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紙ヒコーキ、飛んだ








 南天音(みなみあまね)は、新任の幼稚園教諭だ。
 天性のドジで失敗ばかりしている。去年はどこの幼稚園にも採用してもらえず、一年間アルバイトで食いつないでいたところ、ようやく年末から産休の代理で、『イチイ幼稚園』で働けることになった。
 張り切って勤め始めたものの、その元気がことごとく空回りしてしまうのだ。
 今日も今日とて、教室の壁に子どもたちの絵を貼ろうとして、踏み台にしていた棚を踏み抜いた。修理しようとしたら、トンカチで指を打った。あわてて救急箱を取ろうとして、椅子の脚に引っかかり、倒れた拍子にしたたかに脛をぶつけた。
 初日から三ヶ月、上司に怒られなかった日は片手で数えるほどだ。
(しょげた顔をしてたら、子どもたちまで暗くなるもの。スマイルスマイル)
 お絵描きの教材を教室まで運ぶ途中、ふり仰ぐと、青空を斜めに切り取っている白い飛行機雲が見えた。うれしくなって、鼻歌を歌いながら上を見て歩いていたら、園庭の真中で足をもつれさせて、またころんでしまった。
 遊具で遊んでいた園児たちの、遠慮のない笑い声が聞こえる。
「あは、あはは」
 と照れ笑いしながら、両手をついて起き上がる。
(うわあ、やっちゃった)
 クレパスの箱の中身が、土の上に盛大にぶちまけられている。
「あまね先生、だいじょうぶ?」
 ひとりの少女の顔が、天地さかさまになった視界の端ににゅっと覗いた。
「あ、平気へいき」
 あわててぺたんと座ると、天音先生はにへらと笑った。「心配してくれて、ありがとう。雪羽ちゃん」
 女の子はしゃがみこむと、散らばったクレパスを黙々と拾い始めた。
「あ、手が汚れちゃうよ。先生がやる」
「いいの。ふたりでやったほうが早いから」
 頑なに拾い続ける少女の黒々とまっすぐな髪をちらちらと見つつ、天音もせっせと手を動かした。
 他の園児たちは、そんなふたりを関係ないとばかりに遠巻きに見ている。
(雪羽ちゃんて、とても思いやりのあるやさしい子なんだ。なのにお友だちと遊べないなんて――)
 大崎先生が以前言っていたことを思い出す。
「瀬峰雪羽ちゃんは、おそらく発達障害よ」
 ベテランの大先輩のことばには、重みがある。
「空想したことと現実の区別がつかないの。両親とも日本人なのに、めちゃくちゃな外国語をしゃべるときもあるし、ほかの子ともうまく人間関係を結べない。幻覚を見てるみたいな目をしてるときもある」
 さらに声をひそめる。「お母さんに、専門家に相談するように勧めたのだけれど、ぼんやりした人で、どうにも要領を得ないのよ。お父さんは娘には関心がないのか、ちっとも姿を見せないし」
 最後はおおげさな溜め息をつく。
「特に困るのは、アラメキアという架空の国のお話を事細かに話してみせること。園児の中にはすぐ影響されてしまう子もいて、その話が始まったときは、雪羽ちゃんだけうまく引き離すようにしてるんだけど」
 先輩の指導方針に間違いがあろうはずがない。けれど、それを聞いたとき、天音先生の心はちくりと痛んだのだ。
「はだいろ、しろ、くろ。……先生、はい」
 雪羽が差し出した箱には、ちゃんと配列どおりにクレパスが並んでいた。
「すごいね、雪羽ちゃん。ぴったり合ってる」
「色のじゅんばん、ちゃんとおぼえてるもん」
「そういえば」
 教師は、さっき教室に掲示したばかりの絵を思い出した。
「雪羽ちゃんの描いた花は、色とりどりで、とてもきれいだね。あれは、どこかのお花畑?」
「アラメキアだよ」
「アラメキア?」
 天音は思わず、用心深く身構えた。
「リューラというお花なの。精霊の国にいっぱい咲いてて、朝はむらさきいろ、昼はぴんく、夜はみずいろから青にかわっていくの」
「へええ」
「枯れるときは、きんいろになるの。花のねもとの、毛がたくさん生えているところにタネがみっつ入ってて、ふくらんで、ぱあんとはじけて、空がきらきら、きんいろに光るの。ちょっとしたら、土から芽が出て、またあたらしい花がさくの」
 雪羽は頬を桜色に染めて熱心に説明していたが、唐突に口をへの字に曲げた。
 いつもなら、このあたりで他の先生に話を止められてしまうことが、幼いながらにちゃんとわかっているのだ。
「神秘的なお花なんだね」
 天音は、心から驚いていた。これほど緻密な描写が、五歳の子どもの頭が作り出した、まったくの空想なのだろうか。
「アラメキアって、どこにあるの?」
「地球ではないとこ」
「雪羽ちゃんは、行ったことあるの?」
「……ない」
 少女は、おずおずと天音の顔を上目づかいに見た。「でも父上が、アラメキアから来たの。アラメキアの魔お……だったから」
「そうなんだ。お父さんの国のことだから、よく知ってるんだね」
 励ますようにうなずいた。「雪羽ちゃんは、そこに行きたくてたまらないんだね」
「あまね先生は……」
 彼女の瞳が次第に力強くきらめき始めた。「アラメキアのこと、信じてくれるの?」
「え」
 口には出さないけれど、雪羽の小さな全身が『信じてほしい』と叫んでいる。
 教師は、とまどった。
 信じるよ、と口先だけで言うのは簡単だ。でも、嘘はいつか、ことばの端々から明らかになり、敏感な子どもの心をしたたかに傷つける。見えないものを信じることは、大人だからこそ難しいのだ。
 天音は、この一年のつらい日々を思い返していた。小さいころから幼稚園の先生になりたいという夢を持ってがんばってきたのに、就職活動でみごとに惨敗した。
 他人に自分という人間を見てもらえない苦しみ。それだけではない。自分が自分を信じられなくなることが一番つらかった。
 信じる、というのは、ひとりの人間の全存在を肯定することだ。誰からも否定され、自分で自分を否定しては、人は生きていけない。
 私は教師として、発達障害というラベルを通して、この子を見ていくのか。それとも、どんなに荒唐無稽なことばでも、この子の言うことを信じていくのか。
「雪羽ちゃん」
 天音先生は地面に両膝をついたまま、少女の肩に手を置いた。
「先生は、雪羽ちゃんの言うことを信じるよ」
「あまね先生、ありがとう」
 天音の手のひらの下で、雪羽の華奢な肩の線がすっと柔らかくなった。
 彼女がそれまで、どれほど体を強ばらせて幼稚園で過ごしていたのか、ようやくわかったような気がして、せつなくなった。
「さ、全部拾えた」
 ふたりはクレパスを並べ終えると、立ち上がり、にっこり笑みを交わした。
「きれいな空だね」
 天音先生は、澄み切った晴れやかな気持で空を仰ぎながら、すいすいと歩き始める。
 そして、十歩と歩かないうちに、また石に蹴つまずいた。
 持っていた画用紙が一枚、風にふわっと飛ばされ、紙ヒコーキのように空を飛んだ。


「きれいな空だニャあ」
 ヴァルデミールが目覚めたら、飛行機雲が横切る空が真っ先に見えた。うんと伸びをしようとすると、肩に柔らかいものが当たる。
 理子のほっぺただった。
 ふたりは公園の樹にもたれて、日向ぼっこをしていたのだ。まず彼が眠気に負け、隣で本を読んでいたはずの理子も、いつのまにかぐっすり寝入ってしまったらしい。
 木漏れ日がちろちろと揺れながら降り注いでいる様は、まるで未来の花嫁と花婿たちを、ささやかなスポットライトで照らしているようだ。
(あ、メガネがずれてる。かわいい)
 横目で眺めているうちに、ぺろりと彼女の頬を舐めたくなったヴァルデミールは、あわてて衝動を抑えた。『舐める』という猫にとって当然の行為は、人間の愛情表現としてはかなり不適当らしい。
(家に帰るまで、がまんしようっと)
 とっておきの昼寝場所を理子に知ってほしくて、工場の仕事がひと段落したあと、ふたりで公園に来た。寝ても覚めても相模屋弁当の経営のことばかり考えている彼女には、のんびりする時間が必要だと思ったのだ。
(あーあ。センムにニャったら、わたくしもケイエイに参加するのか)
 四郎会長が張り切って、彼に後継者としての教育を始めたのだ。事務所に新しく据えられた彼の机には、書類や帳簿や、経営に関するハウツー本が山積みになっていた。読んで勉強しろと言われているが、魔導の書を読んでいるかと思うくらいチンプンカンプンだ。
 理子を外出に誘ったのは、本当は彼自身が逃げ出したかったからかもしれない。
 会社の経営など、想像もつかない。主であるゼファーでさえ坂井エレクトロニクスの経営難に日々悩んでいるのを見ると、自分にはとても不可能なことだと思えてくる。
(でもニャんとかして、理子さんの役に立てるようにニャりたいニャ。そしたら、シュニンの工場の機械を、たくさん買ってあげられる)
 志は空より高いものの、むずかしいことを考えようとすれば、すぐ眠気が襲ってくる。だんだんと落ちてくる瞼の前で、誰かが通り過ぎた。
「あ、おじさん」
 以前弁当を買ってくれた路上生活者が、アルミ缶の入った大きな袋を三つも四つも載せた自転車を押して、公園を通り過ぎるところだった。
「おお、ハダカの青年」
 以前、ヴァルデミールが猫から人間に戻ったときの大騒動を思い出しながら、おじさんは弱々しく手を振った。
「ニャんだか元気がありませんね。景気が悪いのですか」
「ああ、どん底だね。アルミ缶なんか、このところキロ当たり四十円だぜ」
 一日かかって自転車で空き缶を集め回り、一個一個ペタンコにつぶして業者に持ち込んでも、せいぜい数百円にしかならないのだと言う。
「この不況が終わる前に、ホームレスの半分は飢え死んじまうだろうな」
「そ、そんニャ」
 ヴァルデミールは驚きのあまり、ネズミを見つけた猫の勢いで男のところへ這いよった。
「いて」
 理子はそのあおりで、木の幹に頭をぶつけた。
「そう言えば、あのけばけばスカートのおばさんは?」
「さあ、こないだあっちの公園で見かけたけど、やっぱり雑誌集めもうまく行かないみたいだな。冴えない顔してたぜ」
「社長、社長」
 ヴァルデミールは戻ってきて、理子の体をぶるぶると激しく揺する。「起きてください」
「ばかもん、とっくに起きてる」
 理子はヴァルデミールの頭をはたこうとして手を止め、絶句した。彼の両目には、もはや決壊寸前なほどの涙が溜まっていたのだ。
「お願いします。わたくしがセンムにニャったら、給料ニャくていいですから、そのかわりに公園にいる人たちを工場に雇ってあげてください」
「ニャ、なんだって」
 ヴァルデミールの経営者としての第一歩は、まず路上生活者ふたりを雇い入れることから始まりそうだ。


 ちりん。
 なつかしい音が聞こえたような気がして、宿題のノートから目を上げたユーラスは腰を浮かせた。
 天城博士は、彼が帰宅してからもずっと、夕食の弁当そっちのけで座標計算に没頭している。
 月に二回の、アラメキアのゲートが開く時期がまたやって来るのだ。今度は手紙をやりとりするだけではなく、アラメキアにいる博士の助手とのあいだで、かなり大掛かりな物体を送る実験が行なわれるらしい。
 ちりん。
 軽やかな音だった。たぶん近所の誰かがケータイのストラップに小さな鈴をつけているのだろう。しかし春の湿った空気を伝わるくぐもった音色は、アラメキアの姫君が薄布のショールの房に結びつける千の小鈴に似ていた。
 どこか寂しげな鈴の音は、ひとりの女のたおやかな舞いを思い起こさせる。
 いったい誰の舞いだったか。
 90年の人生で、三人の正妃と数え切れない側妃を娶った。だが、遠い異世界で10歳の少年となった身には、彼女たちの美貌も滑らかな肌も、まして名前すらも思い出すことができない。
 閉め忘れた窓から夜の冷気が、強い沈丁花の香りとともに忍び込んでくる。
 ユーラスは窓辺に寄り、もう一度耳を澄ました。鈴の音はもう聞こえない。
 研究所の草ぼうぼうの庭に、コブシの木が一本すっくと立ち、白い花を枝いっぱいにつけている。
(魔王の娘は今日一日、幼稚園でしょげずに過ごせただろうか)
 春の夜は、人恋しくてたまらない。
 ユーラスはノートから紙を一枚ちぎり取ると、紙ヒコーキを折り、窓から外に飛ばした。
 暖かい手から放たれたヒコーキは、月影がぼんやりと青白く光る空を背景に、すうっと夜の向こうに消えて行った。
 



聖 天音さんの1010101ヒットキリリクは、魔王ゼファーへの出演権です。「みなみあまね先生」はこれからも、けっこう出番のあるキャラになりそうです。リクエストありがとうございました。
背景素材: ふるるか

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