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       黒猫の末裔


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(4)

 1963年11月22日。わたしはダラス市内のとある煉瓦色のビルの非常階段をゆっくりと登っていた。
 テキサス教科書倉庫ビルの6階。天井の高い広い部屋にはダンボールがいくつも積み上げてあり、引き上げ窓のそばにはひとりの青年が立っている。
「やあ、猫ちゃん」
 彼は微笑むと、持っていたものを無造作に左手に持ち替え、近寄っていったわたしの首、ちょうど黒毛に白い絞首台の模様のあるあたりを右手でくすぐった。  わたしが「にゃあ」と鳴くと、彼は微笑みを消して、ふたたび手の中の物をしっかりと両手で握り直した。
 彼の持つもの。それはイタリア製6.8ミリのライフル銃であった。
 青年の名は、リー・ハーベイ・オズワルドと言った。


 これまでの百年余り、世界各地で転生を繰り返してきた黒猫の末裔であるわたしは、今ふたたびアメリカ合衆国に生を受けた。
 人間に強い憎しみを抱き、何世代もかけて人間を意のままに操るすべを手に入れたわたしの目標とは、人間の手により人間を葬り去ることだった。
 だが、しょせんひとりの人間が殺せる数は知れている。進まぬ復讐に、次第にわたしは焦燥に駆られた。
 もっと大量に人間を殺戮する方法を考えなければ。
 そして、それは戦争を起こさせることだと気づいたのだ。第一次、第二次世界大戦に続く、いやそれよりもっと壊滅的な戦争を。
 時おりしも、60年代初頭の米ソの冷戦がまっさかりの時代であった。わたしは首都ワシントンに出没し、ホワイトハウスやペンタゴン、CIAなどの高官たちを操った。
 人の殺意や邪まな心を数倍にも増幅するわたしの「感応」能力は、もちろん以前より格段に発達していた。だが、それがなかったとしても、ほんの少し後押しするだけで、政府高官たちは戦争の準備に喜んで突き進んだだろう。
 ふたつの大戦争を経たばかりなのに、そしていまや「核」というみずからを滅ぼしかねない恐ろしい破壊力を手に入れたというのに、人間というのは何と愚かな生き物だろう。
 ところが、わたしのこの計画に障害が生じた。
 ホワイトハウスの最高指導者の中に、戦争を回避しようとする者が現れたのだ。
 それが、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ大統領だった。


 その前年、キューバでソ連の援助によってミサイル基地が建設されていることが明らかになったとき、ケネディ大統領は、おおかたの者が主張した直接攻撃を避け、海上封鎖という手段を使ってソ連の物資搬入を阻んだ。後世「キューバ危機」と呼ばれた事件である。
 そのとき以来、アメリカのケネディとソ連のフルシチョフのあいだに平和共存への歩み寄りが生まれた。これはわたしにとって、まことに都合の悪いことであった。それは、CIAや軍需産業は言うに及ばず、南北に分かれて争っていたベトナムに軍事介入しようと目論んでいた「彼ら」にも腹立たしいことであったろう。
 ケネディはなんと、2ヶ月前のテレビのインタビューでこう発言したのだ。
「90マイルしか離れていないキューバに対する軍事行動をも正当化できない我々が、9000マイルも離れた東南アジアでの戦争を、いったいどのようにして正当化出来るのだろうか」と。
 ケネディは邪魔だ。
 それが私の結論だった。


 オズワルドはライフル銃に弾をこめながら、窓の外のパレードの様子をちらりと見た。
 彼は教科書倉庫会社に勤めながら、CIAとも密接なかかわりを持っていた。対共産圏スパイとして活動していたこともある男だが、実際にはお人よしの役立たずだった。
 やがて、大統領夫妻を乗せたオープンカーは、予定では通るはずだったメイン通りを反れ、ヒューストン通りの方に曲がってきた。もちろんわたしが働きかけて、計画を変更させたのだ。
 オズワルドは真正面から近づいてくる大統領車を見ると、子どもじみた仕草で窓の外に向けてライフルを構え、何発か撃つ真似をした。そしてダンボールの陰に銃を隠すと、そこからゆうゆうと階段を降りて行った。
 わたしは大きな声で「にゃあ」と鳴くと、その後を追った。
 彼が2階の食堂に入り、自動販売機でコーラを買っていると、警官が飛び込んできた。
「こいつは?」
「うちの職員です」
 いっしょにいた会社のマネージャーが答えたので、警官はさらに奥へ走っていった。もちろん彼も、わたしが呼び寄せたのだ。
 事務所にいた女性が「大変よっ。大統領が撃たれたんですって!」と叫んだが、オズワルドは「ふうん」と答えただけだった。
 階上に向かった警官は、やがて応援を呼び、ビルを捜索し、6階の窓際でオズワルドの置いたライフルを発見するだろう。だが彼は平然としていた。
 たとえ容疑者として捕まっても、調べが進めば、彼の身体からは銃を発砲した硝煙反応が出ないことも、とっくに通り過ぎたパレードをこの位置から狙うには木が邪魔して撃てないことも、大統領を殺した弾が後方からではなく前方から発射されたものであることも、ダラス市警察の調べが進めばわかるはずであった。もしそうならなくても、彼はCIAの圧力によってすぐに釈放されることが決まっていたのだ。
 それが当初から、CIAとオズワルドが交わした約束だった。彼は初動捜査を混乱させる役――、本物の狙撃者に現場の人間たちの目を向けさせないための役割を果たしていたに過ぎないのだから。
 その後、青年は街中に出て行き、劇場の中で逮捕された。そしてダラス警察署に連行され、二日間にわたって取調べを受けた。私はこっそり後をつけて一部始終を見ていた。すぐに釈放されるだろうとたかをくくっていたオズワルドは、自分にまったく身に覚えのない警官殺しという尾ひれまでついていることを知り、次第に青ざめた。彼は呆然としてつぶやいた、「僕は囮だったんだ」と。
 刑務所への護送途中に、彼が大勢のカメラマンの焚くフラッシュの中で、ひとりの暴漢に射殺されたとき、わたしは驚愕したりはしなかった。わたしの指示によるものではないが、予想はしていた。それほどまでに大統領暗殺を行った黒幕たちは、自己保身に熱心だったということだろう。
 ひとりでも多くの人間が滅びるのは喜ぶべきことだったが、わたしは、わたしの首筋をくすぐったときの彼のお人よしの笑顔を思い浮かべ、チクリと心が痛むのを感じた。
 だが、それもわずかな間だった。大混乱する殺人現場。数百人の報道関係者たちが殺到する地下駐車場において、わたしは逃げ遅れ、人間たちの足に蹴り殺されてしまったのだ。
 だが、この身体の死など些細なことに過ぎない。人類を滅亡させるという崇高な悲願のためには。
 ケネディ大統領の死以降、アメリカはベトナム戦争へとまっしぐらに突き進んでいったのだ。


 それからまた数十年が経った。
 わたしの目論見に反し、共産主義勢力は雪崩を起こして瓦解し、東西の冷戦は終結を迎えた。
 戦争の火種はユーゴや中東でくすぶってはいるが、あのキューバ危機のときのような核戦争への脅威は次第に潰えていく。
 わたしは絶望した。このままでは復讐は終わらず、わたしは永久に転生し続けなければならない。この失敗の原因は自分が猫であることだ。猫の短い寿命。移動することも思いのままにならぬ小さな身体。人間を操ることのできる能力にも限りがある。
 人間にならなければ。ついに、わたしはそう決意した。黒猫の末裔であるこの身体を捨て、憎むべき人間の身体を手に入れ、人間となって直接彼らに復讐するのだ。


 漆黒の長い髪。片方の眼を海賊風のアイパッチで隠し、レザージャケットをはだけた胸には絞首台の形をした刺青。大勢の女が恍惚としたまなざしを送ってくる。
 1998年。わたしは東京を人間の男として歩いていた。


   参考サイト: http://www.maedafamily.com/../index.htm 「JFK 栄光と悲劇」


(5)につづく




背景は、モノクロ写真のフリーランドからお借りしました。


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