第2章「鉄分をたくさん摂りましょう」

(3)

 いやだいやだいやだ。
 心は恐怖でいっぱいなのに、体はびくとも動かない。むしろ、自分から進んで首筋をさらしている気がする。
 これが吸血鬼の持つ魔力? マユはこうやって自分の意志を抜かれて、ククラになっていったの?
 イアニスさまの息づかいを肌に感じ、思わず目を閉じる。
 だが、いつまで経っても何も起こらなかった。
「やーめた」
 からかうような軽い笑い声が聞こえたかと思うと、いきなり後ろに突き飛ばされた。
「こんな色気のない女の血、飲む気がしねえ」
「な、な、な」
 私は壁を背に崩れ落ちながら、両手を革ジャンのポケットに突っ込んでにやにやしている男の顔を見上げた。
「きっと、マユの血のほうが百倍美味い。おまえ、十三歳の子どもに完璧に負けてるぜ」
 呆然と床にへたりこみ、去っていく子爵の後姿を見つめる。
 私、からかわれたんだ。はじめっから、血を吸う気なんかなかったんだ。
 ほっと安堵したと同時に、悔しさがこみあげてきた。
 思わず、自分の着ているものを見つめる。白いハイネックのコックコート。黒いスラックス。業務用のロングエプロン。これで、色気なんか出せるはずない。コックには、色気なんか必要ないもの。
 レオンさま以外の男に、どう思われようと何ともないはずなのに。
 それなのに、悔しくてたまらない。私にはそんなに魅力がないのだろうか。ご主人さまは、だから私に手を触れないのだろうか。
 目の端に熱いものを感じて、ぐしっと手の甲でぬぐった。

 厨房でお茶を調えてから、ミハイロフ伯爵の部屋をノックした。
 扉を開けると、ご主人さまはすでにベッドから起きて、安楽椅子に座っていらした。
 中に入ると、天井板の一部が剥がれ落ちているのに気づいた。
 また飢えに耐えかねて、眠りながら暴れたんだ。無意識のうちに手近な何かを投げつけたのだろう。
 やはり、恐れていたことが起こった。昨日子爵が来てから、屋敷の中に血の匂いが充満している。レオンさまにとっては、まるで拷問だと思う。
 そこまで血を召し上がることを拒否なさるのは、それが、亡くなった奥さまの遺志だから。
 レオンさまは、ローゼマリーさまを忘れることは決してない。私なんかがそばにいたって、何も変わらない。
 黙ってお茶の用意をして、「どうぞ」とカップをサイドテープルに置く。「ああ」とそっけない返事。私のほうを見もしない。
 いつものことなのに、今の私には、ご主人さまの無関心は耐えがたかった。
 『色気がない』というヴァラス子爵の言葉は、私の心の一番弱い部分を深くえぐった。なぜなら、以前つきあっていた恋人と別れるときに言われた言葉も、同じだったのだ。
 三つ目の割烹の仕事をクビになり、四つ目のレストランで髪を振り乱して働いているときだった。毎日が必死で、化粧をする余裕もない。
 気がついてみれば、恋人は私にまったく手を触れなくなっていた。別の女と付き合っているらしいと友人から聞かされ、思わず詰め寄ったときに、こう言われたのだ。
「榴果。おまえ、もう女じゃないよ。それじゃ、抱く気にもならない』
 その恋人の捨て台詞と、さっきの子爵の言葉がオーバーラップして、耳の中でわんわんと反響していた。
 受け皿に置こうとしたティーストレーナーが手からすべり、絨毯の上にぽとりと落ちた。
 あわてて拾ったものの、自分の不甲斐なさに、じわりと涙が出てきてしまった。
「私って、そんなに……魅力ないですか」
「なんだと」
 ご主人さまは大儀そうに、背もたれに預けていた頭をめぐらした。
「答えないでください。ご主人さまの答えなんか、とっくにわかってます。同じ食材だって盛りつけによって、美味しそうにも不味そうにもなる。私ってば、『料理人は美に敏感であるべし』なんて、えらそうに高説を垂れといて、自分の身なりにはちっとも構っちゃいないんですから。付き合った男にさんざん言われましたよ、女じゃないって」
 手に握りしめていたストレーナーの網目がたわむ。
「それからまもなく、勤めていたレストランのオーナーに閉店後の店内でセクハラされました。吐き気がするほどイヤだったのに……実際、逃げ出してからしばらくは吐いて吐いてものが食べられなかったのに、心のどこかで、『ほら、私はちゃんと女として見られてるじゃない』なんて叫んでる自分がいた。……私って、サイテーですよね」
 揺り椅子が、きいと音を立てた。うずくまっている私のそばに、ご主人さまが立つ気配がした。
「イアニスに何を言われた?」
 何の感情もこもらぬ、それでいて極限の感情がこもっているような静かな声だった。
 ぞっとした私は必死になって、首を横に振った。「何も」
 ご主人さまは、深い吐息をつかれた。
「わかった。ついてまいれ」
「え?」
「庭を歩く。供をせよ」
 目を上げると、ご主人さまの長い黒髪が背中で、ゆらりと揺れた。

 外は濃密な夜の闇に包まれていた。今夜は月もない。
 灯りも備えられていない庭は、暗くて何も見えないはずなのに、不思議と足元はぼんやりと明るいのだ。
 それに、伯爵家の庭は季節がない。冬でも花が咲き乱れ、夏でも酷暑が及ばない。まるで時間と切り離された空間。前を歩く人の魔力がなせるわざだろうか。永遠に生きるという宿命を、この庭も分かち合っているのだろうか。
 私は、夢の中を歩くようなふわふわした心地で、ご主人さまの後を追いかけた。
「あれは、どうなった」
「あれって?」
「そなたが作ると言っていた菜園のことだ」
「ああ、そこです」
 私は、あわてて小走りに、左の小道を曲がった。
「ほら、いっぱい生えてきてますよ。いろんな種類のハーブを植えたんです。そっちの斑入りのは『パイナップルミント』って言って、葉っぱをこするとパイナップルの香りがします。こっちの白い花ははエゾヘビイチゴです。もうすぐ実が生るから、ジャムにしようかお菓子に入れようかと迷っちゃって。それから、こっちは」
 気がつくと、レオンさまは私の隣に、素知らぬ顔で立っていらっしゃる。
「もう! また全然聴いてない」
「意外と、元気ではないか」
 ぽんと私の頭の上に手が乗った。
 吸血鬼の体温は低いはずなのに、その手は大きくて、とても温かい。
「そなたらしくなった。そなたは、それくらいがちょうどよい」
 ぽんぽんと、ボールをはずませるように私の頭をなでてくれる。そのたびに、私のささくれだった心が丸くなっていく。癒されていく。
 そして、体にたまっていた苦い涙が、どんどん目からあふれ出てくる。
「また泣く」
「だって……えーん、ご主人さまがやさしすぎて……気持ちわるいんですもの」
「わかった。二度とこのような真似はせぬ」
「だめ、だめっ。もっとやさしくしてください!」
 私は思わず、離れていこうとする袖を引っ張った。
 レオンさまは奇妙な表情を浮かべて、私をご覧になる。まるで、そう、戸惑っているかのよう。
 そして、私の手を取って、ゆっくりと袖からはずし、背を向けた。
 やさしいけれど、明確な拒絶。
「ごめんなさい」
 と口の中でつぶやいて、手の甲で目をぬぐった。
 わかっている。これは絶対にしちゃいけないことだった。ご主人さまは、ご自分に近づくことを誰にもお許しにならないのだ。
 ローゼマリーさま以外の人は誰にも。
 でも、そばを歩むことはお許しくださった。私が私らしくあれば、それでよいとおっしゃった。
 それだけで、じゅうぶんだ。
 私は、ご主人さまの背中を見ながら、二歩後ろを歩き始めた。そう、これが私の定位置。
 これより近づくことはできなくても、絶対に誰にも渡さない、私の場所。
「あーっ」
 元気を回復したおかげか、私は夜の庭に似つかわしくない大声をあげてしまった。
「門がある!」
 あの夜見つけた、バラ園へと通じる錆びた門が、うっそうと茂る雑草の中に姿を現している。あれからというもの、何度ここを通りかかっても影も形もなかったのに。
「ご主人さまがいっしょでないとダメなんだ……」
 バラ園を包む結界が、レオンさま以外の人の立ち入るのを拒否している。そう思って背筋がぞっとした。
「入ってもいいでしょうか」
 私は、おそるおそるご主人さまを見上げた。その横顔は、いつもの完璧な無表情で塗り固められている。
「好きにすればよい」
「ありがとうございます」
 廃園のバラは、あの満月の夜と同じく、煙るような花姿とむせかえるほどの香りで、私たちを迎え入れた。
 私の足は自然に、花壇の中央、薄紫のダマスクローズの前に向かう。
 ローゼマリーさまが、もっとも愛されたバラ。
「笑顔がおきれいな方だったのでしょうね」
 私の脳なんかが思い浮かべることのできないほど、可憐で美しい女性。一族でありながら、血を吸うことを拒否して自害された、たおやかでお優しい女性。
 だが、私の背後から響いてきたレオンさまの答えは、意外なものだった。
「俺は二百年間、あれの笑う顔を見たことがない」
「え?」
「俺と妻は、死ぬまで憎み合っていた」
「まさか」
 信じられるはずない。だって何があっても動じないご主人さまが、この園を見つけたとき、どれほど当惑した表情を浮かべていたか。
 ダマスクローズに触ろうとした私を引き戻して、触らせなかった。『これは、妻の大切にしていたものだから』と。
 それを見たら、どんなにニブい私にだってわかる。レオンさまが奥さまを憎んでいるはずなんかない。今でも愛しておられるって。
 ご主人さまはきっと、奥さまを死なせてしまった負い目から、そう思い込もうとしているだけだ。
「だめですよ、そんなことおっしゃらないでください」
 私はわざと怒ったふりをして、声を荒げた。
「奥さまの大切な思い出が汚れます。亡くなった方のことを話すときは良いことだけを話せって。それが供養になるんだって、お坊さんになった従兄が言ってました。あ、従兄のこと話しましたっけ? 私の親戚は牧師もいるし僧侶もいるし、法事なんかで集まったときは、宗教のるつぼと化すんです。そりゃにぎやかというか、うるさいというか、いやーもう、この私が、ひとことも口をはさめなくなるんですよ」
 ご主人さまは、私のおしゃべりにうんざりしたように、顔をそむけた。
 レオンさまには、悲しいことなど思い出してほしくない。
 私が元気でいれば、少しはお気持ちが明るくなるだろうか。それなら、私はいくらでも元気になる。道化になる。いくらでもしゃべりまくる。
 落ち込んでいる暇なんかない。

 庭を一回りして屋敷に戻ってきたとき、テラスにふたりの人影が見えた。
 ひとりが私たちに気づき、身を起こして立ち上がった。
 ヴァラス子爵だ。
 白銀の髪を夜風になびかせ、目は濡れたように紅い。
 テラスのベンチに残されたのは、ククラのマユ。
「また血を吸ったんだ」
 なじるような私のつぶやきが風に乗って運ばれる。連れ立って歩いているご主人さまと私をからかうつもりか、イアニスさまはニヤリと血色に染めた口角を引き上げると闇の中に溶け込むように姿を消した。
 私はぐったりと横たわっているマユのもとに駆け寄った。
「マユさん、だいじょうぶ?」
 いくら量を加減しているとは言え、十三歳の少女から、こんなに頻繁に血を吸うなんてひどすぎる。これじゃ、いくら食べても追いつきやしない。
「私につかまって」
「いい――ほうっておいて」
 マユは閉じていた目をぱっちりと開けて、ぎろりと私をにらんだ。
「ほっとけない。さ、中に入ろう」
 私は彼女の腕を私の肩に回し、ぐいと立ち上がらせた。
「食事の支度をしてまいります」
 黙ってうなずきを返したご主人さまを残して、私とマユは屋内に入った。
「厨房へ行くよ。まず、たくさん水分を摂ろう」
 荒い息の下で、彼女は低く平板な声でつぶやいた。
「ふたりで、どこへ行ってたの」
「え? ただの散歩だけど」
「コックなのに。散歩のお供までするの?」
「えと……」
 そう言えば、今の散歩は何のためだったのだろう。ご主人さまが「供をせよ」とおっしゃったんだよね。
 まさか――泣いている私の気分をほぐすため? 私のことを気づかって外に連れ出してくださったの?
 ボッと頬を赤くした私を、マユは薄目を開けて、じっと見つめている。
 調理台の前に座らせ、温めたミルクの入ったマグカップを渡したけど、息切れがひどくて、飲めないらしい。
 目の下にはクマができ、唇が紫色だ。
「マユさん。今から病院に行こう。輸血してもらおう」
 彼女はゆっくりと首を振った。
「いつも、ご主人さまのそばにいなきゃ」
「でも、このままだと死んじゃうよ!」
 また首を振った。「だいじょうぶ。死なない。私はククラだから」
「ククラだって、人間なんだよ。痛みとか感じてないかもしれないけど、ちゃんと人間なんだよ!」
 私は、必死で叫んだ。
 可哀そうで痛々しくて、見ていられないほどなのに。私には、この子のひたむきさが妬ましいほど、まぶしい。
「最初会ったとき、イアニスさまがおっしゃったの」
 マユは大きな黒曜石のような瞳を開いて、あらぬ方を見ていた。
「『おまえがほしい。俺についてくるか』って。私、そのとき誰にも必要とされてなかったから。学校にも家にも、私の居場所なんかなかったから。すぐに『はい』と答えたの」
「だけど、それは」
 食事として必要とされてるだけなんだよ。愛されているわけじゃないんだよ。
 その残酷なことばを、私は飲み込んだ。そんなことは、マユ自身わかっている。
 わかっているからこそ、感情も痛みもすべてマヒさせて、ご主人さまにひたすら尽くす。
 ――それが『ククラ』。
「また、造血メニューを作るね。食欲ないだろうけど、がんばって食べて」
 私はこっそりキッチンペーパーで涙を吸い取ってから、流し台に立った。私ができることは、料理しかない。

 真夜中の正餐が始まるころ、来栖さんが帰ってきた。
 へとへとに疲れているように見える。いつもはきちんと後ろに撫でつけている白髪まじりの髪も、はらりと額にかかっていた。
「どうだった」
「なんとかなりそうです」
「そうか」
 向き合った主従は、またまた謎の会話を交わしている。どうやら仕事はうまく行ったようだ。
「ちょうどタイミングよかったです。一緒に食べましょう」
 来栖さんの分のカトラリーを並べる。ワインの給仕は来栖さんに任せ、さてオードブルからお出ししようとしたとき。
 割れんばかりの勢いでドアを押し開け、ヴァラス子爵が入ってきた。
「もう待てない。今すぐに返事をしろ!」
 歯をむき出して叫ぶ藍色の髪の知己に、レオンさまはナプキンをテーブルに置いて、ゆっくりと立ち上がった。
「わかった。こちらへ来い」
 いよいよ、竜虎相搏つ戦いが始まるんだ!……ってまだ言ってるよ、私。



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