(1)
「今のところ、紹介できるのは、これだけかな」
もうすっかり、なじみになった就職課の野間さんが、一枚の求人票を寄こしたときの表情を、私は決して忘れない。
気づかってくれるような、それでいて、あわれみと苦悩が入り混じったような。
何かあると、ピンと直感が告げた。
ひと文字も読み漏らすまいと、神経をハリネズミのようにとがらせて、紙を受け取った私は、すぐに「えっ」と目を見張った。
給与のところにありえない数字が記入されている。
「まさか、年収だってオチじゃないですよね」
「無論、月給だよ」
「だって」
「最後まで、よく読んで。職場は飲食店じゃない。個人宅だ」
ぽんぽんと指でカウンターを叩く。口べたな中年男性である野間さんが、何かを説明するときのクセなのだ。
「朝食から夕食ということになれば、拘束時間は長い。先方は住みこみを希望しておられるほどだ」
住み込みでコックを雇うなんて、どんだけ大金持ちなんだろう。
確かに、そうなると仕事は大変だ。大家族で全員の食事時間がばらばらということもありうるし、子どもの好き嫌いがひどいかもしれない。突然「仕事で徹夜するから夜食を」なんてリクエストもあるかもしれない。友人を呼ぶのが好きなご夫婦なら、パーティを仕切ることだってあるだろう。
でも。
「それなら、望むところです」
私は、ぐいと身を乗り出した。
今の状態に比べれば、それくらいの苦労がなんだろう。料理が作れる。誰かが私の料理を食べて喜んでくれる。それだけで、十分だった。
私は、高校を卒業してすぐ、この調理師学校に入学した。
もともと、小さいころから食べることが大好きな子どもだった。
父親はしがないサラリーマンだったが、近所に古いなじみの小さなイタリアンレストランがあった。そこのヒゲ面のシェフに、小学生のころからパスタの作り方を教わった。
下町の回転しない寿司屋には、それこそ、大きな湯のみが両手で持てない時分から入りびたっていたし、女将がひとりで経営する安くておいしい小料理屋も、よく家族で暖簾をくぐったものだ。
今から思い返せば、食にだけは惜しみなくお金をかけていたのだ。ものすごくエンゲル係数の高いうちだったと思う。
調理師を志して、はじめて思い知らされた。両親は私にピアノもバレエも習わせてはくれなかったけど、「おいしい、まずい」を見分ける鋭い鼻と、肥えた舌という得がたい才能を身につけてくれたのだ。ほんとうに感謝している。
トップクラスの成績を修めて、半年前に卒業。希望に燃えて、就職先に決まっていたレストランで働き始めた。
ところが、なんと出勤二日目にして、レストランが倒産した。オーナーはとんずら。
それが、私の不幸の連鎖のはじまりだった。
……などと、回想モードに入っている場合ではない。私は今、喉から手が出るほど、仕事がほしいのだ。
「決めました。私、ここに行きま――」
すんでのところで、語尾を飲み込んだ。ちょっと待てよ。
「この求人票の日付、二年も前じゃないですか」
野間さんは、「あちゃ、バレた」といわんばかりに、顔をしかめた。
「実はね、うちからは、もう両手の指に余るほどの生徒が、ここに行ってるんだよ」
そりゃあね、給料がふつうの三倍と来ちゃね、と野間さんは、ひとりでうなずいた。
「けど、みんなことごとく、三日持たなかった」
「ど、どうしてなんですか」
「どんなに工夫をこらした料理を作っても、雇い主が、ひとくちも食べてくれなかったんだよ」
「ええ?」
食べてくれない? ひとくちも?
自分からコックを募集しておいて、味見すらしてくれないっていうの?
「なんでも、拒食症らしくてね」
「拒食症って。あの拒食症ですか」
「そう。食物をとることを拒否する症状。思春期の女性の神経性食欲不振症(思春期やせ症)に典型的にみられる」
野間さんは棒読み口調になった。どうやら、カウンターの影には国語辞書が隠れているらしい。
「それじゃ、雇い主は思春期の女性なんですか」
「いや、男性だよ。名前は、レオン・ニコラエヴィチ……あち、舌噛んだ」
「ロシア人?」
「っぽいね。家族はいない。一人暮らしだ」
「なるほど」と、私は納得できたような気分になった。
推測だけど、きっとこの人は日本の食事が口に合わないんだ。故郷の味がなつかしくて、でも出された料理は、匂いをかいだだけで違いがわかってしまう。
ひとり暮らしの孤独も手伝って、精神的に不安定になって、つい、ないものねだりをしてしまうんだわ。
私は拳をぐっと握りしめた。
「この仕事、私にください」
「いいのかね。茅原(かやはら)さん」
野間さんは、少し心配げに言った。「もしまたダメということになったら、本当にきみの料理人としての履歴は……」
「大丈夫です!」
私は大声で宣言すると、応募書類をなかば強引にひったくり、すごい筆圧で名前を記入し始めた。
『茅原榴果(かやはら るか)。女性。20歳。
○年3月、K県調理師免許取得』
野間さんが心配するのも無理はない。私は半年で、三回もクビになっているのだ。
一回目の倒産のあとすぐに、ここの就職課に来て、ふたつめの勤め先を紹介してもらった。
それは大きなフレンチレストランで、シェフの序列が厳しく、露骨な言葉の暴力がはびこるところだった。それでも必死に食らいついて行き、もう少しで実力を認められそうになったとき、シェフ仲間のいやがらせの集中砲火を浴びて、とうとうダウンしてしまった。
三つ目の割烹料理店の店主は、傍若無人のワンマンで、女性である私は厨房にさえ入れてもらえなかった。皿洗いから修行を始めろというなら、まだわかるのに。私は結局、仲居代わりに雇われたのだと後でわかった。
料理の世界は、まだまだ男社会。私はその中で互角にやっていくだけの強さが足りなかった。
四回目は、新進気鋭のオーナーシェフの店だった。三回も職場を変わり、もう絶対に辞められないという私の弱みにつけこまれた。
いわゆる、セクハラ。……あとのことは、思い出したくもない。
私にも、悪いところがたくさんあったと、今なら素直に思える。人生をもう一度やり直せるなら、半年前に戻りたい。今度こそ、石にかじりついても、がんばってみせる。
でも、もう遅かった。
この業界は広いようで狭い。理由はどうあれ、半年間で四つの職場を転々としたという経歴の持ち主を雇う人は、少ないだろう。
だから私は、歯を食いしばって、天から降ってきたようなこの仕事をやり抜く覚悟をした。
レストランと違い、食べる人と直接向き合うというのは、貴重な体験だ。
しかも、雇い主は拒食症の外国人。思う存分、自分の持つ天性の味覚嗅覚と、料理の知識を駆使して、腕をふるってやる。
――私はあさはかにも、そう決意していた。
次の日、野間さんから電話が来た。履歴書を送ったら、すぐに先方からOKが来たそうだ。さっそく明日来てほしいという。
「よし!」
連絡が来るまで気が気でなかった私は思わず、ガッツポーズをした。
「じゃあな。がんばれよ」
電話の向こうの野間さんは、まだ少し心配そうな声を出している。「アイ ウィシュ ユー ア グッド ラック」
きっと和英辞書が、カウンターの上には載っているに違いない。
翌日の夕方、私はもらった地図をたどって、雇い主の家におもむいた。
住所を見たとき予想していたとおり、戦前の外国人居留地の名残をとどめる一角だ。駅からの坂道を登りながら、西欧に迷い込んでいるような錯覚に襲われた。
広い芝生の前庭。レンガ製の煙突がそびえるお屋敷。白いポーチで咲き乱れる花々。
けやきの並木道を突き当たったところに小さな鉄の通用門があり、目指していた番地表示が貼ってあった。
さびついた門を開けると、あたりは背の高い雑草とうっそうと茂る樹木に囲まれ、昼なお暗い。さらに奥へ続く小道を歩いて、歩いて、また歩く。
「じ、冗談。どこまで行けばいいの」
都会のど真ん中で「遭難」の二文字を覚悟し始めたとき、ついに、たどりついた。
ツタの垂れさがる二階建ての石造りの洋館。修道院を思わせるような、古めかしい荘厳なお屋敷だった。
大きな閂のかかった扉にインターホンや呼び鈴を探しても見つからず、私はおそるおそるガーゴイルの顔をしたノッカーをとんとんと鳴らした。
出てきたのは、日本人の中年男性だった。
背広をスリムに格好よく着こなしている。よく見れば顔も意外と若いのだけれど、髪の毛に白いものがたくさん混じっているので、年食って見えてしまう。
「茅原シェフでいらっしゃいますか」
おそろしく丁寧な言葉づかいだ。
「は、はい」
「どうぞ、お入りください」
通された玄関は、ここだけでも私の実家よりはるかに広くて、天井が高く、そして古色蒼然としていた。
どこもかしこも、おそろしく埃が積もっている。いったい何ヶ月掃除をしてないんだろう。
きょろきょろしていて、ふと、さっきの男性が値踏みするように、私をじっと見つめていることに気づいた。
「あ、あの」
「失礼しました。わたしは主のミハイロフさまから、この家のこまごまとした雑事を任されております、来栖(くるす)と申します」
「執事さん……のような方ですか?」
「そんなご大層な者ではありません。ただの通いの使用人ですよ」
彼はそらぞらしい笑みを浮かべた。「勤務は朝十時から晩八時までとなっております。あなたにひととおり必要なことをお教えしたら、すぐに失礼いたします」
来栖さんは住み込みではないのか。そうすると、この屋敷には、夜は雇い主と私の――ふたりきり?
「ミハイロフさんは?」
「もう少し、お待ちください。まもなくお目覚めになる時刻ですので、その折にご紹介いたします」
「お目覚め?」
私は反射的に、窓の外を見た。高い木々に囲まれているせいか、あたりは早々と暗くなりかけている。
「今からお目覚めってことは、ここのご主人は、超夜型生活でいらっしゃるんでしょうか」
「まあ、そうなりますか。ちなみに、ご就寝は明け方五時ごろです」
じゃあ、お食事は……真夜中? ということは、私もそれにお付き合いしなければならないのか。クラクラ目まいがしそうだ。
「それでは、お部屋にご案内いたします。お持ち物はこれだけですか」
「あ、はい、とりあえずは。明日残りの荷物が来る予定になっています」
「……そのまま送り返すこともありえますがね」
来栖さんは、粘っこい薄気味悪い視線で私をちらりと見て、小声で言った。
「え、どういうこと」
「いえ、別に」
私は、この家ではやっていけないと即断されたのだろうか。まだひと皿の食事だって作っていないのに。
ムカムカする気持ちを抑えて、私はにっこり笑った。できるだけ平静を装って。
「経験のないひよっこですが、せいいっぱい努めるつもりです。どうか、長い目でよろしくお願いします」
今までの半年の苦しみは無駄だったわけじゃない。人の悪意など、いちいち気にしていては、この社会では生きていけないと悟った。
私は強くなるんだ。鈍感でタフで、鋼の心臓の持ち主になってみせる。
「こちらこそ、よろしく」
来栖さんは、先ほどの痛烈な皮肉など忘れたかのように、ほほえんだ。
「すみませんが、先に厨房に案内していただけますか」
私は持参した大きな保冷ボックスを、ぐいと床から持ち上げた。「食材を先に置いてきたいんです」
厨房は、これまた予想どおり広かった。
キャビネットの扉はオークの無垢材張り、壁はクリームイエロー色の装飾タイルと、古めかしいが豪華そのもの。中央には、十人分の皿だって並べられそうな大理石の調理台まである。
何よりもほっとしたのは、玄関と違って、ここは掃除が行き届いていたこと。そして、アメリカ製の巨大冷蔵庫がちゃんとあったこと。
冷蔵庫の中は、みごとに空っぽだった。
私は買ってきた肉や野菜などの食材を保冷ボックスから出して、丁寧に詰め始めた。
灰色頭の執事は手伝おうとも言い出さずに、じっと見ている。まるで「そんなに頑張ってもムダなのに」と言わんばかりの冷やかな目だ。
「来栖さんは、ここでお勤めになって、もう長いんですか?」
「七年ほどになります。父は二十年、祖父は十八年、お世話をいたしました」
「すごい。三代続けて、ですか?」
「はい」
私は冷蔵庫に顔をつっこみながら、会話を続ける。
「では、ご主人ご一家も、古くから日本にお住まいなんですか」
「ロシア革命のときに、亡命していらしたそうです」
「いわゆる白系ロシア人ですね」
「お若いのに、よくご存じですね」
「料理史に興味があって調べました。白系というのは白人だという意味ではなく、共産主義の赤に対して旧体制を指す言葉だとか。モロゾフやゴンチャロフなどの菓子メーカーも、白系ロシア人が神戸で創設したとか」
来栖さんは、大げさなほどに「ほう」という感心の声をあげた。「失礼ながら、勉強家でいらっしゃる」
「なぜ、ご主人さまは、拒食症になられたんですか」
奇妙な間があって、不思議に思った私は手を止めて振り返った。
「さあ。わたくしは、よく存じません」
穏やかだが、取りつく島もない返答だった。「なにせ御奉公にあがる前のことでしたので。祖父や父も仕事のことは家であまり話しませんでした」
「そうなんですか」
だとすると、少なくとも七年以上前から拒食症だったということになる。これは筋金入りだ。
私にあてがわれたのは、二階の隅の小部屋。小花模様の壁紙とドレープのカーテン、小さな衣装タンスとベッドが備えられた超レトロな部屋だった。
小さい頃に絵本で読んであこがれた、少女ポリアンナの部屋のようだ。これに比べれば、今まで住んでいたワンルームが、みすぼらしい屋根裏部屋に思える。
ベッドの端に腰かけて、夕暮れの室内をぼんやり見つめる。
こんなセンチメンタルな気持ちになるのも、今日が私にとって、運命の歯車がめまぐるしく回った一日だったからかもしれない。
鈍い金色の光がゆっくりと藍色に沈んでいくころ、扉にノックがあった。
「ご主人さまがお目ざめになられました。すぐにお会いになるそうです」
蜀台を手に持つ執事の案内で、階段を降りる。まるで昔の白黒映画のワンシーンみたいだ。
一階の奥まった北西の角部屋の扉を来栖さんがノックした。
「伯爵さま。新しい人間を連れてまいりました」
「伯爵?」
中から答えは返ってこなかったが、彼はかまわず扉を開けた。
暗い。
息苦しい。
鎧戸が下ろされ、そのうえ分厚いカーテンが引かれ、光さえない部屋に、ひとりの男が座っていた。
漆黒の髪。漆黒の瞳。光沢のある絹のシャツの上は、黒のベストとズボン。
まるで夜そのものを切り取ったような。
(……この人が)
なんとなく、今までの話の流れから、年老いた人だという先入観があった。しかし、蜀台の明かりで見るかぎり、来栖さんよりずっと若い。それに、七年以上も拒食症だったわりには、全然痩せこけていない。むしろ大柄で引きしまった体格をしている。
しかも伯爵だなんて称号で呼ばれているということは、元貴族の家柄らしい。愛想笑いとは無縁な、冷たいまでの気品を漂わせているのは、そのためか。
レオン・ニコラエ、――ニコラエヴィチ・ミハイロフ。よし覚えた。
今日から、この人が私のご主人さまだ。