第3章「日光とビタミンDは欠かせません」

(3)



 一時間ほどして、来栖さんが帰宅した。
 食堂と調理場の片づけを終えていた私は、コーヒーとお菓子を用意して、いつもの仕事部屋で待ち構えていた。
「来栖さん。今夜の騒動は、いったいどういうことなんですか。説明してください」
「そう訊かれると思いましたよ」
 執事は、私の隣の椅子に座ると、熱いコーヒーを美味しそうに飲んだ。
「でも、何から話せばよいか。そちらから訊きたいことを質問してください」
「ルイって誰なんですか」
「天羽ルイ侯爵。一族のひとりです」
「爵位ってよくわかんないんですけど、侯爵って偉いんですか」
「いろいろありますが、一番上は公爵です。それから侯爵、伯爵、子爵、男爵の順で位が下がります」
「じゃあ」
 わがご主人さま、ミハイロフ伯爵よりも、位は上ってことになる。
「つまり、ご主人さまは、天羽侯爵さまに頭が上がらないってことですね」
「そういうことになるでしょうか」
 そりゃ、気位高いご主人さまが、会いたくないのも道理だ。
「もうひとつ、伯爵さまが拒否なさる理由があります」
 来栖さんが声を低くした。「上位の方に拝謁するためには、下位の者が出向かなければならないという一族の掟があるのです」
「じゃあ、ご主人さまが家から出なきゃならない」
 ……絶対に無理。なにせ、百年という筋金入りの引きこもりなんだもの。
「近くにお住まいなんですか」
「同じ東京都内ですよ。ここからそう遠くありません」
「それともうひとつ」
 私は声をひそめた。「子爵さまが言ってた、『欧州全土から世界を巻き込みつつある』事態って何ですか。なんか、世界恐慌っぽい話ですか。今のうち、預金を全部、金の延べ棒に換えといたほうがよいですかね」
「本当に、知りたいですか」
 来栖さんは、内緒話をするときのように私の耳に口を近づけた。
「いいえ、やめときます。どうせ私の預金とは、桁が六つくらい違う話でしょうし、説明されても全然わからない自信があります」
「ちゃんと、何日でも時間をかけて、わかるまで教えます」
 甘い声でささやいたかと思うと、来栖さんの唇が私の耳に触れた。
「ひゃあっ」
「榴果――さん」
「く、く、くるふひゃん」
 温かい吐息がかかるたびに、背筋がじーんと痺れ、口の動きまでマヒしてしまう。いったい来栖さんたら、どうしちゃったの?
「今日のあなたのメイド姿は、男心をそそりました。押し倒したくて、たまらなかった」
「え、え」
「ほら、さっきのカールが、まだ残ってる」
 彼の長い指が、私の髪の中に差し入れられると、今度は脳天から電流が走った。頭皮にも鳥肌って立つものなんだ。
「ずっと最初に会った日から、こうしたいと思っていました」
 私の髪をもてあそんだあと、来栖さんは脱力した私を横倒しにして、自分の膝の上に乗せた。
(いったい、何が起こっているんだろう)
 ふわふわと現実感がない。
 だって、あの来栖さんだよ? 最初から私のことを小ばかにしたような眼で見て、仲良くなってからも皮肉と冗談ばかりで、私のことを女として見ているなんて、これっぽちも感じなかった。
 あまりのいきなり感に、頭がついていけない。
「キスしていいですか、榴果」
「い、いや」
「いやと言っても、しますけど」
 宣言どおりに、有無を言わせず私の唇をふさぐ。絶妙の舌使いに、どんどん脳味噌がとろけて液体になりそう。
 そりゃ私だって、来栖さんを恋愛の対象として考えたことがないわけじゃない。
 執事としても有能で、思いやりがあって、私をイアニスさまから守ってくれて怪我までした男気のある来栖さんに、ときめいたこともあった。
 このまま来栖さんに抱かれたら、どんなに楽だろう、とも思う。来栖さんとなら、普通の人間の男女として、人生をともに生きていける。
 吸血鬼に恋するよりは、ずっと楽。
 それでも。
「やめてっ」
 私は思い切り両足をバタつかせた。隙を見て来栖さんの腕から抜け出そうとしたけれど、手首を押さえこまれた。
「ど――どうして、こんなことを」
「キスをするのに、理由がいるんですか」
「だって私なんか、来栖さんからしたら、まるでガキで」
「確かに歳の差はありますが、親子というほどじゃありません」
 私の手首をつかんだまま、自分の胸に引き寄せようとする。「あなたは十分に成熟した美しい女性ですよ、榴果。まさに名前のごとく、ジューシーで食べごろの果実。丸ごとかぶりつきたくなる」
 甘くささやき続けることばは思い切り扇情的なのに、来栖さんの目は冷静そのもの。まるで丘の上から戦況を眺めている司令官だ。
 私は彼の手をふりほどいて、叫んだ。
「いいかげんにしてください。何をたくらんでるんですか!」
 来栖さんは、さぐるような視線を私に注いでいたが、いきなり笑いだした。
「負けました。やはり、あなたはだませませんね」
「だ――だましたんだ」
「わたしの演技が下手すぎました。人間、慣れぬことはするものじゃありません」
「いったい、どうして。何のため……」
 言いかけて、私は気づいてしまった。誰のために来栖さんが動くかなんて、わかりきってる。
「ご主人さまの命令ですか?」
 来栖さんは笑いを含みながら、乱れた前髪を後ろにはらった。「これは、来栖の一族が伯爵さまとかわした契約の一部です」
「あの、五百年契約?」
「伯爵さまの身辺に邪魔な女性が現われた場合は、来栖の者が身をもって始末するようにと」
「……始末?」
「手を尽くして誘惑するのです。たいていの場合、身を汚したことを恥じた女性は自ら去って行きますが、それでもまだ、しつこく付きまとうようなら、妻としてめとることもあります。下手に追い出して逆恨みされても困りますからね」
 来栖さんは、喉の奥で笑った。「私の母も、そのようにして来栖家に迎えられたのですよ」
「え?」
「伯爵さまのおそばにいられるならと泣く泣く父との結婚を承諾したわけです。もちろん、父との間に愛情などありはしません。当然、生まれた子どもなど――」
 ぞっとするような沈黙。
「わが来栖家は、そうやって主の『お下がり』を頂戴しながら、百年続いてきたんです」
 ……あんまりだ。
 女性のことをなんだと思っているの。『始末』とか『お下がり』とか、まるでモノあつかい。
 レオンさまにとって、ローゼマリーさま以外の女性なんて、所詮ただの厄介者なんだ。
 ご主人さまに、うるさくつきまとい、バカな色気まで出してしまった私は、もはや粗大ゴミもいいとこだろう。
 それでも、こんな私にだって心はあるのに。
 恋する気持を見透かされた挙句、別の男に払い下げるだなんて――ひどすぎる!
 私の形相を見て、来栖さんは青ざめた。
 避けようとする一瞬早く、渾身の力を乗せた私のボディーブローが、彼の腹に炸裂した。
 うずくまる来栖さんを部屋に残し、私は廊下へ飛び出した。もちろん行き先は決まっている。
 吸血鬼は、この世のものとは思えない美貌とともに、人の心を虜にする魔力を持っている。
 人を捕食して生きる一族には、不可欠の能力だ。
 ご主人さまがどれほど人に会わないようにこもっていらしても、引き寄せられた女性は私以外にも何人もいただろう。
 普通の吸血鬼なら、片っぱしから血を吸って殺せばよい。だが、ご主人さまは血を吸わない。命を奪うことも赦さない。
 そのために編み出した苦肉の策が、代々の来栖家の男たちによって女性を巧妙に誘惑し、ご主人さまから引き離すという手段だったんだ。
 来栖さん自身は初めてと言っていたけど、信じられないほどキスも巧かった。ちゃんと、どこかで練習しているんだ。ご主人さまを守るという執事の使命を、いつでも果たすために。
 そして、好きでもない女に偽りの愛をささやく。
 ――ひどいよ、赦せないよ。
 来栖さんに対する怒りは、今この拳で晴らした。今度はご主人さまを一発殴ってやらなきゃ気がすまない!
 私は、自分の部屋に戻り、マユが買ってくれたアキハバラ・メイド服を着た。今度は超ミニスカバージョンだ。厨房でお茶の用意を調えると、ティーセットを持ってご主人さまの部屋をノックする。
 今日は誰にも会わないと宣言しておられたから、鍵がかかっているかと思って合い鍵まで持ち出してきたのに、するりと開いた。
「お休みのお茶をお持ちしました」
 暗がりの中から返事はない。
 天蓋つき寝台には、しっかりとカーテンが引かれている。
 私は分厚い絨毯の上で、わざとぺたぺた足音を立てて、わざと肘でカーテンを揺らして通り過ぎた。
 高価な食器が壊れない程度に乱暴に、お盆をテーブルの上に置く。
 すばらしく芳香の立つローズティーをたっぷりとカップに注ぐ。
 さあ、戦闘開始。
「今日はびっくりしました。いきなり来栖さんに抱かれたんですもの」
 沈黙。
「今まで気づかなかったけど、来栖さんて意外と、胸板厚くてたくましいんですね。テクもすごくて、もー最高でした」
 起きておられるか心配になって、中の様子をうかがうと、かすかに衣ずれの音。よし、敵はちゃんと起きてる。聞いている。
「この際しっかり来栖さんに責任取ってもらっちゃおうかな、なんて考え中です。来栖榴果(くるするか)って回文みたいで、ちょっと語呂が悪いですけど、慣れれば、どうってことないですよね」
 しゃべくりながら、そっと拳を固めて、忍び足で近づく。
 いきなりカーテンを開け放ち、私は中に躍り込んだ。
 ご主人さまは、身じろぎもせずに寝台の上に横たわっていらした。
 後から考えれば、その無防備さかげんは、とても「油断した」ですまされるものではなかった。ご主人さまは、私の乱入をちゃんと予測の上だったのだ。
 私はそんなことも考えずに、怒りにまかせて寝台に飛び乗り、ご主人さまの体に馬乗りになった。
 召使が主に馬乗りになるなんて、世が世ならお手打ちもの。
 それでも、どうしても私はご主人さまに、目に物見せてやりたかった。
 ご主人さまの心ない行為に、どれだけ私が傷ついたかを教えてやりたかった。
「ええ、わかっています。私がお邪魔なことくらい」
 シャツの胸ぐらをつかみ、両膝と太ももでご主人さまの脇腹をぐいぐい締めあげながら、私は叫び続けた。
「こんな似合わない服を着て、中途半端な色気を出して、ご主人さまにすりよって、さぞご迷惑でしたでしょう。顔も見たくなかったでしょう。無神経に奥さまのことを思い出させたときは、いっそ殺してやりたいと思われたでしょう。わかってます、自分がバカなのは。ご主人さまの優しさに、つい、ありえない勘違いしちゃうようなバカです。それでも――」
 両手がふさがっているので、目からあふれる涙をぬぐうこともできやしない。
「よその男に払い下げられて平気なほど、バカなわけじゃありません! それくらいなら、クビにしてくれたらよかったんです。いえ、いっそクビと胴体切り離して、庭に埋めてくれたらよかったんです。そしたら、ご主人さまのお茶に入れるハーブの肥料くらいにはなれたのに」
 ご主人さまは、またがっている私を、静かに見つめておられる。
 その瞳に浮かんでいるのは、怒りでも驚きでもなく。苛立ちでも嘲笑でもなく――。
 ただ、黒く凪いだ海のように、ひたすら静かで冷たかった。
 背後に来栖さんの気配がし、「おやおや」という声が聞こえた。
「クルス」
 ご主人さまは、枕に乗せている首を少しだけ傾けた。「なんとかしろ」
「わたしなどは腹に一撃食らいました。それに比べれば、むしろ手ぬるいくらいかと」
「この状態が、か」
「ご自分が、この娘とわたしに犯した二重の罪を考えれば、そんなものでございましょう」
「驚いたな。自覚はしていたのか」
「自分でも驚いておりますが、そのようです」
 なごやかに謎の会話を交わすふたりのあいだで、私は超ミニスカートで馬乗りという状態で放っておかれた。
 何という羞恥プレイだ。頭に昇っていた血が一気に下がり、みじめな心地になってくる。
 虚脱感にうちひしがれて、のろのろと寝台から降りると、私はひたすら頭を伏せながら言った。
「長い間、お世話になりました。今日で辞めさせていただきます」
 返事はなかった。

 もうだめだ。
 もう頑張れない。心がずたずた。
 レオンさまも来栖さんも、あまりにも冷たすぎる。私のことをモノとしか見てくれない、
 家族のように、いっしょに寄り添って暮らしていけるなんて、夢見たのが間違いだったんだ。
 たとえ、ご主人さまを愛する気持ちが受け入れられなくとも、私の作った食事で少しでも元気になってくだされば、それだけで報われる――そう思っていたけど、そんなの全部、幻想だった。
 私は部屋に戻って、メイド服を脱ぎ捨て、目についた服を着て、身の回りのものだけバッグに詰めて、階下に駆け降りた。
 いっしょの空気を呼吸することさえ、苦しいよ。一秒でも早くここから逃げ出したい。
 玄関の扉を開いて、外に飛び出そうとして、私の足は止まった。
 夜の闇の中に、ひとつの人影が立っている。
「夜分、突然すまない。大公にお目にかかりたいのだが」
 まだ若い、とても柔らかな声の持ち主だ。
「大公?」
「ああ、ミハイロフ伯爵と名乗っておられるか」
「……どちらさまですか」
 明かりの下に一歩踏み出た男の姿を見て、驚いた。肩で切りそろえられた真っ直ぐな髪。ケープつきのガウンの胸にかかっているのは、まぎれもなく銀のロザリオだ。
「貴柳裕斗(たかやぎゆうと)。カトリック東京大司教区の司祭です」
「カトリックの――貴柳司祭さま」
 かろうじて耳に残った部分だけ、繰り返す。
 神父さま……だよね。この服装は。
 神父と吸血鬼。どう考えても、この組み合わせが意味するのは、ひとつしかない。
 吸血鬼ハンター。言わずと知れた、ラノベの一大ジャンルと言っても過言ではない、あれ。
 いや、もちろん私だって、ご主人さまが十字架で灰になったりしないことはわかっている。けれど、神の創造した世界の秩序体系を重んじる教会と、そこから逸脱し、人間の生命を食物とするご主人さまの一族では、仲が良いわけがない。
 この人、ご主人さまを滅ぼしに来たんだ。
 彼は、しらじらしくも、穏やかににっこりと笑った。「取り次ぎをお願いできるかね」
「だ、だめです!」
「え?」
「入れるわけにはいきません。私の命に換えても!」
 ばっと両腕を広げて立ちふさがる私に、神父はしばらく呆然としていたが、さらりと髪を揺らして視線をそらした。
「困ったな、どうも」
 悩ましげな横顔がサマになっている。
 クッ、さらさらキューティクル神父め。どうして、この屋敷には、人間・吸血鬼取り混ぜて絶世の美男子ばかりが集まるのだろう。
「どうしたんです、ルカさん」
 来栖さんが気配を察して、玄関に現われた。
「吸血鬼ハンターが殴りこんできたんです。ご主人さまにこのことを伝えて!」
「おや、貴柳神父。どうなさったんです」
 執事は、私の頭越しに声をかけた。「殴りこみですか」
「勘弁してくれ。来栖さん」
 神父は、やれやれというように吐息をついた。
 ふたりの親しげな会話に、私は「あれ」とふたりの顔を見比べた。
「ルカさん。この方は敵ではありませんよ。さっきお話した天羽侯爵の使いの方です」
「え。えーっ」
 天羽侯爵の? ということは、カトリックの司祭が吸血鬼の一族の仲間?
「伯爵にお目にかかりたいのだが、よろしいか」
 司祭は、承諾を求めるように、私の顔をじっと見つめた。
「は、は、はい。失礼いたしました」
「この人は、茅原榴果さん。一年前からここでシェフとして働いてもらっています」
 来栖さんは、皮肉げに唇をゆがめた。「……いえ、『働いていた』というべきでしょうか。ちょうどさっき、辞めると啖呵を切って、出て行かれるところでしたから」
「それは、大変なところにお邪魔してしまったわけだね」
 貴柳神父は、ガウンのケープをひるがえして入って来ると、私のそばを通り抜けるとき、からかうように言った。「さあ、どうぞ。こんな悪魔の館からは早くお逃げなさい」
 執事に先導されて、来訪者が大広間に消えると、ようやく我に返る。
 逃げなさいって言われて、逃げられるわけないじゃないの!


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