第1章「拒食症のご主人さま」

(5)

「ご主人さま、入ります!」
 ノックをしても返事のないまま、扉を開け放った。
 ご主人さまは、いつもの揺り椅子に座っておられた。
 つやのある漆黒の髪。夜の森のような漆黒の瞳で、うざったげに私をご覧になる。それも、いつもどおりだ。
 ただひとつ違うとすれば、心なしか顔色がいつもより良い。もし、それが私の血を吸ったためであるならば、うれしい。
 ――そう。とてもうれしい。
 暗い部屋を見渡すと、驚いたことに、すべてが元通りになっていた。びりびりに破けたカーテンも、寝台のシーツも新品と取り替えられている。私が気絶している間に来栖さんがやったのだとしたら、すごい。
 ことによると、本当はものすごく有能な執事なんじゃないだろうか。
「今日は、ブルガリアから取り寄せたローズティーと、ジンジャーブレッドです」
 サイドテーブルにお盆を載せ、心をこめてポットからカップにお茶を注ぐ。
「まだ、いたのか」
 聞いた者が怖気づくほどの冷ややかな声で、ご主人さまはおっしゃった。
「はい。まだいます」
「俺の正体はわかっただろう。こうなった以上、もはや二度と、そなたの作った料理を食べる気はない」
「それでも」
 私は手を止め、両足を踏ん張り、まっすぐにご主人さまの顔を見つめた。目の縁に、熱いしずくがじわりと溜まっていくのを感じる。
「これからも私は、このお館で働きます。だって、私は料理人ですから。食べる人のお腹が満たされ、健康で幸せになってくれることが、何よりも喜びですから」
 ミハイロフさまは、いぶかしげに眉根を寄せる。入り口に立っていた来栖さんが、はっと息を飲むのがわかった。
「だから、ご主人さま。どうぞ、私の血を思う存分吸ってください」
 地球の自転の音が聞こえるかと思うくらいの完全な沈黙が、数秒間続いた。
「クルス」
 ご主人さまは、疲れきった声で執事を呼んだ。
「この娘を、なんと言って脅した」
「心外なお言葉でございます。わたしは脅してなどおりません」
 ムキになって、来栖さんは答えた。「むしろ、今までの苦労を手厚くねぎらい、これからのことについて相談にまで乗ってやりました」
 ん、苦労なんか、ねぎらわれたっけ? まあ、いいけど。
「では、今のは、なんの笑い話だ」
「自分で、ない知恵をしぼって考え出した言葉ではないかと」
 やがて、クククという、くぐもった笑い声が聞こえてきた。
 ご主人さまは、揺り椅子の背にもたれ、声をあげて笑っている。
「そなたは、俺が今まで出会った中で、最高の道化だ」
「ありがとうございます。楽しい気分になっていただけたら、本望です」
「『血を吸え』? 街角で献血でも申し出ているつもりか」
「軽々しい気持ちで言ってるんじゃありません。ご主人さまが、私の作った料理を召し上がって喜んでくださるなら、私は心をこめて料理を作り続けます。けれど、血でなければ決して満たされないというのなら」
 私は大きく息を吸い込んで、叫んだ。
「私の血を召し上がっていただくことが、私の料理人としての誇りと使命です!」
 直立不動の姿勢で答える私に、ご主人さまは口をつぐんだ。
 また、長い沈黙。
 私の顔をじっと見つめておられたが、とうとう、椅子から立ち上がる。
「血を吸われるとは、どういうことだかわかっているのか。さきほどのように、途中で抑えられるとは限らぬ。そうすれば、そなたは死ぬのだぞ」
「かまいません。お出ししたものを完食していただくのは、料理人の最高の名誉です」
「栄誉を求めるなら、どこか、よそで腕をふるえ。そなたの血など、料理ですらない」
「最高の素材を、最高に新鮮なまま供するのも、料理人の腕です」
「どこが最高の素材だ。吐き出したいほど不味かったぞ」
「まあ、うそつき。さっきは、『途中で抑えられるとは限らない』なんて言ったばかりのくせに。自分の矛盾に気づかないほど、脳みそに栄養が回ってないんですね」
 来栖さんは呆気に取られた表情で、機関銃の撃ち合いのような私たちの会話を聞いている。
 ミハイロフさまは、ひどく疲れたように、ゆっくりと椅子に戻った。うなだれた拍子に長い髪が頬にかかる。
「もうよい。出て行け。そなたの顔など――二度と見たくない」
「出て行きません」
 負けるもんか。どんなに嫌がられても、顔をそむけられても、私はご主人さまのそばにいる。
 負けるもんか。
 ぽとりと、熱いしずくが目の縁からしたたり落ちた。
 あれ? あれれ?
 泣くつもりなんかない。直立不動の姿勢のまま、声だって表情だって完璧に冷静を保っているのに、涙腺だけが私を裏切り始めた。
 ばか、止まれ。こんなに弱いところをご主人さまに見せたら、余計に血が吸えなくなっちゃうじゃないか。
 落ちる涙に気づいたのか、ミハイロフさまは顔を上げて、私を見た。
「ここに、いさせてください!」
 私は大きな声でわめいて、そのまま部屋を飛び出した。
 廊下を駆け抜け、厨房の扉を閉めたとたん、食いしばっていた唇から、ぶっと嗚咽が噴き出して、もう止まらなくなった。
『そなたの顔など、もう二度と見たくない』
 それが、お優しさから出ている言葉だとわかっているのに、悲しくてたまらなかった。泣けて泣けて、しかたがなかった。
 立ったまま、声を噛み殺して泣いている私の後ろに、来栖さんが近寄る気配がした。
「茅原さん」
 ありがとうございます――口から漏れた、ため息のような小さなつぶやきが私の耳に聞こえてきた。

「何か方法はないんでしょうか」
 私と執事さんは、厨房のテーブルに向かい合って座った。
「方法とは」
「ご主人さまが人を殺さずに、心ゆくまで血をお吸いになれる方法です」
 紅茶のカップで両手を温めていた私は、顔を上げた。「血液製剤を大量に買ってくるというのは、どうでしょう」
 一般には手に入らない医療用のものでも、ミハイロフ家の財力を持ってすれば不可能ではないはず。
「ダメですね。そんな加工されたもの」
「じゃあ、実験か何かを装って、新鮮な血液を募るっていうのは?」
「もうとっくに、祖父が試しているのですよ」
 来栖さんは、辛抱強く答えた。「昔は今と違って、売血が法律で認められていました。祖父は隣の部屋で何人もの希望者から注射器で血を抜き取り、碗に入れて伯爵さまにお持ちしました。けれど、お召し上がりになることはありませんでした。いえ、食い下がる祖父を納得させるために、一度だけ口をつけられたと聞きました。でも、ダメでした。伯爵さまが満たされるためには、生命ある血が必要なのです」
「生命ある血?」
「つまり、物質としての血だけではなく、人間の生命力が合わせて必要だということです」
「血を吸うことによって、生命力も一緒に得ておられると?」
 来栖さんは、うなずいた。「だから、ほんのわずかな血を吸われただけで、あなたはしばらく立ち上がることすらできなかったでしょう」
「そう言えば」
 たぶん、昨日私が失ったのは、注射器一本にすら満たない量だったと思う。でも同時に、私の生命力がたくさん奪われていたのだ。
「生命力は、若者ほど旺盛であり、歳を取るほど少なくなっていきます」
「だから、卒業したての若い料理人を募集したんですね」
「そう。二十歳前後の男性などは、もっとも生命力が旺盛ですからね」
 それを聞いて、私は飲んでいた紅茶を、もう少しで吹き出すところだった。
「ご主人さまは、男の人の血もお吸いになるんですか?」
「見たことはありませんが、特に支障はないはずです」
 顔を赤らめ、放心状態になっている私を見て、来栖さんも紅茶を吹き出しそうになった。
「何を、あらぬ妄想にふけってるんですか」
「いえ、だって、若い男性の首すじに唇を寄せておられるご主人さまのお姿を想像したら」
「別に恋愛じゃないんですから、相手が誰でもいいでしょう」
「いえ、もうBLモードのスイッチが入りまくりです」
「あ……はは」
 私たちは、身体をよじって笑い出した。さっきまであれほど泣いていたのに。
 こうして向き合っていると、なんだか来栖さんのことが、たったひとりの頼れる仲間だと思えてくる。最初は全然好きになれなかったのが嘘みたいだ。
「来栖さん、協力しませんか」
「何をでしょう」
「私たちふたりで、かわりばんこに、ご主人さまに血を吸っていただくんです。ふたりの生命を合わせれば、死なずにご主人さまのお腹を満たすことができませんか。それならば、ご主人さまも納得してくださると思うんです」
 来栖さんは、ほうっとため息をついた。
「わたしは無理なんですよ」
「どうしてですか」
「わが来栖家は、伯爵さまと契約を交わしています」
「五百年、無給で働くという、あれですね」
「あれは主従契約なのです。子々孫々にわたって仕える代わりに、来栖の名を継ぐ者には決して触れぬという誓いです」
「そんなの、破棄しちゃえばいいじゃないですか」
「無茶なことを言いますね。誓いには呪いがともなうのですよ」
 笑いを口に含みながら、来栖さんはテーブルの上でぎゅっと拳を握りしめた。
「あなたは不思議な人だ。事態は何も変わっていないというのに、あなたといると、何かが変わっていくような気がする」
「うそ。私にそんな力はありません」
「だからこそ――あなたを遠ざけたいという伯爵さまのお気持ちも、よくわかります」
「え……?」
 彼は暗い目をして、私から顔をそむけた。
「あなたは、伯爵さまを愛し始めている。でなければ、いくらなんでも、料理人の誇りだけで自分の命を差し出すなどとは言えるものではない」
 私が? ご主人さまを?
「その愛情は、無知ゆえです。あなたは、主の背負った途方もない重荷のことを何も知らない」
「途方もない重荷?」
「残酷なようだが、その気持ちが報われることはありませんよ。伯爵さまがローゼマリーさまを忘れることなど、絶対にありえない」
 ストンと床が抜けたような心地がして、私はぎゅうっと唇を噛みしめた。
「わかってます。だって、奥さまのことを想えばこそ、ご主人さまは血を吸えなくなっちゃったんですよね」
 シーツやカーテンをびりびりに引き裂くほど激しい飢えの苦しみに耐えながら、亡くなられた奥さまを今も愛しておられるんだって――いくら鈍い私だって、ちゃんとわかっている。
「それならば、悪いことは言わない。ここをすぐに立ち去り、普通の人間の男に恋をなさい」
「来栖さんは、どうするんですか」
「わたしは最後まで、おそばに仕えます」
「ずるい……自分だけ」
 私は、涙といっしょに紅茶の残りをごくりと飲み干すと、立ち上がった。
 来栖さんは何も言わずに、厨房を出て行く私を見送る。
 厨房からご主人さまのお部屋への廊下は、わずか十数歩の距離なのに、とても長かった。
 ノックをする。返事はない。勝手に開ける。
「まだ、いたのか」
 暗がりの中から、ご主人さまの無機質な声音。
「もう少しだけ、いてはいけませんか」
「そなたのすることは、ここには何ひとつない」
「はい、わかっています。それでも」
「料理人を生涯の仕事と定めたのであろう。自分の料理で誰かを喜ばせたいのだろう。ならば、よそに行けばよい」
「うう、ご主人さまったら、痛いとこ突くなあ」
 私は力なく笑った。「確かに、ついさっきまで、それが私の夢でした。でも、もっと大きな夢ができたんです」
「夢?」
「ご主人さまに、生きていてよかったと思っていただくことです」
 窓に鎧戸が下りた真暗な部屋には、虫の声も夜鳥の声も届かない。しばらくの間、完全な静寂があたりを覆った。
「……生きていてよかった?」
 ご主人さまは、うつろな声で私の言葉をそのまま繰り返した。
「生きているのでもなく、死んでいるのでもない。何も感じず、存在する何の理由も意味も持たぬ俺に、そんな日が来ると思うのか」
「ご主人さまは、生きていらっしゃいます!」
 私は、苦悶のうめきのような悲しい言葉を、さえぎった。
「私のお入れしたローズティーを美味しそうに飲んでくださったじゃありませんか。『そなたの顔など見たくない』なんて、最高に憎たらしい言葉を吐いて、人を傷つけることができるじゃありませんか。生きているからこそ……」
 生きているからこそ、私の心をこんなにも虜にすることができるんでしょう? ねえ、ご主人さま。
 椅子の革がきしむ音がして、伯爵さまが立ち上がり、暗闇から出ていらした。私の前に立ち、じっと見下ろしたあと、私の頬に手を触れた。
 ひんやりと冷たい指。
「死人そのものだろう」
 と薄く微笑む。私は首を振って答えた。
「だいじょうぶ。冷え性には、ショウガや唐辛子が効果があります。明日は、ショウガ柚子湯と、冬野菜のたくさん入ったクリームシチューをお作りしますね」
「そなたの顔など見たくないと言ったはず」
「じゃあ、ヘルメットとゴーグル買ってきて、隠します。でも、匂いと味が見られるように、マスクだけは勘弁してください」
 それを聞いたご主人さまは、静かな深いため息を吐いた。
 安楽椅子に戻り、目を閉じ、顎を持ち上げ、しばらく揺れに身をゆだねておられた。
 私のしていることは、きっとご主人さまを困らせているだけなのだろう。
 闇の中の安寧をぶちこわし、奥さまの思い出を引っかき回し、決してお腹を満たすことのできない食物しかお出しできない。とんでもなく邪魔で迷惑で、何のなぐさめにもならぬ小娘だと思われているだろう。
 それでも、ご主人さまには、怒ったり、眉をひそめたり、ため息をついたりしてほしい。たとえ少しでも、ご自分が生きていることを思い出してほしい。
 死者の世界から、ほんのわずかでも日なたに出てきてほしい。
 そう念じながら、次のことばを待っていた私の耳に、そよぐ風のようにやわらかな声が聞こえてきた。
「では、早く持ってまいれ」
「え?」
 ご主人さまは、漆黒の瞳でまっすぐに私を見つめていた。
「聞こえぬのか。そなたの調えたローズティーを飲むと、よく眠れるのだ」
 その底知れぬ暗黒に、一条の暖かい光がたゆたっているような気がする。錯覚かもしれないけど、錯覚でもいい。それで、私はがんばれる。
 口から抑えきれない嗚咽が漏れる。早くも涙でぐしゃぐしゃになり始めた顔をぐしっと袖で拭き、むりやり笑みに取って換えると、ぴんと背筋を伸ばして、腹の底からの大声を上げた。
「はい、ただいま、ご主人さま!」




第一章 終

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