（4）


「クリフ！」
　セフィロトがようやく追いつき、彼の背後に立った。
「手を出すな、セフィ」
　うめくように、弟は言った。「おまえには関係ない。これは俺の問題だ」
　笑みを含みながら、兄は答えた。「きみの問題だから、よけいに放っておけないんじゃないか」
「【伝説】のＡＲ８型ロボットが、二体並ぶ姿を見られるとは。まさに歴史的瞬間だな」
　フェルニゲシュは、祈祷書を朗読するような調子で言った。「火星の砂に埋もれても、おまえたちの体は美しいまま、永遠に腐りはしないだろう」
「腐らない体を持つ奴が、もうひとりいるだろう」
　クリフォトは、即座に言い返した。「脳みそは、すでに腐りきっているようだが」
　ジュラ・ロストフは、火星の低重力を生かし、はるかな高みまでの跳躍を見せた。ふたりのロボットは別々の方向に走り出した。砂嵐の中で、数本の閃光が走る。そして、畳みかけるように、迫撃砲の太い光跡がセフィロトのすぐ脇をかすめる。すさまじい攻撃の痕は火星の表面に新しいクレーターを作った。
『うわあ、冗談じゃない。生きた兵器か、あいつは』
『まあ、それに近い』
『それじゃ、武器さえ持たないこっちは、圧倒的に不利だな』
　離れた場所でも、ロボットはデジタル音声で会話できる。もしどこかでこれを傍受する者がいたとすれば、のんびりした会話は、映画か何かの話題のように聞こえるだろう。
　砂塵の幕を突き抜け、正確無比の攻撃が一点のためらいもなく、ふたりを襲う。反応速度はほぼ互角だが、一方的に攻撃を受けるだけの状態は、長くは続けられない。
　普通のロボットならば、人間と戦うことはできない。
　いかなる理由があっても、人間に対して害意を抱く直前に【暴力禁忌プログラム】が作動し、機能を停止してしまう。23世紀に施行されたロボット法では、厳格にそう定められている。
　【暴力禁忌プログラム】を自力で破る能力が秘められているロボットは、この世でたった二体の【自律改革型ＡＲ８型ロボット】だけなのだ。大勢の生命に危険が及ぶと判断した場合、彼らにはそれを防ぐために行動する自由意志が与えられている。
　フェルニゲシュを今ここで逃がせば、やがて火星解放という名のもとのテロで、多くの人命が損なわれる。それがわかっている以上彼をここで捕えねばならない――どんな手段を使っても。
『少数の犠牲の上に成り立つ多数の幸福を、人類はいつも選択してきた』
　セフィロトが淡々とした調子で言った。
『火星の人々にとっては、安楽な生活を享受している地球の人間こそが悪で、フェルニゲシュは救世主なのかもしれない。わたしたちは、銀河系の開拓史に汚点を残すのかもしれない。そう思うと手が震えないかい？』
『それでも、俺は奴を止める』
　クリフォトは揺るがぬ意志をこめて答えた。
『70年前に【第一次調査移民団】が、俺たちがこの星に託した希望は、こんなちっぽけなものではなかった。あいつらが命を懸けて切り開いた大地を、人間同士の争いと、いがみ合いの戦場にはさせない』
『とても重いんだね、クリフ。きみが背負っているものは』
　クリフォトの聴覚機能に、セフィロトの慈しみに満ちた声が響いた。『ＡＲ８型ロボットは、大勢の人間の思いを未来に伝えるための器として作られた。怒りも喜びも、絶望も希望も――そして、限りない愛情も祈りも、人間からわたしたちに託された。だから、わたしたちは、こうして生きている』
『……』
『きみもわたしも、中途半端に使命を投げ出すことは赦されないよ』
　次の瞬間、ふたたび大きな爆発が巻き起こった。
　クリフォトはとっさに飛びのくと、人工皮膚さえ傷つけるほど大量にふりそそぐ細かな砂粒を避けるため、両腕をかざした。
『どこだ』
　緩慢な砂嵐が収まったあと、クリフォトは立ち上がった。
　求める人影は、砂塵のすぐ向こうにあった。しかも二体いっしょに。
　セフィロトが、フェルニゲシュの腕を羽交い締めにし、フェルニゲシュはありったけの力でそれをふり離そうともがいていたのだ。
「セフィ！」
　踏み出そうとしたとき、足元の砂がずるっと崩れた。
　火星の地形は絶えず移り変わる。風による堆積物はもろく、もともとの地形が切り立った崖になっている場合など、幅何十キロにわたるような大規模な崖崩れが、ひんぱんに起こる。
　幾度とない強い爆発が、数千年に一度の規模の地滑りを誘発したのだ。
　彼らはとっさに滑落から逃れようとした。だがフェルニゲシュがバランスを崩し、大きくのけぞった。
　傲慢な竜、ジュラ・ロストフは地面の穴に舞い落ちるとき、絶望よりも驚きの表情を浮かべていた。自分がここで敗北する運命など認められないという表情。
　セフィロトは一瞬、ためらった。ここで何もしなければ、フェルニゲシュは火星の土の下に永久に埋もれるだろう。手をくださなくとも、災厄は消える。
　だが。
「つかまれ！」
　セフィロトは虚空に両手を差しのべて、何かを掴むような仕草のまま、ともに沈んでいった。ふたりの姿は、あっという間にアリ地獄の中に呑みこまれた。
「セフィ！」
　クリフォトは声を限りに絶叫した。
『来るな』
　もう一度、はっきりとセフィロトの声が聞こえてきた。
「自分だけ――自分だけ、かっこつけやがって、ひきょう者！」
　ののしりながら、クリフォトはまだ動き続けている砂地の中に飛び込んだ。
　火星の赤茶けた平原は、三人を飲み込んだあと、再びいつもの静寂を取り戻した。
　銀河連邦軍による爆撃が、地球の望遠鏡からでも見えるほどの巨大な閃光と火柱を巻き起こしたのは、それから数十分後のことだった。

「マスター、【ブルー・サンセット】をふたつ」
　レイ・三神とマルギットは、【ポンチセ】のカウンターに並んで座ると、しばらく話もしなかった。
「三時間後に、地球に向けて発つ」
「そう」
「タオがあらゆる口実を使って、ＹＸ35便の出航を二日延ばしてくれた。だが、もうこれ以上は限界だ」
「次に火星に来るのは、二ヶ月以上先だね」
「きみは、どうするんだ」
　レイは、カクテルを一気に飲み干し、グラスの底に残った蛍光チェリーをじっと見つめた。「故郷のサテライトに戻るのか」
「まだ、決めてないよ」
「もしも、きみさえよければ、地球に――」
　少女の横顔を見たとたん、彼は口を閉じた。涙でいっぱいの目を見れば、もう答えは出ている。
「クリフはきっと帰ってくるよ。セフィといっしょに」
「うん」
「ＡＲ８型ロボットが死ぬはずはない。あのふたりは、人類にとって永遠の【伝説】なんだ」
「うん」
　いきなり彼女の頭を片手で抱き寄せると、レイは人差し指でつまんだチェリーを、その口にそっと含ませた。
「さよなら、マルギット」
「……」
「種はきちんと吐き出すんだよ。自分でね」
　呆然としている彼女を席に残し、プルシアンブルーの航宙士は、一度も振り返らずに扉を押して出て行った。
「行ってしまいましたね」
　マスターが伸びあがるような仕草で、見送った。「あれで、よかったんでしょうか」
「何が？」
「……わからなければ、いいんですよ」
　マルギットは、自分のグラスにぷっと勢いよく種を出した。
「ねえ、マスター。ここの店であたしを雇ってくれない？　給料安くていいからさ」
「やっぱり、火星にとどまるつもりなんですね」
「うん、この星も、この地下十キロポイントも気にいったんだ。いろいろと楽しいことがありそうだろ？」
「楽しいことばかりじゃありませんよ。治安は悪くなる一方だし。少し動くと息苦しいし」
「それでも、あたし、ここが好きだよ。だって、あいつが切り拓いた星だもの」
　マルギットは空を見上げるような目で天井を見上げた。
「だから、ここで帰りを待っていたいんだ」
　マスターは何か言いたそうにしていたが、結局グラスを磨き始めた。
　そのとき、扉の向こうの外階段を降りながら言い争う男たちの声がした。
「なんで、ちゃんと掃ってこなかったんだよ。靴もポケットの中も、まだ砂だらけじゃないか」
「掃ったところで、微細な粒子は付着している。無駄なことだ」
「マルギットに嫌われても知らないぞ」
　店内のふたりは、黙って顔を見合わせた。
　【ポンチセ】のマスターは、マルギットに涙を拭くおしぼりを手渡した。それから、きびきびと慣れた動作で、冷蔵庫からよく冷えたグラスをふたつ取り出す。
　客が店内に入り、カウンターに座ったと同時に、発光チェリーを入れたグラスをそれぞれの前に置き、シェイクしたばかりの青いカクテルを注いだ。
　そして、言った。
「おかえりなさい、【伝説】の方々。お待ちしておりました」





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