気がすすまないわ。 エレベータの中で声に出さぬよう呟きながら、ユナ・三神は、きらびやかなドレスの裾を意味もなく直していた。 23世紀になっても、舞踏会の衣装は基本的には19世紀とまったく変わらない。細いウェストと、ふくよかなバストを強調するシルエット。ターンしたときにふわりと風をはらむドレープ。 ただ、絹やジョーゼットの代わりに使われている繊維は、限りなく軽く美しい。1700度から−100度という耐熱性とダイヤモンド並みの強度。宇宙服やパラシュートの素材としても利用されている。 航宙大学の卒業祝賀パーティにはふさわしい布地だと、ひとめで気に入って買い求めたものだった。このアイスブルーなら、夫の制服との相性もよいはず。 これを着て、レイにエスコートされて入場することを楽しみにしていたのに、なんと彼は卒業式での来賓スピーチを頼まれ、朝から出席しなくてはならないと言う。 カップルだらけのエントランスを抜けて、女ひとりで舞踏会場に入るのは心細かった。 最上階でエレベータを降りると、そこは空中回廊になっていて、透き通った水晶のように輝く階段が、こちら側と向こう側に一対ずつ、吹き抜けの広いホールへと降っていく。 上から眺めると、【クリスタル・ボールルーム】は、すでに大勢の先客でにぎわっていた。さすがに航宙大学主催の舞踏会だけあって、制服が目立つ。一級航宙士のプルシアンブルー。二級航宙士のセイラーブルー。そして銀河連邦軍の緑のベレー帽。 そこかしこに、真新しい制服の初々しい若者たちが多いのは、卒業したばかりの航宙士が今日の主賓だからだろう。彼らは今朝、この同じボールルームで行なわれた卒業式で、天にも届けとばかりに新しい制帽を、歓声とともに投げ上げたに違いない。 ユナはドレスの裾を指でつまむと、ゆっくりと階段を降りて行った。 レイはどこにいるのかしら。 グラスを手にさざめく客たちのあいだを通り抜けながら、夫の姿を懸命に探す。 どれほどの人ごみの中でも、林の中の林檎の木のように、レイの背中はひとめでわかる。背が高く、たくましく、それでいて、どこか繊細さを感じさせる後姿。 (あ、いたわ) 駆け寄ろうとして、ユナは思わず足を止めた。 それは、レイではなかったのだ。 その男は、まるで彼女を待っていたかのように振り向いた。 「お久しぶりです。レディ・三神」 彼は制帽を取り、金髪の頭を屈めてお辞儀した。 「ランドール・メレディス……」 ユナは、軽い目眩を覚えた。 それほどに、彼はこの一年間に変わっていたのだ。 粗野で悪党ぶった、強引な態度はすっかり影をひそめ、その物腰は礼儀正しく、自信にあふれていた。 「ご卒業おめでとうございます」 ユナは内心の動揺を押し隠しながら、お定まりの祝辞を口にした。 「ありがとうございます」 ランドールは、その湖のような瞳を細めて微笑んだ。 「ユナ」 そのとき、背後から救いの手が差し伸べられた。 待ち焦がれていた夫、キャプテン・三神が近づいてきたのだ。 「レイ」 ユナは心の底から安堵して、肩の緊張を解いた。 「遅かったね。15分の遅刻だ」 「ひとりではなかなか、このドレスが着られなかったの。幼稚園のとき、リボン結びがクラスで一番下手だったのよ」 ふたりが抱擁を交わす光景を、ランドールはじっと見つめていた。 「キャプテン、ちょっと失礼します」 「ああ」 その場を去っていく若者を見送りながら、レイはぽつりと言った。 「ランドールは見ちがえるほどに成長した。さなぎはこの一年で見事な蝶になった」 「……ええ、本当に」 「二級から一級航宙士へのグレードアップは、二年かかるのが普通だ。一年で卒業というのは、並大抵の努力ではなかったに違いない」 夫はかたわらの妻を向いて、笑顔で言った。 「彼にそこまでさせた原動力が何なのか、僕にはわかるような気がするよ」 「え……」 ユナはそれを聞いて、ひどく戸惑った。そして夫の暖かい眼差しを見つめ返しながら、不意に不安に駆られるのを感じた。 それは、レイとランドールとを一瞬にせよ取り違えた、自分に対する不安なのかもしれなかった。 空中回廊を演台代わりにした、航宙大学の学長の挨拶と乾杯が終わると、階段に陣取っていた16名編成の室内オーケストラが、華やかな音楽を奏で始めた。 「ほらね。ヨハン・シュトラウス二世の『皇帝円舞曲』だ」 他の来賓たちと談笑していたレイとユナは、顔を見合わせてクスリと笑った。 「僕の知るかぎり、卒業舞踏会の一曲目に、彼らは必ずこの曲を選ぶんだ」 レイが恭しくお辞儀をして妻の手を取った。着飾ったカップルが色とりどりの花びらのように、くるくる踊る会場に、ふたりも静かにすべり出た。 キャプテン・三神夫妻の美しく優雅なステップは、はっと人々の視線を引き、会場のそこかしこで感嘆のため息を誘った。 夫の巧みなリードに身を任せ、少女のように甘い興奮に酔いしれながら、ユナは思った。 もし、この世に完璧な幸せというものがあるなら、今がその瞬間かもしれない、と。 曲が終わり、次のカップルたちに場所を譲ってから、彼らは壁際の空いている椅子を見つけた。 シャンパンを取ってくるというレイと離れ、息を整えながら待っていると、すぐ目の前に人影が立った。 それがランドールであることを見て取ると、ユナはにっこりと笑った。 「もう、どなたかと踊っていらしたの?」 「いいえ」 ランドールは首を振った。「最初に誘う相手は、とっくに決めていましたから」 そして、彼女の目前で片手を引いて深く一礼する。 「マダム。次の曲でお相手をしていただけますか」 「え……」 ユナは眉を軽くひそめ、そして助けを求めるように、戻ってきたレイを見た。 「卒業生からのダンスの誘いは、たとえ女王陛下でも断るわけにはいかない。卒業舞踏会の固い掟だよ、ユナ」 レイは茶目っ気たっぷりに微笑むと、妻にシャンパンのグラスを手渡した。 「さあ、これで喉をうるおして。こいつは僕と違って、手加減などしてくれないからね」 「ええ……」 曲が替わったとき、ユナはランドールに手を取られて、ふたたび会場に進んだ。 「実を言えば、この三曲目を狙っていた」 ランドールは、照れくさそうに呟いた。「ダンスの教習ビデオの練習曲だったから」 ことばとは裏腹に、彼のリードは力強かった。 ユナは、ステップに集中した。間近で彼と目を合わせれば、いやでも、あの雨の夜の強引なキスを思い出してしまう。 「ユナ」 吐息まじりのささやき声が、耳元をくすぐった。 「会いたかった」 血の気がすっと引き、身体が自然と強張る。 まるで拷問にも感じられた数分が終わると、ユナは自分からパートナーの腕をほどいた。 「ありがとうございます。楽しかったわ。ここで失礼します」 パウダールームに逃げ込もうとする彼女を、 「待ってくれ」 ランドールの低い声が呼び止めた。ユナは立ち止まり、おびえたような仕草で振り向いた。 「俺のことを、やはり避けるんだな」 苦渋に口元をわずかに歪めながら、歩み寄ってくる。 「せめて顔さえも、まともに見てくれないのか」 「ごめんなさい。そんなつもりはありませんでしたわ」 肺が熱い蒸気で満たされたように苦しくなって、ユナは一歩後ずさりした。 「あなたが恐がる気持は、わかる。このあいだ会ったときは、我ながらひどいことをした」 「いいえ、もうそのことは何とも思ってません。――あれは、あなたとレイとの間のささいな誤解のためだったと、あとで聞きましたから」 「ああ、俺の一方的な誤解だった」 ランドールは素直に認めた。 「キャプテンは誠実な人だ。愛情にあふれ、勇敢で冷静で機知に富んでいる。今朝、卒業式でのスピーチを聞きながら、この男には敵わないとあらためて思った」 あきらめの影が、金色の眉の上を静かに横切った。 「もう、あなたをキャプテンから奪おうなどとは、思っていない」 それを見てユナは、安堵すると同時に、何かを言わずにはいられなくなった。 「ランドール。今までのことは、なかったことだと思ってお互いに忘れませんか。この一年は、あなたにとっても十分に長い歳月だったでしょう」 「ああ、長かった。この一年で俺も変わった」 「そうだと思います。それなら――」 「取り違えないでくれ。俺が変わったというのは、反対の意味だ」 ランドールは碧のまなざしで、ユナを見据えた。 その瞬間、彼女は気づいた。今日の日のために選んできたドレスが、ランドールの瞳の色にそっくりであることを。 「今までは、腕づくでもあなたを手に入れようと思っていた。今の俺は、あなたが嫌がるなら指一本触れるつもりはない。だが――」 ユナは、観葉植物と壁の隙間にゆっくりと追いつめられた。 「これだけは知っておいてくれ。ユナ。以前よりももっと深く、愛している」 膝からすっと力が抜けそうだ。 息ができない。 駆け上ってくる恐怖を必死で抑えようと、ユナはハンカチで軽く目頭を覆った。 視界をさえぎられたとき、会場の物音が鋭敏に耳に伝わってきた。 先ほどから楽曲は止み、ダンスは小休止に入っている。続いて、オーケストラは静かな弦楽パートのみの間奏曲を演奏する予定だった。 それがいつまで経っても始まらないのだ。そして、にわかに人々のざわめきが大きくなった。 そっと開いたユナの目に、人々が一斉に注視している対象が飛び込んできた。 階段上の室内楽団のメンバーに混じって、プルシアンブルーの制服を着た男がひとり立っていた。彼は、バイオリニストから優雅なフォルムの楽器を受け取ると、居並ぶ団員たちをぐるりと見渡して、笑ってうなずいた。 「レイ!」 ユナは驚きの悲鳴を上げる。 キャプテン・三神の構えた弓が静かに動き始めると、切ないほどやさしい主旋律が会衆の心を魅了した。 リヒャルト・ワーグナーの『ジークフリート牧歌』。 あるときは穏やかに、あるときは激しく、あるいは軽やかに、重厚に。 ゆったりと高まる幸せを、そしておどけたような無邪気さを、彼らの奏でるハーモニーは、自在に空気のキャンバスに描き出していく。 豊かな余韻を残して演奏が終わったとき、万雷の拍手に会場は包まれ、いつまでも鳴り止まなかった。 頬を美しく紅潮させて舞台の夫を見つめるユナの様子を瞼に刻みつけてから、ランドールは無言で会場を立ち去った。 「はじめから、計画していたの?」 帰りのソーラーカーの中で、ユナは訊ねた。 「あの演奏のこと? いや」 レイはこともなげに答える。 「まったくの即興だったっていうこと?」 「そうだね。第一バイオリニストのグレゴリーとは旧い飲み友だちだから、すぐに話に乗ってくれたよ」 「あきれたわ」 と口では言いながら、ユナは、まださっきまでの興奮が治まらない。 信号で停まったとき、レイはユナの肩をぐっと抱き寄せた。 「あの【クリスタル・ボールルーム】の階段を見ていて、急に弾きたいと思い立ったんだ」 「なぜ、階段を見て?」 「『ジークフリート牧歌』という曲は、別名を『階段の音楽』と呼ばれていてね。リヒャルト・ワーグナーが妻のコージマの誕生日の朝、こっそり友人たちを呼び寄せて、自宅の螺旋階段で演奏した。コージマは、そのサプライズプレゼントをたいそう喜んだと伝えられている」 「私は、このびっくりプレゼントで、三年くらい寿命が縮まったわ」 「はは」 ぷりぷりと怒っている妻の髪にキスしてから、レイは車をスタートさせた。 フロントグラスからクシロの夜景を見つめながら、彼はそっと口の中でつぶやいた。 「それくらいしか、僕にはきみを止める方法が思いつかなかった」 翌朝のクシロ管制ステーションは、ゆうべの卒業パーティでのレイの名演奏の噂でもちきりだった。 「なんと言うか、もう嫌味なくらいに、世の中のありとあらゆる才能を持ち合わせた男だよ」 生方次席が本日三杯目のコーヒーを飲み干して、おおげさなため息をついた。 「ほほう。嫉ましいですか」 「いいや。俺とは別世界の人間だ。張り合う気も起こらんね」 北橋と生方の会話を微笑しながら聞いていたユナに、新人の安永悠が話しかけた。 「で、演奏なさった曲目は、何だったんですか」 きらきらと目を輝かせている。どうも彼女は、レイのすることすべてに興味を持ってしまったらしい。 「ワーグナーの『ジークフリート牧歌』と言っていたかしら」 「『階段の音楽』ですね」 悠は、なるほどと頷いた。 「室内管弦楽の演奏にはぴったりの曲です。もともと初演は15名で、ワーグナーの自宅の階段の上に立って演奏されたらしいですから」 さすがに、管制官随一の物知りだ。 「私もよくは知らないのだけれど、奥さまへの誕生日のプレゼントだったんですってね」 「はい。コージマはリストの娘で、ワーグナーの弟子であるハンス・フォン・ビューローの元妻」 「え?」 「ワーグナーてのは、だいたいヤな奴なんです。自分の熱心な支持者でもあったビューローの奥さんに横恋慕して、三人も子どもを作っちゃうんですよ。そんな男に惚れて亭主を捨てる奥さんも奥さんですけどね」 「……」 「結局ビューローもあきらめて、コージマと離婚するんです。その寛大さたるや、まるでワーグナー自身が作曲した歌劇『トリスタンとイゾルデ』のマルケ王みたいだと思いません? 不倫した奥さんを最後には赦すなんて」 ユナは、車の中で彼女を抱き寄せたときのレイの穏やかな微笑を思い出して、ゆっくりと肌が粟立つのを感じた。 |