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星夜ほしよのブランコ








 天城博士は、朝から思索に忙しいのだった。
「アマギ。『給食袋』とはいったい何だ。教えろ。余にはさっぱりわからぬ」
「……」
「早く教えぬと遅刻するではないか。遅刻すると校門を閉められ、職員室という名の拷問部屋へだな……」
「ああっ。うるさい!」
 ついに癇癪を起こす。
「せっかく浮かんだサーストンの幾何化予想に関する、まったく新しい数式を忘れてしまったではないか!」
「うるさいだと?」
 叫んでいた少年は、濃い藍色の目に憤怒を乗せて、じろりとにらんだ。
「余に向かって、うるさいだと」
「お、お赦しを、陛下」
 その威圧感に一瞬たじろいだ天城だったが、「いや」と思い直した。
「悠里、おまえこそ祖父に向かって、その口の利き方は何じゃ」
 勝ち誇ったように、両腕を組む。
 今度はユーラスが、ぐっと言葉を飲んだ。
 アラメキアでは、ナブラ王とおかかえ賢者という主従関係。だが精霊の女王の計らいで、地球では立場が逆転し、このふたりは孫と祖父ということになっている。
 周囲の人々の前では、それらしく演技する、という取り決めを交わしたばかりなのだ。
「それでは、遅れぬように行ってこい」
「い――行ってきます。おじいちゃん」
 しぶしぶ門を出て行ったユーラスを見送りながら、天城はため息をついた。
 まったく、面倒くさい。人と付き合うということは。
 それに比べて。
 コンクリートの建物に戻った天城は、満足そうに部屋を見渡す。
 八年ぶりに戻ってきた自分の研究室は、機械やフラスコが壊れたまま放置され、床や机のあちこちに積み上げた書物が、いまだに真っ白な埃に覆われているものの、心からくつろぐことができた。
 こここそが、わたしの城。高邁なる叡智の殿堂。とうとう、戻ってきたのだ。
 天城博士はお気に入りの安楽椅子に深々と腰を下ろし、あの頃ワープホールの座標計算を書き散らかしていた黒板や壁を、なつかしげにゆっくりと眺めた。
 物理学会を大ゲンカの末に脱退し、この部屋に閉じこもっていた彼を、ゼファーと名乗る漆黒の髪をした男が、黒服の男たちの一団とともに訪ねてきて、こう言ったのだ。
『地球からアラメキアへの穴を開けろ。金は好きなだけ出す。エネルギーもいくらでも調達してやろう』
 相手の正体が誰か、などということは関心がなかった。
 あれは、なんという至福の時間だったろう。資材も人力もふんだんに使って、自分の望むままに研究の進められる日々。
 ついに実験は成功したが、アクシデントゆえに天城自身がワープホールを通って、異世界へと飛ばされてしまうという結果に終わった。しかし、理論の真実を自らの目で確かめることができたことは、むしろ彼にとって満足だった。
 アラメキアでは、実に長い歳月を過ごした。
 幸いにして、かの地ではまったく歳を取らぬという恩恵と、『大賢者』という何不自由ない身分を得ることができた。が、地球に戻りたいという願いは、次第に募るばかりだった。
 地球に戻って、あの高慢ちきな学会の奴らの鼻を明かしてやりたい。わたしの理論を、『お子様向けのファンタジー』と呼んだ、あのバカどもの吠え面を見るまでは、死んでたまるかと。
「見ていろ。次の物理学会では、並行宇宙に関する完璧な論証を展開してやる」
 椅子の上でのけぞりながら哄笑していると、肌の浅黒い若者が床にしゃがみこんで、じーっと天城を見つめていた。
「ふーん。お爺さんて、鼻毛も白髪にニャるんだ」
「き、きさま、いつの間に入ってきた!」
 天城はあわてて鼻の穴を片手で隠した。
「あんたがブツブツひとりごとを言ってるときだよ。次の『ブスにガッカリ』では、アラメキアに関するニャんとかかんとか。『ブスにガッカリ』てニャんのことだ?」
「物理学会だ。おまえ、いったい何をしに来た」
「あんたに弁当を届けてこいとの、シュニンからのご配慮だ。ニャブラ王の方は毎晩ごはんを食べに来てるけど、あんたはどうせ研究ばかりで、ロクなものを食べてニャいだろうって」
「余計なお世話だ」
 そう言えば、魔王の従者は弁当工場に勤めていると言っていたな。
「さあ。できたてだから、熱あつだよ。早く食べニャよ」
 机の上に置かれた袋の中からは、ぷーんと美味そうな香りが漂ってくる。確かに腹が減っていたことに気づく。
 それにしても、ゼファーというのは奇妙な男だ。かつて自分の仇敵だったユーラスの世話をするばかりか、人間側に寝返った天城にまで食べ物まで届けてくれるとは。お節介なこと、はなはだしい。
 などと思いに耽っていると、ヴァルデミールが、今度は転移装置の前にしゃがみこんでいた。
「おい、何をしている」
「相変わらずすごいニャあ。これ、またあんたがひとりで作ったの?」
「自分で作らねば、誰が作る」
 答えはぶっきらぼうながらも、ほめられて内心悪い気はしない。
 昔から『狂信者』と呼ばれてきた天城には、協力してくれるような技術者などいなかった。
 特にアラメキアに飛ばされてからは、壊れた転移装置の修理のために、鉄板一枚ネジ一本も苦労して自ら手作りせねばならなかったのだ。
「あ、これ回転シャフトっていうんだよね。シュニンの工場の樋池さんが作ってたヤツ」
「触るな。少しでも角度がズレると、一億光年彼方に飛ばされてしまうぞ」
「ねえ、これでニンジンの乱切り機械ができニャいかなあ」
「バカもの! 唯一無比の転移装置に向かって、何がニンジンだ」
 ぐずぐずと研究室から出て行きたがらない従者を無理やり追い出すと、天城はまたため息をついた。
 やれやれ、これでやっとひとりになれる。知性レベルの低い人間と言葉を交わすのは、まったく苛立たしいことだ。
 安楽椅子に座り、ふたたび思索に耽ろうとしたが、どうもうまくいかない。
 それどころか、思いはどんどんと望まぬ方向に向かっていく。明快で美しい科学の世界ではなく、醜く不条理な過去の世界へ。
 天城はかつて、家庭を持ったことがあった。今から考えれば、まったく成り行きとしか言いようがない。
 四十歳近くになってひとりの男の子を設け、妻子を養うために、ある法人の研究所に勤めたりもした。
 ところが、並行宇宙理論に心囚われた彼は、次第に自分自身の研究にのめりこんでいったのだ。当然、研究所は首になり、妻とは諍いが絶えなくなった。ある朝、妻は息子を連れて、出て行ってしまった。
 それきりふたりには会っていない。風のたよりに、息子は病気で死んだと聞いた。葬式にも呼ばれなかった。
 まだ幼稚園のとき、息子は今のヴァルデミールと同じように、やたらと装置に触りたがった。
『パパ。これ、すごいね。くるくる回ってるよ』
 研究を邪魔されたと思った天城は、息子を突き飛ばして大きな声で怒鳴ったのだ。
『触るな。邪魔だ!』
 そこまで思い出して、天城は閉じていた目を開いた。こんこんと眉のあいだを叩き、のろのろと立ち上がると、呟いた。
「思い出したくないことまで思い出してしまう。まったく人間というのは、面倒くさい生き物だ」
 そして、ヴァルデミールの持ってきた弁当を思い出し、しばし生き物の原初の欲求に身を委ねることに決めた。


 気がつくと、夜のひんやりした空気が窓からしのびこんできた。
 今日も、これといったアイディアの浮かばない、むなしい一日だった。七年に一度しか行き来できない今の転移装置を改良し、いつでも異空間へのワープホールが開けられるような新しい理論を、天城は今頭の中で構築しているところなのだ。
 これが成功すれば、あのアホどもに、いつでも並行宇宙の存在を実証して見せられるのだが。
 気分転換のために、散歩に出かけることにする。散歩は彼にとって、数少ない娯楽だ。
 同居人の九歳の少年、ナブラ王ユーラスはまだ帰ってきていない。小学校からゼファーの家に直行したものと見える。よほど、あの家で出される飯と、ゼファーの娘が気に入ったのだろう。王族などと威張っている人種も、とどのつまりは欲望のかたまりなのだ。
 まあ、そのほうが助かる。あのキンキンとうるさい変声期前の声に、思索を邪魔されずにすむ。
 静かな夜道を、ぺたぺたと靴のかかとを踏みながら歩いた。夜風が、ぼうぼうに伸びた白髪を乱していく。
 ユーラスといっしょに暮らすようになって、天城は息子のことを思い出すことが増えた。
 あの子は、わたしのことが好きだっただろうか。いや、まさか。返事もせず、腹が立つと怒鳴りつけるばかりだった父親など好きになれるはずはない。
 妻と同様に、あの子もわたしを憎んでおったはずだ。
(一度だけ、夜の散歩についてきたことがあったな。どういう風の吹き回しか、公園に連れて行って、ブランコで遊ばせてやったのだ)
 息子はまだ、立ち漕ぎができるようになったばかりだった。父親がうしろから背中を押してやると、半分恐そうな笑い声をあげていたものだ。
 だが、そのブランコの鎖の往復運動と、回転する留め金の動きを見つめていたとき、突然の天啓のように、脳裡に新しい理論がひらめいたのだ。
 これこそが並行宇宙を支配する法則だったのか!
 天城は一目散に家に飛んで帰り、研究室に三日間閉じこもって計算に没頭した。
 息子のことなど、完全に忘れていた。
(――そうか。そう言えば、あのときだったな)
 天城は、歩きながら苦い笑みを浮かべた。
(四日目に部屋から出てくると、妻も息子も姿が見えなくなっていたのは)
 罪悪感などない。だって、そうだろう。宇宙の真理以上に大切なものなど、この世にあるはずがないではないか。
 それでも天城の心の片隅には、初夏の夜に白く浮かぶクチナシの花のように、くっきりとした痛みが残像となって消えないのだった。


 翌朝ユーラスが、天城の前におずおずと立った。
「あの、アマギ。担任教師が、今日の放課後に保護者を呼んでこいと余に命じたのだが……」
「担任が?」
「余の保護者というのは、そなたのことになる……のだろうな」
 天城は、迷惑そうに太い眉をひそめた。どうせ、学校の備品でも壊したのだろう。
 日ごろ遠慮というものを知らぬユーラスが、珍しく殊勝な物言いをしているのには興味を覚えるが、それにしても面倒くさい。自分の実の息子の授業参観にさえ、行ったこともないのに。
 その日の午後、天城は気乗りしないまま小学校に向かった。
 小さな会議室に通され、お茶もなしにしばらく待たされたあと、黒い眼鏡をかけた三十歳前後の教師が入ってきた。
「天城彰三さん、悠里くんのお祖父さんでいらっしゃいますね」
「いかにも」
「悠里くんはご両親のお仕事の都合で外国育ちと聞いていますが、いったいどこの国へいらしていたのですか」
「さあ、あちこちを転々としていたようですな」
「現地で日本人学校や補習校に通わせるか、最悪の場合、文部省の通信教育を受けさせることはできなかったのでしょうか」
 ふん。アラメキアに、そんなものがあってたまるか。
「わたしには、わかりませんな」
「単刀直入に申し上げると、悠里くんの学力はまったく小学四年のレベルに達しておりません」
 いかにも尊大な態度で、教師は眼鏡のズレを直した。
「漢字はおろか、平仮名カタカナも書けない、日本の県名どころか、自分の住んでいる東京という名前も知らない。掛け算や割り算の記号の意味もわからない」
 何をほざく。アラメキアには地球とはまったく体系の違う高等数学があったぞ。すぐれた動植物学も文学も地誌学も。おまえがバカにしている相手は、そのいずれにも通じておったのだ。
「言葉づかいは小学生らしくないし、基本的な生活習慣も身に着いていないし、まったく手を焼かせられます」
 教師は、いかにも悲痛げなため息を吐き出した。自分の苦労を見てくれと言わんばかりの。
「帰国子女は何人か見てきましたが、これほどひどいケースは初めてです。これでは、悠里くんは将来まともな日本人には育ちませんよ」
 教師のその言葉を聞いたとたん、腹の底に大きな岩をずしんと落とされたような気がした。その振動で、視界がぐらぐらと揺れている。
「先生」
「はい」
「あなたはまともな日本人を育てておるつもりで、人間を育て損なっておるのですな」
「何ですって?」
「期待するほうが無理というものか。少なくとも、相手に自分よりずっと豊かな才能があることを気づかぬ者には、人を育てる資格などない」
 天城はすっくと立ち上がり、あっけにとられている教師を残して、扉を開け放った。
 外の廊下には、ユーラスがぽつりと立っていた。
 そのうなだれた顔は、彼の高貴な人生でかつて経験したことがないような屈辱に紅く染まっていた。
 それを見たとき、天城のはらわたに、ひたひたと熱い泉がせりあがってきた。
「帰ろう。悠里」
「……」
 彼は少年の手を取ると、ずんずんと歩き出した。
「卑下する必要はない。胸を張っておれ。この世界は、他人に理解されることより理解されないことのほうが多いのだ。わたしだって、今までどれほど悔しい思いを――」
 天城は胸がいっぱいになって、ことばを詰まらせ、道の真ん中で足をとめた。
「アマギ」
 ユーラスは、老いた物理学者をじっと見上げた。その蒼い瞳は落ち着きを取り戻し、民を見守る王のまなざしになっていた。
 それを見た天城は、自分が馴れ馴れしく手をつないでいる相手は一国の王であることを思い出し、あわてて手を離した。
「も、申し訳ありません、陛下」
 少年は、首を振った。
「よいのだ」
 そして、今度は彼のほうから手をつないできた。


 翌朝、あの魔王の従者がまた弁当を配達に来たとき、天城は一万円札を数枚差し出した。
「これで、わたしと悠里の分の弁当を、毎日届けてくれ」
「え?」
「当分は、魔王の家に行かせぬぞ。夜はわたしが、あの子の勉強を見てやることにしたからな。魔王には、そう伝えておいてくれ」
「それはいいけど」
 ヴァルデミールは、こわごわ高額の紙幣を受け取った。
「すごいお金を持ってるんだ。あんたって、てっきり貧乏ニャんだと思ってた」
「失礼な。わたしとて、特許のふたつやみっつぐらいは持っておる」
「ふうん。トッキョってもうかるんだニャ」
 こうして一般庶民から尊敬のまなこで見られるというのも、悪くない。あの物理学会の連中のことなど、もうどうでもよくなるくらいに。
「ふははは。『ブスにガッカリ』か」
「え?」
「なんでもない」
 天城はすっかり気分を良くして、作りかけの転移装置をぽんぽんと叩いて見せた。
「ニンジンの乱切りはだな。回転シャフトに上下移動と水平移動を組み合わせるのだ。対象を計測するセンサーも必要だぞ」


 天城はその夜も、散歩に出かけた。
 ユーラスは、彼のあとにぴったりついて歩きながら、アラメキアの法律の巻物を朗読するのと同じ厳かな調子で、九九の表を暗唱している。
 公園に来た。驚いたことに、三十年前とまったく同じ場所に、ブランコがあった。
「あれに乗ってみないか」
「あの鎖つきの台に? あれは、祈りの香炉か何かか」
 天城はユーラスをブランコの上に立たせると、後ろから押してやった。
「ふむ。なかなか愉快なものだな」
「そうか」
 少年はすぐにコツを覚え、自分の足でぐいぐいと漕いでいく。子どもらしい、高く楽しげな笑い声が公園に響いた。
「星がつかめそうだ」
 かつて、並行宇宙理論の基となったブランコ。そしてそれと引き換えに天城から息子を奪っていったブランコ。
 だが、こうしてユーラスの小さな背中を見ていると、その単調な往復が繰り返されるたびに時が戻り、おのれが失ってしまったものまで取り戻せるような気がしてきた。
「まったく、面倒くさいことだ」
 天城は笑みさえ浮かべながら、いつもの口癖でつぶやいてみるのだった。









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