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十年目のバレンタイン


§1(十年前) *再録* 

「佐和。おみやげだ」
 ゼファーは家に帰って来ると、紙袋をどさっとこたつの上に置いた。
 台所に立っていた佐和が、手を拭きながら袋の中をのぞくと、色とりどりの包装紙に包まれた箱がたくさん入っている。
「うわあ、これ全部チョコレートです。どうしたのですか?」
「工場のラインの見回りをしていると、朝からあちこちの女性工員が俺にこれを押しつけてきた。『ヴァレンタイン』というのか。今日はそんな名前の祭りらしいな」
 彼はコートを脱いで、こたつの前に胡坐をかくと、興味なさそうに紙袋を押しやった。
「おまえにやる。俺はこんなには食べられない」
「私も食べられないわ。一年分くらいありそうですね」
「工場長が、『義理チョコ』というのだと教えてくれた。つまりは職場の人間関係を円滑にするための、一種の祈願の貢ぎ物らしい。
確かに社長や工場長も少しはもらっていたようだが、俺のが一番多かった。俺との人間関係が良くないと感じている工員が多いのだろうな」
 そう言って渋面を作る彼の様子を見て、実は内心ちょっぴり穏やかでなかった佐和はもう少しで笑いそうになるのをこらえた。
 工場の女性たちにモテていることを、まったく自覚していない夫。私の口から本当のことを言わなくてもいいかしら?
「そうだ。私もゼファーさんにヴァレンタインのプレゼントがあるんです」
「佐和。おまえも、俺との関係を円滑にしたいと思っているのか?」
「まあ。これ以上円滑になりっこないわ」
 佐和が台所から運んできたものを見て、ゼファーの口元が少しほころんだ。
 皿の上には、ピンク色の塩鮭をまぶした大きなハート型のおにぎりが乗っていたからである。



§2(十年後)

「レイレイホー」
 今年も地球には、『人間関係改善祈願』の貢物の季節がやって来た。
 主任から工場長へと昇進し、坂井エレクトロニクスの従業員も百名近くに増えた今、ゼファーが作業台の足元に置いている紙袋は、黒い貢物であふれんばかりになっている。
 昼休みから戻ってきたとき、紙袋はなんと、ふたつに細胞分裂していた。見かねた工員の誰かが、紙袋を置いていったらしい。
 その中には、義理チョコとは呼べない高価なものも、ちらほら混じっている。ゼファーはしばし悩む。これを贈った女子社員との人間関係を、俺はどのように改善すればよいのだろう、と。
 そう言えば、水橋ひとみを今年はまだ見ていない。真っ赤な包装紙に包んだ大きな箱を、いつも「はい」と恥ずかしそうに渡してくれるのに。
「レイレイホー」
 歌いながら、また資材係主任の重本哲平が通り過ぎて行った。
 なぜか、彼は朝から機嫌がよい。雪山ならぬ機械工場のあちこちで、彼のヨーデルが響いている。
(なるほど、そういうことか)
 水橋は今年は、ゼファーのかわりに重本にチョコを渡したのだろう。それで彼は有頂天になっているのだ。
 重本がずっと水橋を思い続けていたことを、ゼファーは知っていた。良かったと安堵する一方で、さびしく思う気持ちも心の隅にある。
 ずっしりと重い紙袋を両手に下げて、帰途に着いた。
(どうしたものか)
 これでは一年かかっても、食べきれない。今年も、佐和と雪羽に手伝って食べてもらうしかないだろう。
 けれど、もらうと困ると思いながら、もらえないと寂しい、そんな理不尽で身勝手な男の気持ちまで、妻子に押しつけてしまうことは赦されるのだろうか。
「ただいま」
 着替えるとき、さりげなくタンスの中に紙袋を隠し、卓袱台の前に座った。
 例年なら、鮭をまぶしたハート型の特大おにぎりが出てくるはずなのに、今夜はごく普通のおにぎりだ。
(なんだ、忘れているのか)
 いったんは納得したが、急に心配になった。
(まさか佐和も、今年の貢物を他の男に移したのだろうか)
(俺は、もう貢物を送る価値もない夫だということか。給料を家に持って帰ってくるだけの粗大ゴミ夫)
 とんでもない疑念が、次から次へと湧き出てくる。
 ぼそぼそと夕食を食べているゼファーの前で、佐和と雪羽は肘でつつき合いながら、くすくす笑っている。
「もう、父上ったら、まだ気づかないの?」
「今日のお父さんは、ぼんやりさんなのよ」
 言われて初めて、部屋を見渡す。
 上を見上げると、天井から垂れるたくさんの糸の先に、色紙のハートがぶらさがっていた。
「なんだ、これは」
 手を伸ばすと、ひとつひとつに文字が書いてある。
『父上、世界で一番だいすき』
『ゼファーさん、私と結婚してくれてありがとう』
『コージョーチョー、あいしてます!』
『魔王よ、年なんだから無理するな』
 というありがたいメッセージから、お手伝い券、肩もみ券まで。
「今年はすごいでしょ。みんなに書いてもらって、苦労してふたりでぶらさげたんだよ」
「ああ、すごいな」
 愛情とは、目を上げればすぐそこにあるのに、目が曇っていると見えないものだ。
「ありがとう、佐和。雪羽。最高のプレゼントだ」
 ふたりは、うれしそうに「うふふ」と笑った。
「券もいろいろあるから、試しに何か使ってみて」
 しばし熟慮した後、ゼファーはひとつのハートをちぎると、妻に渡した。
「今夜、ぜひとも」
 お風呂券だった。
 



§3(バレンタインデーの一日前)

 雪羽が生まれたのは、十年前の二月の雪の日だ。
 だから、雪羽は十歳。小学四年生。そろそろ恋に恋するお年頃だ。
 しかし、彼女の恋は、今ちょっと複雑な事情をかかえている。なぜなら、相手にはれっきとした妻がいるのだ。
 ただし、それは、彼が異世界から地球に転生してくる前、九十歳の老人だったころの話なのだけれども。
 アラメキアの東の勇者、ナブラ王ユーラスは十五歳、中学三年生。四月には高校生になる。雪羽の年齢の子どもにとって、五歳の距離は、とてつもなく遠い。
『どうせ、あなたは奥さんのいる家に帰って行く人だもの。わたしが、毎日どれほど寂しい夜を迎えるかなんて、あなたにはわからない!』
「あらあら」
 買い物から帰ってきた佐和が、あわててテレビのリモコンを取り上げた。
「このドラマは、あなたには少し早いみたいね」
 テレビを買ったのは、失敗だったかな。
 友だちの少ない娘を案じて、せめて話題作りになればよいと思って購入したのだけれど、こういう番組はできれば話題にしてほしくないものだ。
 母娘がいっしょに台所で夕飯のしたくをしていると、チャイムが鳴った。
「ごめんください」
 その声を聞いただけで、雪羽の心臓がジャンプ台から滑り降りてきて、トクンと跳ねた。中学の制服を着たユーラスが、扉を開けてお辞儀する。
「どうぞ、入って」
「いえ、雪羽さんに頼まれたものを持ってきただけですから」
 若き勇者は三枚の色紙のハートを、佐和に差し出す。「アマギ博士とマヌエラの分もいっしょです」
「どうもありがとう。悠里さん」
 雪羽は急いで、奥の部屋のタンスの中に置いてあった紙袋を取りに行った。
「待って、ユーリお兄ちゃん!」
 あわててつっかけたサンダルは、右と左がさかさまだった。
 アパートの通路でよたよたと追いつき、紙袋を差し出す。「一日早いけど、これ。私が焼いたチョコクッキー」
 明日のバレンタインはたぶん、会えないから。お兄ちゃんは、大切な日をマナお姉ちゃんと過ごすのだから。
 ユーラスは、白いマフラーに隠した口元を、ひっそりとほころばせたようだった。
「礼を言う。雪羽」
 どうせ、あなたは奥さんのいる家に帰って行く人だもの。
 階段を降りていく彼を見送りながら、ドラマの台詞を少し芝居がかった調子で口の中でつぶやくと、さっきの女優さんみたいに、目にじわりと涙がにじみでた。



§4(バレンタインデーの一日後)

「こんにちは!」
 息子のハルを背中に負ぶい、腕には大きなクーラーボックスをかかえたヴァルデミールが訪ねてきた。さすが父親になると、男はたくましくなるものだ。
「奥方さま。冷凍のおそうざいを持ってきました。売れ残りで悪いのですが」
「ありがとう、ヴァルさん。すごく助かる」
「きのうのバレンタインのお祝いは、いかがでしたか」
「ええ、ゼファーさん、とても喜んでいたわ」
 佐和はゆうべの一部始終を思い出して、ほんのり頬を赤く染めた。
「それより、ヴァルさんは?」
「う、うちニャんか、ハルがいるから、全然マロンチックじゃありませんよ」
 ヴァルデミールは、両手をぱたぱたと振った。「チョコは、ハルがほしがって大変だからって、うちでは禁止ニャんです」
「ちょこー、ちょこーっ」
「おまえは、これニャ」
 父はポケットに入れていた煮干しを、ぽんと息子の口に入れた。
「リコさんからハルへのプレゼントは、この煮干しを大袋いっぱい。わたしは大きな新巻き鮭を一本もらいました」
「とーと、もっとー」
「はいはい」
 また煮干しを、ぽんと口に入れる。
「健康的でいいおやつね」
「はい。リコさんもハルの手前、あんニャに大好きだったお菓子を我慢していたら、心ニャしか痩せてきたみたいで。ますます美人にニャって、困ってしまいます」
 てれてれと幸せそうに笑っているヴァルデミールを見つめながら、佐和もうれしくなった。十年前は公園で寝ていたホームレスの青年が、結婚して、りっぱな一児の父になったのだ。
 そして理子も、会社の経営を一身に背負ってストレスで太ってしまい、どんなに努力しても痩せられなかったのに、今は子どものために苦もなく痩せているという。
 人生とは、ときどき思いもかけない奇跡を用意してくれるものだ。
「よかったわね。お互いに、いいバレンタインで」
「はい!」
 佐和がいれたミルクティーを飲みながら、しみじみと昔話をしていると、
「あれ?」
 いつのまにか、ハルのすがたが見えない。「すみません、見てきます」
 奥の畳の部屋をのぞいたヴァルデミールは、「ひゃああっ」と声にならない悲鳴を挙げた。
 ハルがタンスの中に入っていた紙袋をびりびりに破り、中に入っていた箱の包装も引き裂き、わしづかみでチョコレートをむしゃむしゃ食べていたのだ。
「ハ、ハ、ハルゥ、ニャんてことを」
 あわてて駆け寄り、とっさにつかんだ布で、ハルのべっとりとチョコだらけになった手を拭きとる。
 そして、汚れた布を見て、気を失いそうになった。それは、ゼファーが二本しか持っていないネクタイのうちの一本だったのだ。


「おや?」
 その夜、帰宅した魔王は、着替えのためにタンスを開けて、首をかしげた。チョコの紙袋がひとつなくなっている。そして、代わりに置いてあったのは、新品の高級ブランドのネクタイだった。




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 2014年バレンタイン企画の小噺です。ひとつめは、2004年の掌編集「ヴァレンタインの景色」の再録です。
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