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幻をつかむ者








 窓枠に肉球をかけて、そっと押し開ける。
 ミルク色の霧に包まれた裏庭は、初めて見る幻のようだ。物干し台やほうきや、欠けた植木鉢さえもが、特別な魔法の小道具に思える。
 首をにゅっと突き出した。夜明けのしっとりと湿った風にヒゲや毛並みを逆立ててもらう心地が、とても好きだ。
 彼が窓ぎわを好むようになったのは、家付きとなることを選んだ猫の体内で疼く、ささやかな野生への憧憬ゆえかもしれない。
「おや、また来てるのか」
 早起きの四郎会長が、部屋に入ってきた。
 まさか、この小さな黒猫がもうすぐ自分の娘婿になる若者であるとは、荒唐無稽な朝の夢の中でさえ思いつくことはないだろう。
「ほら、いつもの魚肉ソーセージじゃ」
 不自由な手で皮を剥いてくれたピンクのソーセージがふるふる揺れるのを見ると、つい我慢できずに両手で捕まえぱくりと齧りついた。
「よしよし」
 目を細めて頭を撫でる老人の掌の下で、猫は幸せそうに丸くなった。


 理子はこの頃、頭が痛い。
 原因は、ヴァルデミールが雇ってきたふたりの路上生活者だった。彼の公園仲間の中年男性、春山と、六十歳くらいの女性、秋川だ。
 春山と秋川とは冗談のような偶然の一致だが、工場に誘うまでは、ヴァルデミールも彼らの名前を知らなかった。
 理子はとりあえず、近所の安アパートを二部屋借りて住まわせ、そこから工場へ通ってくるように手配してやった。
 だが、長年のホームレス生活が身についた彼らは、みんなといっしょに行動することが、なかなかできない。
「何をさせても、のろい」
「口ごたえばかり」
「なんだか、見た目が不潔っぽい」
 他のパート従業員たちも、ことあるごとに上司に苦情を申し立てている。
「そう言えば、わたくしも相模屋弁当で働き始めたばかりのときは、同じことを言われました。髪を切れ、風呂に入れと、社長にもよく殴られましたね」
「こら、そんなことを懐かしがるな」
 暢気に笑うヴァルデミールに、むっつりしていた理子もつい破顔する。
「本当に困るのだ。ああ仕事の邪魔になっては、いずれ辞めてもらうことになるぞ」
「わざと邪魔をしているわけではニャいのです。彼らには彼らなりの理由が、ちゃんとあるんですよ」
 自分も失敗ばかりだったことを覚えているヴァルデミールは、懸命にふたりを弁護した。
 最初は小さなことにこだわり、大事なところが見えていなかった。工場全体のことがわかるようになったのは、やっとつい最近のことだ。
 調理が全然できない男性の春山は、ヴァルデミールに連れられて弁当の配達に回ることになった。あちこちの事務所や工場に弁当を届けるときも、彼は笑顔どころか挨拶もしない。
「どこも不況みたいですね。このごろ、家から弁当を持ってくる人が増えたと、さっきの会社の人も言ってました」
 売れ残ってしまった弁当のケースを運びながら、ヴァルデミールは溜め息をついた。
「値段が高いからだ。もっと安くすればいい」
 春山が彼の後ろをついて歩きながら、ぽつりと言った。
「無理ですよ。原価から考えると、500円がぎりぎりです」
「普通の勤労者には、500円の弁当では毎日は手が出ない。まして路上生活者は、せいぜい100円が限度だ」
「そんニャ。100円でお弁当ニャんか作れませんよ」
「もちろん赤字覚悟だ。インパクトのある商品を前面に打ち出して、相模屋ブランドの宣伝になると考えればいい」
「は?」
 突然、難しいことを言い出した春山に、ヴァルデミールは思わず目を丸くした。


「100円弁当?」
 理子はすっとんきょうな大声を上げた。「そんなことできるものか。弁当一個の原価がいくらか知っているのか」
「赤字覚悟で、インドパキスタンのある宣伝をするんです」
「なにを訳の分からんことを言ってる」
 しばらく美容院にも行っていない伸び放題の前髪を、理子はうざったげにかき上げた。
「今はそれどころじゃない。おまえが留守の間に、また秋川のおばさんが騒動を起こしてくれたんだ」
「ニャ、何があったんです?」
「《乱切り機》の前に立ちふさがって、『こんな機械、絶対に使わせない』とわめき出したそうだ」
「あのニンジンの機械ですか?」
 ゼファーの工場から去年納入された二台の《全自動高速乱切り機》は、少しずつ改良されて、ゴボウのように固い野菜からナスのように柔らかい野菜まで、皮むき、ささがき、みじん切りなど用途に応じて切り分けられるようになっている。その分、調理や販売に人手を割くことができて、工場の能率は格段に上がった。
 今や相模屋弁当になくてはならぬ機械のことを、彼女は『クズ同然』と罵ったという。
 さすがのヴァルデミールもちょっぴり腹を立て、事務室から工場に向かった。
 秋川は、ごま塩の白髪を後ろでひっつめた小柄な老女で、いつも毛羽の立った派手なスカートをはいているため、ヴァルデミールは彼女のことを『けばけばスカートのおばさん』と呼んでいた。もちろん今は、さすがに工場のお仕着せを着ている。
「あの……」
 ギロリと上目遣いでにらまれて、ヴァルデミールはおっかなびっくり話しかけた。
 老女は工場の中から引きずり出され、裏の搬入口のそばのガードマン用の机で不貞腐れてタバコを吸っていた。
「おばさん、あの機械が嫌いニャんですか?」
 彼の問いかけに彼女はふんと鼻を鳴らして、そっぽを向いた。ヴァルデミールは、ますます打ちしおれて言った。
「あれは、大勢の人が汗水を垂らして、力を合わせて作った機械ニャんです。だから、おばさんにも好きにニャってほしいのですが」
「あれは、ダメだ」
 煙をふかしながら、秋川はぶっきらぼうに答えた。
「どうしてですか」
「あんなに野菜の皮を分厚く剥いては、もったいなくて見ていられない」
「ええ?」
「ちょっと、来てみろ!」
 タバコを乱暴にもみ消し、ヴァルデミールの手をぐいと引っぱると、彼女はずんずんと工場の通路へと向かった。
 手を念入りに洗ってエアカーテンの内側に入ると、午後の弁当工場の中は働いている従業員も少なく、朝の喧騒から比べれば別世界のように静まり返っている。
「ほら、これだ」
 乱切り機の床部分には、大きなダストボックスが備え付けてある。秋川はそれをガラリと引っ張り出した。
「見ろ、こんなに分厚く皮を剥いている。おまけにヘタもシッポも大きく切り落としてしまって。人参も大根も皮やシッポの部分に栄養があるんだ。千切りにして、きんぴらにすれば、どれだけ美味いか」
「あ、あの」
 ヴァルデミールはしどろもどろで訊ねた。「皮やヘタって食べられるんですか」
「当たり前じゃないか!」
「す、すみません。知りませんでした」
「このご時勢に、これだけのムダを出すなんて犯罪だ。お天道さまに顔向けが出来んわい。見かねてわしは毎日、ゴミ箱から拾って、アパートで炒めて食べているが、ひとりでは、こんなにたくさん食べ切れん」
「え、おばさん、これで料理を作れるんですか」
「見せてやるわい」
 ふたたび工場を出ると、おばさんは大きな肩掛け袋を持ってきた。
 中から出てきたのは、竹の皮にくるんだ大きなおにぎり。アルミの弁当箱からは、たくさんの野菜料理が出てきた。
「ほら、これが、さっきの皮で作ったキンピラ。こっちはキャベツの芯をゆでて、ゴママヨネーズ和えにしてある。こっちも大量に捨てられておった」
「すごい」
「わしはな。ここで働き始めて、悲しくてたまらんのじゃ」
 老女は、しわがれた声で呟いた。「機械だけじゃない。天ぷらの衣や釜の底に残ったご飯も、平気でどんどん捨てていく。あれさえ食べられないホームレス仲間が大勢いる。心が痛くて見てられん」
「確かに、わたくしも最初はそう思いましたけど」
 一日何千食もの弁当を作っている弁当工場では、調理に使った材料の余りも半端ではない。現場にいる者たちだって、もったいないと思う気持を持っている。だが、しかたないのだ。
「それに、まだ十分に食べられる弁当が賞味期限切れというだけで大量に捨てられているじゃないか。ひもじい思いをしている人間は、世の中にたくさんいる。なぜ困っている人たちに配らない」
「工場の決まりで、それはできニャいんです」
 賞味期限切れの弁当をきちんと説明の上で売ったり、無料で配ることは法律で禁止されてはいない。だが保健所の指導が入りでもしたら、会社の大きなイメージダウンになる。絶対にやってはいけないことだと、理子に厳重に注意されているのだ。
「それに腹の立つことは、他にもいっぱいある。プラスチックの弁当箱やアルミカップ。たくさんのゴミが、どれだけ公園を汚していることか」
「それはわたくしも、腹が立ちます!」
 ヴァルデミールがまだ地球に来て間もない頃、公園に捨ててあったシャケ弁の残りを漁っていたとき、アルミカップを食べてしまったことがある。あれは、とてつもなく不味い上に、歯が痛くなるのだ。
「でも、キンピラや春雨サラダのように汁の出るおかずは、どうしても小さなカップに入れニャいと味が混じってしまうんです」
「それなら、なんでも包めばよいのじゃ」
「包む?」
「薄揚げや、錦糸玉子、ワンタンの皮だってよい。天ぷらの衣の残りと混ぜてお好み焼き風にしてもよいぞ」
「はああ。聞いてるだけでヨダレが出ます」
「釜にこびりついた焦げ飯で握ったおにぎりをいっしょに紙袋に入れて売れば、ちっともゴミなんか出ないぞ」
 舗道の縁石に座り込んで、すっかり意気投合して弁当談義をしているうちに、日はとっぷりと暮れ、清掃担当の従業員がぞろぞろと扉から出て来た。
 相模屋弁当の長い一日が今日も終わったのだ。
「あ!」
 ヴァルデミールはいきなり何ごとか思いついた様子で立ち上がった。
「おばさん。野菜くずを使ったお惣菜を入れて、『100円弁当』を作れませんか?」


 ゼファーが外に出ると、春山が弁当のキャリーケースをぶらさげて、門のところで工場を見上げながら立っていた。
「あんたか」
 と言いながら、ぎろりと見る。
「ちょうどよかった。今日の注文分の弁当だ。毎度ありぃ」
 最後のとってつけたような挨拶の言葉に、ゼファーは思わず苦笑いした。
「預かっておこう。ヴァルデミールはどうしている?」
「さあ、なんだか『100円弁当』という俺の冗談を真に受けて、婆さんといっしょに毎日、試作品作りに明け暮れているぞ」
「ほう。元気そうで何よりだ」
 春山は、背後の工場の建物をもう一度見上げた。
「熟練工のそろった優良工場だ。だが、今のところあまり儲かってはなさそうだな」
「なぜ、そんなことがわかる」
「搬入口の様子、部品の整頓具合、設備の劣化状態、照明の明るさ、何よりも大事なのは従業員の表情だ」
「あんたは、こういう工場で勤めたことがあるのか?」
「いや、ずっと以前に、製造企業専門のM&Aの会社にいただけだ」
 そして、意味ありげに片方の口角を持ち上げた。「そうか、あんたもよく知っているはずだな。リンガイ・インターナショナルという名に覚えはないか」
「なんだと?」
 その名を聞いただけで、ゼファーはつい無意識に身構えた。
「確か、俺の同僚だった筧というヤツが、提携話を勧めにここに来たことがあったろう。俺も、書類でちらりと坂井エレクトロニクスの名前は見たことがあるよ」
「あんたは、あそこの社員だったのか」
「だが、とっくに縁は切った。あまりにあこぎな商売を続けるのが、イヤになってな。ある日、衝動的に辞表を叩きつけた。おかげで年収二千万がフイになった挙句、夫婦仲がとっくに冷めていた妻とは離婚して家も財産も取られ、メシにも事欠く路上生活さ」
 悲惨な身の上話にもかかわらず春山は、せいせいしたという様子で笑った。
「頼まれたって、もうあんな毎日はごめんだ」
 ゼファーは、かつて敵の陣営にいた男の顔をしげしげと見つめた。
 ホームレスのときには髪が伸び放題でわからなかったが、春山は人生の修羅場をいくつもくぐり抜けてきた者の持つ目をしていた。
 かつてゼファーの直属の配下だった魔族たちも、こういう目をしていた。有能な指揮官の目だ。
「あんた、うちの会社で働く気はないか?」
 経験から来る直感が、思わず言わせていた。
 春山は驚いて、まじまじとゼファーを見返した。「俺がか」
「正直言って、ひとり雇い入れる余裕はうちにはない。給料もいくら出せるかわからん。だが、俺たちの会社には、あんたのような人材が必要だ」
「無理だな」
 いったんは興味を引かれた様子だったが、彼は首を横に振った。
「俺は手先が不器用で、細かい仕事が苦手だ。相模屋弁当への就職だって、あのハダカの青年が土下座せんばかりに頼み込むから、つい承知してしまっただけだ。包丁も持てない俺が役に立つはずもないし、そろそろ辞めるつもりでいる」
「そうではない。俺たちが求めているのは、マーケティングの分野を担ってくれる人間だ。顧客を開拓し、相手がどんな機械を必要としているかを調べ、新しい製品開発に結びつけられるような――」
「なおさら、ごめんだ」
 荒々しく春山はさえぎった。
「正直言って、もううんざりなんだ。会社という組織が肥え太るだけのマネーゲーム。所詮、俺たちは使い捨ての歯車だ。自分の健康も良心もすべてを差し出して、ぼろぼろになっていく」
 そして辛い思い出を断ち切るように、元の投げやりな調子に戻った。「空き缶を拾っているほうが、よほど人間のまともな暮らしだ」
「空き缶を拾って、何かを生み出せるか?」
「少なくとも、壊すことはない」
「そうやって、一生ひとりで生きていく気か」
「ひとりで死にたいんだ。もう人とは金輪際関わりたくない」
「他ではどうだったか知らぬが」
 ゼファーはじっと彼を見つめた。心の底まで貫くような深みを持つ瞳だ。
「少なくとも俺たちの工場には、使い捨てられるヤツなどひとりもいない。俺たちは生き残るために、全員が命がけで戦っている。おまえもその戦いに加われ。自分のために生きられなければ、人のために生きてみろ」
「あんたは……」
 その穏やかな視線に強烈な身震いを覚えて、春山は言った。「ただの町工場の主任じゃないな」
「ただの製造主任だよ」
「違う。もっと大きな組織を統率したことのある人間だ。以前はどこの会社にいた?」
 ゼファーは少し迷った。だが、彼を説得するためには本当のことを言わなければならないと思った。
「俺は、かつてアラメキアという世界で魔王だった」
「冗談……だろ?」
「本当だ。頭がおかしいと思いたければ、思うがいい」
 春山はうつむいた。
(ばかばかしい)
 笑おうとしたが、頬が引きつっただけだった。そして、おそろしく長い間、口をつぐんでいた。
 顔を上げたとき、男の決意は固まっていた。
「わかったよ。魔王さん。あんたのために働こう」
 





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