(1)
「ご主人さま、おはようございます!」
「宵の口だというのに、その挨拶か。相変わらず無駄に明るいな」
「暗さ満点のご主人に対抗するために、毎日しっかり気合を注入してますから」
お目覚めのお茶のスパイスは、久しぶりのこんな会話。不機嫌そうに眉根を寄せながらブランデー入り紅茶を口に含むご主人さまを、ただじっと見つめる至福の時間がまた戻ってきたのだ。
悪態をつきながらも、私がそばにいることをお許しくださったミハイロフさま。
いや、『ミハイロフ』は偽名だと来栖さんは言っていたから、レオンさまと呼んでいいかな。……きゃーっ。心の中で呼ぶだけで照れちゃう。なんだか少し恋人に近づいたみたい。
「何をそんなに、もだえている。気持ち悪い」
……うう、やっぱり恋人への道は険しい。
お盆を下げて、部屋を出ると、帰り支度を整えた来栖さんに、廊下でばったり会った。相変わらずちっとも働かずに、きちんと定時に帰る人だ。
「あ、そう言えば、来栖さんて、下の名前はなんて言うんですか?」
灰色の髪の執事は、何でそんなことを聞くのかという顔で首をかしげた。
「……聖人(きよと)ですが」
「来栖聖人?」
「変ですか」
変と言うか、仮にも吸血鬼に仕える執事として、これ以上皮肉な名前はないと思うよ。
「ところで、あなたの名前も何かいわれがあるようですね。日本人で『ルカ』というのは珍しい」
「福音書を書いたイエスの弟子の名前です。私の伯父さんが牧師してて、聖書から名づけてくれたんです」
「そっちも思い切り、皮肉な名前じゃないですか」
「漢字も凝ってるでしょう。『石榴(ざくろ)』の榴と、『果実』の果ですよ。小学生、漢字練習帳に書けないですよ。ミステリー読んでて、『ぱっくりとザクロのように割れた傷口から血がだらだらと』なんてくだりが出てきたときにゃ、死ぬほど伯父を恨みました」
「ははあ、これはまた別の意味で皮肉ですね」
「古くから多産と豊穣のシンボルと呼ばれ、女性の身体にもいいんですけどね。なにせ見た目が」
ほうっとため息をついて調理台の前にすわりこんだ私は、目の前に並んだ食材を見て、名案を思いついた。
「そうだ、来栖さん。今日はたくさん作るつもりなので、正餐を食べて帰りませんか?」
「残りものならば、いつものように明日の昼いただきますが」
「やっぱり作ったその日のほうが段違いに美味しいです。それに、ふたりより三人で食べるほうが絶対楽しいし」
「三人?」
その真夜中、ご主人さまは食堂に入ると不思議そうな顔をされた。
いつもなら、とっくにいないはずの執事が、おじぎをして出迎えたからだ。
「なぜ、おまえがいる。クルス」
「茅原シェフにとどめられました。今日の料理は自信作のようです。しかし――」
来栖さんは、声をひそめた。「わたしが行かないと、あの方はひとりで何をなさっておいでか」
「ほうっておけ」
謎の会話をしているふたりを残し、私は料理の最後の仕上げをしに厨房へ向かう。
小ぶりで細長い陶器の皿に、おもちゃのような小品の三種を盛り合わせる。まず今日のオードブルだ。
来栖さんがシャンパンをグラスに注いだ。執事の黒の正装で白いアームタオルを腕にかけた姿は、さすがにサマになっている。燕尾服を着て似合うのは、こういう細身ですらりと背が高い男性なんだろうな。
私は進み出て、ご主人さまの前にオードブルを置いた。
「本日の前菜でございます。左からレバーソーセージ。カツオとホタテの刺身をバルサミコソースで和えたもの。そして、高野豆腐をスライスして素揚げした台に、チーズと海苔、ソラマメのクリームをはさんでございます」
滔々と流れるような説明を終えると、左後ろに下がる。そして、来栖さんを振り返った。「来栖さんの分はあちらに用意しています」
ご主人さまの食卓から少し離れたところに、移動式のワゴンに椅子を添え、テーブルクロスをかけて、簡素な食卓を作ってある。
来栖さんは、灰色の前髪に半分隠れた目を見張った。「使用人は主の晩餐が終わってから、別室にていただくのがしきたりです」
「来栖さんにも、ご主人さまと同じ部屋でいっしょのものを食べていただきたいんです。身分うんぬんって断られると思ったから、ちゃんと別のテーブルも用意しました。だって、食事って絶対に大勢でにぎやかなほうが楽しいもの」
「あなたひとりで、十分にぎやかでしょうに」
「私は、しょっちゅう厨房と行き来します。だから来栖さんにお願いしてるんです」
「わたしも執事として、のんびり食事をいただくわけにはいきません。伯爵さまの給仕を務めます」
「あ、じゃあお毒見役としてなら、いいでしょう。まちがいなく執事の仕事ですよ」
「不必要です。この方が毒なぞで死ぬわけありませんから」
「この、頑固おやじ」
「34歳で、『おやじ』と呼ばれるのは心外ですな」
レオンさまは、あきれ返ったと見えて、深く大きな嘆息をされた。
「もうよい。クルス。この女の言うとおりにしろ」
「し、しかし」
「どうせ今宵だけだ。すぐに飽きる」
「そうです、すぐに飽きますから……って何を言わせるんですか。私は本気です!」
主の命令とあって、来栖さんは即座に「はい」とお辞儀をし、離れたテーブルについた。
「おや」
ソーセージから刺身、刺身から高野豆腐の揚げものへと移るとき、来栖さんはフォークの手を止めた。
「確かに次の昼にいただくより、格段に美味しい」
「あたりまえです。料理は生きてるんですから」
私は気をよくして答えた。来栖さんは、けっこう味についての感想を容赦なく言ってくれる。そのひとことが料理人にとっては、この上なくうれしいのだ。何を召し上がっても反応のないご主人さまひとりを相手にするのに比べれば、俄然やる気がでる。
「次は、ほうれんそうと海草のサラダでございます。海草は来栖さんの若ハゲにも効きますよ」
「ハゲじゃない、白髪です」
私たちの会話を聞いているのかいないのか、ご主人さまは相変わらず、むっつりと召し上がっている。でも心なしか、表情がいつもより柔らかい。うん、ほんの一ミリだけど。
仔牛の肉のコンソメスープを経て、メインディッシュ。
「鶏レバーのテリーヌをクレープで包んだものに、ほうれん草のソースが添えてあります」
「また、レバーですか」
皿の上を見て、来栖さんは不服そうに批評した。「少々、具材が偏りすぎではありませんか」
「実は本日のコースには、ふたつのコンセプトがございます」
あ、こういう中途半端な横文字は、ご主人さまには通じないんだった。なにせ、百年前に日本に渡って、ずっと引きこもっていたんだもの。「つまり、基本理念です」
「なんです、それは」
「ひとつは、造血作用のある食材を使っていることです」
来栖さんは、あんぐり口を開けた。
「鉄、ビタミンB12、葉酸を多く含む、レバー、肉、赤身の魚、ほうれんそう、豆類、海草などです。もちろん、すべて鉄のなべやフライパンで調理させていただきました」
一瞬の間があって、レオンさまは、「クッ」と喉の奥を鳴らした。
「そなたにかかれば、吸血鬼も、貧血症と同類とみなされるのか」
「そりゃ、違うことくらいはわかってます。でも」
私は、ひしとご主人さまの漆黒の瞳を見つめ返した。「本当に、違うんでしょうか。どこが違うんでしょうか。私たちは、食べ物から栄養を得て、血を作り骨や筋肉を作りエネルギーを得ています。ご主人さまの一族は、人間の血を吸って生命力を得ておられる。方法が違うだけで、どちらも生きようとしていることに、変わりはないんじゃないでしょうか」
『生きているのか死んでいるのかわからない』とおっしゃった。
でも、違う。ご主人さまは確かに生きておられる。すべての生き物は、生きるために他の命を必要とする。
吸血鬼も人間も、何も違いはない。
「そなたは、汎神論者か。家畜の命も人間の命も同等で、殺しても罪は同じだと申すつもりか」
「そういうことじゃありません。やっぱ、人間を殺すのはいけないことだけど」
ああ、なんだか自分で言ってて、ごちゃごちゃになってきた。「でも、吸血鬼は神に呪われているとか、死人と同じだとか、そういう暗い考えはやめにしませんか。私、いろいろ試してみたいんです。もっとちゃんとご主人さまが元気に暮らしていける方法を、いっしょに前向きに考えていきたいんです」
今日の造血メニューは、その第一弾。
吸血鬼が人間の食事から栄養が摂れないのはわかってるけど、でも百分の一でも効果があるかもしれないじゃない? 可能性があるうちは、あきらめたくない。
ご主人さまは不機嫌そうに黙りこくってしまわれた。やっぱり、私の考えは甘いのかな。何百年もかけて紡がれた一族の生き方を、私の浅知恵くらいで何とかしようなんて。
険悪なムードになりかけた場を、来栖さんが見かねて、助け舟を出してくれた。
「で、今日の料理のもうひとつのコンセプトというのは?」
「あ、ハンガリー料理です」
「ハンガリー?」
「もちろん全部ではありませんが、ハンガリー料理をいくつか取り入れました。ご主人さまの故郷がトランシルヴァニアだとすれば、ルーマニアというよりは、隣のハンガリー文化圏だとわかったんです。料理も、ハンガリーやオーストリアの影響を色濃く受けています。前菜のレバーソーセージは、フルカと言います。このテリーヌを包むクレープみたいなのは、パラチンタ。それからさっきのパスタ入りコンソメスープは……えっと、ええと」
「フーシュレヴェシュだ」
突然ご主人さまが料理の名を言い当てたので、驚いた。
そう言えば、ほかの料理はどれも口をつける程度だったのに、このコンソメだけは綺麗に平らげておられる。
フーシュレヴェシュ。仔牛や鶏を煮込み、漉した透明なスープに、チペトケというすいとんのようなパスタを入れる、代表的なハンガリー料理。
「召し上がったことが、おありなのですか」
「城のコックが、馬鹿のひとつ覚えのように、こればかり作っていた」
やった。
とうとうやった。今まで世界中の料理を作って惨敗してきたが、とうとうご主人さまの故郷の味を探し当てることができたんだ。
そう思ったとたん、涙腺が決壊した。
立ったまま、ぐしゅぐしゅ泣いている私を、うざったげにレオンさまはチラリと見て、顔をそむけた。
来栖さんが、今まで見たことがないほど穏やかな笑みを浮かべて立ち上がり、ご主人さまのグラスに食後のリキュールを注いだ。
「す、すいません。あの、すぐにコーヒーとデザートをお持ちします」
厨房へ入ったとほとんど同時に、大きな物音がして、私は文字通り床から飛び上がった。
真夜中の静寂を突き破って、玄関のノッカーが鳴り響いた音だ。
精魂こめた晩餐が終わり、これから何かが変わっていこうという明るい予感が芽生えた折りも折り。
これまで主人と執事と料理人しかいなかった館に、前触れなしに闖入者が現れたのだ。
食堂に戻る。灯りの加減か、来栖さんの顔が青ざめているように見えた。
「あの方がいらしたのでは」
そして、主に決断を仰ぐときの眼差しで、レオンさまを見る。
「通せ」
「よいのですか」
「いずれは会わねばならなかった。それが今宵になっただけだ」
「承知いたしました」と礼をし、執事は蜀台を手に持つと、玄関に向かった。
私も廊下に出て、扉の陰からおそるおそる顔を出し、玄関の間に入ってくる来客に目を凝らした。
若い男性だった。黒革のジャンパー。じゃらじゃらと首や胸元のポケットから青銅色の鎖を垂らし、羽根のように逆立てた髪の毛は、目の覚めるような藍。
「……パンクロッカー?」
続いてもうひとり、やや小さな人影が入ってくる。黒曜石のようなつぶらな瞳に、まっすぐな髪。飾り気のない清楚な黒のワンピース。まるで人形のように綺麗な少女だった。
「……ゴスロリ少女?」
背後で物音がしたので、あわてて食堂に戻ると、ご主人さまがナプキンを投げ捨て、椅子から立ち上がるところだった。
そして大股で壁に歩み寄ると、壁掛け式の飾り棚から、広幅の剣を一本手に取る。
部屋の空気の中を、ぴんと金属の線が走ったような気がした。
「戦うんですね!」
腹の底から心地よい興奮が駆け上ってくる。血湧き肉躍るとは、このことだ。
「ご主人さまのその陰険なご性格、さぞや、あちこちに敵をお持ちだと思ってました。覚悟はできております。私なんぞ自分の身を守るのがせいいっぱいですが、むざむざと人質になって、ご主人さまのお邪魔になるような無様な真似は決していたしません。幸いにして、刃物の扱いには慣れております。厨房には、包丁、すりこぎ、金槌など武器になるものには事欠きませんし――」
「何を申しておる?」
振り向いたレオンさまの視線には、あわれみすら宿っていた。
「何って、その剣で敵と戦われるんでしょう?」
「装飾用の模造剣でか」
「は?」
ご主人さまは、すらりと剣をさやから抜いた。確かに、ぺろんとした質感で光沢もない。
「訪ねて来たのは、百年来の友だ」
「も、申し訳ございません。つい」
ぺこぺこ謝りながら、気づいた。あれ、百年来ってことは、相手もやっぱり……だよね。
「久しぶりだな、レオン」
いつのまにか扉に、あの人が立っていて、にいっと笑った。髪と同じ藍色の瞳を細めた拍子に、宝石のような金の斑がきらめく。
そして、革ジャンのポケットに両手をつっこんだまま、一瞬にしてご主人さまとの距離を縮めた。そのしなやかな動きは、まるで豹だ。
挑発的なほど真正面から、ひたとレオンさまの顔を睨みつけていたが、やがて片膝を折って床につけた。
ご主人さまは無言、無表情のまま、頭を垂れている客の肩に、さや入りの剣を当てる。
「イアニス・ゲオルギウ・ヴァラス子爵さまでございます」
物問いたげな私の視線を受けて、来栖さんが言った。