第2章「鉄分をたくさん摂りましょう」

(4)

 彼らは、隣の書斎に場所を移した。
 レオンさま、イアニスさま、彼の後ろにぴったり従うマユ、来栖執事の順で入っていく。私も場ちがいなのは重々承知のうえで、こっそり潜りこんだ。
「これが俺の回答だ」
 ご主人さまはブナの書斎机から一枚の紙を取り上げて、子爵に渡した。
 目を走らせたとたん、革ジャンの両肩がグイと怒った。
「冗談じゃねえっ。こんなはした金で」
「これ以上は、1ルーブルたりとも出す気はない」
 普段から冷ややかな口調のご主人さまだが、今はさらにすごい。絶対零度だ。何者をも寄せつけない。
「それで何とかできぬようなら、もう一度泣きつけばよい。そのときは爵位を取り上げることになろう」
「くっそう」
 紙をくしゃくしゃに握りしめ、ぶるぶると拳を震わせ、イアニスさまは吠えた。
「……いつか、おまえを殺してやる。レオン」
「あの日にそうできなかったのが、お互いの身の不運だな」
「今日は、これで引き下がる。さっさと署名をしろ!」
 ご主人さまは、冷笑を浮かべながら椅子に座り、机の引き出しを開けて、革の書類ばさみを取り出した。
 来栖さんが用意したペンとインク壺に手を伸ばし、伯爵と子爵はかわるがわる、たくさんの書類にサインをしている。
「……いったい、何の契約なんですか」
 壁際に立つ灰色の髪の執事にすり寄って、おそるおそる私はささやいた。
「まあ、ざっくりと言ってしまえば、金銭の貸借契約ですよ」
「金銭……つまり、借金と言うことですか」
「あなたの考えている借金とは、桁が六個くらい違いますがね」
「六桁って。いくら私でも借金が百円単位だとは思いませんよ」
「百万単位で考えた場合で、六桁違うんですよ」
 なにそれ。計算できない。
「ざっくりじゃなくて、もっと、ちゃんと説明してください」
「卑近な例を挙げてみましょう。わが来栖家が、伯爵に五百年契約で借金をしていることは言いましたね」
 私はうなずいた。
「一族の方々の寿命は長い。だから大金の長期契約が可能です。何百年契約の貸し金は、途方もない利子を生み出します。そうなると、借金を申し込んでくる相手は、個人よりも、国が中心となる」
「国……」
「ヴァラス子爵さまの領地はギリシアです。だから、彼は今、非常に困った立場に追い込まれている」
「まさか!」
 私は大声を上げそうになり、両手で口を覆った。
「今騒がれてるギリシアの金融危機って――」
「まあ、ざっくりと言えば、その通りです。本当はもっともっと複雑ですが」
「ざっくりで結構です。もう十分、私の理解力を超えました」
 つまり、吸血鬼一族の領地というのは国単位で、彼らはその国の支配を陰で支えているってこと?
 フリーメーソンとか、シオンの議定書の世界観が、ぐるぐると頭の中で回っている。
「世界中の国々が――実はご主人さまの一族に裏から支配されているってことですか?」
「まあ、当たらずといえど遠からずですね」
 来栖さんは、恐ろしいことを平気で言ってくれた。
「ご主人さまの領地はどこなんですか」
 確か、ハンガリー料理のフーシュレヴェシュをご自分の城でよく召し上がっていたということは。「ハンガリー文化圏のどこか、ってことですよね」
「なかなか鋭いですね」
「では、なぜ日本にいるんです? 自分の領地に帰れない理由でもあるんですか」
「おお、ますます鋭い」
「はぐらかさないでください!」
 来栖さんもけっこう饒舌なくせに、肝心のところは口が堅い。これ以上、話してくれる気はなさそうだ。
 そんな会話が続いている間に、ご主人さまたちの署名も終わったようだ。
 せっかく一仕事を終えたというのに、イアニスさまは目に見えて不機嫌だった。今にも飛びかかりそうなほどの殺気をはらみながら、部屋を出て行くレオンさまの背中をじっと睨みつけている。
 その目に蒼い火のように燃えるものは、恥辱なのだろう。嫌いな相手に借金を申し込んで、値切られた辱めが、この人を怒らせている。
「マユ!」
 振り向きもせずに、子爵は呼んだ。蒼白な肌をしたマユが「はい」と答えて、近づく。
 いらだちのあまり、血を吸うつもりなんだ。
「だめ!」
 私は考えもせず、とっさに間に割って入り、両腕を広げた。
「マユは今、重度の貧血なんです。これ以上血を吸ったら、死んじゃいます」
「それが?」
 子爵の全身が怒りの炎で包まれたように見えた。私のでしゃばりが、油を注いだのだ。
 怖い。けれど、このまま黙って見ているなんてできないよ。
「ククラだから感情も感覚もないなんて、嘘。マユさんは苦しんでる。苦しみながら、あなたのために血をあげようと必死に生きてるの」
「それが、おまえに何の関係がある」
「関係とかじゃない。ただ、そばで見ていられないの。私は料理人として、豚も牛も鶏も殺す。人間が生きるために動物の生命をいただくことを、感謝しながら料理してる。でも、あなたはそうじゃない。必要もないのに、気まぐれやうっぷん晴らしのために、マユさんの生命をもてあそばないで!」
「……やめて」
 マユはふらふらと近づいてきて、ものすごい力で私の襟を後ろからつかみ、引き戻した。私はあっけなく床に尻餅をついた。
「邪魔をしないで。私はご主人さまに血をさしあげるの」
「いい子だ」
 イアニスさまは喉を鳴らして笑うと、両腕を差し伸べた。「さあ、来いよ」
「ダメ!」
 私はあわてて立ち上がった。「マユが死んじゃう!」
 彼は、何を言ってるんだという視線を、ちらりと私によこした。
「死ねば、また新しいククラと取り替えればいいだろ」
 その無慈悲なことばを聞いたとき、私の頭の中で、何かがはじけた。
「バカッ。サイテー!」
 次の瞬間、私は子爵の腕に横から組みつき、そして、特大の鉄のフライパンを持って鍛えた腕力で、彼の頬を平手打ちした。
 ――殺される。
 とっさに、そう覚悟した。正常な神経の持ち主だって、頬を張られたら激怒する。しかも相手は、爵位を持つ古の一族、人間など食物としか思っていない誇り高い男。
 ましてや、その誇りを粉々に打ち砕かれたばかりという、最悪のタイミング。
 殺意に彩られた藍の瞳が間近に迫るのを最後に、私はぎゅっと目を閉じた。
 空気が衝撃となって襲いかかり、ボキッと骨が折れる恐ろしい音がした。
 次に激痛が――来ない。
 おそるおそる薄目を開けると、来栖さんの黒いスーツの背中が、私の前に壁となっていた。
「ああっ」
「子爵さま。もうそれくらいで」
 来栖さんは、だらんと腕を力なくぶら下げながら、落ち着きはらった声で言った。
「く――来栖さん、来栖さん!」
 半狂乱で名前を叫ぶことしかできない。だって、私をかばって、私の身代わりになって、来栖さんは彼の拳を自分の体で受けてくれたんだ。
「だいじょうぶですよ。榴果さん」
 来栖さんは血の気が引いた顔に、穏やかな笑みを浮かべていた。「こういうことは、慣れていますから」
「くる……すさ……ん」
 しぼり出すような声でむせび泣いている私の横をイアニスさまが平然と歩いていく。
「さあ、マユ。来い」
 返事がない。
「マユ」
 と、重ねてたしなめるような調子の命令にも反応がない。
 顔を上げた私の目に、異変が映った。
「い――いや、いや!」
 マユが顔じゅう涙でぐしゃぐしゃにして、何度も何度も首を横に振った。
「いや――やだっ。怖い。お父さん、お母さん、助けて!」
「ククラが俺の命令を聞かない、だと?」
 イアニスさまは呆然と立ち尽くしている。怒りよりも驚きのほうが勝っているのだろう。一族の歴史が何百年あるかわからないが、いったん吸血鬼のしもべになった人間が、自分の意志で血を吸われることを拒否するのは、とても信じがたいことに違いない。
 ギリと奥歯を噛みしめると、子爵はとびっきりの甘い声で、近づいた。
「いい子だから、俺のところに来い、マユ」
 徐々に壁ぎわまで追いつめられた少女は、身体を守るように両手で頭をかかえこみ、うずくまった。
「立つんだ。ちくしょう、俺の言うことを聞け!」
「いやああっ」
「やめて、何すんのよ!」
 腕の骨を折られて動けない来栖さんを残して、私は「わあ」と子爵に飛びかかった。
「このドメステ男! やめろ! ひきょう者! 女をバカにすんな」
 よく考えると、少々、いや、かなり私情が入っている。
 過去の私が付き合った浮気性の恋人、セクハラ上司、そのすべてに対する恨みが、子爵に対して爆発したのだ。
「あのときの榴果さんは、鬼気迫るものがありましたね。子爵さまも内心は、たじろいでいらしたと思いますよ」
 後で、来栖さんが楽しげにご主人さまに報告していたのを聞いてしまった。穴があったら入りたいとは、このことだ。
「うるさい」
 イアニスさまは、まとわりつく私を難なく振り払った。
「帰るぞ」
 泣き叫ぶマユの頭をわしづかみにし、ひきずって書斎を出て行こうとしたとき、その足が止まった。
「帰りたければ、ひとりで帰ればよかろう」
 ご主人さまが、扉の外の暗がりの中におられた。
 書斎のすぐ外側、『控えの間』と呼ばれる小部屋で、高窓を背にして木製に布張りのベンチがしつらえてある。
 そのベンチに座って、子爵をにらみあげる眼差しは、暗がりの中で燐光のような青白い光を放っているように見えた。
 すごい威圧感。これが一族の上位と下位の歴然たる差なのか。
「ククラひとりも操れずに、これ以上まだ己の恥をさらすつもりか」
「……く」
 獲物に襲いかかろうとする野獣のように、子爵の全身がゆっくりと力をみなぎらすのがわかった。
 だが、ほどなくその気はしぼむように消えた。彼はマユから手を離した。
「この女は、もう飽きた」
 言い捨てて、イアニスさまは風のように姿を消した。
 その場に置き去りにされたマユは、安堵したように大きな息を吐くと、そのまま気を失ってしまった。
「ご主人さま」
「クルスにも、その子にも手当てをしてやれ」
 レオンさまは私たちのほうを見ずに命じて、
「ひどい苦痛を感じておるだろう。もうククラではないゆえ」
 静かに部屋を出て行かれた。

 夜が明けようとしていた。
 子どものようにむずかるマユを私の部屋のベッドに寝かせ、ブランデー入りのミルクを飲ませた。
 マユはうつらうつらしては起き、私の作ったおかゆやスープを食べた。夕方になるまで、私たちはポツポツといろんな話をした。
 もともと子どもに無関心な親に育てられたこと。そのわずかな関心も、出来の良い兄に持っていかれて、マユの分の愛情は残っていなかったこと。
 学校でいじめに会い、ひとりぼっちで下校している途中に、イアニスに呼び止められたこと。
 彼女の本当の名前は、「真友(まゆ)」であること――。
「うちには帰りたくない」
 かすれた弱々しい声で、でもきっぱりと言った。
「きっと、おうちの方は心配してるよ」
「無事でいるって手紙を出した。警察ざたになったら困るから。でも、探そうともしてくれなかった」
「でも……」
 帰りたくないはずはない。だって、正気に戻ったとき、マユは「お父さん、お母さん、助けて」と叫んだもの。
 恋しいけれど、拒否されたくないから、会うのが怖いんだ。
「このまま、ここで暮らしたい。ここにいちゃダメ?」
「ここって、この伯爵家?」
「私、ルカさんのお手伝いがしたい」
 マユは、13歳らしい、甘えた舌足らずな声で言った。「ルカさんみたいに強い女になりたいの」
 私は、それを聞いて吹き出した。
「私が、強い女?」
「だって、怒っているイアニスさまに向かっていったもの。すごかった」
「私は、全然強くないよ」
 マユは間違ってる。あのときの私は、今までの人生が全然うまくいかなかった悔しさと怒りを、ただ闇雲にぶつけただけ。思いやりや愛から出た行動じゃない。
 あれは、本当の強さじゃない。
「私は本当は、一途に子爵さまのためを思って血をあげていたマユがうらやましかった。嫉妬してたの」
「今は……血を吸われるのが怖い。死ぬのが怖い」
「ククラじゃなくなって、自分の感情を取り戻したからだよ」
「でも、イアニスさまのこと、今でも好き」
 目に涙をいっぱい溜めて、マユは私の腕にすがるように訴えた。「それでも、イアニスさまが好きなの」
「……そうなんだ」
「ルカさんも? ルカさんも伯爵さまが好きなんでしょう」
 手の甲で目をぐしっとぬぐって、私は「うん」とうなずいた。「ご主人さまが好き」
 レオンさまを、今の苦しみから救ってあげたい。私の血を吸って元気になるのなら、いくらでも差し上げる。死にたくはないけど、もし死んだとしても悔いはない。
 でも、ご主人さまは絶対に私の血を吸ってはくださらない。
 血を吸うことを拒否して亡くなられたローゼマリーさまを、今も愛しておられるから。
 何もできない私ができることは、少しでもご主人さまを慰めるために、おいしいローズティーを入れて、せいいっぱい工夫を凝らしたお食事をお出しするだけ。
「ルカさんみたいに……なりたいよ」
 口の中でつぶやきながら、マユはまた、すーっと眠りに入っていった。
 私はしばらく彼女の髪をなでていたが、立ち上がって、ご主人さまのお目覚めのお茶を調えるために階下に下りた。
 湿った夕闇の気配が、屋敷のそこかしこに入り込んでいる。ホールも廊下もしんと静まり返り、小さな靴音が洞窟の中のように響いて聞こえる。
 ヴァラス子爵はどうやら、怒り狂って出て行ったようだ。もう二度と戻って来ないでほしい。
 来栖さんは、私の応急手当の甲斐もなく、肘のあたりがみるみる膨れ上がってしまったので、朝を待って病院に行った。まだ戻ってこないところを見ると、やはり骨折しているのかもしれない。
 来栖さんが不在だと、やはり心細い。私はいつのまにか、彼に頼りきっている。
 冷たい言動の裏でさりげなく手助けしてくれて、さぼっているふりをして執事の務めを忠実にこなして。
 ご主人さまのことを、この世の誰よりも理解している。
 私が受ける拳を、身代わりになって受けてくれた、本当はとても愛情深い人。
 ご主人さまとは別の意味で、来栖さんは私の心の一部を占めているのかもしれない。
 ご主人さまがどうしても受け入れてくださらないのなら、私はいっそのこと来栖さんに――。
「バカッ、何考えてるのよ」
 胸がきゅうっと苦しくなって、あわてて物思いを振り払う。
 厨房へ向かう廊下の途中で、私はものすごい力で手首をつかまれた。あっと叫ぶ間もなく、リネン室の中に引きずり込まれ、背後で扉が閉められた。
 部屋の壁にぎゅっと押しつけられた。暗がりに、藍色の瞳が光っている。
「子爵さま?」
 どうして? 出て行ったんじゃなかったの?
 来栖さんが病院へ行ったあと、念のため、屋敷じゅうの扉という扉。窓という窓に鍵をかけたはずだ。
 吸血鬼には、鍵なんか役に立たないってこと、知らなかった。
 子爵は私の顎に手を当てて、ぐいと自分のほうを向かせた。
「マユはどこだ」
「し――知らない。もう屋敷を出てったもの」
 彼はあざけるように鼻を鳴らした。「うそだな」
 彼の手から逃れようともがいたが、はがいじめにされて身動きがとれない。
「やめて!」
 マユが危ない。マユが連れて行かれちゃう。
「マユを解放してあげて。お願い。もう飽きたって言ったじゃない。いくらでも代わりがいるって言ったじゃない」
「ふっ、確かにそうだ」
 子爵は愉快そうに笑った。口からのぞく犬歯は氷柱のように尖っている。
「だから、今から新しいククラを手に入れる」
「なんですって」
 彼の手がひやりと優しく頬に触れた。真赤に染まった瞳が私を瞬時にして捕らえる。
 たちまち体じゅうから力が抜けてしまった。抵抗できない。大声も出せない。
 私はもうそのとき、イアニスさまの魔力に、完全に支配されてしまっていた。
「ルカ。おまえを俺のククラにしてやる」



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