第1章「拒食症のご主人さま」

(3)

「水は、富士山麓から取り寄せた天然の湧き水を使っております。さらに、一週間熟成させた牛のすね肉をミルポワやブーケガルニとともに三日間煮込み……」
「ああ、もう御託はよい。さっさと、それを持ってまいれ」
「はい!」
 私は厨房に飛び込み、星型に切った野菜を浮かせたコンソメをささげもち、しずしずと食卓に置いた。
 私の仕えるご主人さま、レオン・ニコラエヴィチ・ミハイロフ伯爵は、細く美しい指でスプーンをあやつり、優雅に黄金色のスープを口に運ぶ。
 喉がこくりと動くたびに、もだえそうになる。男の人がものを食べる姿って、なんてセクシーなんだろう。
「変な目つきで、何をじろじろ見ている。気持ちわるい」
「……」
 相変わらず「まずい」とも「おいしい」とも言ってくれず、そっぽを向いて何も召しあがらないこともある。それでも、まがりなりにも、私の作ったものを食べてくださるようになったのだ。
 ここにこぎつけるまで、本当に長かった。
 まず手始めに、スープやプディングのようなお腹にたまらないものを心がけた。何年も絶食をなさっていたのだから、あせらずに、少しずつ量を増やしていく作戦だ。
 料理は、食べる人のからだも、そして心も元気にさせてくれる力があると、私は信じている。
 だから、料理人の仕事は、食事を作るだけではない。食べる人を楽しませ、喜ばせること。満ちたりた思いになってもらえること。
 そのために、私はできるだけご主人さまのそばにいて、言葉を交わそうと決意した。――今のところは、すごく煙たがられてるみたいだけど。

「で、今日は何を始めた」
 おや、珍しい。ご主人さまが本を片手に、ひきこもっていたお部屋から玄関ホールに出ていらした。
 嫌味たらしいほど整った眉を思い切りひそめて、高い脚立に乗っている私を見上げておられる。
「ご覧になれば、おわかりでしょう。天窓を拭いているんです。もうすりガラスかと思うほど、こてこてに汚れているんだもの。いったい何百年拭いてなかったんですか」
「そんなものは、昼のうちにやればよかろう。わざわざ夜にやらなくとも」
「ご主人さまに付き合っているうちに、私もすっかり夜型の人間になっちゃったんですってば」
 昼は、どうしても眠くなって爆睡してしまう。朝の買出しと夕方の仕込みだけでせいいっぱいなのだ。
「では、せずともよいだろう。そもそも掃除は料理人の仕事ではない」
「だって、ほかに誰がいるんですか。来栖さんなんか、ほんっと何にもしないんですから」
「別に窓など誰も見はしない。そなたは、厨房と食堂と自室だけきれいならば、それでよいはずだ」
「んなわけにいきません。料理人というもの、すべからく清潔を旨とすべし。そして何よりも、美に敏感であるべし、です」
「美?」
 これ以上意外なことばを聞いたことがない、とでも言いたげに、ミハイロフさまは本から目を上げた。
「料理は芸術です。一流のシェフともなると、料理をキャンバスに見立てて絵を描くと言われているんです。昨日お出しした鮭のムースにかけたバルサミコソースは木の枝を描いていたんですよ。スープに散らした野菜のチップは五色の……」
 ――と力説するも、テキはさっぱり聞いちゃいない。
 私は脚立から降りて、磨きあげたばかりの天窓を見上げた。
 うん、きれいになった。満天の星空がきらきらと……。
 全然見えない! うっそうと茂った庭の木々が、玄関の天窓はおろか、すべての窓という窓をふさいでしまっている。
「どうせ、庭師なんてのもいないんだろうな。ドケチ! お金持ちってのは、どうしてこうケチなんだろう」
 私は扉を開けて、庭に出た。木々はみんな樹齢何十年という大木ばかりだ。さすがの私も、チェーンソーかついで枝を掃うなんて芸当はできない。
 あきらめて、家の中に入ろうとして、
「あ、そうだ」
 すばらしいアイディアが浮かんだ。
「ご主人さま、ご主人さま!」
「なんだ、今度は」
 ミハイロフさまは、うんざりしたように本を放り出して、安楽椅子に腰をおろした。
「頼みがあります」
「わかったから、その前にお茶を入れてくれ」
「はい!」
 私は厨房に行き、今日仕入れたばかりのお茶の葉を、温めた磁器のポットに入れて、沸騰したてのお湯をそそいだ。
 ご主人さまの部屋にティーセットを運び、心をこめてカップに注ぐ。
「ん?」
 ご主人さまは黄金色のお茶を一口含むと、ちょっと驚いた表情になった。
 この方は、一分の隙のない冷たさもステキだけど、こういう何気ない瞬間の、無防備な表情もステキなんだ。
「これは?」
「はい、ローズティーです」
 わざわざブルガリアから取り寄せた、最高級のバラの花びらを使ったお茶なのだ。ちなみに、ローズヒップティーのほうはバラの実を使ったお茶で、これとは違う。
「よかったです。お気に召していただいて」
「気に入ったとは言っておらぬ」
「うそ、おいしいと顔に書いてありますもの」
 あ、不機嫌になった。こんなふうにご主人さまに軽口を返せるようになったのも、ここ一週間のこと。怒った顔もステキなので、ついからかいたくなってしまう。
「それで、頼みというのは何だ」
「あ、それそれ。実は」
 胸に抱えていたお盆をテーブルに置くと、私はペコリと頭を下げた。
「庭の一角を私に使わせていただけませんか」
「庭?」
「ええ、とにかく雑草がぼうぼうと生い茂り、野趣あふれるというにはあまりに荒れ放題の庭の中にあって、さらに一段と悲惨な北側の隅の六畳ほどのスペースを開墾して、料理には欠かせぬ風味を添えてくれるタイムやバジル、ローズマリーなどを栽培すれば、さぞや庭も美しく、経済的にも一石二鳥……」
「ひとことで言え」
「つまり、ハーブを植えたいんです」
「クルスは何と言っている」
「まだ聞いていません。でも、たぶん答えは決まってます。まずご主人さまの許可を得ろと」
 ほんとにあの人は、仕事をしている姿を見たことがない。まあ何と言っても、五百年無給で働くという契約を一族で交わしてしまっているものだから、やる気が出ないは当たり前なのだが。そのあまりの怠惰ぶりには、執事という肩書きが泣く。
「そうだ!」
 私はぽんと手を叩いた。「口で説明するのはむずかしいので、一度お庭に出て、候補地をご覧になっていただけませんか」
 ご主人さまは、予想どおり、死ぬほどイヤだという表情になった。

「そんなに運動不足だと、歩けなくなっても知りませんから」
「あんまり庭をほっとくと、この館の主として責任を問われますよ。タヌキやイノシシならともかく、トラやコヨーテが住み着いて、『東京の秘境』と報道されたらどうするんですか」
 説得すること三日。
「そなたのキンキンした声を聞くより、ましだ」
 と、ついにミハイロフさまは根負けした。
 真夜中の正餐が終わると、ご自分で食堂のフランス窓を押し開ける。すうっと涼やかな夜風が、部屋を吹き抜けた。
 ご主人さまとともに、外へと踏み出した。白い花崗岩でできたポーチは、庭に降りる階段が作りつけてある。
 冴え冴えとした満月の夜だった。荒れた庭はどこもかしこも、つやけしの銀色に染まり、草木がまどろむように揺れている。
「どこだ。食材を植えたいという場所は」
「あ、はい。そちらです」
 指差したほうにご主人さまは歩き始め、私はその斜め後ろからついていく。
(髪の毛、長いんだなあ)
 ミハイロフさまの背中を、こんなにじっと眺めたのは、はじめてだ。ごいっしょに庭を散策するなんて、一ヶ月前なら絶対に信じられなかった。私には心を開いてくださらないと、あきらめかけていたのに。
 私は、じわりと目じりににじんでくるものを感じた。そのせいか、ご主人さまの後ろ姿までが銀色にかすんでいるようだ。
「ああ、なんていい気持ちなんでしょう」
 泣いているのをごまかすために、歩きながら思い切り伸びをした。
「外気を吸うことは健康にも美容にもいいんですって」
「そなたは毎日外に出ているが、美容には効かぬようだな」
「……この性悪伯爵!」
「何か申したか」
「いえ、何にも。空耳が聞こえるようになったら、人生終わりですね」
 私はうれしくて、たまらなかった。こんな漫才みたいな会話が交わせるようになったのも、ご主人が元気になられた証拠なのだと思う。
 やはり滋養たっぷりの食事は、人を健康にし、明るく前向きにするのだ。庭で野菜やハーブを栽培すれば、今以上に新鮮な素材を使った料理がお出しできる。
「あ、ご主人さま。ここです」
 草がぼうぼうと生えた一角で、私たちは立ち止まった。
「南向きなので日当たりが良いし、後ろは森なので、自然の腐葉土がいっぱい。ちょっと耕せば、菜園を作るには最適の場所ですよ」
「それはよいが、誰が耕す」
「わかってます。言いだしっぺの私が全部やりますって。来栖さんの手を借りるつもりはありません」
 私は、なんだかんだ言ってお世話になっている執事さんを、ちょっぴり弁護してあげる気になった。
「だいたい大の男を一生無給で働かせるなんて、ご主人さまもインケンにもほどがあります。無駄に金持ちなんだから、せめて月に二十万くらいは払ってあげないと、あの人、ワンルームの家賃も払えませんよ」
「クルスがそう申したのか」
「え? ええ、五百年契約で無給だって」
 ミハイロフさまは、フッと小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「あいつには、この家の財産をすべてまかせている。自由にしてよいと言ってあるから、億単位で使い放題のはずだが」
「お、億単位!」
 桁ちがいの金額に、星が目の前でチカチカまたたいたような気がした。
「心配して、損した!」
 私は来栖さんに、すっかりだまされていたんだ。全財産をまかされているなら、「この家が早く滅びてくれたらよいと願っています」なんて、冗談でも言えないはず。
 あ、もしかして、財産の乗っ取りをたくらんでいるのかな。それとも巨額の使い込みがバレそうになってるとか。
 私の脳内には、すっかりサスペンスドラマの台本が出来上がっていた。タイトルは、もちろん『伯爵家の惨事! 美人シェフは見ていた』だ。
「何を気持ちの悪い顔でにやにやしている。もう用はなかろう」
 ミハイロフさまの不機嫌な声で、我に返った。もうすでに、さっさと立ち去りかけている。
「あ、はい。すぐ行きます」
 あわてて後を追いかけようとした私の手に、硬い金属が触れた。
「え?」
 ぼうぼうと生えた雑草をかき分けると、錆びた門が立っているのが見えた。
 昼間来たときは、まったく気づかなかったのに。
 月明かりの中、ぽつんと立っている門は、なぜか異次元への扉のように思える。
「ご主人さま、待ってください。こんなところに門があります!」
 伯爵は、足を止めて振り向いた。彫刻のような顔が驚きの表情を浮かべている。
「開けてみていいですか?」
 許しの声も聞かず、私は何かに突き動かされるように門の中に入った。
 雑草に隠れてわからなかったが、昔は両側に生垣があったらしい。かつてこの庭の手入れが行き届いていた頃は、生垣でできた迷路のような小道を抜けて、どこかへ行くようになっていたのだろう。
 さえぎられていた視界が、突然さっと開けた。
「まさか……」
 そこには、信じられない光景が広がっていた。
「すごい……」
 煌々と照る満月に照らし出されていたのは、広大なバラ園だった。
 昔はレンガできちんと区画ごとに分けられていた花壇らしき場所に、さまざまな品種と色のバラが植えられていた。バラのアーチ。水の止まった大理石の噴水。ツルバラの垂れ下がる、白いあずまや。
 だが今は、あずまやの屋根は崩れ、花壇にも通路にも雑草がはびこり、レンガも欠け落ちている。打ち捨てられて何十年も経つ庭だと思えるのに、バラは夜の闇の中で不思議な力を得たように、みずみずしく咲き誇っているのだ。
「ご主人さま」
 振り返ると、ミハイロフさまは唇を結び、心を閉じたいつもの顔に戻っていた。でも私の目には、その無表情はどこかいつもと違って、呆然と途方に暮れている子どものように見える。
「こんなすばらしいバラ園があるなんて、どうして教えてくださらなかったんですか」
「……忘れていたのだ」
 呟くように言いながら、ご主人さまもゆっくりと近づいてこられた。
「はああ、いい香り」
 私は花壇に近づき、胸いっぱい息を吸い込んだ。
「あれも、これもオールドローズですよ。すごい。ここに立っていると、香りといっしょに空に浮き上がれそう」
 バラは丹念な手入れを必要とする植物だと言われているのに、誰の世話も受けずに、これほど見事に咲いているのが信じられない。
 風もぴたりと止み、夜気は濃厚な香りで満たされている。まるで、この庭だけが、何かの魔法で外界から隔絶されているようだ。
「このバラの花びらを集めて、ローズティーを作ってみたいなあ」
 だが、ご主人さまは、まったく上の空で私の言うことを聞いていない様子だ。
「朝早く、露が降りているうちに花を摘み取ると、よい香りが逃げないんです。ほんの少しだけですから、摘んでいいですか?」
 重ねて問う私に、ようやく伯爵さまは、夢から覚めたばかりのような目で私に焦点を合わせた。
「そなたの好きにするがいい」
「ありがとうございます。きっとおいしいローズティーを飲ましてさしあげますね」
 ぺこりと頭を下げると、さっそく私は花壇のあいだの通路を歩き回り、明け方に摘むバラを物色した。
 どれもこれも、美しいだけではなく、香りの強い品種だ。この庭を造った人は、観賞用だけではなく、香料を採ることも考えていたのだと思う。
「うわっ」
 真ん中に、淡い紫色の見事なバラを見つけた。
「ダマスクローズだ!」
 バラの中でも、もっとも濃い香りを持つ至高のバラ。古代ギリシャ、ローマ時代から貴族の女性たちに愛されてきた、現在のバラの原種だと言われている。ブルガリアには、『バラの谷』と呼ばれるダマスクローズの咲き乱れる場所があって、バラの香料の一大生産地だ。
 緻密に折りたたまれた繊細な花びらの重なり。このバラ園の中でもひときわ背が高く、まるで女王のように君臨している。
 このバラを摘んだら、すばらしいローズティーができるだろうな。
 私は思わず花壇に一歩踏み出して、手を伸ばそうとした。そのとたん、手首を後ろからガシリとつかまれ、引き戻される。
「きゃっ」
「それに、触れるな」
 耳元におおいかぶさるご主人さまの声は、地の底から聞こえるように低く、おそろしいまでの怒気を含んでいた。
「ご、ごめんなさい」
 恐怖に囚われた私は、あわててご主人さまの腕の中から逃れた。
「てっきり、摘んでいいのかと勘違いして……」
「あれは、ならぬ」
 間近にあるご主人さまの漆黒の瞳は、私を素通りして、ダマスクローズだけに注がれていた。
「ほかは、いくら摘んでもよい。だが、あれだけはだめだ」
「なぜですか」
「あれは、妻が大切にしていたものだ」
「……妻」
 思考停止していた私の脳みそは、そのことばの意味することをようやく理解した。
 ミハイロフさまには、奥さまがおられたこと。そして、今はもういらっしゃらないということ。
「ごめんなさい。私――」
 何を言っていいかわからない。あえぎながら、その息の合間に謝罪のことばをつぶやく。「そんな大事なものを摘もうとするなんて……ごめんなさい。もう、決して」
 ご主人さまは、私の手首をもう一度つかんだ。
 引き戻されたときに、バラのとげでひっかいたのだろう。私の人差し指に細長い引っかき傷ができ、ぷくりと血のしずくがふくれあがっていた。
「ああ、しまった」
 手に怪我をしてしまうなんて、料理人失格だ。傷口に黄色ブドウ球菌が繁殖すると、とても危険なのだ。これじゃ当分、ゴム手袋をして調理しなきゃ。
 そんなことがぼんやりと頭の中をよぎる中、ミハイロフさまは何も言わずに私を抱き寄せ、怪我をした指を口の中に含んだ。
 静かだった庭に突風が吹きつけ、バラの花びらがいっせいに空に舞い上がった。



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