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幸せの風景




 夜ゼファーがアパートに戻ると、佐和が泣いていた。
 台所の隅で背中を向けて、エプロンでそっと目の辺りを拭いている。
 心ならずも妻のとんでもない秘密を覗き見してしまい、彼はうろたえた。魔王軍が敗北して人間の王たちに捕らえられたときでさえ、これほどにうろたえたことはないというほどに。
「佐和。いったいどうしたんだ」
「いえ、なんでもないんです」
「雪羽に何かあったのか?」
「いいえ、元気ですよ。遊び疲れてもう寝ています」
 なお口をつぐんでいる彼女に、彼はますます混乱した。
「財布でも落としたのか」
「……いいえ、そんなんじゃ」
「じゃあ、俺が毎日残業で帰りが遅いのが、寂しいとか?」
「……」
「それとも、残業だと偽って、工場長と内緒で飲みに行ったのがバレたとか」
「……」
「まさか、女子工員の水橋に昼をおごってやったのが、気に食わなかったのか?」
「ふふっ」
 佐和はこらえきれなくなって、くすくす笑い始めた。
「このままずっと黙っていたら、ゼファーさんの隠し事が全部聞けそうですね」
「ば、馬鹿。何を言ってるんだ」
「本当は、これが理由なんです」
 涙をぬぐったその指で、佐和は食卓を指差した。その上には、ラップをかけたおかずの皿や小鉢のそばに、デパートの包装紙をほどいた白い紙箱が置いてあった。
「たった今、宅配便で届いたんです」
 箱を開いて夫に見せた。「うちの実家の母から」
 そこには、可愛らしいピンクの女の子用のドレスが入っていた。
「雪羽にって。来週の一歳の誕生日を覚えててくれたんですね。だから私、胸がいっぱいになってしまって。幸せで泣いていたんです」
 佐和はまた目をうるませながら、にっこり笑った。
 そうだろうか。ゼファーは心の中で思った。
 佐和はやっぱり悲しかったのではないだろうか。娘が生まれて一年。佐和の両親や兄弟は、その間一回も雪羽を見に来たことがない。佐和自身も実家に戻ったことがない。
 ゼファーと結婚したとき、父親から二度と家の敷居をまたぐなと言われているのだ。母親だけは佐和を不憫に思ってくれているらしいが、夫を恐れて、おおっぴらに会いに来ることもできない。こうしてこっそり何かの折に、内緒でプレゼントを贈ってくれるのが関の山。
 そんな状態を、佐和は幸せだと感じているはずがあるだろうか。
「さあ、すぐ晩御飯にしますね」
「佐和……」
「なんですか、ゼファーさん」
「いや、なんでもない」
 すまない、ということばをすんでのところで飲み込んだ。その言葉を言えば、佐和は懸命に否定するだろう。
「ゼファーさんは、私に謝るようなことは何もしていません」
 そう言って、すこし悲しそうな目で見つめるだろう。
 夕食の支度のあいだに、ゼファーは隣の部屋に入った。雪羽が寝かされている布団のそばに胡坐をかき、じっとその顔をのぞきこむ。
 柔らかくてふっくらとした頬。長いまつげに縁どられたまぶたは、時折ぴくぴくと動く。そしてにこっと笑う。
「こんなに小さいのに、夢を見ているのか」
 ゼファーは驚いたように、つぶやいた。その声を聞きつけて、佐和もやってきた。
「ああ、本当。幸せそうですね」
「夢の中でどんなものを見たら、こんなに幸せそうな顔になるんだろう」
「さあ、なんでしょう。私だったら、お日様の光をいっぱい浴びたふかふかのお布団が夢に出てきたら、うれしいわ」
「俺なら、山のようなおにぎりかな」
「ゼファーさんを幸せにするのは、とっても簡単ですね」
 佐和は笑って、手に隠し持っていたおにぎりを、夫の口にひょいと放り込んだ。


 ゼファーはそのとき心の中で、あることを決意していた。


 アパートから歩いて十分ほど。
 坂道を上がると、大きなお屋敷町が見えてきた。
 佐和の家は、格式のある旧家だと聞いた。厳格で体面を重んじる父親と優秀な兄たちに囲まれて、佐和はさびしい少女時代を送ったらしい。
「元々トロくて、何をしてもダメな子どもだったんですよ」
 と一度笑いながら、言ったことがある。
 ものを考えるときもゆっくりで、要領良く生きられない彼女は、父の意に染まなかった。たったひとりの味方である母も、夫の前で佐和をかばいきれず、彼女はとうとう短大入学を口実に家を出て、一人暮らしを始めたのだった。
 御影石の長い塀に囲まれた家を探し当てると、ゼファーは門の呼び鈴を鳴らした。
 ちょうど庭で愛車の掃除をしていた、60才くらいの男がすぐに出てきた。
「おまえは……」
 門の外に立つゼファーを見て、即座に眉を吊り上げた。
「お父さん」
「おまえなどに、お父さん呼ばわりされる筋合いはない!」
 興奮のあまり喉をつまらせながら、高飛車に怒鳴る。
「今さら、のこのこと何しに来た」
「俺たちの娘が、もうすぐ一才になる。一度、会いに来てはもらえないか」
「おまえらと、この家とは何の関係もない」
「雪羽はあなたの孫だ。たとえどんなに否定しようとも、それは変わらない」
「うるさい! どこの馬の骨かわからない奴の血を引いた子どもなんかを、誰が孫だと認めたりするか。
佐和のことは、もうとっくに勘当した。親の勧める縁談をぶち壊してメンツをつぶしおって! 挙句、おまえのような得体の知れない男と所帯を持つような娘は、娘とは思わん」
 妻たちに対するあまりの侮辱に、ゼファーは思わず手を握りしめた。足元で小さな黒猫が「フーッ」と、うなりたてる。
「でも佐和は、あなたたちに会いたくて泣いているんだ」
 かすれた低い声で、ゼファーは続けた。そして、深々と礼をした。
「……お願いします。佐和と雪羽に会ってやってください」
 下げていた彼の頭に、冷たい水が浴びせられた。
 さっきまで車の掃除に使っていた、バケツの汚れた水だ。
「帰れ!」
 佐和の父はわめきながら、門を彼の鼻先でがしゃんと閉めた。
「二度と顔を見せるな。今度来たら、警察を呼ぶ」
 門の外、ゼファーはきつく握りしめていた拳を、ゆっくりと時間をかけて、ほどいた。
 二月の寒風の中、頭からずぶぬれになったまま、もと来た道を歩き始める。
『ニャぜ、あの無礼者を殴らニャいのですか?』
 黒猫がそのあとを追いかけながら、悲痛な声で叫んだ。
『あんニャに辱められ、おとしめられたのに。シュニンは悔しくニャいのですか』
『佐和の父親の、言うとおりだからだ』
 ゼファーは子猫を拾い上げ、ふところに抱きしめる。
『俺はこの世界では、地位もなく金もない。地位も金もある父親にとって、俺は佐和にふさわしくない存在なんだ』
『わたしは、悔しいです……』
 猫はぼろぼろ涙を流し、ゼファーの濡れた手に顔をこすりつけた。
『シュニンは、アラメキアでは比類のニャい最強の魔王であらせられたのに。あんニャ人間、ひと睨みで殺してしまうことがおできにニャったのに』
『だが、俺は魔王であったとき、ちっとも幸せではなかったよ』
 ゼファーはやさしく猫の背中を撫でた。
『すべての者に畏れられていたが、たったひとりの心さえ得られなかった。今は欲しかったものが、ちゃんとある。たとえ他の誰にも認められなくとも、俺はそのほうがいい』
『シュニン……』
『ヴァルデミール。おまえの身体は暖かいな』
 アパートに近づいたとき、むこうから佐和が雪羽を抱いて、走ってきた。
「ゼファーさん!」
 涙でくしゃくしゃになった顔を、彼に向ける。
「……ごめんなさい」
「どうしたんだ?」
「たった今、実家の母から電話がありました。父が、訪ねてきたあなたに水をかけて追い返したと……。母は泣いて謝っていました。
ごめんなさい、ごめんなさい、父を赦して……」
「そんなに泣くな。雪羽まで、びっくりして泣き出しただろう」
 ゼファーが娘を妻の腕から抱き上げると、佐和は両手で顔をおおった。
「ゼファーさん、私はあなたさえいれば、いいんです。あなたと雪羽と三人で暮らせれば、……もう、他には何もいらないんです」


 晴れ上がった冬の青空の下。
 下町の路上で、泣いている子をいとしげにあやす夫。エプロンで顔をぬぐっている妻。
 そして、足元にはみゅうみゅうと身体をすりつける黒猫。
 誰が見ても、一目でわかっただろう。
 それは人が望みうる限りの、幸せの風景だった。
           






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