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EWEN

Episode 7
シュプール


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 §2

 みんな一斉に振り向いた。
 信じられないことに、その声はディーターのものだった。
「ナイフを、背中から心臓に突き立てた。すれ違いながら、頚動脈を切り裂いた。まだもっとあるぜ。全部話してやろうか?」
 私は、恐怖に内臓が縮み上がった。
 ディーターは微笑んでいた。だがそれは、今まで見た、人を包みこむ優しい笑みではない。
 昏い影が落ちる瞳にかすかに写る、無関心と冷酷さの入り混じった光。
 まるで、別人のようだ。
「なんなら、ここで実演してみせようか?」
「やめなさいっ! ユーウェン!」
 円香の短い、しかし鋭い声が響いた。
 ディーターは彼女をちらっと睨みつけると立ちあがり、自販機コーナーに向かって歩み去ってしまった。
「ごめんなさい。嫌な思いをさせてしまって……」
 円香はすぐに笑顔に戻ると、落ちついた声で皆に謝った。
 この2人はいったい何なのだろう。
 最初は、優しいご主人に円香が子どものように甘えている夫婦だと思った。だが、今のは全く違った。
 まるで、戦場で相対している敵同士のような緊張感がふたりのあいだにあった。
「円香さん……。きみは彼のことを、別な名前で呼んでいたようだったが……」
 我に返った三島さんのご主人が、いぶかしげに訊ねた。
「ええ。ユーウェンというのは、彼のもうひとつの人格……。正確に言えば、人格状態なんです」
「なんだって?」
「ディーターは、心の病気やったんです。『解離性同一性障害』という名前の……」
「カイリ……?」
「多重人格障害とも言われています」
「多重人格?」
「ひょう。カッコいい! 『サイコ』みてえ!」
「全然、かっこよくなんかない!」
 円香は静かに、しかし有無を言わせぬ激しさでカオルをたしなめた。
「彼はこの病気のために、どれほど苦しんだか……。自分ではどうしようもないんです。小さい頃受けた虐待のために、自分では知らないあいだに多くの人格に分かれてしまった。そのひとつがユーウェン。彼は本当に人を殺したこともあります。北アイルランド紛争という特殊な状況の中だけど……」
「……」
「長い間、病院で治療を受けて、やっと人格は統合された。けど、ときどき消えたはずの人格の一部がごく表面に出てくることがあるんです。精神がとても動揺したときや、疲れたときは特に……。さっきユーウェンって呼んだのは、そのことを彼に自覚させて自分を取り戻してもらうためです。
2ヶ月前から病院の薬に頼るのをやめようとしています。でもその反動がきついらしくて、私には言わないけど、とても辛そうなの。だから、こうして旅行に来て、少しでも気分が晴れたらいいと…」
「それなのに、僕らが言い争ってしまったから、彼は……」
「いいえ。そうやないんです。本当のこと言わないと、みんなに誤解されたままで彼があとで一番苦しむと思うから、話しました。嫌なこと聞かせて、ごめんなさい」
 微笑む円香の目に涙があふれる。
 話し終わったとき、ディーターが戻ってきた。
 普段の彼だった。穏やかで少し悲しげな表情をしている。
 一同の目は、彼の左手に巻き付けられた白いハンカチに釘づけになった。血がにじんでいた。
 確証はないが、多分ペンか何か尖ったもので自分の手の甲を突いて、正気を取り戻したのだろう。
「お帰り。ディーター」
 円香はうれしそうに満面の笑みをうかべて、彼女の上にかがみこむ彼を抱きしめた。
 私たちは皆、あのユミリやカオルでさえも、ものも言えずに押し黙っていた。
 こんなに無邪気で幸福そうなふたりが、どれほど重いものを背負って結婚生活を送っているのかを知って、私は顔をそむけて裕二を見た。
「円香さん……。ご主人の病気は幼児期の虐待のせいだと言ったね」
三島さんのご主人が身を乗り出すようにして、訊ねた。
「はい、そうです」
「ディーターくん。つらいだろうが教えてくれ。今、ご両親との関係はどうだね。昔の恨みを赦すことはできたのかい?」
「いえ、彼の両親は小さい頃亡くなりました。彼は叔父さんから虐待を受けたんです」
 円香が代わりに答えた。
「そうか……」
「……あなた」
 奥さんが、不安そうにご主人に寄り添った。
「実は、僕たちの娘も今、精神病院に入院している……」
「……!」
「ちょうどユミリくんと同じ年頃だ。拒食症とアルコール依存症を患っている。売春暦もある。今、この近くのA高原ホスピタルに入院している。僕たちは、面会に行ってその帰りにここへ来た……」
「そうですか……」
「ユミリくんにあんなひどいことを言ったのは、同じ年頃の子を見て、つい娘と向かい合っているような気になったせいだ。赦してくれ」
 ご主人は、とまどった顔のユミリの前で、ただじっと頭を下げた。
「由布子に面会しようとしたら、思いきりののしられた。あんたたちのせいで、私はこうなった。あんたたちが悪いんだってね」
 三島さんの奥さんは、ご主人の背中で泣き崩れた。
「……由布子は小さい頃からとてもいい子だった。僕たちの自慢の子だった。主治医は幼児期の僕たちの育て方に問題があったと指摘した。いったい何が悪かったのか今でもわからないんだ。それを考えるために、ここに来た。学生時代ふたりで来たところで最初から、由布子が生まれたときのことからずっと考えている。だけど、答えが出ない」
「あのね。親はシカトするんだよ!」
 突然ユミリが熱っぽい声を張り上げたので、私たちはびっくりした。
「いい子でも悪い子でも、親はシカトするんだよ。子どもは、親にかまってもらいたくていい子や悪い子になるのに、親はそれがわからないんだよっ!」
 ユミリは、目の縁を赤くしていた。
「そうだったのか……」
 彼は何度もうなずいた。
「由布子は、寂しかったんだな。何も言わなくても素直ないい子だと、私たちはまるで完成した品物のようにあの子を置き物にしてしまって、ほったらかしておいたんだな。本当はいつも抱きしめてほしくて、かまってほしかったんだな。……ありがとう。ユミリくん。やっと少しだけわかったよ」
 三島さんは、泣いている奥さんを引き寄せて、背中を撫ぜながら、
「でも、わかってももう遅いな……。今からやり直すには、もう遅すぎる」
「いいえ、やり直せます」
 円香が、きっぱりと透き通った声で言った。
「取り戻せない時間なんてありません。気づいたときから、人間はやり直しがきくんです。子どもの頃に足りなかった愛情を今倍にして、あげればいいんです」
「……円香さん」
「私は、そう信じてます。ディーターが子どものときに受けることも与えることもできなかった愛を、与え合うために私たちは結婚したんやて、思ってます」
「でも、由布子は僕たちに心を開くだろうか。あんなに私たちを憎んでいるのに」
「俺は、もう憎んでいない」
 ディーターが、円香の肩を強く抱き締めながら言った。
「俺を虐待した人を憎んではいない。あのときがなければ、俺は円香に出会えなかったから。……由布子さんにも、きっとそういうときが来ると思う」
「……ありがとう、ディーターくん」
 三島さんは、奥さんと顔をすりよせるようにして、はらはらと涙を落とした。
「そうだよ。人間はいつだって、やり直せる。生きてさえいれば、いつだって」
 私が思わず呟いたことばに、みんなはっと顔を上げた。
「真奈ちゃん……」
「でも、今日わかった。人間はたとえ、死んだってやり直せるってこと。私は今、やり直せると思う」
 私は、裕二に向かって微笑みかけた。涙で彼の顔はぼやけて見えたけれど。
「私も、この半年ずっと精神科に通ってたの。鬱病だって言われた。現実を認めることが、怖くてできなかった」
 私の中で止まっていた時間。あれからずっと。
「最後に裕二と会ったとき、けんかしたの。他の女の子と仲良くしたことを嫉妬して、ひどいこと言ってしまったの。だから認めたくなかった。裕二がそばにいるふりをして、半年間生活した。彼がいっしょにいるふりをして、しゃべったり、笑ったり、テレビを見たり……。認めてしまう自分が怖かった。
そしてふと思い出したの、1年前初めてサークルでいっしょに来たこのペンションに、また行こうねってふたりで約束したのを。ひとりでも行かなきゃって無我夢中で、オーナーに無理を言って、二人分として予約した」
 でも、彼といっしょに描いたはずのシュプールは、ひとつだった。
 彼が座ったはずの席には、食事が出されなかった。
 彼の前に置いたビールは、誰も口をつけなかった。
 私のそばにいた裕二は、黒い枠の額に入れられた写真にしかすぎないから。
「でも、今裕二が私を赦してくれたのを、感じた。だから、私は認める。裕二は半年前に、死んだ。私は生きている。そして裕二を愛している。これで、いいんだよね」
「うん、真奈ちゃん。それで、いいんだよ」
 円香のことばに私はやっと、大粒の涙をこぼした。
 裕二の写真を胸に抱いて、半年間流さなかった涙を流すことができた。


 あくる日の朝、私は荷物をまとめて、チェックアウトのためロビーに降りた。
 三島さん夫婦が、先にカウンターに来ていた。
「お世話になりました……って挨拶も、変ですよね。でも、本当にありがとうございました」
「何も僕たちはしていないよ。ただ話しただけ。これからも大変だけど、お互いがんばろうね。……ああ、がんばろうってのも変だねえ。それでも、こんな挨拶しかできないな」
「ふふっ」
 私は、奥さまと顔を見合わせて、微笑んだ。
 精算を済ませたとき、ユミリとカオルがばたばたと階段を降りてきた。相変わらず騒々しい。
「あ、おねえさん。もう帰るの?」
「うん。ふたりとも、元気でね」
「うん。あ、彼の写真のこと、キモいなんて言ってごめんね」
 ゲレンデへと走り去って行くユミリのあとを追いかけようとして、カオルは足を止めた。
「あのう、きのう話したことだけど……」
「ん?」
「なんか、やたらとクサイ話ばっかりだったけど、なんか残った、つーか、責任とらないっていう言葉が、こたえたっつーか……」
「ユミリちゃんを大切にしてあげてね」
「なんすか、それ」
「簡単なことだよ。とりあえず彼女より先にバイク事故なんかで死んじゃわないこと。彼女を悲しませないこと」
「ま、努力してみます」
 カオルは、ピアスをはめた口でにっと笑うと、走って行ってしまった。
 バッグを持ち替えて、まぶしい陽光があふれる戸外に出た。
 入り口で、スキーウェア姿の円香とディーターが待っていた。
「真奈ちゃん」
「円香。ディーター。あなたたちは、もう一泊?」
「うん。今日はもう徹底的に特訓。プルークボーゲンもパラレルターンも、マスターするまで帰らないつもり」
「うわあ、そりゃ一泊じゃ足りないんじゃない?」
「あのね、真奈ちゃん」
 円香はディーターと顔を見合わせてから、言いにくそうに話し始めた。
「実は私たち、瑠璃子に頼まれてここに来たの」
 ああ。
「スキーに行く計画を瑠璃子に話したの。そしたら、真奈ちゃんのこと聞かされて、あの子とてもあなたのこと心配してて、私たちに見ててほしいって。それで、嬬恋に計画を変更したの」
 やっぱり、そうなのか。
「なんとなく、わかってた」
「ほんと?」
「だって、普通じゃ考えられないもの。私たちに話しかけるなんて。黒枠の写真を持った女に、まるでカップル同士みたいに話しかけるなんて」
「ごめん」
「謝る必要なんてないよ。私、とてもうれしかった。裕二が生きているみたいに話しかけてくれて、ディーターはビールまでおごってくれて、私、ほんとに4人で楽しくおしゃべりしてるみたいに感じた」
 ディーターは手をすっと伸ばして、裕二の写真に触った。
「きみたちと知り合えてよかったよ。真奈ちゃん、きみを通して裕二と出会うことができて、よかった」
「……ありがとう。ディーター。……円香」
 私は、熱くなった目頭をそっと拭った。
 駅までの送迎バスに乗りこむとき、円香がこっそり私に耳打ちした。
「瑠璃子に注意しいよ」
「え?」
「あの子、人に手記を書かせるのが趣味やから。絶対、ここでのこと書けって無理やり押し付けられるよ」


 円香の言ったことは本当だった。
 それで、私は今この文章を書いている。
 でも、多分これを書くことは、私自身のためでもあるのだ。
 私の文章を通して、裕二は今も私といっしょに生きている。
 そして私は書くことで、自分の人生を、また私の出会った多くの人の人生を生きることができるのだから。



   
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