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第4章「第一の秘密」
(4)
「審判を頼まれているのです。よろしければ、ご一緒においでになりませんか?」
近侍の騎士がエドゥアールを誘ったのは、その日の朝食のときだった。
久々に戻った蒼天のもと、雨でずっと順延されていた王宮主催の剣技大会が、ようやく開催されることになったという。
この数日、ユベールはさりげなく主のそばを離れていた。
深い悩みの中にあるとき、エドゥアールはひとりになることを好む。慰めの抱擁も労わりのことばも一切を拒否して、おのれを完全な孤独の中に置く。
あれは、エドゥアールがまだ七歳のときだったか。
『そうしなければ、誰かに頼ることを覚え、結局は自分で何も解決できないのだから』
と、涙で濡れた顔をそむけ、自室の扉に鍵をかけてしまったのは。
二年前にラヴァレ伯爵夫人が死去したときは、三日間ひとりで娼館の部屋に閉じこもった。
誰に教えられたわけでもないのに、そうやって子どもの頃から己に鞭打ち、試練を課す姿を見ると、ユベールは心が痛むと同時に、主の内側に確かに流れる王の血を感じるのだ。
(もう、そろそろだろう)
そうした自制の日々が終わると、今度は反動が来ることを予測できるのも、また十八年の長い付き合いゆえだ。
この非凡な伯爵子息が何か突拍子もない行動を起こす前に、ふつふつと湧き上がっているであろう行き場のない活力を、少し抜いてやらねばならない。
そこで彼が提案したのが、剣技大会見物だった。
王都の城壁そばに位置する王立競技場は、二千人を収容できる、すり鉢型の巨大施設だ。ここで春と秋の二度、王宮が主催する剣技大会は、もう五十年以上の歴史がある。
騎士たちを絶えず競わせることで、互いに切磋琢磨させ、武道に秀でた者を多く育て上げるのが、もともとの狙いだ。
当日は、着飾った貴族や富裕な商人たちが、続々と馬車で乗りつける。彼らの目的は芝居見物と同じで、もっぱら社交と暇つぶしだ。騎士たちにとっては、仕官先を見つける恰好の機会でもある。
エドゥアールとユベールは、ぶらぶらと徒歩で競技場までやってきた。
ラヴァレ伯爵家の馬車で乗りつけなかったのは、大通りの混雑を避ける意味もあったが、ひとつには、王宮の噂を聞きつけた口さがない者たちに見つかる恐れもあったからだ。
競技場前の広場では、手風琴弾きがにぎやかな音楽を奏で、串焼きや肉詰めパイを売る店、温めた果実酒を売る店、騎士たちの来場を当てこんだ武器屋や古道具屋などがテントを連ねている。
観客席は、すでに八分どおり埋まっていた。場内では騎士見習いの少年たちが、短い木剣を振り回して乱戦し、ほほえましくも前座代わりを務めている。
「ユベール、おまえが士爵の称号を取ったのも、あれくらいのときか」
「そうですね。12歳です」
「筆記試験に受かったのは?」
「その前年、11のときでした。どちらも最年少記録だったとか」
さも当然のように答える騎士に、エドゥアールは思い切りにらむ。「ありとあらゆる才能を兼ね備えた存在ってのは、つくづく嫌味だな。成人を過ぎても、まだ筆記試験にさえ受からない者もいるってのに」
ユベールは、にこりと笑んだ。「わたしの才能など、若さまに比べれば何ほどのこともありません」
「そういうセリフを余裕たっぷりに言えるところが嫌味なんだ」
「ご機嫌斜めでいらっしゃいますね。何かありましたか」
ふたりは、最上段に近い貴族用の革張りの椅子を選んで腰かける。
すぐに給仕が近づいてきて、オレンジを浮かべた炭酸水のグラスを差し出した。
「きのう、モンターニュ子爵から晩餐への招待状が届いた」
「それは……」
「表向きは、俺の伯爵叙任を内輪で祝いたいと。その席で、縁談の正式な承諾の返事をするってことなんだろう」
エドゥアールは、じっとグラスの泡に目を落としたまま、腹立たしげに言った。
「あの噂が、耳に入っていないはずはない。それでも、子爵は強引に結婚を推し進めるつもりだ。本人の気持など、おかまいなしに」
「ミルドレッドさまのお気持……でございますか」
王宮舞踏会においては、傍目から見ても、ふたりは強く惹かれ合っていた。
だが確かに、あのときとは事情が変わっている。自分の結婚相手が娼婦の子だと知れば、たいていの貴婦人ならば肝をつぶすだろう。
ミルドレッドがいかに思慮深い少女だとしても、所詮は貴族の令嬢。周囲から植えつけられた、身分に対する差別意識から抜け出せるとは思えない。
「子爵は、ベローという小麦商人から多額の借金をしているらしい。今は何が何でも、伯爵家の後ろ盾が欲しいんだと思う」
「若さまご自身はどういうお気持なのです。このまま話をお進めになりたくはないのですか」
観客席から大きな歓声が上がった。赤い礼装を着た王宮の典儀官が正面の演台に登り、おごそかに開会の辞を読み上げた。
ふたりの騎士が中央に進み出ると、会場は海鳴りのようなどよめきに包まれた。
敬礼のためにぴんと立てられた剣が陽光にきらめき、最初の対戦が始まる。
エドゥアールはしばらく、その戦いの行方をじっと見つめていたが、押し殺すような声で言った。
「わからない。だが、あの人の一生を泥で踏みにじるような真似はしたくない」
(この方は)
ユベールは深い感慨をもって、まじまじと若き主人の横顔を見つめた。(本当に、はじめての恋をしておられるのだな)
「ミルドレッドさま、さあ早く。こちらへ」
メイドに急かされ、しかたなく席に着く。
ジルは、給仕から飲み物のグラスを受け取ると、主人に渡し、自分は席の後ろにつつましやかに立った。
「まあ、もう始まっています。ほらほら。緑の服の騎士さまが優勢ですわ」
「剣の戦いなどに興味はないわ」
ミルドレッドは体を斜交いにして、わざと試合から目をそむけた。「ジルがあまりにも強引だから、ついて来ただけよ」
「そんな暗い顔をなさらないで。家に閉じこもっているより、お日様の下にいるほうが、ずっと気が晴れますわ」
ボンネットのひもを弄(いじ)りながら、ミルドレッドは黙り込んだ。この数日、自分が暗い顔をしているのは自覚していた。何をしても、何を見ても楽しくないのだ。
エドゥアールが娼館育ちだという、あの恐ろしい噂を聞いたとたんに、すべてが崩れてしまった。
(そんな人に手を取られて、舞踏会で夢見心地で踊ったなんて)
情けなくて、恥ずかしい。たとえ一時でも、心をときめかせてしまった自分がいとわしい。
両親の内緒話を聞かなければよかった。いっそ聞かずにいれば、結婚に偽りの甘い幻想を抱き続けることができたのに。
「実は、お嬢さま」
まだ何も知らないジルは、原因不明の気鬱に沈んでいるご主人を励まそうと、茶目っ気たっぷりに耳元にささやいた。「この会場に、わたしの知り合いが来てるんです」
「そうなの?」
「はい。さる士爵さまのご子息に、従者として仕えております。今日はそのご子息さまが試合にお出になる日なんです」
「もしかして」
ミルドレッドは好奇心に勝てずに、身を乗り出した。「それがおまえの、いい人なの?」
「まさか。同郷の幼なじみというだけですよ」
と手を振って言い訳しながらも、ジルの頬は赤く染まっている。
その様子を見て、ミルドレッドは思わずくすりと笑った。
「おまえが、うらやましいわ。ジル」
平民の女は、好きな男と手をつないだり、いっしょに町を歩いたりするのだろうか。
もし貴族などに生まれなければ、恋に夢を見られたのに。だが現実に、自分はモンターニュ子爵家に生まれたのだし、今さらそれを変えることはできない。
知らず知らずのうちに、きゅっと奥歯を噛みしめ、唇を結ぶ。
(はじめから何も変わらない。たとえ相手が誰であろうと、私は家のために決められた人と結婚する。それが貴族の娘としての私の役割)
「一度、ジルのいい人に会ってみたいわ。紹介してくれる?」
「ま、まあ。お目が汚れますよ。ちんちくりんだし、ちっとも色男じゃないですから」
そのあわてた口ぶりが可笑しかったからか、それとも心を決めたためか、ミルドレッドは数日ぶりの晴れやかな笑顔を浮かべた。
ユベールが審判を務めるために降りていったあと、エドゥアールはぶらぶらと競技場の中を歩き回っていた。
正面玄関から続く回廊の壁には、巨大な世界地図のレリーフが刻まれている。
クライン王国は、大陸中央を東西に走る山脈とふたつの大河にはさまれた、三角形の肥沃な穀倉地帯である。
今は、フレデリク大王の治世以来の平和を謳歌しているが、実際の政治情勢はと言えば、そう安閑とはしていられない。
山の向こうは、北の軍事大国カルスタン王国。
西はテレーズ王妃の出身地、同盟国のアルバキア王国。
東は、市民革命を実現したリオニア共和国。
海を隔てた南の大陸では、宗教を異にする異民族たちが虎視眈々とこちらを窺っている。
今は国同士の軍事的均衡がかろうじて保たれているが、戦の神の天秤が少し傾いただけで、いつ不測の事態が勃発してもおかしくないのだ。現にリオニアとカルスタンの国境では、双方の軍が一触即発の状態でにらみ合っているという噂もある。
だが、それもよその国のことと、長い平和に慣れきったクラインの民衆も貴族も、ほとんど不安に感じてはいないのだ。
「カルスタンか――」
エドゥアールは、レリーフを見上げながらつぶやいた。
屋敷を抜け出して王都を歩いているとき、カルスタンの使者を見かけた。もしカルスタンとリオニアが戦争に突入すれば、隣国のクラインが巻き込まれるのは必至だ。
中立を守ることは、おそらく不可能だろう。
「わああ」と石の壁を伝って、観客席の大歓声が響く。またひとりの勝者とひとりの敗者が決まったのだ。
とは言え、双方とも命に別状はない。剣身には相手を傷つけないための薄い鞘が被せられているからだ。
この大会は、【士爵】の資格試験を兼ねていることも周知の事実である。優秀な成績を修めた者には、【騎士】という称号とともに帯剣を許される。
士爵は貴族の一員だが、【公侯伯子男】の五爵とは異なる。
まず、完全な実力主義であること。【一代爵位】と呼ばれるとおり、親の爵位が自動的に子に受け継がれるわけではない。平民であっても、きわめて剣技にすぐれていれば、士爵になることは可能。逆にたとえ士爵の子であろうと、剣技試験に受からなければ爵位を得ることはできない。
だが、それはあくまで建前上のことだった。現実には、実技のほかに筆記試験や口頭試問もあり、小さい頃から家庭教師をつけ、激しい訓練を続けてきた士爵家の子弟が有利であることは変わらない。
ユベールの生家である騎士の名門カスティエ家も、そうやって連綿と百年近い歴史を紡いできたのだ。
午後の光が格子模様となって注ぐ回廊を抜け、下へ続く階段を降りた。衛兵に見とがめられたが、ユベールの名を出すと、あっさりと中に入る許可をくれた。
半地下となった一階部分は、出場する騎士たちの控えの間となっており、細長い採光窓からは、砂ぼこりの立つ競技場の地面が見える。
薄暗い廊下を行くと、言い合う声が聞こえた。
「ジョルジュさま。だいじょうぶですってば。いつもの通りにやればいいんです」
「無理だよ。相手があの人じゃあ、今年も不合格に決まったようなものだ」
「ひょっとすると、相手が穴ぼこにつまずいたり、靴紐がほどけたりするかもしれませんよ」
「おまえが一番信用してないじゃないか。そんなことでもなければ、僕が勝てるわけはないって言いたいんだろう」
年は、エドゥアールより二、三歳上か。気の弱そうな騎士候補と、従者らしき若者だった。
普通は、十七、八のときに競技会に出場し、騎士試験に合格するのが、一般的だ。何度挑戦しても合格しないのは、よほど剣技の実力不足か、気が弱すぎるのだろう。
この騎士候補の場合は、後者のようだ。腕や脚の筋肉はひきしまり、十分な訓練を受けていることがうかがえる。欠けているのは、逃げてはならない戦いに立ち向かうための気迫だと思えた。
「あんたの相手って、あいつ?」
壁に張られた対戦表を見て、ジョルジュという名前から見当をつける。
エドゥアールの指の先にいたのは、確かにおびえても仕方ないほどの髭面の巨漢だった。
ガロワ士爵。騎士の世界でも有名な強者である。対戦表を見ると、もう今日だけで五人勝ち抜いている。彼と同じ組になるとは、この騎士候補はよほど、くじ運が悪かったとしか言いようがない。
「けど、勝敗は騎士試験にはあまり関係ないって聞いたぜ。採点されるのは、礼儀にのっとった所作。基本的な剣技。あとは、試合でどれだけ果敢に相手に挑むか」
「あ、あなたは、どなたですか?」
ジョルジュはいぶかしげに、突然現われた陽気な部外者の顔を見る。
「えっと、突然の飛び入り」
「飛び入り?」
「当日でも参加できるって聞いたから来たんだ。受付はどこ? 急いでるから、あんたの代わりに割り込ませてほしいんだけど」
エドゥアールはそう言いながら、ジョルジュの革の胸当ての下あたりの皮膚を、ぎゅうっと指でひねった。
「あいたた!」
腹を押さえる騎士候補を後にして、すたすたと受付の武官のもとに向かう。
「なあ、あの人、急な腹痛を起こしちまったみたいだぜ」
「え?」
「少し休めば治るって言ってるけど、どうする? 対戦はこの次だろ?」
「た、確かに……」
武官は対戦表を見て、顔をしかめる。「弱ったな。ガロワさまに待ってほしいと頼むのは――」
エドゥアールは、受付机に両手を着いて、にっこり笑った。
「俺が、飛び入りで対戦してやろうか?」
「カスティエさま」
審査員の席に座っていたユベールのもとに、競技担当の武官が対戦表を持ってやってきた。
「カスティエさまのお知り合いだという方が、飛び入りで参加を願い出ているのですが」
「ああ、この子ね」
下手くそな字で「エディ」とだけ書かれている申し込み書をちらりと見て、武官に返す。「わたしの知り合いで、身元は確かです」
「次の組の試合でガロワさまとの対戦となるのですが、怪我でもなさらないかと心配で」
「特に、問題はないでしょう」
ユベールはそう言って、立ち上がる。「それでは、わたしはこの辺で休憩させていただきます」
「次の対戦ですよ。ご覧になっていかないのですか」
そのときだけ金髪の騎士は、無表情な顔を微かに綻ばせた。
「見なくても、結果はわかっていますから」
「ありがとうございました。エディさま」
騎士候補は控え室に戻ったあと、対戦相手に深々と礼をした。
エドゥアールは最初の試合に勝ったあと――当のガロワ士爵でさえ、何が起こったかわからない様子だった。剣技大会初出場の見知らぬ若者は、するりと彼の突きをかわすと、次の瞬間には彼のふところにもぐりこんで、勝敗を決する鮮やかな一撃を加えていたからだ――、続いてジョルジュと対戦した。
先ほどの対戦とは打って変わった、剣術の手本のようになめらかなエドゥアールの動きに、ジョルジュはすっかり落ち着きを取り戻し、時間切れで引き分けになるまで、自分の実力を遺憾なく発揮できたのである。
「まだ結果はわかりませんが、できるだけのことはやりました」
「大丈夫だよ。きっと合格する。あんたの剣技なら」
「じゃあな」とエドゥアールは目配せを残して、その場を立ち去ろうとした。
「お、お待ちください」
士爵子息とその従者は、その行く手に走りこみ、異口同音に叫んだ。
「名のある騎士とお見受けいたしました。ご家名を聞かせてくださいませんか」
エドゥアールは頭を掻いた。「弱ったな。ちっと、それはマズいんだけど」
「まさか、お忍びで諸国を行脚している外国の高名な剣士さま!」
「それとも、百年に一度現われて、世界を救うといわれる勇者さまでは?」
「……あんたたち、主従そろって想像力豊かだなあ」
ちょうどそのとき、三人が立ち話をしている廊下の向こうの階段を、ふたりの女性が降りてきた。
「あ、いたいた。トマーッ」
トマと呼ばれた従者は、ぎくりとした様子で振り返る。
「ジル! おまえってば、こんなとこまで!」
「何言ってるのよ。お嬢さまをお連れして見物に来るって、昨日あれほど……」
そう言いながら隣を見たメイドは、子爵令嬢が凍りついたように立ち止まってしまったのに気づいた。
「エドゥアールさま」
そして、その視線の先にいる黒髪の若者も、驚愕の表情を浮かべている。
「ミルドレッド――」
いたずらな運命の女神は、予測もしない場所で、恋する男女をめぐり合わせることがある。
それは、秘めていたおのれの本当の心を、当人たちに気づかせるためだという。
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