぼんでいくのを感じた。
 魔王を必ず倒すと誓ったはずなのに、今の自分は絶対にその誓いを果たせないこともわかっている。
 それどころか、魔王の十歳の娘に心乱され、彼女が目の前にいると脳が空回りしてしまうありさま。話すことばさえしどろもどろだ。
 向こうの角を曲がって、雪羽の両親が帰ってきた。魔王の両手には、近所のスーパーのビニール袋がいくつもぶら下げられている。
「あら、ユーリさん」
 佐和が親しげに笑いかけた。「久しぶり。ちょうどよかったわ。苺の特売があったの、今からいっしょに食べない」
「いや、余は……」
 断ろうとしたとき、ゼファーが漆黒の瞳で彼をじっと睨みつけているのに気づいた。
『七年、待ってやる』
 そう言われたことを、不意に思い出す。あれは、魔王と地球で再会を果たしたばかりのときだった。

『七年すれば昔の強さを取り戻し、俺を倒してアラメキアに凱旋できるだろう。それまで、この世界にとどまれ。おまえが大きくなるのを、待っていてやる』

 約束の年まで、あと一年。
 背筋が毛羽立つ。余はいったい何をしているのだ。やつは余のありさまを見透かしている。恋愛にうつつを抜かしている場合ではないだろうと、さげすんでいる。
「おにいちゃん、よかったら食べていって」
 雪羽がおずおずとした目で見上げた。「いちごスプーンでつぶして、練乳をかけて食べると、すごく美味しいよ。雪羽がおにいちゃんの分も作ってあげるから」
 お願いします。
 思わず頭を下げそうになり、ぶんぶん首を振ってうろたえる挙動不審な勇者に、ゼファーは、はあっとため息をつき、スーパーの袋を差し出した。
「馳走してやるから、半分持て」
「え?」
「二度は言わん」
 袋を無理やり押しつけて、アパートの外階段をとんとん上がっていく魔王を、ユーラスはあわてて追いかけた。
 いったい何をしている。勇者たる余が、魔王一家と明るい家族ぐるみの交際をしているとは。
 ありえぬ。絶対にありえぬ。
 心は拒否しているのに、ユーラスの舌は、すでに苺ミルクの甘酸っぱく、とろけそうな味を待ち焦がれていた。


 週明けの朝の工場は、喧騒に満ちている。
 総務は溜まっている書類の処理に追われ、経理は朝一番の振込のために銀行に走る。現場は、機械の稼働開始時の入念なチェック、一週間の作業計画の伝達にあわただしい。その上、加工ミスによる急ぎの割り込みなどが入ると、ますます業務はたてこんでくる。
 景気が上向いたせいか、このところ注文が増え、納期は遅れ気味だ。ここで気をひきしめてスタートダッシュをかけないと、ますます一週間のスケジュールが狂ってしまう。
「工場長」
 そんな修羅場のまっただ中、汗だくのゼファーのもとへ、ひとりの新入社員がつかつかと近づいてきたのだ。
「工場長。今日で辞めさせてください」
 なんで、よりによって今それを言うんだと、思わず力が抜けそうになるのを堪えた。
「澤崎。きみは、3月の頭に入社したんだな」
「そうです」
「まだ一ヶ月少しししかならない。なぜそんなにも早く見切りをつけてしまうんだ?」
 澤崎という名の青年は、ゼファーの叱責のまなざしから顔をそむけた。
「退屈だから」
「退屈? 仕事が?」
 想像もしていなかった理由だった。
「うちはどの部署も忙しい。退屈ということは決してありえないと思うが」
「でも、重本さんが僕に仕事をやらしてくれない」
「重本が?」
「僕、嫌われてるらしいんですよ。のろまとか、気がきかないとか、文句ばかり言われて。そのくせ、何をすればいいのか、全然教えてくれないし」
 彼は吐き捨てるように言った。「ほんと、勘弁してください。あの人の下で働くくらいなら、辞めます」
 重本哲平は資材班の主任だ。入社した新人たちは、それぞれの希望や適性に応じて各部署に配属され、澤崎は重本の下で資材係として働き始めたばかりなのだ。
「おい、高瀬」
 ゼファーは、そばにいた若手の従業員を呼び、とりあえず彼の身柄を預けてから、重本のいる搬入口に向かった。
「あ、工場長」
「今、ちょっといいか」
 外注部品のケースが次々と運び込まれてくるのを妨げぬよう、ゼファーは重本とふたりで隅の壁際に立った。
「澤崎がやめたいと言ってきた」
「ああ、あいつはダメっすよ」
 重本は、脱色した髪をぼりぼり掻いた。「何にも自分の頭で考えちゃいないんだから。次にやることわかりませんって、幼稚園じゃあるまいし、忙しいのに手を止めて教えてられるのかっての。ちゃんと俺の背中見て、覚えろってんだ」
「しかし、最初のうちは手取り足取り教えてやらないと無理なのではないか」
「俺だって、先輩は何にも教えてくれなかったぜ。それでも、なんとかやってきたんだ。仕事なんて、いちいち教わるもんじゃねえ。盗むもんだ」
 ゼファーは、さらに事情をくわしく聞き出してみた。
 重本は見かけは恐くぶっきらぼうだが、根はやさしく男気がある。澤崎が誠意を見せて頼みこめば、拒否するようなことはしないのだ。
 ところが澤崎は、教えてくださいと素直に頭を下げる気配がない。重本としては、かわいくない後輩だということになり、つい依怙地になる。元暴走族は、妙なところで上下関係に厳しいのだ。
 それに対して澤崎のほうは、重本が手取り足取り教えてくれるものだと期待して待っていたのに、そうしてくれないのは、自分が嫌われているからだと思い込んでしまったのだろう。
「弱ったな」
 頭を悩ませながらも、とにかく工場内に戻る。今は週明け業務が優先だ。


 午前中の作業をどうにか無事に終え、もうすぐ昼休みのサイレンが鳴るというとき、「工場長」と高瀬雄輝が走り寄ってきた。
「澤崎の様子はどうだ」
「今のところは、俺の仕事を手伝わせてますけど」
 高校を卒業してすぐ、新人として入ってきた雄輝も、もう一人前だ。
 生産企画班に所属する彼は、手順書を作って各班に徹底させるのが主な仕事だった。手順書とは、製品が完成するまでの全工程について細かく指示した書類のことで、坂井エレクトロニクスのように、さまざまな部品や製品を作っている工場では、その数だけ詳細な手順書が必要となる。
 工場全体の生産を左右する、重要な仕事だ。
「頭は悪くないんだけど、注意力が散漫っつうか、いつのまにか、何か考え込んでぼんやり手が止まってることがあって」
「そういう性格も、重本には気に入らないのだろうな」
「けど、手順書のコピーを取らせてたら、一枚手に取って、『今の仕事に、こんなのが欲しかったんだ』なんてつぶやいたんです。やり方がわからないだけで、決してやる気がないわけじゃないと思う」
「手順書、か」
 ゼファーはひとりになった後も、中庭のカシの木に向き合って、じっと考え込んだ。この木は、会社のシンボルとも言える古い大木だ。一度枯れかけていたのが生き返り、今はたくさんの若葉をつけている。
 まるで、倒産寸前で持ち直した坂井エレクトロニクスを象徴するようだ。
「瀬峰くん」
 声をかけてきたのは、社長の坂井亮司だった。
「辞めたいという者を、そこまでして引き留めることはないのではないか」
 ゼファーは向きなおり、じっと亮司の顔を見つめた。「澤崎のことですか」
「働きたいと応募してくる者はいくらでもいる。やる気のない社員にそこまでの手間をかける必要はあるのかね」
「いったん採用した者に対して、会社は責任があります」
「社員は家族か……古い考え方だね」
 社長は、ふふっと笑った。「まあ、工場長さまの気のすむようにやりたまえ」
 去っていく背中を見つめながら、もどかしい思いをかかえる。亮司が社長に就任してもう一年になるというのに、ゼファーはまだ彼とうまく付き合えていない。
 会社の発展よりも部下のことを真っ先に考えるゼファーに対して、新社長は、企業を大きくすることが引いては社員のためになると考えている。根本的に考え方が違うのだ。
「人間関係というのは、むずかしいものだ」
 なぜ、他者とかかわることが、これほど入り組んだ問題になってしまうのか。ゼファーは深いため息をついた。

 昼休みが終わろうとする頃、外の自動販売機コーナーで、しゃがんでタバコをふかしている重本を見つけた。
「重本。澤崎のことだが」
 重本は、ぎろりと横目でにらんだ。「俺、あいつに仕事を教える気はねえからな」
「わかった。では澤崎ではなく、俺に教えてくれないか」
「え?」
 重本は口からぽろりとタバコを落とし、立ち上がった。「工場長に? なんで」
「おまえが毎日どんな業務をしているか、知りたい。時間ごとに順を追って書き出してくれ。そうすれば俺が代わりにやつに教える」
「お、おれ、漢字書くの苦手で……」
 重本は、床に落としたタバコをぐいぐいと踏みつけている。
「ならば、口で説明してくれればいい。ますは、9時の始業時だ。最初は何をする?」
「えっと。つまり、在庫表見て、チェック……あ、違う、そ、その前に、今日の指示書、あれば、あるとき、あったら……」
 しどろもどろに説明を始めた重本は、エンストを起こしたバイクのように「う、う、う」とうなって、頭をかかえこんだ。
「できねえっ。自分が毎日何をしてるかなんて、自分でもわかんねえよ!」


「つまり、重本はいつも身体が覚えこんだとおりに動いているので、仕事の手順を説明したくてもできなかった……というわけだ」
「野生のヒョウみたいなやつだからな。本能の赴くまま行動しているんだろうな」
 ゼファーは搬出口のシャッターに背を預け、佐々木と缶コーヒーを飲んだ。
 佐々木は、前の工場長だ。今は坂井会長はじめ、定年を過ぎた工員たちとともに開発チームを作り、新しい【家庭用ミニ乱切り機】の製品化を模索している。
 暇なときは、ときどきゼファーの相談にも乗る。不思議なことに、工場長時代にはなかった広い視野で、アドバイスをくれることがある。日常業務にとらわれない自由な立場がそうさせているのだろう。
 目下の相談ごとは、重本と澤崎の人間関係のトラブルだ。
「重本はすごいぞ。飛び込みの仕事が入ったときなど、資材が足りなくなりそうだというタイミングで飛んで来て、たちまち補充してくれる。本当にうちにとってはなくてならない逸材だ」
「それは、よくわかっているんだが」
 ゼファーはたまった疲れをほぐすように、眉間をもんだ。「長年つちかった経験と勘と言えばそれまでだが、やはりそれだけでは、後進の育成には役立たん」
「工場が小さかったときは、それで十分だったんだ」
 と佐々木はなつかしむように、言う。「今は人員も増えたし、業務も複雑化している。大企業を見習って、本格的な生産システムを採りいれる時機かもしれんな」
「ますます、俺の手にはあまるな」
 つぶやくゼファーを、佐々木は肘で小突いた。
「零細工場だったこの会社を、まがりなりにも中堅にまで押し上げたのは、おまえの力だ。ここで弱音を吐いてどうする」
「弱音を吐けるのは、相手があんただからだよ」
「そいつは、うれしいことを言ってくれる」
 佐々木は、実の息子に対するように目を細めた。
 空き缶をゴミ箱に放り込み、工場内に戻ろうとするゼファーを、「そう言えば」と呼び止めた。
「その澤崎というやつ、俺たちが使ってる倉庫の前でときどき見かける」
「ほんとか」
「ああ、座り込んでスケッチブックを開いて、何やらせっせと描いてるんだ。一度ちらっと覗いたら――マンガみたいなものが見えたぜ」


 資材置き場の巻きコイルの上に座り、澤崎は手元を隠すように屈みこみながら、無心に手を動かしていた。
 機械をフリーハンドで描くのは、むずかしい。細部を描きこんでいると、いつのまにか全然違う形になっていく。
 こうして苦手分野を練習できるのだから、機械工場に就職してよかったと思わなければならない。でも、本音を言えば、やはり朝から晩までマンガを描いていたい。
 やはり、いさぎよく辞めたほうがいいのかもしれない。
 いつのまにか、スケッチブックの上に人影が落ちているのに気づいた。
「うまいものだな」
「こ、工場長!」
「絵のことなど、さっぱりわからないが、これは汎用フライス盤だと、すぐわかる」
 工場長はスケッチブックを取り上げ、ページをめくった。「この男は、横田か。身体の線とか、特徴をよくとらえているな」
「は、はい。すみません」
「褒めているのに、なぜ謝る」
「勤務時間中なのに、サボって描いていたから」
 瀬峰工場長は、彼の隣に腰をおろした。
「絵を描くのが、そんなに好きなのか」
 答えを迫られ、しぶしぶうなずく。「子どものころから、プロのマンガ家になりたいと思ってます」
 澤崎は確か、専門学校のマンガ・アニメ科卒だ。
「うちに就職したのは、本意ではなかったか」
「いえ、やっぱ、マンガだけじゃ食っていけないから」
 答えながら澤崎は、クビになるなと半分覚悟して、うなだれた。
「俺は、それを描いているときのおまえを、そばでずっと見ていた。機械を見ているときの目つきは、鋭かったぞ。じっと一点を捉えて離さぬ集中力は、最上級の弓兵に通じるものがあった」
「は?」
「俺はいつも、入隊してきたばかりの新兵は一番剣のうまいヤツのそばに置く。最初の三日はひたすら足さばきだけを見ていろと命じる。次の三日は、目の動きを見ていろと命じる。剣を握らせるのは、その後だ」
「あの……」
 澤崎はとまどって、いきなりファンタジーの世界に入ってしまった工場長の横顔をそっと盗み見た。
「マンガを描いてくれないか、澤崎」
 瀬峰工場長のことばは、予想をはるかに超えていた。
「おまえをすべての作業からはずす。勤務時間を使って思い切りマンガを描け――ただし、重本を主人公にすることが条件だ」


 〆切の日と指定されていた一週間後、澤崎は数十枚のケント紙の束を机の上にうやうやしく置いた。
「見てよいか」
「お願いします」
 ゼファーのそばには、当人の重本をはじめ、ほとんどの従業員が集まってきていた。
【ある資材係の一日】
 あまりひねりのないタイトルと坂井エレクトロニクスの工場の全景を緻密に描いた表紙をはらりとめくると、回りから「おお」というどよめきが起きた。
 ムースでつんつんに立てた金髪。唇の片方をゆがめるような、少し悪ぶった笑い方。主人公として登場したのは、まさしく重本哲平だ。
 ゼファーが読み終えたページが、次々と工員たちに回覧される。
 導入は、バイクから飛び降り、遅刻寸前で工場に飛び込み、タイムカードの前で膝を押さえてあえいでいる場面から始まった。
「あはは、似てるーっ」
 タバコをふかしながら、脱力して空を見上げている重本。眠そうな顔で在庫表をめくっている重本。
「そっくりー。こんな顔してるー」
「うるせえ」
 大好きな水橋ひとみに笑われて、重本は顔を真っ赤にして不貞腐れている。
「これは?」
 ゼファーの指が、あるページを差した。
 あくびをしていた重本が、次のコマでは急に表情をひきしめ、会社の電話に飛びついた。遠景に壁掛け時計が描きこんである。9時30分。
「ほぼ毎日この時間、重本さんは電話をかけていました」
 澤崎が説明する。
「重本、いったい毎日どこへ電話してんだ」
 全員の矢のような視線が集まり、重本はしゃっくりのような音を出した。
「え、ええと、相手はN計器だよ。担当者のおっさんに朝イチで部品の納入を催促する電話をかけると、今は忙しいって怒られるんで、わざと三十分遅らせてかけるようにしてる」
 次のページは、納入のトラックが工場の敷地に入るはるか前に、音を聞きつけて搬入口に走っていく重本。
「ははは。野生のシカかよ」
 こっそり机の下に隠れて、スマホでゲームをしている重本。
「重本、おまえ、あとで始末書な」
「だーっ。なんなんだよ。俺のアラばっか描きやがって!」
 今にも澤崎につかみかからんとする重本を制して、ゼファーは静かに立ち上がった。
「澤崎」
「はい」
「おまえはマンガを描くために、一週間ずっと重本を見ていたな。何がわかった?」
 澤崎は、ぴんと背筋を伸ばして答えた。一週間前のけだるそうな話し方ではない。
「僕は、重本さんはすごいと思いました。遊んでいても、少しの物音も人の話し声も、全身を耳にして注意をはらってる。だから、トラックの音も遠くから聞こえるし、予定外の作業で部品が足りなくなったときも、すぐに補充に走れるんだなと」
「ふむ。それから」
「気ままにやっているように見えて、実はきちんと時間を区切って動いていました。取引先にはこまめに電話を入れている。親しい関係を築けば、多少の無理は聞いてもらえるから」
 大笑いしていた工員たちも、しんと静まり返る。澤崎の目に、涙がたまっていた。
「資材係の仕事は、たえず気働きの必要な、むずかしい仕事なのだとわかりました。僕は、それをやりとげている重本さんを尊敬します」
「重本、かっこいい!」
 水橋ひとみが朗らかな声を上げ、親指をぐっと上に立てた。


 結局、澤崎は辞めないことになった。
 マンガのネタにされて最初は怒っていた重本も、他の従業員たち――特に水橋――から褒められてすっかり図に乗り、澤崎から原稿を譲り受けて親族友人一同に配ると言いだした。
 生産企画班は、手順書の一部に澤崎のマンガを採用したいと依頼してきた。
「文章ばっかりだと読んでくれないヤツも多いんですよね」と高瀬雄輝がゼファーに説明する。「ところどころに機械や作業手順のイラストを入れるとひと目でわかるし」
 何よりも、夢を持ちながら働いている澤崎を応援したいのだと目を輝かせる。雄輝自身も、バンドという夢を今も捨てていないからだ。
 営業の春山が、興奮ぎみに飛んできた。
「マンガを描けるヤツがいるんなら、営業に貸してくれ!」
 営業回りのときに、ちょっとしたイラスト入りチラシを持っていくと、顧客へのアピール度が違うというのだ。
「ひっぱりだこだな」
 とからかうと、澤崎は照れくさそうに笑った。「でもやっぱり、僕、重本さんのもとで資材係をきわめたいです」
 ゼファーはカシの木のかたわらに立ち、一日の仕事を終えて、それぞれの家に帰っていく工員たちの後ろ姿を見送った。
 年齢も学歴も、性格も得意分野も、てんでばらばらな人間の集まり。それが会社という組織の中で出会い、結びつきが生まれ、新しい創造がなされる。
 社員こそが、うちの一番の財産なのだ。
 夕空に向かって、大樹の枝のように両腕を伸ばした。
「さあ、俺も帰るか」
 ゼファーの一番の財産、佐和と雪羽のもとへ。


 ヴァルデミールは、息子のハルを肩車して夜道を散歩していた。
 毎朝三時に起きて、忙しく働き、夜は早々に床につく生活。ハルとたくさん遊んでやれない分、たまには、こうやって罪滅ぼしをしてやりたい。
 それに春の夜が恋しいのは、黒猫のときからの性分かもしれなかった。
「とーと。まる、まる」
「ああ、でっかいお月さまだねえ」
 家並みの向こうからぽっかり昇ってきたのは、みごとに赤く熟れた満月だ。
「トマトみたいだニャ」
 明日のデラックス幕の内弁当には、ミニトマトを入れる予定だ。
「いちご、いちご」
「傷みやすいから、弁当にはイチゴは入れられニャいよ」
 のんびりした会話を楽しみながら歩く父子は、家に帰りつくまで、とうとう気づかないままだった――彼らの頭上の闇が、ぱっくりと裂けて大きな口を開け始めたのを。




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