Subterranean Homesick Blues ホームシックブルース


           (3)


 道端のコイン式の酸素ブースの中で、一組の男女が熱烈なキスを交わしていた。
 あれでは却って呼吸困難になるだろうにと、レイは通りすがりに、ちらりと呆れた視線を投げかける。
 地下の常夜の国で、時間を計るものは歓楽街のネオンの瞬きだ。ネオンがひとつ、またひとつと消えていくと、夜が明ける。太陽のない夜明け。
 街が静まりかえるのを待ち、店を抜けられないマスターをひとり残して、クリフォト、タオ、マルギット、レイの四人は『ポンチセ』を出た。
「奴ら……見張ってないよね」
 マルギットは、マスターから借りた耐寒服ですっぽりと顔と体を隠している。そのうえ、前と後ろを背の高い男たちにはさまれ、あたりの様子がまったく見えない。
 先頭のクリフォトは、ときおり口を半開きにする。まるで音のない行進曲を歌っているようだ。
「何してるの?」
 マルギットが訊ねると、「探査だ」と、必要最小限の言葉で答える。
 タオが代わりに説明した。「たぶん、赤外線や電磁波で怪しい者や隠しカメラがないか、チェックしているのだろう」
「どうやって?」
「むぅ、びっくりするかもしれぬが、奴は人間ではなくロボットなのさ」
「へえ、そうなの」
「おや、さほど驚かないのだな」
「【サテライト】は、そこらじゅうロボットだらけだからね。あたしが働いてた店でも、相棒はロボットだった」
 そんなタオとマルギットの会話を聞いているのかいないのか、クリフォトは黙々と進み続ける。
 進むにつれて、通りは目に見えて狭まった。街灯もなく、空気はよどみ、廃棄ゴミが広場の隅に山積みになっている。
「おまえさん、こんなところに住んでおるのか」
 タオは顔をしかめた。「望むならば、総督府の中にだって住めただろうに」
「俺にとっては、どこでも同じだ」
 クリフォトは、うらぶれたビルのひとつを選んで扉をくぐった。
 二階の奥の一室に導かれて入ると、マルギットは「なによ、これ」とうめいた。
「夜逃げの後だって、これほどきれいじゃないよ」
 何もないのだ。からっぽ。
 2LDKの白っぽい内装の中で唯一家具らしいものと言えば、奥の部屋にあるカプセル式のロボット用充電装置。
「ロボットは立っていても疲れないし、充電以外は寝る必要もない」
「どこに座ったらいいの。あたし、どこに寝るのよ」
「だから、本当に俺の部屋でいいのかと何度も訊ねた」
「まあ。少しは我慢しろ」
 タオはにやにや笑いながら、マルギットをなだめた。「夜も寝ないで敵を探知できるボディガードつき。ここなら絶対に安全だ――いろんな意味でな」
「いろんな?」
「それとも、お嬢ちゃん。このリウ・タオの部屋に泊まる勇気はあるかな?」
 マルギットはタオの言いたいことを察して、ぶるぶると首を振った。
「それとも、こいつの筆おろしを手伝ってくれるか」
 とレイを指差す。
「少々毛色の変わった奴だがな。将来はピカイチ有望だ。こいつの筆おろしをした女は、宇宙では一生自慢できるぞ」
「いいかげんにしろ、タオ!」
「ぷ、パイロットさん。あんた、まだ童貞なのかい?」
 と笑うマルギットの顔は少女っぽいのに妙に妖艶で、思わずレイは息を呑んだ。


 YX35便の乗組員ふたりは、いったん地上のホテルに戻ることになった。明日の朝もう一度ここに集合して、マルギットの身の振り方について話し合う。
 別れ際に彼女はレイのほうを心細げに見やったが、レイにできるのは、「明日また来るよ」と軽く抱擁することだけだった。
 部屋には、無口なロボットと女密航者のふたりが残された。
 クリフォトは、クロゼットから椅子代わりになる収納ボックスをいくつか運んできた。
 気まずい空気の中、マルギットはおずおずと話しかけた。
「えーと。何か飲み物ないかな。コーヒーとか紅茶とか」
「水なら水道から出る」
「じゃあ、それを沸かして飲むよ。コップは」
「食器の類は一切置いていない」
「やっぱり」
 マルギットは絶望的な顔になった。「じゃあ。食べるものも……もちろんないよね」
「ない」
「トイレやバスは」
「一応あるにはあるが、使えるかどうか一度も試したことがない」
 マルギットは継ぐ言葉を失い、唇をすぼめて口笛を吹いた。
「あんた、ほんとにロボットなんだね。どうやったって人間にしか見えないのに」
 クリフォトは不機嫌そうに顔をそむけた。
「ねえ、あたし、ウェイトレスをしてた店で、ロボットの相棒がいたんだ。さっきも話したんだけど、聞いてた?」
「ああ」
「そいつも外見は男だったけど、あんたと違ってロボットくさくて、表情もずっとぎこちなかったよ」
「それが【AR9型】の初期設定だ。俺たちとは開発目的が違う」
「あたしたちは、そいつのことを【ビリー】って呼んでた。名前がないと不便だからね。もちろん人間以下の扱いだった。充電装置は掃除用具入れの隅っこだったし」
 マルギットは、思い出したくない過去を語る所在なさに、すっぽりと膝をかかえた。
「あたし、ここへ来るとき、店から金を盗んだんだよ」
「……」
「有り金掻き集めても、密航の費用に足りなかった。それで、誰もいない隙に、こっそり店の端末を操作して、売上金を自分の口座に振り込んだの」
 「へへ」とマルギットは、鼻の下をこすった。「だからね。あたしはれっきとしたお尋ね者。どの道もう【サテライト】には帰れないの」
 クリフォトは、ほんのわずか眉根を寄せた。まるで彼女の境遇に同情を覚えるべきか突き放すべきか迷っているように。
「端末を閉じて逃げ出そうとしたとき、店の入口にビリーが立っていた。あたしのしたことが全部わかっていたんだと思う。あいつは神妙な顔で『マルギットさん』と呼んだ」
 彼女は膝に額をつけて、深く項垂れた。
「ロボットは雇い主の利益を最優先にプログラムされてるものだって言うでしょ。絶対に私の不正は通報されると思った。あたしは駆け寄って、『お願い、絶対誰にも言わないで』って、あいつの腕に取りすがった。そんなこと絶対ムリだってわかってたけど、あたし必死だったの。そしたら、あいつ――」
 クリフォトは、彼女の口元をじっと見つめた。
「まるで笑うみたいな顔して、『行ってください』って、あたしの背中を押したのよ」
「ありえない。ロボットが、マスターである雇用者の命令を破るなど」
「あたしもそう思うよ。できるなら、もう一度会って、どうしてあんなことしたのって訊ねたいけど……でも、もう解体されちまってるだろうね。あたしの逃亡を見逃したから」
 マルギットは口をつぐみ、それきり沈黙が部屋を覆った。
 クリフォトは立ち上がり、ホームコンピュータに音楽を流すようデジタル音声で命じた。
 何もない無垢な部屋に、数百年前の男の単調な歌声が雨のように降りてくる。

 気をつけな坊や
 昔やったことは
 いつかまたやっちまうんだ 
 路地裏では頭を引っ込めろ
 新しい友だちを探すなら

「なに、この歌」
「ボブ・ディラン」
「誰。あんたの友だち?」
 そのとき、扉をトントンとリズミカルにノックする音が聞こえた。
 マルギットは、恐怖に顔をひきつらせて飛び上がった。「誰か来たよ!」
「しまった」
 クリフォトは、額に手を当てて天井を仰いだ。「どさくさにまぎれて、奴のことをすっかり忘れてた」
 コンピュータに開錠を命じる前に、扉がシュンと開いた。立っていたのは、茶色い髪の若い男。
「クリフ!」
 彼は中にずかずか入り込むと、憤慨した表情で怒鳴った。「あれほど何度も念を押したのに、どうして迎えに来ないんだ。おかげで、不慣れな火星の地下街をさんざん探し回って、いかがわしい店の客引きに何度つかまりそうに」
 マルギットに気づいて、「あ」と口をつぐむ。
「デート中だったのか」
「そんなわけないだろう」
 疲れきったように答えるクリフォトを無視して、男はマルギットの手を取り、天使のような微笑を浮かべて会釈した。
「はじめまして。クリフォトの兄のセフィロトといいます」