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守るべきもの








 カーテンが染まりそうなほど青い初夏の空を窓越しに見上げ、ゼファーは軽いめまいを覚えた。
 夕べの酒がまだ残っている。
 昨日は残業の後、工場長に無理やり居酒屋に誘われた。酒は飲めないわけではないが、自分からあのように、けたたましい場所へ行こうとは思わない。工場長は、自分はほとんどしゃべらずに相槌だけを打っているゼファーをお供に連れて、会社の愚痴を言うのが、よほどお気に召したと見える。
「だから、どこも問題は後継者不足だということなんだ」
 と、ビールの泡を口端にためつつ、昨夜は「工場の将来」というテーマで気炎を上げていた。
「社長の一人息子は、大学を出たらすぐ大手の商社に就職しちまっただろう。そっちが面白くて、工場を継ぐ気なんかさらさらないそうだ。
社長もああ見えても、もう65だぜ。本当はそろそろ引退して、息子に継いでほしいんだろうけどなあ」
 子どもに継がせるべき事業を持っていると、余計な苦労がともなうものらしい。
 おにぎりを食べ終えて走りよってきた雪羽を、ゼファーは抱き上げて、キスした。そして、口の回りのご飯粒を丁寧に取ってやった。
 俺も魔王の玉座に着いていたなら、アラメキアのすべてを己れの子に継がせたいという野望を持っただろうか。大勢の家臣の生命を犠牲にしつつ、人間と精霊を相手に、全土を巻き込んだ戦を今なお続けているだろうか。
 それならば、魔王でなくなったことは幸せだ。
 チャイムが鳴り、『おっはようございます!』と、朝っぱらから不必要なほどの大声で、ヴァルデミールが入ってきた。
『奥方さまは?』
『まだ帰っておらん。だからおまえを、こうして呼んだのだ』
『ニャるほど、確かにおおせのとおり』
 と答えながらチラチラと物欲しげに、朝食が終わったばかりの卓袱台に目を走らせる。
『……わかった。塩鮭の残りをやる。さっさと食ってこい』
『ありがたき、幸せ』
 長い黒髪の青年は、「にゃおん」と一声鳴くと、皿に飛びついた。
『奥方さまも……毎日、朝早くから大変です。お体は……平気ニャんでしょうか』
 ぺろぺろと細い舌を出して魚をしゃぶりながら、ヴァルデミールは佐和を気遣うことばをつぶやいた。
 佐和が近所のファミリーレストランの清掃の仕事に就いたのは、三ヶ月ほども前だ。
 早朝のシフトなので、朝5時に出て、たいていはゼファーが出勤する前に帰ってくる。
 だが、今日だけは駐車場の花壇の草抜きがあるとかで、昼前まで帰れないらしい。そこでゼファーは、そのあいだ雪羽を預かってほしいと従者のヴァルデミールを呼んだ。
 そこまでして佐和が勤めに出たのには、理由がある。
 今のアパートからもっと大きな家に引越したいのだ。
 瀬峰家が住んでいるのは、1LDK。六畳一間で親子三人が寝ている上に、収納も少ない。雪羽が大きくなるにつれて、中古でもいいから、せめてもう一部屋あるマンションに住みたいと、いつしか佐和は強く感じていたようだ。
 週末になるとどっさりと入る不動産の広告のチラシを熱心に調べている妻を見ると、ゼファーも彼女の望みをかなえたいと願うようになってきた。
 とりあえずは頭金として三百万を貯めようとがんばっているのだが、工場の薄給だけでは、なかなか計画どおりには行かない。そこで佐和も、少しでも家計の足しになればと早朝パートに出始めたわけなのだ。
『アラメキアはよかったです。どこにだって土地は余っていたし、もう一部屋欲しければ、洞窟をちょっと掘ればよかったんですから。ニャのに、この地球は何をするにも、必要なお金がハンパじゃありません』
 ヴァルデミールは主人夫婦の苦労を思って、憤慨している。
『シュニンみたいに一番金が欲しい人間のところには、ちょっとしか回ってこニャくて、ちっとも必要のニャい人間のところにあり余っているのは、どうしたことでしょう』
 と素朴すぎる疑問をぶつけられて、ゼファーは苦笑いした。
『いいことを思いつきました。全世界の人間に、一円ずつ分けてくれるよう頼むんです。そしたら、あっというまに、一億くらい溜まりますよ』
『……まあ、百年計画くらいでがんばってくれ』
 ゼファーはため息をつくと、塩鮭を食べ終わったしもべに雪羽を渡した。
「ヴァユゥ」
『はーい、姫さまぁ』
 回らない舌で彼の名前を呼ぶ雪羽を、ヴァルデミールはうれしそうに、ぎゅっと抱きしめた。
『本当に、姫さまはニャんて可愛らしいんでしょう。アラメキアのリューラの花だって、これほど可愛くありません』
 出勤の身支度が整ったゼファーは、玄関のところで振り返った。
『雪羽から絶対に目を離すのではないぞ。このところ、小さい女の子を狙う輩が多いらしい』
『まったく、地球というところは、ときどき信じられニャいことが起こりますからねえ』
 ヴァルデミールは、自信ありげに胸を叩いた。『おまかせください。一秒だって目を離しません。わたくしの命に賭けまして、ヘンシツシャから姫さまを守ってみせます』
 その大げさな仕草がおかしかったのか、雪羽はきゃっきゃっと笑った。
『姫さま。笑うといっそう、お可愛いですぅ』
 でれでれと相好を崩している臣下に、ゼファーはむっつりと言った。
『ヴァルデミール』
『はい、ニャんでしょう、シュニン』
『おまえが一番、変質者に見える』
『……』


 その朝の工場は、どこか雰囲気がいつもと違っていた。
 普段なら、ロッカールームで制服に着替えたあとは、掃除や部品の搬入など、仕事の下準備にてきぱきと動き始める工員たちが、手持ち無沙汰そうに、ひそひそと立ち話をしている。
「あ、瀬峰主任」
 輪の中から、ひとりの男性工員が心配げな顔でゼファーを見た。
「大変です。この工場がよその会社に売られてしまうって」
「え?」
「社長室に今、売却先の会社の専務という人が来ているそうです。工場長と三人でずっと話してます」
「やっぱり工員は、全員解雇かなあ」
「どうしよう。お給料もらえなかったら暮らしていけない……」
「俺、中卒だから、ここ以外に雇ってくれるとこなんてねえよ」
 みんなすっかり落ち込んだ様子で、うなだれる。
 寝耳に水の話だ。いくら工場の経営が苦しかったとは言え、昨日の今日でこんなに切羽詰った状態になることは考えられない。
「社長室に、行って来る」
 工員たちは頼みの綱とばかりにゼファーを見た。
「主任……」
「いいから、いつでもラインを動かせる段取りをしておけ」
 どのみち、これでは仕事にならないだろうと思いつつも、そう言い残すと、ゼファーは建物の外付けの階段を駆け上がった。
 社長室のドアをノックする。
「おお、瀬峰主任、今呼ぼうと思っていたんだよ」
 ドアを開けると同時に、社長の上機嫌な声が響いた。
 応接用ソファに座っているのは、倒産話が下でささやかれているとは思えないほど、福福しい顔をした社長。その隣には、30歳半ばくらいの涼やかな笑みをたたえたスーツ姿の男。隅っこでは、暑苦しげに汗を拭いている工場長。
「筧(かけい)さん。これがうちの工場の製造主任、瀬峰正人くんでございます」
「ほう、先ほど、きわめて優秀だと誉めておられた」
 スーツ男はすっくと立ち上がって、作りものめいた微笑を浮かべた。
「わたくしは、リンガイ・インターナショナル・インコーポレイティド・ジャパンのプロダクト・マネージメント・セクションのチーフ・アドヴァイザーをしております、筧です。以後お見知りおきを」
 英文をエンボス加工した名刺がさっと差し出されたが、横文字に弱いゼファーはすでに頭がくらくらしている。
「瀬峰くん、目下わが社は、世界的に有名なリンガイ社の傘下に入れていただく話を進めているのだよ」
「傘下? 吸収されるということか?」
「いえ、そうではありません。この会社の組織も名前もそのままで、わがリンガイ・グループの一員となっていただくということなのです」
 筧は、すらすらと慣れた口調で説明を始める。
「もちろん今までどおり、坂井社長に全面的に経営をおまかせすることになります。そして私ども本社から経営改善のノウハウについての有益なアドヴァイスを差し上げるわけです。
全世界150ものグループ企業と提携して、資源調達から設計・生産までを一貫してシステム化することによって、コスト削減と受注への素早い対応が可能になっています。ぜひ、『坂井エレクトロニクス株式会社』さまの高い技術力を、わがグループで生かしていただきたい」
「うちだけではとても導入できないような高価な機械もレンタルしてくださるそうだ。しかも、工程に必要な期間だけのレンタルだから、ムダがない」
 社長の頭の頂が、いつもに増して、てらてらと光っている。
「もちろん、まだ正式に決まった話ではない。きみたちの意見も聞かねばならんからな」
「わがリンガイ・グループが将来にわたって安定した受注を保証いたします。決してみなさんにとって、悪い話ではないと思いますが」
「おお、もちろんです。きっと従業員たちも、こぞって賛成すると思いますよ」
 社長と筧氏は、すでに提携が決まったかのように、がっちりと固い握手を交わしている。
 ゼファーと工場長は顔を見合わせた。
「どう思う?」
 訪問者が帰ったあと、ふたりはゆっくりと工場の鉄製の階段を下りた。
「俺にはさっぱりわからん」
 ゼファーが答えた。
「『リンガイ・グループ』という名前も初耳だったしな。あんたは知っているのか? 工場長」
「近頃、電気部品の中小メーカーの買収や提携を推し進めて、急成長している会社だ。確かに将来性という意味では、目を見張るものがあるのだがな」
 工場長はしぶい表情を崩さない。「俺にも正直、なんと判断したらいいものか」
 ふたりは階段を降りたところで、どちらともなく立ち止まった。
「俺の国では、何千年ものあいだ魔族が部族ごとに相争っていた」
 彼方を見つめる瞳をして、ゼファーがおもむろに話し始めた。
「俺は武力をもって各部族を従わせ、ひとつの国にまとめあげた。所領ごとに自治を認めるというのが、和睦の条件だった。
しかし実際のところ、俺のやったことは、貢ぎをしぼれるだけしぼり取り、戦える男を片っ端から魔王軍に徴用しただけだ。いったん支配下に入れてしまえば、こっちのもの。甘いことばを連ねた約束など、守る気はさらさらなかったよ」
「おまえの魔王時代の妄想話は、たいていはチンプンカンプンなんだが」
 工場長は鼻息荒く、うなずいた。
「今日の話はよーくわかるぞ。この提携は、やはりどうも気に食わん。何よりも、あのにやにやした若造が気に食わん。俺は断固として、社長に反対するぞ」
「工場長。主任」
 筧氏を門まで見送ってきた社長が、にこにこしながら近づいてきた。
「どう思うね。さっきの話は」
「は、はい。その――」
 さっきの勢いはどこへやら、工場長は困ったようにゼファーの方を見る。
「わたしはさっきの話を持ちかけられたとき、心底から安心したんだよ」
 社長は、工場の庭に生えている一本の大きなカシの木を振り仰いだ。
「わたしも年だ。血圧も高くて、いつ倒れるかわからんし、後継者もおらん。リンガイ・グループに所属してさえいれば、万が一のことがあっても、本社が面倒を見てくれる。もし後継者となる者がいなければ、適切な人材を派遣もしてくれる。君たち従業員52名を路頭に迷わせずにすむんだ」
 その声は、涙ぐんでさえいる。
「この木を植えたのは、死んだ家内とふたりきりで細々と、部品のハンダづけをやっていた頃だった。あれからもう40年になるんだなあ」
 社長は物思いから立ち戻ると、ぽんとふたりの背中を叩いた。
「さあ、行こう。とっくに始業時間だ」
 ゼファーと工場長は、結局何も言えなかった。
 今の話を聞いてしまうと、社長がこの提携にかける夢を壊すなど、とてもできないことのように思われた。


 工員たちは終業時に集まり、社長から直接、リンガイ・グループとの提携を聞かされた。
 大企業の仲間入りを素直に喜ぶ者もいたが、大部分はぴんと来ないらしく、不安な面持ちを隠しきれなかった。
 しかし表立った反対の声は上がらず、従業員全員一致の賛成を持って、工場は新しい道を歩み始めた。
 まず、正式な提携の準備段階として、筧氏ほか本社から何人もの専門家が来て、工場の生産ラインや帳簿のチェックに取り掛かった。
 事務員は朝から晩まで書類の整理でくたくたになり、社長と工場長は本社のお偉方の連夜の接待で二日酔いになり、ゼファーたち従業員も、ラインを幾度となく停められては変更を強いられ、フラストレーションの溜まる日々が続いた。
「本当に、これで会社のためになっているのか?」
 ゼファーは工場長に疑問をぶつけた。「俺には、仕事を邪魔されているだけに見える」
「まあ、効率化のためには、いろんな角度からデータを集める必要があるんだろうなあ」
「そんなもの、ラインを止めなくても、いくらでも集められる。現場の人間の意見を直接聞きもしないで、何がわかるというんだ」
「しかたないよ。ゼファー」
 工場長は寂しげに首を振った。
「親会社のやり方には逆らえない。俺たちはもう、リンガイ・グループの言うままなんだ」


 数週間後、始業30分前に工員たちは全員、工場に集められた。
 筧氏が、正面に立った。社長はその脇に立って、こころなしか青い顔をしている。
「この工場の作業工程について、細かく計測して、ラインバランス表を作成させていただきました」
 彼は無表情に、全員の顔をゆっくりと見渡した。
「この工場におけるわたくしどもの改革は、まず第一に、最低生産要求量に見合う適正な所要人員を配置することです」
「ど、どういうことなんだ」
 みな、ぽかんとして聞いている。
「つまりさ、リストラだよ」
 誰かが言った。
「リストラ!」
 強風が吹き荒れる麦畑のように、彼らの頭が激しく揺れた。
「ちょっと、待ってくれ」
 工場長が異を唱えた。
「最低生産要求量に見合うっていうのは、どういうことだ。もし大量に注文が来たら、少数の人員では対処できないじゃないか」
「そのときは、本社からの派遣社員で対応します。万が一のときに備えて余分な工員を遊ばせておくのは、まったくのムダだ」
「……」
「当方の計算では、約三分の一の省人化が可能になります。一人時間当たり出来高の表も作成しました。平均より生産性の低い工員の名に赤丸を入れてあります」
 筧氏は、死刑宣告に等しい名簿を、茫然としている工場長に渡した。
「わがグループの名を冠するために、ぜひ必要な事前準備です。退職勧告の方法はおまかせしますので」
 彼はくるりと踵を返すと、社長室のほうに行ってしまった。
 従業員たちの視線がいっせいに社長に注がれる。
「すまない」
 うなだれた社長の禿頭は、蒼白を通り越して透き通って見えた。
「肩たたきはしたくない。依願退職を募ることにする。退職金に関しては、せいいっぱいの色をつけるから」
 そして絶句すると、逃げるように工場から去って行った。
「ゼファー」
 工場長は、震える手でさっきの書類を渡してきた。
「依願退職する奴なんて、誰がいる。みんな、ここしか行き場のない奴らばかりだ。……俺には、とてもじゃないが、こんなことできん!」
 ゼファーは表に目を落とした。
 赤丸をつけられた名前を確認する。
 ついこのあいだ女房をもらったばかりの高橋。暴走族のリーダーから、社長に拾われてまじめに働き始めた重本。手に軽い障害のある樋池。結婚詐欺で貯金を全て奪われてしまった水橋の名前もある。52人中、17名。
「くそう」
 ゼファーは工場の磨かれた床に向かって、吐き出すようにうめいた。
「瀬峰主任」
 樋池が、すすり泣くような声を上げた。
「そこに僕の名前、ありますよね。どう考えたって、僕の生産性が一番低いし」
 ゼファーは、彼のおどおどした目を見つめた。
「この工場に……ずっといたいです。他のとこに行きたくない。本当にここが好きだから、僕……」
 次の瞬間、ゼファーの手にあった紙は、ぐしゃりと音を立てて小さな塊となった。
 あっけにとられた工場長と工員たちを残し、ゼファーはものすごい勢いで工場を飛び出した。社長室への階段をわずか数歩で駆け上がる。
 ドアをもぎとらんばかりにして開け、中にいた筧氏の前に詰め寄った。
「この赤い印を取り消せ」
 押し殺した声で、言う。「俺の生きている限り、この工場からは一人たりとも辞めさせん!」
「ほう、なぜですか」
 筧氏は、あざ笑うように答えた。
「何が生産性だ。何がムダだ。俺たちは人間だ。レンタル用の機械じゃない。生きていくために誰だって食わねばならんのだ。会社の都合で切り捨てていい人間など、ひとりもいない」
「社長は納得してくださっているのに。あんたは何様です。坂井社長より偉いおつもりですか?」
 社長は一気に十歳くらい老け込んだ顔をして、無言でうなだれている。
「少なくとも、おまえなどよりはずっと道理を知っている」
「目上に対する口の利き方も知らないくせに。……さすがに前科者だけありますね」
「……」
 怒りをこめてまっすぐに睨み返したゼファーに、筧氏は一瞬ひるんだようだった。
 しかし、すぐに立ち上がると、やれやれと言うように首をすくめ、ちらりと社長を見た。
「こんな野蛮な男を製造主任として置いているなんて、グループ企業としては不適格としか言えませんね。この提携はなかったことにしてもよいのですよ」
 勝ち誇った顔をした男をしばらく見つめて、ゼファーは心を決めた。
「わかった。俺が辞める」
「何を言う、瀬峰主任」
「社長、その代わり、樋池の分の赤丸を消してやってくれ」
「待ってくれ、瀬峰くん!」
「……長い間、世話になった」
 追いかけてこようとする社長を振り切って、彼は工場を後にした。


 その日一日、ゼファーは公園のベンチに座っていた。
 まるで、病院から退院したばかりの日々に戻ったようだった。わずか数年前のことなのに、遠い遠い昔に思える。
 工場の定時の退社時間になっても、家に帰る気がしない。
 佐和になんと説明すればいいのだろう。あれほど新しい家を買うことを楽しみにしているのに、マンションの頭金どころか、明日の糧すらおぼつかなくなってしまった。
 会社を辞めたことが、困難な状況から尻尾を巻いて逃げ出すも同然だったのは、わかっている。それでも今の自分にはああするしかなかった。
 アラメキアにいた頃は、力に満ちあふれていた。すべての者が彼の魔力の前にひれ伏した。だが、今の彼には何もない。本当に何も。
 ゼファーはこの世界に来てから、自分の無力さをいやというほど思い知った。もはや精霊の騎士でも魔王でもない、ただの人間。何もかもが思い通りにならない毎日を送って、人間はわずか数十年の人生を老いて死んでいく。
 それでも不思議なことだが、人生に対して絶望してはいなかった。たとえ力は弱くとも、ともに寄り添って生きるべき大切な人々がそばにいる。人間の生は短く儚いからこそ、貪欲に夢を見るのかもしれない。
 気がつくと、工場長によく連れられてくる居酒屋の前に立っていて、ゼファーは苦笑した。
 すっかり感化されてしまった。工場長も、ここで仕事の愚痴を全部吐ききって、家に持ち帰らないようにしていたのだろう、家族に心配をかけないために。
 人間となって七年、ようやく、本当の意味で人間の気持ちがわかるようになった。
 暖簾をくぐると、まだ夕方の居酒屋には、驚いたことに大勢の先客がいた。
「よう、ゼファー」
 工場長がすでに顔を真っ赤にして、銚子を傾けている。
「どうしたんだ、工場長。こんな時間に」
「俺も、工場を辞めてきたんだよ」
 ダミ声でそう言うと、工場長はぐびりと一気に、猪口の酒をあおった。
「世の中には、どうしても譲れんものがある。おまえを見て、それがわかった。それを譲ってまで、仕事や金にしがみつきたくはないってな」
「瀬峰主任!」
 女性従業員の水橋も、奥のテーブルから手を振った。
「私も自分から辞表を叩きつけてきちゃいました。だって、主任のいない工場なんかに、もう何の未練もないんですもの……。あわわ、言っちゃった。ウソですよ。私、酔ってます。酔ってますからね」
「主任」
 樋池が立ち上がり、なみなみと注いだビールのグラスを不自由な両手で支えながら、歩いてくる。
「ありがとうございます。主任が僕の代わりに辞めたと聞いて……。僕、今までずっと職場を転々としてきたから、もう絶対にここを辞めたくないと思ってたけど……。違うんだ、ってわかりました」
 差し出したコップからビールがこぼれ、樋池の目からも涙があふれた。
「主任みたいに勇気のある人になりたい。僕も、別の仕事をまた探す覚悟ができました」
 店内のあちこちから、同意の声が上がる。
「瀬峰主任、地獄の底まで俺たちもついていきます」
 笑い声があがった。
「楽しそうだな、おまえたち」
 ゼファーは呆れたようにつぶやいた。「ここにいる全員、会社を首になったんだぞ」
「みんなでリストラ、こわくない」
「いっそのこと、このメンバーで新会社を作りましょう」
 冗談じゃない、と言いかけたゼファーは、彼らの表情を見て、口をつぐんだ。
 腹の底にずしりと重いものがのしかかる。この世界に来て、ヴァルデミール以外の家臣というものを持たなかった。たくさんの部下の生命を預かる責任というものを、忘れかけていた。
 こんな身の引き締まる気持ちがするのは、久しぶりだ。
 カウンターに座って、樋池から受け取ったビールを一息に飲み干し、高ぶる気持ちを静めていると、また入り口の引き戸が開いた。
 振り返ると、疲れきったように背中を丸めた、小太りの男が入ってきた。
「社長!」
 誰かが叫んだ。
「やっぱり皆、ここにいたか」
 彼はやつれた頬に弱々しい笑みを浮かべると、よろよろとゼファーの隣の席に座り込んだ。
「……どうした。社長」
 何か言いたげな相手の様子を察して、ゼファーは問いかけた。
「わたしはいったい、何を守りたかったんだろうなあ」
 ぼんやりとした口調で、社長はゆっくりと従業員たちの顔を見回した。
「社員のために会社を存続させたいと、そればかり願っていたはずなのに。わたしが守りたかったのは、建物や株券じゃない、働いているひとりひとりの社員だったのに」
「……社長」
「わたしはバカだったよ。いつのまにか、本来の目的を見失っていた。瀬峰くん、きみの『俺たちはレンタル用の機械じゃない』という言葉を聞いて、やっと目が覚めた」
 社長の目がうるんでいる。居酒屋の中がしんと静まり返った。みな、社長の一言一句を聞き漏らさぬように、腰を浮かして身を乗り出している。
「――リンガイ・グループとの提携は、白紙に戻した。リストラは、もうなしだ」


 初夏の宵の風は、少し肌寒いほどだった。
 喧騒に慣れた耳には、静けさは心地よい音楽となる。ゼファーは宴の余韻を楽しみながら、ひとり家路をたどっていた。
 他の従業員たちも続々と集まって、居酒屋ではにぎやかな祝会が繰り広げられた。ひとりの退職者も出さずに、会社が今までどおり、独立を貫く経営方針に戻ったことを、みな一様に喜んでいた。
 しかしゼファーは、心の片隅にひとかけらの不安を抱えていた。それは工場長も同じだったし、どこかほっとしたような表情を浮かべながらも、ついに満面の笑みにはならなかった社長も同じだったろう。
 ゼファーが、アラメキアでみずから行なったことだ。すべての魔族をひとつの国に束ねるという大義ゆえに、魔王の軍門に下らなかった小部族を、彼がどのように非道に扱ったか。
 リンガイ・グループに逆らった工場の将来は決して安寧なものではない、という気がした。
 しかし同時に、身体の奥底で熱い血がたぎる。久しく忘れていた高揚感だった。ゼファーは、骨の髄まで自分が指揮官であり、王であることを思い出している。
「あの52人を絶対に、路頭に迷わせたりはせん」
 目を閉じ、いつのまにか呟いていた。
 そして彼らにもまして、ゼファーには幸せにしなければならないふたつの生命がある。
 瞼の裏に佐和と雪羽の顔を思い浮かべると、彼はいつしか微笑んだ。そして、彼らの待つ家に向かって、自然にその足は速まるのだった。









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