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第4章「第一の秘密」
(2)
どんなに巧みな弾き手でも、弦の一本、鍵盤の一音が狂えば、美しい旋律を奏でることはできない。
完璧な計画についた、ただひとつの綻びが、エドゥアールを窮地に追い込んでいる。敵の情報収集力を低く見積もりすぎた。よりによって、叙爵式の直前に国王の耳に入ってしまうとは。
叙爵式さえ終わってしまえば、どうにでもなるはずだった事態は、今大きな暗礁となって彼らの前に立ちふさがった。
「王宮に行く」
エドゥアールは、着ていた部屋着を脱ぎ始めた。
居館執事のナタンは、大きく首を振った。「お待ちくださいませ。王宮には陛下のご許可の書面がなければ、何人たりとも」
「そんなことを言ってる場合じゃねえだろう!」
腹の底からの恫喝に、ナタンは首をすくめ、「失礼いたしました」と恭しく腰を折り、その陰で小さく鼻を鳴らした。
ユベールには、エドゥアールの激しい苛立ちがよく理解できる。
ラヴァレ伯領から王都に来て、すでに二週間。それだけでも十分長いのに、また叙爵式の無期延期。
こんなことをしている間に、やがて冬が来てしまう。冬至祭が、医師に告げられた父ラヴァレ伯爵の命の期限だった。
ナタンが退出のため扉を開いたとき、廊下に立っていた人影がびくりと後退った。
「こんなところで、何をしておる! 邪魔だ」
肩をいからせて出て行った執事と入れ違いに、おそるおそる入ってきたのは部屋つきメイドのナタリアとジョゼだった。彼女たちのおびえた仕草を見て、すでに居館にいる使用人たちすべてに、この噂が伝わったことを悟る。
『自分たちが仕えてきた若旦那さまは、卑しい娼婦の腹から生まれた子だった』と。
「今から王宮に行く」
「し、承知しました。すぐにお召し替えの支度を……」
メイドたちの顔に張り付いているのは、素性の知れぬ者を見るときの恐怖と戸惑いだ。
「用意ができたら、そこに置いといてくれ。あとは自分でするから」
「で、でも……」
エドゥアールは、彼女たちの心情を察して微笑んだ。
「俺に触りたくねえだろう? 無理するな」
馬車が王宮玄関に着いたとき、狼狽した侍従が小走りに進み出る。
「エドゥアール・ラヴァレ伯爵子息さま。ご機嫌うるわしゅう……」
「いいわけないだろう。前もって使者を立てたとおり、火急の用件で陛下にお会いしたい。取り次いでもらえるな」
「そ、それがまだでございます。何人のご書状といえども、必ず王宮書記官の検閲を――」
「使者を寄こしたのは、二時間も前だぞ」
エドゥアールは怒りに目を燃え立たせた。「ポラン攻防戦なら、敵の馬賊軍が三度は国境を侵入しちまってる。そんな情報伝達の仕組みで、よくこの国は、国政の素早い決断ができるな」
「恐れ入りましてございます。しかしながら、これが数十年来続いてまいりました王宮のしきたりでして――」
糠に釘の押し問答に、エドゥアールはじりじりと苛立ってきた。背後に立つユベールは、いつ主が儀仗兵を強行突破して王宮の廊下を走り出すかと、気が気ではない。
そのとき、後ろの空気がざわっと揺れた。
「やれやれ。こんな雨のときに歩いてくるものではないな」
「リンド候セルジュ・ダルフォンスさま。ご機嫌うるわしゅう……」
「良いわけがないだろう。こんな空模様では」
玄関に入ってくると、若き公爵子息は白い水鳥の毛を使ったマントをふわりと肩から落とす。その拍子に長い金髪が優雅に揺れた。
マントから水滴が飛び散り、真横に立っていたエドゥアールの顔や服を容赦なく濡らした。
「おや、失礼」
セルジュは高みから彼を見下ろし、微笑んだ。「ああ、きみだったか」
「先だっては――お招きに与り、ありがとうございました」
エドゥアールは丁寧にお辞儀した。皮肉をこめたつもりはなかったが、自然と声ににじんでいたかもしれない。
「先だって……ああ、そうだったな」
セルジュは、ぐいとエドゥアールの腕を掴むと、侍従に向き直った。
「ラヴァレ伯のご子息は、わたしの執務室に来ていただく」
「は?」
「ふたりとも、通ってよいな?」
「も、もちろんでございます」
儀仗兵がすばやく進路を開けた。
「きみは、ここで待っていたまえ」
ユベールに向かって冷たく言い残すと、リンド侯爵はエドゥアールの腕をつかんだまま、儀仗兵の先導なしに廊下を進み始めた。
(あの方は、なにを考えている?)
その後ろ姿をなす術なく見送りながら、ユベールはプレンヌ公子息の思惑をはかりかねていた。
「どんな用件で、参られた?」
前を見つめて歩きながらの問いかけに、エドゥアールはまじまじとセルジュの横顔を見上げ、口ごもって答えた。
「叙爵式が無期延期になったという知らせが入ったので――」
「ああ。だから陛下に再度の請願というわけか」
セルジュは今朝、父とオリヴィエとの会話を別室で聞いていた。
ラヴァレ伯爵子息エドゥアールは、ただの庶子ではなかった。町の娼婦との間に生まれた子だと露見したというのだ。
それにもかかわらず、依然としてラヴァレ伯爵家に憎悪を燃やす父に、セルジュは鼻白む思いなのである。屋敷から雨の中を歩いてきたのも、その怒りが消えないためだった。
「さて、このあたりでよいだろう」
回廊まで来たとき、セルジュはエドゥアールの腕を放した。
「陛下の謁見の間に参られるがいい」
「え?」
エドゥアールの顔に驚きの表情がよぎる。「なぜ」と言いたげだ。
セルジュは、中庭で風に揺れる色づき始めた木の葉に目をやった。
昔、蟻を助けたことがある。子どもの頃だ。
大雨の後、蟻の行列が行く手に待ち受ける水の流れに気づかず行進を続けているのを見た。彼が先頭の蟻をぐいと爪先で踏みつぶすと、残りの蟻たちは突然現われた巨大な敵の襲撃にあわてふためき、来た道を引き返していった。
たかが、ちっぽけな生き物に過ぎない。だが、自分の行動ひとつが、蟻の集団の定められた運命を変えた。
神に逆らう快感を覚えたのは、このときだったかもしれない。今の場合、神とはすなわち、父プレンヌ公爵のこと。
「このあいだ待ちぼうけをさせた詫びをせねばならぬと思っていた。その借りを今返したいだけだ」
セルジュは、蒼い瞳をきらめかせて微笑んだ。「それに、楽しい絵も見せてもらった。なるほど父は、あのような髭を生やすと、さらに威厳を増すだろう」
「ありがとうございました。このご恩は忘れません」
愚鈍な蟻は、彼の微笑の意味に気づいていまい。強ばった声で、ひたすら頭を垂れるだけだ。
「あの騎士もいない。あとはきみの熱意と才覚ひとつだ」
「はい」
その生まれ同様に頭の中身まで卑しいならば、王の決定を覆すことはできまい。
だが、もし――。
この男の持つ反対の可能性を、そのときセルジュは、ほとんど考えていなかった。
去っていくセルジュを見送ってから、エドゥアールは謁見の間へと歩を進めた。
運命が彼に味方したのか。何の障害もなくここまで来れたことは、正直言って奇跡だ。一枚岩だと思っていたアルフォンス公爵家の父子に、かすかな亀裂を見出せたのも収穫というべきだった。
だが、難関はこれからだ。
謁見の間の儀仗兵に訪(おとな)いを入れると、しばらくして、書記官が出てきた。
「おそれながら、本日エドゥアール・ラヴァレさまへの謁見のご予定はございません」
書記官は腰を低くして、慇懃に告げた。
「今日中に拝謁を賜るべく、二時間前に請願書を提出した。いくら待たされてもいい」
「こちらはまだ受け取っておりませぬ。明日ふたたびお越しくださいますように」
「明日では間に合わない!」
叙爵式が予定されていたのは三日後。取り戻すなら今すぐに取り戻さねば、王宮の過密な日程では、今度はいつまで延期されるかわからない。
「『王国貴族は、その生命と名誉に重大な支障を生じたなど緊急と認められた場合に限り、ただちに国王の謁見を求めることができる』――王国法補則第29条に基づき、エルンスト・ド・ラヴァレ伯爵の名において、今ただちに、ここで拝謁を請願する!」
エドゥアールの火のような気迫と、よどみない法律の引用に、書記官は目の色を変えた。
「た、ただいま。お待ちください」
永遠と思われた時間は、本当はわずか数十分だったのだろう。
目を閉じて立っていたエドゥアールの前に扉が開いた。
現われた侍従が、深々と礼をした。
「エドゥアール・ラヴァレさま。陛下がお呼びにてあられます。どうぞ、お入りくださいませ」
フレデリク三世が、玉座に着く。
エドゥアールは、赤いじゅうたんの上でじっと身を屈めていた。十日前の謁見の儀が寸分の違いもなく再現されている。
ただ違うのは、ユベールが後ろに控えていないことと、儀仗兵たちが彼の間近にいることか。
「謁見の儀を今から執り行う」
侍従長が決まり文句を宣言すると、取次ぎ役の侍従が進み出た。
「陛下。エルンスト・ド・ラヴァレ伯爵のご子息、エドゥアール・ラヴァレさまでございます。本日は王国法補則第29条に基づく緊急請願のために、陛下に拝謁を申し出ております」
玉座にぼそぼそと人の声がし、侍従長が代わりに答えた。
「許す。その理由を述べるがよい」
エドゥアールは、ふつふつと胸にたぎる怒りを覚えた。また取り次ぎ役たちによる代理の会話が延々と続くのか。
「恐れながら、叙爵式が無期延期となった理由を教えていただきとうございます」
「ラヴァレ伯爵の請願書に重大な欠陥があることがわかったからだ。子息エドゥアールの母君の名および出生地について、虚偽が申告されていた」
「母の名はクロエで間違いはありません。出生地については、よんどころない事情により、虚偽を申し立てたことをお詫びいたします」
「よんどころない事情とは、そなたがポルタンスの娼館で生まれ育ったことか」
「その通りです」
拝礼の姿勢を取り続けているため、紅いじゅうたんの一本一本の毛足のくねりが、エドゥアールの網膜に焼きつく。
ふたたび玉座では、小声のやりとりがあった。
「そなたは、自分がラヴァレ伯爵の子息であることを、どのように証しする?」
「母が――わたしにそう言い遺しました。そして伯爵自身も、わたしを実子と認めております」
「だが、当事者の証言に効力はない」
母親がもし寒村に暮らす農婦であれば、おのずとその交遊関係は限られるし、周囲の者の目にもさらされる。
だが、町の娼婦である以上、夜ごとに違う客を取るのは当然。エドゥアールが伯爵の子であると当事者たちが言い張ったとしても、それを証しする客観的証拠は、何もない。
ゆえに、その証拠が提出されぬ限りは、エドゥアールをラヴァレ伯爵の正統な後継者と認めることはできないと。
侍従長は、無慈悲な声で厳かに王宮の見解を述べる。
「以上である。謁見の儀を終わる」
血の気を失ったエドゥアールの白い指先が、無意識のうちに、じゅうたんを鷲づかみにした。
「お待ちください。わたしの話をまだ全部聞いていただいておりません」
「その必要はない。退出なされよ」
謁見は、あらかじめ用意された結論を押しつけるだけの、形ばかりのものだった。はじめから王宮に、彼の話を聞く気などないのだ。
玉座から、国王の立ち上がる気配がする。
エドゥアールも、考えるより先に立ち上がっていた。
「待て!」
赤を見続けた目には、フレデリク国王の姿は、まるで白い亡霊のように色褪せて見える。
儀仗兵たちがすぐさま駆け寄り、彼の前に槍を交差させた。
「下がれ、無礼者!」
侍従長の罵声を耳の端で聞きながら、エドゥアールは槍の柄を両手でつかみ、王を真正面から睨みながら、吼えるがごとく叫んだ。
「先々代のフレデリク大王の御世までは、謁見の儀に侍従の取次ぎなどなかった。これは、王が反逆者を尋問するときのやりかただ」
「近衛兵! 今すぐ、この者を部屋からつまみ出せ」
「王宮はいつから、こんなふうに変わった。国民の声を直接聞くのが、そんなに恐いのか!」
もう一組の兵に両脇を抱えられ、エドゥアールが引きずり出されようとしたとき、
「そなた」
耳慣れぬ声が響いた。低く、それでいて大広間じゅうに響き渡る凛とした声。
「エドゥアールとか申したな」
声の主は、玉座の段を降りて近づいてきた。
あ、と思う暇もなく、視線がかち合う。
王冠の下で丸く巻いた癖のある金髪。王衣の襟からのぞく逞しい首。体躯の男らしさを裏切る、繊細なまでに整った面長の顔。
そして、北海の氷を思わせる冷たい瞳は――エドゥアールと同じ色。
「明日、ふたたび王宮に参るがよい。余と直接ことばを交わすことを許す」
王は無表情に言い残すや、背中を見せた。
儀仗兵たちが槍を下ろして彼を解放したのは、フレデリクが奥の扉から退出した後だった。
冷や汗が、ゆっくりと背中を伝う。
軽蔑でも、憎悪でもない。あれほど理不尽なまでに冷たい視線に包まれたのは、生まれてはじめてだ。
そして生まれてはじめて、エドゥアールは頭を抱えて暗い部屋の隅に隠れてしまいたいと願った。
誰かのすすり泣く声が聞こえてきたような気がして、ミルドレッドは寝台から起き上がった。
はだしのまま暗い廊下に出て、部屋着の裾を持ち上げ、突き当たりの父の部屋へと急ぐ。
「それでは、娼館でお生まれになり、娼婦たちに育てられたと?」
(誰の話なの?)
ミルドレッドは部屋に入る機会を逸して、扉の陰に隠れた。
「ただの噂だ。王宮で今、そういうくだらない噂が飛び交っているのだ」
「だって、ヴェロニクも言っていたのです。たいそう無作法で、放浪民族の踊りに通じ、しかも下層階級の訛りがおありになるって。もしそれが真実ならば、合点がいきますわ」
(エドゥアールさまのことだわ)
ミルドレッドの足が震え始める。(そんな――まさか)
「あなた」
母の声が、すがるような響きに変わった。「この縁談はお断りしましょう。ミルドレッドが、あまりにも可哀そうすぎます」
「今さら、そんなことができるものか」
苦悩にかすれた声で、父は答えた。「母親が誰であれ、エドゥアールさまが伯爵さまの血を引いておられることは、間違いないのだ」
「そんなこと、わかるものですか! 相手は娼婦なんですのよ」
「それに……それに、もうこの縁組を匂わせて、出入りの商人から二十万ソルドの借金をしてしまったのだよ」
「なんですって!」
「ミルドレッドに最高の支度をしてやりたいではないか。この屋敷だって、領館だって、手入れが必要だ。伯爵の保護があれば、わが子爵家は安泰なのだ。ダフニ。わかってくれ」
「そんな……そんな」
「これは秘密だ。ミルドレッドに何も言ってはいけないよ」
母がふたたび泣き伏す声を聞きながら、ミルドレッドは放心したまま自室に戻った。
あのエドゥアールさまが、娼婦の子?
きっと何かの間違い。そうに決まっている。
娼館でお育ちになったと聞こえたわ。嘘ばっかり。
娼館というのは、娼婦たちがいるところよ。男たちが汚らわしい遊びをするところなのよ。貴族が、そんなところで一日だって暮らせるはずはない。
だって――子どもの頃から娼婦たちと生活をともにするなんて。同じものを食べ、同じ井戸の水を使い、同じ空気を吸うなんて。
ことばを交わし、その手で互いの肩や唇に触れ合う――なんて。
ミルドレッドは両手で口を押さえて、悲鳴を漏らしそうになるのをかろうじて堪えた。
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