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       YOU MADE MY DAY


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Chapter 3.

 翌日、ふたりはマンハッタンを闊歩していた。
 ワシントンスクウェアの噴水の前に座り、大勢のニューヨーク大学の学生、男女や男同士の恋人たち、ストリートミュージシャンといっしょの空気を吸った。
 日本のアメ横のように屋台が立ち並ぶオーチャードストリートで服を選んだ。
 江梨は、修悟が流暢な英語で値段の交渉をしてくれる後姿を、まぶしげに見ていた。
「すごいね。3ドルも安くしてくれた」
「あんなとこで絶対に定価で買うたら、あかんで。売るほうも買うほうも値切りが楽しみやねんからな。日本語使ってでも押したほうが勝ち。そういう点、関西人は世界中で生きていけるわな」
「でも、英語で値切ってたね」
「大学のとき、留学してたからな。ロサンゼルスのほうやけど」
「それで、ぺらぺらなんだ。タクシーでもホテルのロビーでも苦もなく話してるし」
「そういうのはみんな、日常会話程度っていうの。それに、俺の英語は関西なまりがあるらしいで」
「あはは。英語まで関西弁なの?」
 サウスストリートシーポートからのクルージングに乗船し、自由の女神を間近で見た。
 夜はピア17のしゃれたショッピングモールのカフェテラスで、きんきんに冷やしてレモンを利かせたオイスターカクテルと、トマトベースの熱いマンハッタンクラムチャウダーに舌鼓を打った。
「この頃疲れてると、頭に映像が浮かぶようになったの」
 コーヒーをかき回しながら、江梨が恥ずかしそうに微笑んだ。
「仕事で下請けの革製品の工場に行ったときに見た光景。工員がずらりと並んでて、ベルトコンベアがゆっくりその間を動いていく。工員たちは決められたとおり正確に、取っ手をはめこんだり穴を開けたり、金具を取り付けたりしていた。
そのとき見たコンベアに、黙って座って運ばれていく。いつのまにか自分がそんな存在に見えてきたの。
中学、高校、大学と親や教師の薦めるいい学校を選んで、見栄えの良さそうな人気企業をひたすら回って、今のアパレルメーカーに就職した。そして、いつかきっと適当にお金持ちの、友だちに自慢できる人と結婚する。
私って、自分の人生を選んだことあったのかな。ただ、ベルトコンベアの上の規格品みたいに、誰か他人の選んだ「これこそ最高」って道を、何も疑わずに歩いてただけじゃないのかなって。
そしたら、急に苦しくなって、何もかもいやになって、有給を全部使ってニューヨークに来ることを決めたの」
「俺もそんなやったなあ」
 修悟は頬杖をついて、窓の外の夜景をながめる。
「俺も何もかもいやになって、日本を逃げ出した。でも結局何からも逃げることはできひんかった。人間は世界のどこに行ったって、自分だけからは絶対逃げることはできひん」
 ふいうちを食らったみたいに、みぞおちが踊った。
 いつもこっちが相槌を打つ暇もなく関西弁でまくしたてて、無神経なくらい陽気な人のくせして。
 そんな寂しい横顔は、反則だ。
「江梨ちゃんに最初に会った日、留学したばかりのあの頃の俺と似てるなて思たんや。追われてて焦ってたせいもあって、あんなきついこと言うてしもた。堪忍な」
「もう、いいよ。本当のことだったから」
 出会ったときはあんなに嫌な男だと思ったのに、今はその人の前で心から微笑んでいる。
 店を出て、桟橋の固い木の床を踏みしめて、並んで歩く。夜空を仰ぐと摩天楼が、星が地上にあふれ出したように輝いていた。
「今日はおかげですっごく楽しかったよ」
「そういうとき英語で何ていうか、知っとうか?」
「知らない」
「You made my day.って言うんや」
「ユー メイド マイ デイ? 『あなたが私の日を作った』?」
「覚えとけや。外人の恋人ができたら役に立つで」
「うん」
 よろめいたふりをして、そっと彼のコートの袖をつかんだ。
「あしたも、よろしくね」


 次の日は、朝のセントラルパークでホットドッグやプレッツェルの腹ごしらえ。メトロポリタン美術館で印象派の名画やエジプトのファラオの彫像に囲まれて一日を過ごした。
 夕暮れには、エンパイアステートビルの87階展望台で、夜景を見た。林立するビル群。セントラルパークの緑。きらきら光るおもちゃ箱のようなマンハッタン。
 300年前、オランダ人が原住民から24ドルで買ったという、ふたつの川にはさまれた細長く狭い島。今は世界中の富と文化と人種が集う、奇跡の街。
「さむ――っ」
 修悟は及び腰で、吹きさらしのフェンスの側から屋内に戻りたがる。
「寒いから、デートスポットに最適、なんだよ」
 江梨は、脇からしっかりと彼のからだに両腕を回しながら、自分の大胆さに驚いてもいる。
「よかった。私ね。ずっと、ニューヨークに来て、この景色を見たかったんだ。この景色を見れば自分が変われる気がして」
 風のうなりでかき消されるのも構わず、ひとりごとのようにつぶやいた。
「でも、たった10日やそこらの旅行で人間が変われるなんて、考えるほうがおかしいよね。こっちへ来ても、結局はガイドブックの通りにしか行動できなくて、友だちを頼ってバカにされて……。日本にいるときと同じ。人間てそうそう変わるもんじゃない」
「……」
「もしかすると、『俺を信じるかどうか直感で決めろ』ってあなたに言われたとき、本当に人生で初めて、自分の力で何かを選んだのかもしれない。
あのときは死ぬほど怖かったけど、でも今考えたら、なんか楽しかったのはそのせいかな」
 修悟は、黙ってかぶさるように唇を重ねてきた。
 その見た目よりもずっと広い胸の中で、江梨はいつまでも彼の吐息の温もりを確かめていた。


 ニューヨーク最後の日。
 江梨が目を覚ますとひとりきりで、テーブルには『出かけてくる』とメモが残してあった。
 3日間使った思い出深い部屋を、感謝をこめてすみずみまで丁寧に掃除する。片付けと荷造りが終わったころ、修悟は帰って来た。
「レンタカー借りて来たで。それと、ほら、これ」
「わっ。私のスーツケース。どうしたの?」
「車借りたついでにきみの泊まってたホテルに回って受け取ってきた。もう奴らもあきらめた頃やろからな。
あ、窓やドアの修理代はちゃんと俺が払っといたから、心配せんでええで。事務所の経費で落とすよって。
……ああ。来月の給料ごそっと減らされるやろな。あの閻魔のような女に」
「ありがとう。ほんとに」
 江梨はそのスーツケースを撫でて、しんみりと呟いた。
「ああ、もうこの旅行も終わったのか……」
 修悟は、彼女の髪の毛をくしゃりと撫でた。
「ケネディ空港まで、おしゃれな車でドライブや。さ、行こう」
 路上に停めてあったのは、年代物の茶色のフォードで、あちこちのネジが緩んでいそうなポンコツだった。
「……これのどこが、おしゃれな車なの!」
「わはは、ごっつレトロやろ。金ケチったら、こうなってしもた」
 自動車のキーを差し込んで、エンジンをふかしながら彼がたずねた。
「東京の方に勤めとったんやったかな」
「うん、あさってから仕事」
「しばらく時差ぼけで大変やな」
 車は路地を右折して、6番アベニューの方に向かって走り始めた。
「ね。日本に帰ったら、私、やくざに狙われたりするのかな」
「もうそろそろ大丈夫やろ」
「そろそろ?」
「俺の手に入れた証拠書類が、もう日本に着いてる頃や。依頼人の銀行が公に発表することになってる。この頃はマスコミにすっぱぬかれる前に不祥事を公表する方がいいと、大企業のお偉いさんは悟ったみたいやな。事が公になりさえすれば、俺たちの命を狙う意味はもうあらへんのや」
「え? し、証拠って今手元に持ってるのじゃないの?」
「これか?」
 修悟は、コートのポケットからのぞいていた茶封筒を叩いて、にやりとした。
「そんなもん誰が、いつまでも手元に置いとくかいな。クロネコヤ○トの国際宅急便は便利やなあ。あっという間に日本へ着いてまうんやもんな」
「じゃあ、ここに何日もいる意味はなかったんじゃない? さっさと日本に帰ったほうが」
「まあ、身を隠してほとぼりを冷ますっていうか、そんなところやな」
 なんだ。私にのんびり付き合ってくれたのは、そんな理由だったのか。
 きみといっしょに少しでも長くいたいから。嘘でもいいからそう言ってほしかったな。
 そんな暢気なことを考えながら、ふとハンドルを握る修悟の指先を見ると、白く変色するほど力をこめているのが見えた。
「修悟……さん?」
「……ちくしょう」
 彼は顎でバックミラーを指した。「奴らや」
 ミラーに写っていたのは、3人の黒服の男たちの乗ったセダンだった。
「ええっ。なんでっ!」
「あのホテルに行ったのがまずかった。奴ら、ボーイか誰かを買収してやがったんや」
「もう証拠はないんでしょ。あいつらにそう説明しようよ!」
「ピストルの弾より速く、説明できるならな」
「そんな……」
「くそうっ。俺は何で最後の最後にツメの甘い男なんやっ!」
 サイドガラスを拳が壊れるほどガンガン叩く。
「ここまで来て……」
「武器は持ってないの? 探偵の秘密兵器とか?」
「あほか! 俺は007か!」
「逃げようよ。空港まで着けばなんとかなる」
「言われんでも、そうする」
 修悟の足が、ぐいとアクセルを踏み込む。途端に中古のエンジンが回転音を上げる。
「命に代えても、きみを送り届けるって約束したんやからな」
 路地を右に曲がった。キキキと耳のつんざくようなブレーキ。もう一度、左に折れる。縁石に後部タイヤの泥除けが当たり、異様な振動が襲った。
 行く手の信号が赤に変わった。そのまま交差点を突っ切る。
 タイヤの悲鳴とクラクションの不協和音が、心臓を縮ませた。
 だが、追手は逃亡者が命がけで作った進路を、いともた易くすり抜けてくる。
「くっそーっ。たこ焼きが食いてえ!」
 修悟が甲高いエンジン音に負けないように絶叫した。
「なんなの、それ」
「飽くなき生への執念。大阪人は最期にたこ焼き食わんと、死なれへんのや」
 江梨は笑った。
 こんな生死を賭けたときなのに。修悟だって恐くてたまらないはずなのに。
 このまま、彼といっしょなら死んでもいいかも。
 脳がしびれるほどの戦慄の中で、そんな縁起でもないことをどこかで考えている自分がおかしい。
「私も、たこ焼きが食べたあああい!」


 2台の自動車は、爆走しながらイーストリバー沿いの直線道路に入った。
「ねえ、どんどん追いついて来るよ」
「直線じゃ、車の性能が勝負や。くっそう。何とか相手をドツボにはめる方法はあらへんか。……そうや、江梨、 ダッシュボードに工具か何か入ってるか」
「ど、どうするの?」
「何でもええから、固いもん後ろの車のフロントガラスにぶち当てるんや。このスピードなら、うまくいけば粉々に割れて運転できんようになるはずや。少なくとも、あいつらをひるませるくらいにはなる」
「わかった」
 だが、ダッシュボードの中にはレンタルの契約書類以外何も入っていない。
 ようし。こうなったら。
「え?」
 唖然とする修悟を尻目に、江梨はプラスティック製のダッシュボートのふたをはがした。
 窓を開けて、放り投げる。
「ああ。当たらない」
 次は、運転席と助手席の間の物入れのふたを引きちぎる。
 今度は、追手の車が蛇行して避けられてしまう。
 もう投げるものが。
 あった。空調の下のおんぼろのカーラジオが、わずかにはめこみ位置から浮いている。
「わわっ! 何するんやっ!」
 ありったけの力を込めて、指で薄いボックス型のラジオをばりばりと引きはがした。
「ええい」
 綿ゴミが掃除機で吸い取られるより早く彼女の手を離れたラジオは、一瞬後には、後ろの車のフロントガラスを真っ白に塗り替えた。
 敵の自動車は、2、3回ぐるりと回転したかと思うと、ガードレールを突き破り、イーストリバーの斜面をころげてゆく。
 車を路肩に止め、ふたりはそれぞれのドアから伸び上がるように、追跡者の行方を確かめた。
「し、死んじゃったかな……」
「だいじょうぶやろ。下は草生えとるし」
 修悟は、彼女の顔をまじまじ見つめると、破顔して大声で笑い始めた。
「ぶはははは……。江梨ちゃん、最高! 吉本に入って、どつき漫才できるわ」


 ケネディ国際空港のロビーにたどり着いたのは、ちょうど江梨の乗る成田行きのフライトの搭乗手続きを告げるアナウンスが始まったところだった。
「くそう、レンタカー屋にこっぴどく叱られたわ」
 空港内のレンタカーパーキングから帰って来た修悟ががっくりと坐りこむ。
「修繕代、何百ドルって取られた。あの鬼のような女、また2ヶ月は俺の給料半分にしよるで」
「これから、修悟さんはどうするの?」
 さっきまでの興奮が冷めた江梨は、不安げに聞いた。
「ああ、エクスプレスに乗って、いったんマンハッタンに戻る。夕方、ニュージャージーの空港からロス経由で関空や」
「だいじょうぶなの?」
「あの様子なら、あいつらも当分動かれへん。指名手配中の身やから、日本まで帰ってしまえば、追いかけてはこんやろ」
「気をつけて」
「ああ、江梨ちゃんも元気でな」
「修悟さん、私……」
 瞳に涙をいっぱい溜めている彼女から、修悟は決まり悪そうに視線をそらせた。
「俺もほんま、セオリーどおりの男や。旅先の見知らぬ風景。ただでさえドーパミン全開やのに、おまけにふたりきりで生死をともにした3日間。恋の苗床みたいな絶好の条件やった」
「……」
「でもな、頭を冷やしたら、そうでないことがわかる。これは一時的な感情や」
「ちがう、私は……」
 彼は静かに首を振って、江梨のことばをさえぎった。
「俺には、10年間惚れ続けた女がおるねん。日本に」
「え?」
「もしかすると、今はもう惚れとるとは言えんかもしれん。長い間の意地だけが、心の中にヘドロみたいにこびりついてるだけなのかもしれへん。……でも、それがある限り、俺は前に進むことができひんのや」
「……10年間。まさか14歳のときから? それって」
「俺のボス。神園晃」
「でもその人、あなたのお姉さんじゃ……」
「そう、俺の義姉。6年前に死んだ兄貴の嫁さん」
「……」
「悪いな。江梨ちゃんのことさんざん馬鹿にしたくせに、俺のほうがよっぽどの意気地なしのアカンタレや。ベルトコンベアの上に乗って身動きがとれへんのは、俺のほうかもしれん」
 修悟は、自嘲するような笑みをうかべた。
「こんな男のことは、さっさと心のごみ箱に放り込んでくれ」
 彼は、涙の伝う江梨の頬に片手を伸ばしかけ、肩をすくめた。
「……あかん、泣きそうになってきた。ここでさよならするわ。ガイドブックにも書いてあったやろ。ケネディ空港の別れほどせつないものはあらへん、て」
「修悟……さん」
「ごめん……な」
 コートの衣擦れの音をしゃりっと残して、修悟は背中を見せて歩き出した。
 江梨は、零れ落ちる涙を両手で受け止め、泣きじゃくる。
 こんな別れ方ってない。
 もっと、いろんなことを言いたかった。
 こんな楽しい3日間は、人生のどこにもなかった。あなたの胸の中ほど素直になれる場所はなかった。
 つっこみだって、もうできるようになった。
 あなたのおかげで私は、新しい自分になれたんだよ。
 もう誰かに運ばれていく人生じゃない。自分でいろんなことを選び取れる。
 それなのに、ありがとうも言わせないで、行っちゃうなんて。
 通りすがりの人が、『Are you all right? (だいじょうぶ?)』と、心配そうに声をかけていく。
「イエス。オールライト」
 思わずそう答えた自分の声に驚いて、はっとして顔を上げた。
 ……だいじょうぶ。私はだいじょうぶだ。ひとりで歩いていける。
 涙を拭おうと、バッグの口を開けた。
「あ……」
 取り出したハンカチの折り目の中に、一枚の紙切れが入っていた。
 あの名刺だ。
 返してくれと言われたのに、ホテルからの脱出劇に気を取られ、そのままになっていた。
『神園法律事務所 調査員 神園修悟』
 住所もちゃんと書いてある。
 江梨の口元に、微笑が広がった。
 今度会えたら、言ってやらなければならない。
 いや、そうではなくて。
 無理にでも追いかけていって、ひとこと言ってやらなければ気がすまない。
 このままでは、関西男以外には、一生ときめかなくなりそうだから。


 『YOUユー MADEメイド MYマイ DAYデイ』――あなたのおかげで今日は楽しかった。
 ううん。それじゃ足りない。あなたのおかげで私の人生は。


 YOUユー MADEメイド MYマイ LIFEライフ
  

 




15000ヒットのキリバンを取った鹿の子さんのリクです。
お題は「関西弁の男の子の恋物語」。
しかし、その後の掲示板のやり取りの中から、「コミカルなサスペンスで、悲恋のハッピーエンドの細腕繁盛記(笑)」という尾ひれを自分でつけてしまいました。

ここに登場するのは、20年くらい前の雰囲気のニューヨークです(一応設定は現代になっていますが)。今はロウアーイーストのほうも治安がずっと良くなっていると思います。

2004年2月、続編の「GOT TO FLY」をアップしました。

背景の写真は、マンハッタン炎上計画さまからお借りしました。NYを愛する人はぜひGO!


Copyright 2002 BUTAPENN.

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