第1章「拒食症のご主人さま」

(2)

「ラズリシーチェ プリスターヴィッツァ。ミニャ ザウート ルカ・カシハラ。ヤ オーチン ラート パズナコーミッツァ」
 まず自分の名を名乗り、「はじめまして」と頭を下げた。
 教本まで買って、昨日の夜に必死で覚えたロシア語だ。職業柄フランス語は習ったけど、ロシア語が必要になるとは思わなかった。
 やがて、暗がりの中から「ふわあ」という間の抜けたあくびが聞こえてきた。
「もう、それで終わりか」
 ご主人さまは、眠そうに目をシパシパさせながら、椅子に背を預けて、だらんと長い手足を伸ばしている。普通の人がこの姿勢をすると、いかにもだらしないが、美形だと、ものうげに見えるから不思議。
「今度の挨拶は、短かったな。だんだん獲物の質が落ちてくるのではないか」
「おそれいります」
 主従は意味不明の会話を交わしている。さすがに外国人……。
 ……じゃないじゃん! 完璧な日本語をしゃべっているよ。
 そうか。テキは、生まれたときからずっと日本で暮らしているんだった。
「あらためまして、日本語でご挨拶いたします。今日からこのお屋敷でお世話になります、茅原榴果と申します」
 ぺこりと下げた頭を完全無視で素通りして、ご主人さまは後ろの執事に命じた。
「クルス。お茶」
「あ、私がいれます!」
 私は、ここぞとばかりにダッシュした。最初に、思い切りポイントをかせがなきゃならない。
 厨房で素早くお茶の葉とティーセットを探し出すと、ケトルでお湯を沸かした。よし。コンロはプロパンガスだ。火力はかなり強そう。
 心をこめて丁寧にいれた紅茶に、手製のバタークッキーを添えて、先ほどの居間に戻る。
 ミハイロフさまは、実につまらなさそうにお茶を飲んでくれた。クッキーには見向きもしない。
「今日の夕食から、わたしが料理を担当させていただきます。よろしくお願いします」
 と言うと、ご主人さまはおもむろにカップを置いて、顔を上げた。
「作るのはそなたの勝手だが、俺は食べぬぞ」
「え」
 ひいい。いきなり、宣戦布告されたっ。
「とりあえず、一口だけ召しあがってみてくださいませんか。食べるか食べないかは、それから判断してくだされば」
「食べぬ」
「だからあっ。一口だけ」
「食べぬ」
 敵の意志は強固だった。だけど、ここで屈してなるものか。この攻防に、私の調理師としての未来がかかってるんだ。
 私はご主人さまの前を辞すと、厨房に飛んで戻った。
 見ただけで、生唾がわくような料理を作ってみせる。
 ティーセットのお盆を下げて戻ってきた来栖さんは、早回しのフィルムのように冷蔵庫から手早く食材を取り出す私を、興味深げに見ている。
「来栖さん、お祖父さんの時代から代々仕えていらっしゃると言ってましたね」
「はい」
「ご主人さまのお父さまお母さまの時代に、どんな食事が出ていたかご存じありませんか。ロシア料理でしたか」
 来栖さんは、肩をすくめた。「さあ、わたしは料理のほうは、とんと不調法でして、なんとも」
「わかりました」
 知っていても、教えてくれる気はないらしい。私はくるりと背中を向けて、玉ねぎの皮を剥き始めた。
「終了の時刻ですので、わたしはこれで失礼します。何かありましたら、携帯にご連絡を」
 と言い残して、来栖さんは、さっさと去っていった。まさかと思っていたけど、本当に勤務初日の私を放って帰っちゃうんだ。
 いや、他人の協力なんて当てにするもんか。
 さあ、いよいよ勝負だ。
 今まで、うちの調理師学校からも、何人もの生徒が来て、しょっぱなから一口も食べてもらえなかったと聞いた。
 おそらく、彼らは全員、同じ間違いをおかしていたのだ。
 ご主人さまのロシア人っぽい名前を聞き、白系ロシア人の子孫であることがわかった人もいたかもしれない。となれば、当然まずロシア料理を作ったはず。
 「白系ロシア人」とひとくくりに言っても、実はロシア人ばかりではなかった。ウクライナやポーランドの東欧出身者も多数を占めていたのだ。

 真夜中の晩餐。大食堂の広いテーブルを埋め尽くした料理は、それはそれは豪華だった。
 ビーツが入った真赤なボルシチ。キエフ風カツレツは、鶏のミンチカツを切ったとたんに真ん中から溶けたバターがとろりと出てくる。キャベツ入り水餃子といった風情のヴァレーヌィク。ここまではウクライナ料理だ。
 ポーランド料理は、肉やキノコを煮込んだビゴス。じゃがいものニョッキ。ナレシニキという名のブルーベリー入りクレープ。
 どれも家庭ごとに作り方が違う「おふくろの味」だが、基本は押さえてあるはずだ。この中にひとつでも、ご主人さまの心の琴線に触れる、故郷のなつかしい料理が入っていてくれれば……。
 だが、私の考えは甘かった。テキは、最初から最後まで赤ワインを飲むだけで、とうとう一口も料理を味わうことはなかった。
 席を立つ主の前で、私は敗北の二文字にうちひしがれながら、ぎゅっとエプロンのひもを握った。
「どこが……どこがお気に召しませんでしたか」
「食べておらぬのだから、言いようがない」
「なんでもいいです。ご主人さまが召し上がりたいものはないのですか」
「ない」
「だって、いくらなんでも……何も召し上がらないなんて、からだに毒です!」
 彼は、私に近づくと、あきれたという顔で私を高みから見下ろした。
「はじめから、食べぬと言っておるだろう。そなたが、それで我慢できぬようなら、早々に辞めるがいい」
 そのまま、そばをすりぬけて部屋を出て行ってしまった。
 私はうなだれたまま、口惜し涙をぽろりとこぼした。
「こんなにたくさんの料理、どうするのよ……」

 私は、次の朝出勤してきた来栖さんを厨房に呼び、残り物の東欧料理を食べてくれるように拝み倒した。
「ふむ。なかなかいけますねえ」
 来栖さんは、ひと皿ずつ順番にほおばりながら、あまり感情のこもっていない感想を述べてくれた。「今まで、ここにいらしたシェフの中では、いい線いってるほうですよ」
「……でも、ミハイロフさまには、一口も食べていただけなかったんです」
 私は、こてんこてんに打ちひしがれた気持ちだった。
 ご主人さまは、その夜ずっと部屋に閉じこもったままだった。明け方近くに呼び鈴で私を呼び、寝る前のお茶を所望なさった。
 私は張り切って、本場のグリュイエルチーズをはさんだクロックムッシュを焼き、スコーンにクリームを添えて出したが、やはり飲み物以外は見事に無視された。
「日本生まれでいらっしゃるから、案外、納豆と焼き魚なんていうのもありでしょうか」
 来栖さんは、ぶっと飲んでいた食後のコーヒーを噴き出した。この人でも笑うことがあるんだ。
「でも、本当に全然何もお召し上がりにならないんですか。お茶とワインだけで生きていられるの? もしかして知らない間に、こっそり買い食いなさってません?」
「そんなことはないと思いますよ。ここ数年ほど、屋敷から一歩もお出になりません」
「壁に隠し扉か抜け穴があるんじゃ」
「忍者屋敷ですか、ここは」
「断食のギネス記録は382日ですけど、それは超肥満の人だし。普通の人間はそんなに長く絶食したら、ガリガリにやせ細って死んでしまいますよ」
「普通の人間は、ね」
 彼は、意味ありげに私の言葉を繰り返した。
「心配なさらずとも、七年以上何も召しあがらぬ生活を続けておられます。今日明日に、どうこうということはありませんよ」
「コックの求人を手配なさったのは、来栖さんなんでしょう?」
「はい」
 と涼しい顔でうなずく。
「じゃあ、あなたもやっぱり期待しているんだわ。ご主人さまのお好きな料理を作れるコックが現れれば、いつか召しあがってくださるんじゃないかって」
 驚いたことに、来栖さんは心から愉快そうに、腹をかかえて笑いだしたのだ。この人って、ときどき不思議な人だ。
「わたしはただ、伝手をとおして、『ミハイロフさまの食欲を満たすことができる元気ある若者を』と頼んだだけですよ。すると、あなたのいらした調理師学校に求人広告が行ったようで、ときおり連絡が舞い込むようになったのです」
「だから、コックを」
「わたしはコックが欲しいとは、ひとことも言っていませんよ」
 どういうこと? 私は首をかしげて考え込んだが、来栖さんはそれ以上は何も教えてくれない。
 その日の昼ごろ、それまで暮らしていたワンルームから、引っ越し荷物が届いた。
 荷ほどきは簡単だ。最低限の衣類と、調理道具。そして自転車。自転車さえあれば、ばかでかい庭で遭難する心配なしに、食材を買い出しに行ける。
 昼間はずっとご主人さまは寝ておられるので、買い出しに行く暇も、料理を研究する暇も、たっぷりあった。
(余計なことは考えない。ただ私の使命は、ご主人さまにお腹いっぱい食べていただくこと)

 その夜から、私は前日にもまして、工夫に工夫を重ねた料理を、次々とミハイロフさまにお出しした。
 仕入れる食材はもちろん有機無農薬の超高級食材ばかりだ。費用は心配ない。いくら使ってもよいと、前もって来栖さんからすごいお金を渡されている。
 フレンチのフルコース。北京ダックにフカヒレスープ。満漢全席。
 時にはシンプルに、卵サンド。炭火で焼いたTボーンステーキ。味噌汁と焼き海苔と玄米入りご飯だって作った。
 けれど、ことごとく敗れ去った。ご主人さまは珠玉のようにきらめく料理の数々に、見向きもしない。
 手つかずの食事は結局、翌日の来栖さんと私のお昼ごはんになる。十日もするうちに、ふたりとも頬がふっくらし、来栖さんなどは、心なしか白髪頭が黒々としてきた。
「まだ、あきらめないのですか。意外としつこいですね」
 毎朝、出勤して私の顔を見るたびに、来栖さんは口癖みたいにイヤミたらしく言うようになった。こちらも負けずにイヤミを返す。
「来栖さんて、ご主人さまと顔を合わせるのは、帰り際の三十分だけですね」
「それでよいのですよ。主とは決して狎(な)れ合わない。つかず離れずが、使用人の基本なのです」
 と、すました顔をして、デザートのいちごのジュレを頬張っている。「おや、これはいけますね」
 うん、我ながら、このジュレはうまくできた。最高級のいちごを赤ワインでつややかに色づけてシャンパン・ジュレを添え、クリームチーズのソースをかけて作ったもの。
 こんなにおいしいものを召しあがらないなんて、ご主人さまは絶対、人生を損してる。
「けれど、お寂しくないのかしら」
 私は自分たちの食後の紅茶に、ご主人さま用の極上のダージリンをこっそり大奮発した。
「来る日も来る日も話し相手もなく、ひとりきりだなんて。真っ暗な部屋で毎日、何をしておられるんでしょう」
「さあ。高貴な方々のお考えは、わかりません」
「いっそのこと、結婚でもなさればいいのに」
 しらじらとした沈黙が訪れた。
「だって、そう思いません? 食事って、友だちでも家族でも、一人より二人のほうが絶対においしいもの」
 私だって、ひとりで食べるよりは、こうして話をしながら食べるほうがずっとおいしい。たとえ相手が、人を小ばかにしたような無愛想執事でも。
「それなら、色気のないコックなど雇わずに、美しい女性を雇えばよかったですね」
 また、腹の立つ言葉が返ってくる。本当に来栖さんて、人の神経を逆なでする天才だ。
「もうちょっと、真剣に心配したらどうです」
「心配?」
「親子三代もずっと仕えてきたくせに。独身のままだとミハイロフさまはお世継ぎができませんよ」
 調理台をせっせと片づけながら軽い気持ちで言ったら、くすくすと冷やかな笑い声が聞こえた。
「それどころか、この家が早く滅びてくれたらよいと願っていますよ」
「ええっ」
 思わず、息を呑んで振り返った。執事の顔に、冗談を言っているという表情は浮かんでいない。
「わたしの祖父は若いころ、ミハイロフさまから莫大な借金をしたのです」
「借金?」
「今の貨幣価値で二百億円だと聞いています」
「に、二百、おく?」
 手が震えて、もう少しで皿を取り落としそうになる。
「ご存じないでしょうが、ミハイロフさまは金融業をなりわいとしておられます。わたしの祖父は、五百年契約で元金と利子を返済する約束をした。そのために、来栖家の長男は、五百年先までこの家に無給で仕えると定められたのです」
 その途方もない年月に、背筋がぞくっと寒くなるのを感じた。
「だって、それって無効にできるんじゃないんですか。相続放棄すれば、親の借金を背負わなくていいって言いますし」
「なるほど」
「五百年契約って、そんなの非人道的です。無茶苦茶すぎます!」
「あの方にとっては、無茶でもなんでもないのですよ」
 心臓がドキドキして、その音が身体じゅうに反響している。
 来栖さんは、ご先祖が借りた金ゆえに、今もミハイロフ家に代々仕える義務がある。そしてひそかに、現当主の死を願っているんだ。
 来栖さんの気持ちもわかる。自分の生まれる前から運命が決められていて、好きな職業を選ぶこともできない。相手を恨みたくなるのも当然だ。
 でも、そんな執事がそばにいるなんて、ご主人さまは気の休まるときはあるのだろうか。もしかして、拒食症になったのも、そのせい?

 眠っておられるご主人さまの部屋の扉の前にそっと立つ。
 こんなふうに昼夜が逆転してしまったのも、部屋に閉じこもるのも、まわりの人間を信じられないからかもしれない。
 家族もなく、笑い合える友人もなく、いったい、どれほどの孤独だろう――もしかして、食を断って自分の死を希うほどだろうか。
 私はだんだん、ご主人さまが可哀そうな方だと思えてきた。それまでは、最高の料理をお出しして、なんとかして食べてもらうことしか考えていなかった。
 もっと正直に言えば、自分のキャリアの踏み台としか見ていなかった。だから、食べてもらえないと、腹を立てたのだ。
 でも、それは間違いだった。料理人として、私は致命的な間違いを犯したのだ。
 私はコック帽とエプロンを脱ぎ捨てると、自転車で外に飛び出した。

 その日の夜、ご主人さまはいつもの時間に目覚め、いつものとおり、真夜中の鐘が打つころ大食堂に現われた。
 広いテーブルの上には、ナプキンとワイングラス以外には何も置いていない。
 ミハイロフさまは、それをご覧になって、かすかに眉を動かしたが、無言で席についた。
 私はワインをグラスに注ぎ、一歩退いて頭を下げた。
「今日は、何か召しあがりたいものはございますか」
「ない」
「それなら、なぜ――」
 私は言葉を切って、大きく息を吸った。「なぜ、毎晩、決まった時刻に食卓についてくださるのですか」
「そなたが、料理を作って待っているからだ」
 抑揚のとぼしい冷たい声も、よく注意して聴けば、ほんのわずか、いたわりの響きが混じっている。
「そなたが自分の仕事を果たしている以上、せめて顔を出すのが礼儀だと思った。だが、それも今宵までのようだな」
「はい」
「明日、クルスから報酬をもらって出ていくがよい。定められた額の倍をとらせよう」
「そういうことではありません」
 私は顔を上げた。
「私は、ご主人さまが召しあがりたいとお思いになるまでは、もう料理は作りません。そのかわり、おそばにいさせてください」
 ご主人さまは、まっすぐに私の顔を見つめた。膝においたナプキンを無造作に食卓に置き、立ち上がった。
「そのような無用なかかわりは、俺の最も好まぬものだ。すぐに立ち去れ」
「いいえ、出て行きません」
 私は無意識のうちに、足を踏んばって、拳をにぎりしめた。
「ご主人さまは、間違っておられます。どんなに心を閉じようとしても、人間は生きているかぎり、他とのかかわりを捨て去ることはできません」
「では、俺は生きていないのだ」
「生きてください!」
 最敬礼して頭を下げた。
「私は、数年前に父を亡くしました。食べることのすばらしさと、食べ物の尊さをいつも私に教えてくれた、大好きな父でした。皮肉なことに、がんで胃が石みたいになっちゃって……死ぬ前の一ヶ月は、ほとんど何も食べられなかったんです」
 ご主人さまは、立ったまま無言で聞いておられる。
「ある日突然、『スイカが食べたい』って言い出して。真冬だったから、どこを探しても全然見つからなくて……それでも、手分けして、なんとか探し出して、しぼってジュースにしてあげたら、『おいしい、おいしい』って、うれしそうに」
 頭を下げたまま、涙がぽたりぽたりと床に落ちる。
「そのときの父の姿を見たことが、私の料理人としての原点です。そのあくる日に死んじゃったけど、父は最後の最後まで生きようとしていました。私はご主人さまにも、そうしてほしいんです」
「……」
「何があっても、私がご主人さまをお守りします。ご主人さまがお好きなものを召しあがって、おいしいって言ってくださって、たとえ少しでも生きていてよかったと思ってくださるなら、私……」
 ミハイロフさまは、静かに食卓に戻ると、ナプキンを手に取った。
「スイカとは、それほど美味なものなのか?」
「は? はい」
「ならば、今宵はスイカを所望する」
「はい!」
 私は、超特急で台所に走りこみ、冷蔵庫から、用意しておいたガラスの器を取り出した。
 スイカを小さく切り、種をていねいに取り除き、スイカの汁とシャンパンを固めたジュレと合わせたもの。
 まるで、紅いルビーのような美しいデザートだ。
 ご主人さまは、ほっそりした指でスプーンを取り上げると、ひとくち含み、ゆっくり味わうように口を動かした。
 男らしい喉が大きく上下して、食べ物を飲み込む。
 私の作った料理を……はじめて食べてくださった。
 皿にスプーンを置くと、主は私を見やった。
「スイカは、夏の果実であったはずだが」
「専門のフルーツ店に行けば、ハウスものがあります。かなりお値段が張りますが」
「そなた、俺がスイカを食べたいというのを見越しておったな」
 私は胸を張った。「どんな急なご注文にも応えるのが、料理人の使命ですから」
 ミハイロフさまは、頬を少しだけ緩めた。それは笑っているようだった。
「食えぬやつめ」

 部屋に戻ると、高窓から満月の光が射し込んでいた。私はコック帽とエプロンのまま、ベッドに倒れこんだ。
(ご主人さまが、私の作ったものを食べてくださった)
 何度も何度も、心の中で同じことばを反芻する。
 ほんのわずか、つながった一本の糸。明日から、それを大切にしよう。ご主人さまが次々と料理を召しあがって、心からの笑顔になってくださる日まで。
 睡魔が私の体をすーっと空へと浮かび上がらせるまで、私はそう自分に言い聞かせていた。
 ――階下では、こんな会話が交わされているのも知らず。

「あれは、どうした」
「すっかり寝入っております。しかたなく、わたしがお休み前のお茶を」
 来栖は、カップとソーサーをうやうやしくテーブルに置いた。
「おまえは、どう思う」
「あの者ですか?」
 と、皮肉げに笑う。「料理の腕は、可もなし不可もなし。思い込みはげしく、押しつけがましく、何を言っても意地でも引き下がらぬ、厄介な女です」
「気に入っておるように見えるが」
「わたしが、でございますか?」
 執事は意外そうな声を出した。「あなたさまこそ、どうなのです。あの女の料理を召しあがってしまわれるとは……もしや」
 主は、カップ片手に窓辺へ近寄る。
 ぴったりと閉まっていたはずの鎧戸が開け放たれ、彼の身体を蔽う夜の大気は、月光を浴びて銀粉のように光っていた。そして瞳は、燃える紅蓮の色に染まって見えた。
「百年ぶりだったな。人間の食物を食らったのは」


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