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第4章「第一の秘密」
(3)
王都のラヴァレ伯爵の居館で、使用人たちがあちこちで立ち話をしているのを見かけるようになった。
払暁から、消灯まで。地下の貯蔵庫に降りる階段で。井戸の洗濯場のそばで。厨房の勝手口で。
みな一様に、眉をひそめ、時に押し黙り、時に頭を振る。
「何をさぼってるの。手すりの雑巾がけは終わったの?」
「あ、アデライドさん」
蜘蛛の子を散らすようにメイドたちが去ってしまうと、メイド長は陶器の飾り壺に埃がうっすら積もっているのを見つけて、大きな吐息をついた。
(予想はしていたけれど――これでは、まったく仕事にならないわ)
若旦那さまが娼館で育ち、母親が娼婦だという噂は、またたくまに使用人の間に広まった。
貴族の使用人というのは、もともと良家の子女である者や、長い下働きを経て礼儀作法を身につけ、昇進で階級を上がってきた者ばかりである。人一倍、誇りが強い。
町の娼婦や屑拾い、大道芸人などは、近寄るだけで汚れたと感じるほど忌み嫌われるべき存在なのである。
自分たちの仕えるべき未来の伯爵が、その娼婦の息子だった。これほど彼らにとって驚天動地の衝撃はなかっただろう。
一方のエドゥアールは、王宮から戻ったきり自室にひきこもっている。
(若旦那さまにとっても、伯爵家全体にとっても、今が正念場だわ)
エプロンの紐をきりりと結びなおして、気合を入れると、メイド長は午後のお茶の準備を整えるために厨房に向かった。
扉の中から、なにやら言い争う声がした。
「コック長はなんともないんですか」
若いコック見習いの、興奮に裏返った声だ。
「ソース鍋の中に指をつっこんで味見をなさるなんて、なんだか奇妙だと思ってたんだ。お生まれがあれならば、合点がいく。そんな方に料理をお出しするなんて、僕には我慢ができません。コック長だって内心は、煮えくり返る思いをしているはずでしょう」
アデライドが扉を開けて厨房に入ると、コック長のシモンが、見習いたちを背にして何かを泡立てている姿が見えた。まくりあげた袖からにゅっと覗く腕は、二十人分の料理をこなす大フライパンさえ自在に操ることができる筋肉をまとっている。
「俺は、なんとも思わんね」
シモンは淡々と答える。
「なんとも?」
「料理人にとって最高の幸せは、舌の肥えたご主人さまに仕えることだ。だから若旦那さまのために腕をふるうことに、今までどおり何の不満もない」
「……」
「アデライド」
シモンは振り返り、入口に立っている初老のメイド長をじろりと見た。「午後のお茶のデザートは、梨のポワレの氷菓添えだ。フランベした梨は熱いまま、氷菓は冷たいまま、若旦那さまに食していただきたい。できる限り急いでもらわなければ困るのだが」
アデライドは目元の小じわを深くして、にっこりと笑った。「もちろんです。お部屋まで廊下を走って行けるくらいには鍛えておりますよ」
銀の盆にティーポットや食器を用意していると、「アデライドさん」と入ってきたのは、ナタリアとジョゼだ。
「私たちにも、手伝わせてください」
「階段を駆け上がるには、銀のお盆は重すぎます」
「いいえ、娘たち」
メイド長は静かに首を振った。「王都にいる間は、これが私の役目です。それに、あなたたちをしばらく部屋付きの仕事からはずしてやるようにとの、若旦那さまのお達しなのです――いろいろと動揺しているだろうとおっしゃって」
「ごめんなさい。私たちが間違っていました」
大きな黒い目に涙をいっぱい浮かべて、ジョゼが訴えた。「ふたりで話し合って決めました。私たち、やっぱり若旦那さまのお世話がしたいのです」
ナタリアも言った。「あんな無礼な態度を取ってしまって、お怒りになっておられるのは当然です。せめてお部屋に入るまででいいですから、どうぞ手伝わせてください」
「まあ。あなたたち」
アデライドは、ふたりをかわるがわる抱きしめる。「今のことばを、若旦那さまの前でもう一度申し上げなさい。必ず赦してくださるわ」
「はい」
「じゃあ、三人でお盆を持って走るわよ」
「はい!」
翌日の朝、使用人全員に集まるようにとの命令があり、王都居館の使用人たちと伯領から来た使用人たちとは、三々五々、一階の書斎に集まってきた。
誰も、一様に不安な表情を浮かべている。
奥の扉から、この屋敷の若き当主が入ってきた。正面の椅子にくつろいだ姿勢で座ったが、表情はそれを裏切るように蒼ざめて固かった。エドゥアールをよく知る使用人たちは、彼がどれほど憔悴しているかに気づいた。
主は、集まった使用人たちをゆっくりと見回すと、言った。
「俺は、ひそひそ話は好きじゃねえ」
心当たりのある者たちは、無意識のうちに唇をぎゅっと結んだ。
「だから、本当のことを言っておく。俺はここに来るまで、ポルタンスの市庁舎に近い裏通りの娼館に住んでた。母親は、そこで働いてた娼婦だ」
いったん言葉を切り、ひどく億劫そうに口を開く。
「黙っていて、すまなかった」
使用人たちは、伯爵家の子息が彼らの前で頭を下げたのを、信じられないもののように見つめていた。
「このことが王宮にバレて、もしかすると叙爵式は流れちまうかもしれない。伯爵になれなければ、俺はこの家を出て行くつもりだ。また、どこかから別の奴を捜して跡継ぎにすればいい」
針が落ちても聞こえる静寂とは、今のことだろう。
「そうならないように、全力を尽くす。けど、そうなったらなったで、あんたたちは娼婦の息子に仕えることになる」
エドゥアールは椅子から立ち上がると、そばのテーブルの上に置かれた金貨の袋を、立っていた家令に渡した。
「辞めたい者は、オリヴィエに申し出てくれ。今までの給金は割り増し分を入れて、即金で支払う。次の勤め先に渡す紹介状も用意する」
部屋を出て行く伯爵子息の背中を見ながら、彼らは胸を衝かれた。そして、暇さえあれば無責任な噂話に耽っていた者たちは、恥じて一様に顔を伏せた。
約束の時間に王宮を訪れると、侍従長自らがエドゥアールを迎えに出た。
「お待ちしておりました。エドゥアール・ラヴァレさま。どうぞこちらへ」
儀仗兵と侍従長に先導され、中庭のある回廊ではなく、右翼の長いギャラリーホールを抜けて、雨に濡れた広大な裏庭に出る。
おそらく、ふだんは王族しか入れない場所だろう。王宮を彩る人工的な庭園とは異なり、ここには自然のままの森が残されている。
そのかたわら、半円形劇場の舞台と呼んでもさしつかえないほどの広いあずまやで、国王フレデリク三世は寝椅子の上に寝そべっていた。
「陛下。エドゥアール・ラヴァレさまでございます」
エドゥアールは、寝椅子の傍らにひざまずいた。
「陛下。本日はお招きいただき、ありがとう存じます」
そして、そばに立つ侍従長の視線の圧力に押されて、しぶしぶ付け加えた。「さ――昨日の無礼なふるまいを、お赦しいただきとうございます」
フレデリクは目を閉じて仰臥したまま、ぽつりと言った。
「余の父、フレデリク二世のときだ」
「は?」
「そなたの昨日の問いに答えたまで。『王宮はいつから、こんなふうに変わった』、そう申したであろう?」
上掛け代わりに体を覆っていたマントを掃い、王は身を起こし、両手を膝の上に組んだ。
「先王は臆病な男だった。【フレデリク大王】とまで呼ばれた偉大な父親に遠く及ばぬことを、誰よりも自分が一番よく知っていた。だから民の声を聞くことを何よりも恐れたのだ――余と同じくな」
国王がひたと見つめているのに気づき、エドゥアールはあわてて水色の目を伏せた。
雨とは言え、戸外の薄明かりの中で真正面から顔を見られてはならない。それでなくとも、昨日は一度、間近で目を合わせてしまっているのだ。
頃合いを見計うように、侍従のひとりがテーブルに二人分のお茶を並べ、一礼して後ろにさがった。
王はしばらく自分だけ優雅にお茶をすすってから、身振りでエドゥアールに立ち上がるように命じた。
「いささか歴史と法律の知識はあるようだな。どこで学んだ?」
そして、揶揄するように続けた。「そなたに爵位を与える資格があるか、余が直接に吟味してやろうと言っているのだ」
(吟味?)
「ああ、そなたの話し方で自由に話すがよい。付け焼刃の宮廷言葉は聞き苦しいこと、この上ない」
ことばは寛大だが、全身から発せられているのは氷のような冷気だ。
王の意図を測りかねる。何のためにエドゥアールをここに呼んだのだろうか。表情を見れば、本気で彼を吟味する気など、さらさらないはずなのに。
あずまやの軒先から落ちる雨の雫が、単調なリズムを刻んでいる。エドゥアールは意を固め、背筋をすっと伸ばして息を吸い込んだ。
「歴史と法律を学んだのは娼館にいたときだ。本も読んだけど、大抵のことは下町の奴らが教えてくれた」
「ほう。下町の?」
「あそこには、王宮の書記官より法律の実務に通じてる連中もいるし、水夫のほうが外交官よりも外国の情勢に詳しいときもある」
「なるほど」
「俺は卑しい生まれだ。けど、親父の爵位を継ぎたいという気持は誰にも負けるつもりはない」
彼は瞳を熱意の炎に燃え立たせた。「十八年間、俺はそのためだけに生きてきたんだ」
フレデリク王は、ゆっくりと足を組みなおした。口元には、先ほどまでなかった薄い笑みが刻まれている。
「そなたは、王制と共和制についてどう思う?」
「共和制も王制も、同じ欠陥がある。民衆から真実を隠すことが最善だと考える。一度でも権力を手にすると、それを他の者にではなく自分の身内に受け継がせたいという誘惑に勝てなくなる」
「もし、どちらかを選ぶとしたら、そなたならどちらを選ぶか」
「この世に完璧な政府などない。けど、もしどうしても選べと言われれば、王制を選ぶ」
「何故だ?」
「ダメになったとき、追い落とすのがひとりですむ」
「ふふ」
国王は、目を細めて若者をじっと見つめた。
「似ているな」
「え?」
「ラヴァレ伯爵の話し方だ。笑えぬ皮肉ばかりの、この世で一番腹立たしい話し方だ。なるほど、そなたがエルンストの息子ということは、よくわかった」
笑みを消し、親指と人差し指を苛立たしげに何度も弾き合わせる。
今のことばではっきりした。フレデリクは、ラヴァレ伯爵を心の底から憎んでいるのだ。
二十年前、溺愛してやまない妹姫を連れ去ったばかりか、その挙句、彼女を裏切って娼婦と交わり、子を生した。
今その子が目の前にいて、爵位を受け継ぐことを要求している。
(この王が、ラヴァレ家に復讐しようとしても不思議ではない)
絶望的な状況だと悟りながらも、エドゥアールは王の視線を全身で受け止めた。今、目を逸らすことはできない。逸らした瞬間に、彼の負けが決まる。
二対の水色の瞳が、互いを的と定めて数秒間にらみ合った。
王が、ふっと息を吐いた。椅子に背をあずけ、気乗りのしない調子で言う。
「侍従長、大広間が使えるのはいつだ」
隅に侍っていた侍従長が、「は」と進みでた。
「今週はカルスタンのご使者が参られます。大広間が空くのは、ちょうど来週の今日になるかと」
「それでは、一週間後だ」
「え?」
呆気に取られているエドゥアールをちらりと一瞥すると、フレデリク三世は寝椅子に横たわり、背を向けた。
「一週間後の叙爵式において、エドゥアール・ラヴァレ、そなたをラヴァレ伯爵と叙任する」
「叙爵式が一週間後に決まっただと?」
プレンヌ公の声がひときわ凄みを増して響く。彼の前には、王にお茶を運んだあの侍従が、ひたすら平伏していた。
「陛下とエドゥアールのあいだで、どんな会話が交わされたのだ」
「陛下からはいくつかのご質問が下されました。どのように歴史や法律を学んだのか。あるいは、王制と共和制についてどう思うかなど。ラヴァレ伯ご子息さまは、よどみなくお答えになり、陛下はその答え方をご覧になり、『そなたは確かにラヴァレ伯の息子だ』と仰せに」
「ほう?」
暖炉の前の椅子で、その会話を聞いていたセルジュは、口元をほころばせた。
(俺の前では、ただ右往左往しているだけに見えたが。存外、あの坊やは役者かもしれぬな)
「エドゥアールの出自についての話は出なかったか」
「それは一切」
「わかった。下がれ」
侍従が退出した後、エルヴェは暖炉に近寄り、噛んでいたタバコの葉を炎の中に吐き出した。
「セルジュ」
「はい」
「おまえは、あいつを王宮に連れ込む手伝いをしたそうだな」
「はい、それが父上のお望みだと思いましたので」
セルジュは、しゃあしゃあと答えた。
「なに?」
「王宮内にわざと噂を流させたのは、そのためだったのでしょう」
叙爵式が中止となれば、エドゥアールはあわてて国王のもとに嘆願に行くはず。そして、仮にもし真実を秘めていたとすれば、王の前であらいざらい白状するはず――『自分は本当はエレーヌ姫の息子なのだ』と。
「そこまで計算していたとは、我が父ながら、まったく執念深い方です」
「ふん、苦労知らずの若造めが。いつか、その自信ゆえに泣くことになるぞ」
熱くはぜる炎の前で、父子は冷ややかな笑みを交わした。
「叙爵式のご沙汰がありましたこと、おめでとう存じます」
「ああ」
その夜、エドゥアールの自室に就寝前のお茶を運んできた家令のオリヴィエは、控えめな祝辞を述べた。
「使用人たちは、どうなった」
「はい。お暇をいただくことを申し出た者は、三人でございます」
「そうか」
「三人とも、ここの居館の使用人たちで、領館から来た者はひとりもおりません。どうせ働きもせぬ役立たずぞろいで、辞めてくれてよかったくらいです」
エドゥアールは、果実酒入りの薬草茶を一口含んだ。
「それで、あんたはどうする?」
「わたくしですか?」
家令のオリヴィエは、目に見えて不機嫌な表情になった。
「わたくしが辞めて、お困りにならないのですか」
「困るだろうな。とても」
エドゥアールはようやく、いつものいたずらっぽい眼差しで彼を見た。「だが、嫌だと言う者を引き止める権利は、俺にはない」
「嫌だと、いつ申しました」
「俺に腹を立ててただろ」
オリヴィエはひどく戸惑ったように、一分ほども考え込んだ。
「恐れながら、わたくしが腹を立てていたとすれば、それはむしろ、伯爵さまにでございます」
「親父に?」
「わたくしは、エレーヌ姫さまのご結婚とともに、伯爵家にご奉公にあがりました。奥方さまは、わたくしども使用人にとっても大切なお方でした。それなのに、旦那さまは奥方さまを裏切って、町の女などと――!」
オリヴィエは、激したことを恥じて頭を垂れた。
「頭ではわかっております。お生まれになった若旦那さまに罪はありません。ですが――」
「俺のことが、赦せないんだな」
「申し訳ございません」
家令はひどく曖昧な笑みを浮かべて、顔を上げた。「それでも、お暇をいただくつもりは毛頭ございません。微力ながら、ラヴァレ伯爵家に生涯忠実に仕えることを誓った者です」
「わかった。これからも頼む」
深く一礼して、彼は部屋を辞した。
本心は、すぐにでも辞めたいだろうに。だがプレンヌ公の許しなくして、内偵役を降りるわけにはいかないのだろうなと、エドゥアールは心の中で思った。
(やがて世間が、娼館育ちの伯爵の噂を忘れたころ、公爵も俺に関心をなくすだろう。そのときにあらためて暇をやればいい)
明らかに敵の陣営から来たこの家令を、エドゥアールは憎むことができなかった。警戒はするが、一方でどこか心を許している。
ベッドの上に仰向けに倒れこみ、目を閉じる。
プレンヌ公の嫡男セルジュは、何を思って彼に手を差し伸べてくれたのだろう。父親への反発という子どもじみた理由か。それとも、もっと深い計略があるのか。
そして、フレデリク国王。エドゥアールの叙爵をあっさりと認めたのは何故だろう。もしや、絶対に知られてはならぬ【あの秘密】に、王は感づいたのだろうか。
奇怪なまでに入り組んだ王宮の利害関係の海を、エドゥアールはこれから、ひとりで泳ぎ渡らなければならないのだ。
ひどく神経の高ぶった一日だったが、お茶のおかげで、睡魔に降伏するまでにそう時間はかからなかった。
眠りに陥る一瞬、体が心地よく浮き上がり、瞼の裏でローズピンクのドレスを着た少女が、くるりと踊った。
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