クリュスとは、【黄金の島】を意味することばである。 太古の昔、マリネリス渓谷を流れていた巨大な川が豊かに注ぎ込んでいたクリュス平原。今は見渡す限り金色の砂漠が広がっているこの大地に、今の航宙ポートの前身である【地球連合・火星ベースメント】が建設されたのは、22世紀半ばのことだった。 火星の本格的な開拓と殖民が始まったのは、そのときからである。 まもなく開港百周年を迎えようとするクリュス航宙ポートから、今しも一機の個人用クルーザーシップが離脱するところだった。シップはそのまま火星の周回軌道を半周すると、漆黒の虚空に向かって一気に加速して飛び立った。 人間が自分たちの国家と政治システムを、【銀河連邦】などと大仰な名前で呼ぶのは、ある意味こっけいなことだ。 23世紀の今なお、人の住む宙域は太陽系のごくごく一部に限られているからだ。 地球、月、サテライトベース、火星、そしてそれらを取り巻くように点在する大小の中継ステーション。 小惑星帯から外の宙域を【外域】と呼び、太陽に近い、火星から内側の宙域を【内域】と呼ぶ。 外域とはすなわち、生命がほぼ皆無の死と静寂の世界だ。 そのふたつの境界に相当するのが、クルーザーシップが今向かっている宙域である。 火星の公転軌道の百万キロ外側に十二基あるステーションのうちのひとつが、【有人中継ステーション・S66】。通称【百万キロポイント】とも呼ばれ、事実上、外域に向かっていくロボット調査船や鉱物採取船の、最後の寄港地となる。 ここを過ぎれば、航行シップにとってもう頼るものは何もない。反対に、困難な旅を終えて帰還するシップにとっては、最初に見つけることのできる希望の光だ。 中継ステーションはいわば、未知の宇宙に向かって輝きを放つ、孤島の灯台なのだ。 S66ステーションは宇宙座標上で静止しているために、火星が一公転する670日ごとに、火星と最接近する。 出航して18時間後。クルーザーシップは、ぴたりと寸分の狂いもない正確さで、S66のハッチにドッキングした。 プルシアンブルーの制服を着たパイロットがひとり、加圧が終わったエアロックからステーション内部に入った。 「人間をここに迎えるのは、かれこれ半年ぶりだな」 迎えたのは、がっしりとした骨格の、老齢の男。 勲章のついた緑のベレー帽と、その眼光の鋭さは、彼がかつて銀河連邦軍の将校であったことを現わしている。 「意外と元気そうじゃないか、キャプテン・神楽」 レイ・三神は、片手に下げた日本酒の耐圧式一升ボトルを二本掲げて、にやりと笑った。 「670日ぶりに、いっしょに一杯やらねえか」 「結婚したんだってな、レイ」 明滅する計器類に囲まれた、薄暗いステーションのラウンジの床に向かい合って胡坐をかき、彼らは杯を打ち鳴らした。 「ああ、もうずいぶん前のことだ」 「えらく別嬪らしいな。クシロポートで航宙管制官をしてると聞いたが」 「よく知ってるな。どこから情報を得た?」 「ふふ。宇宙で飛び交う噂話のたぐいは、全部傍受してるよ。なにしろ、時間だけはたっぷりあるからな」 神楽はうまそうに、一気に杯を干した。 「前回の火星接近でここを訪れたときには、もう結婚していたはずだ。なぜ俺にそのことを報告しなかった」 「そんな照れくさいこと、自分の口から言えるかよ」 「もしかするとおまえ、俺に遠慮してるんじゃないだろうな」 「まさか。何を遠慮するってんだ」 「そうでなければ、それでいい」 老人は、開け放たれたスクリーンから窓の外に顔を向けた。 彼が見つめる窓は、ステーション全体がゆっくりと回転しつつも絶えずアウターに向かっている。目に映るのはただ、広大な闇。 だが、その暗黒の二億キロ向こうには小惑星帯が、そしてさらに気が遠くなるほど遥か彼方に、木星とその衛星があるはずだった。 酔いが身体中に行きめぐったのを感じると、男たちは今度はゆっくりと、酒の旨さを舌で味わい始めた。 「ここも、もうおしまいだ」 新しい液体が注がれるのをじっと見つめながら、神楽が他人ごとのようにつぶやいた。 「俺が辞めたあとは、もう誰もここには赴任してこない。こんな不景気な世の中じゃ、めったにアステロイドベルトへの採石船も飛ばない。去年一年でこのステーションを経由したシップはたった五機だ」 「ああ、だろうな」 「他の中継ステーションと同様、いずれロボットシステムに移行することになるだろう」 なみなみと注がれた酒を、神楽はぐびりと飲んだ。レイも同じように飲んだ。 「辞めたあと、あんたはどうするんだ」 「さあ。火星かどこかの安アパートにでも入って、なるべく引き篭もって暮らすさ。こんな生活を十年も続けてると、もう人付き合いなんて面倒なことはごめんだからな」 「地球に、帰るつもりはないのか」 神楽は酒を飲み下して、フッと笑いをもらした。 「もうあそこには、誰もいないからな」 レイは、杯をコトリと床に置く。 「あんたはやはり、俺を恨んでるんだろうな」 「何を言い出すかと思えば」 「俺がいなければ、あんたの娘は助かったかもしれない」 「バカな」 「いや、調査団の船長がもし冷静な判断をくだしていたら、俺の代わりにあんたの娘を救命ボートに押し込んだはずだ。そうすれば、ふたりの命が助かったんだからな。彼女自身と、それから――」 喉の奥でうなるように付け加える。「お腹の中にいた、あんたの孫とだ」 「人間の命とは、そうそう算数の計算のように割り切って考えられるものではないよ、レイ」 神楽はゆっくりと首を振った。 「隕石衝突から爆発まで、わずか数分。十分な時間ではなかっただろう。とっさの決断を迫られたキャプテンの目に、四歳のおまえが映った。いや、おまえを選んだことは正しかったと俺は今でも思っている。たとえ俺が、自分の艦で艦長として同じ状況に立ったとしても、きっと同じ選択をしただろうよ」 「俺はな。キャプテン」 自分の杯に注ごうとしたレイの手は、かすかに震えていた。 「航宙大学であんたと会うまでは、自分は罰を受けるべき人間だと思っていた」 「罰? なんの?」 「自分ひとりだけ生き残ってしまったことさ。あのシップには、もっと価値のある人間がいくらでもいたのに、なぜ他の誰かではなく俺だったんだ? ほかの大勢の人間を見殺しにして、俺だけが生きることが、本当に赦されるのか?」 「おまえはまだ、そんなことを言ってるのか」 「憎んでも当然なはずの俺のことを、あんたは教官として二年間親身に指導してくれた。おかげで、俺は生きていていいんだと初めて心底から思えたんだよ」 レイは酒を口に含みながら、苦い笑いをこぼした。 「――でもな、今でも時折たまらなくなることがある。こんなに平和に暮らしていていいんだろうかと」 神楽はそれを聞いて、笑い出した。 「おいおい、だからって、新婚の奥さんをほったらかしにしてるんじゃないだろうな」 「ほったらかせるような女だったら、苦労はしねえ」 「そいつは、けっこうなことだ」 元教官は、足元でもてあそんでいた空の一升瓶を爪先で蹴った。瓶は、ステーションの床のゆるやかな傾斜に合わせるように、ごろごろと床をころがった。 「学生簿の中におまえの名前を見つけたときは、正直動揺したよ」 神楽は静かに言った。 「だが、非科学的な言い方だがな。クミたち夫婦とお腹の子が、おまえに会わせてくれたと思ったんだ。俺はそのことに感謝しているよ」 レイは、黙って杯を傾けた。 「なあ、レイ。死んだ者たちは、生きている者の幸せを恨んだりはしないぞ。まして、おまえはあの灼熱のイオの地で生を受けた、たったひとつの命だった。調査移民団すべての祝福を受けて生まれた赤ん坊だったんじゃないか」 そのことばを聞いたレイの薄茶色の瞳が、一瞬何かの幻を見たように細められた。 「このステーションに俺がいるのは」 なおも神楽は、話し続けた。 「もしクミたちが、あの小惑星帯の墓場から地球に帰ってくるとしたら、真っ先にここで会えるはずだからだ。だから、ここで俺は番をしてるのさ。寂しくはない。あの子たちがそばにいてくれた」 神楽は何度も目をしばたき、ベレー帽を深々とかぶり直した。 「俺は十年間……ひとりじゃなかった」 ふたりはそれから黙り込んだまま、酒を酌み交わした。やがて何かに促されるようにして、同時に窓の外へと顔を向けた。 その瞬間、死と静寂が満ちているはずの外域宇宙から、暖かい風が吹いてきたようだった。 風は、オンボロの【S66中継ステーション】をやさしく愛撫し、赤茶けた火星をかすめて、月へ、地球へ、ふうわりと流れていく。そして、地上の木々の梢を揺らし、夜空にまたたく星々を揺らす風となって吹き抜けるのだ。 酒に酔った男たちの馬鹿げた妄想ではあったが、その感覚は奇妙ななつかしさをともなって、胸を熱く満たした。 滅菌用の長いクリーンエレベータを降りてクリュス航宙ポートの地上デッキの床を踏みしめたとき、揺るぎのない大地を感じたレイ・三神は、大きな吐息をついた。 それは、彼が大地の女神の祝福を受けたしるしであり、本来の自分に戻ったことの合図でもあった。 「キャプテン」 ロビーに、聞きなれた太いダミ声が響いた。あごひげの白い中国人の男が、こちらに向かって手を上げている。 「タオ。どうしてここに」 「なあに。整備ドックへ寄った帰りに、あんたのプライベートクルーザーが着港リストに載っているのを見つけてね」 近づいてきたYX35便の機関長は、訳知り顔で笑った。 「また、あそこに行っとったんだろう。キャプテン」 「よくわかったな」 「もう何年の付き合いだと思っとる」 小柄ながら精悍な身体をクイとそらせるようにして、タオ機関長はドームのガラス越しに火星の空を見上げた。 「かつては宇宙海賊どもを震撼させた名艦長キャプテン・神楽。あいつもさぞ、いい老いぼれになっただろうて」 「ああ、こうやって2年ごとに会いに行くのも、これが最後だろう」 「わしらの世代は、そろそろ引退か。わしも、潮時かもしれん」 ひとり呟いていたタオは、突然はじかれたように、険しい表情で振り向いた。 「キャプテン。まさかとは思うが、あの話受けるつもりじゃなかろうな」 「なんだ、唐突に」 「もしや、キャプテン・神楽にそのことを相談に行ったんじゃないかと思ってな」 レイ・三神を見つめる眼は、いつになく厳しい。 「気持はよくわかる。だが、こればっかりは、おまえさんが背負う筋合いのことじゃない」 「そうだな」 「絶対に引き受けちゃならんぞ。今のおまえさんには、何にもかえがたい大切な人がいるんだ」 レイの薄茶色の瞳が、穏やかな笑みに彩られた。 「ああ。今の僕にはユナがいる。もちろん、この話は断るつもりだよ」 「それならよいが」 タオはまだ疑い深そうに眉をひそめた。 「おまえさんの性格をよく知っておるだけに、ちと心配だったんだ」 背を向けて歩き始めたタオの後ろで、レイはそのまま立ち尽くしていた。 宇宙の風が、今しも身体のそばを吹きぬけたかのように、彼は小さく身震いした。 |