(4)
厨房に走りこんで、湯を沸かしティーセットを調えていると、「おや」と言いながら来栖さんが入ってきた。
「辞めたのではなかったのですか。茅原シェフ」
「一時保留です。お客さまがいらしたのがわかってるのに、見て見ぬふりをして、お茶も出さずに去るわけにはいきません」
「へえ、そうでしたか。わたしはまた、侯爵の使いだというあの神父に興味津々なのだと思っていました」
「き――興味はありますけど」
とたんに来栖さんは、笑いだした。
「あなたの無節操さには驚きますね。さきほどまで伯爵さまの体にまたがっていたかと思えば、もう他の男に目移りしたんですか」
「な……」
私はかっとなって、思わず振り返った。
「そんなこと、あなたにだけには言われたくはありません! 命令されたとは言え、愛情もない相手に、あんな――心にもないことができるくせに」
来栖さんは私の罵声を受けて、笑いを含みながら答えた。
「わたしは、それほど器用な男ではありませんよ」
意味がよくわからない答えを残すと、彼は厨房を出て行った。
私は、仕入れたばかりの最高級のアールグレイをポットに入れ、ティーコージーをかぶせて、広間に運んだ。
「大公。もう今は安穏と隠遁生活を送っておられる場合ではありません」
神父さまの、冴えてよく通る声が流れてくる。
「いまや、欧州はほぼ彼らの手に落ちた。その支配から完全に免れているのは、この極東の島国だけだと言っても過言ではないでしょう。あなたがたが百年前に予想した最悪の事態に、現状はちゃくちゃくと迫りつつあるのです」
「俺のような半分干からびた死人に、いったい何をさせようと言うつもりだ」
レオンさまの答えは相変わらず、とりつく島もない。
「まだ血を拒否なさっているのですか。ルイが身をもって証明しているのに――『人を殺さず、社会に溶け込みながら血を飲む方法は、いくらでもある』と」
神父は言葉を切り、入ってきた私に目を注いだ。
「まだいたんですね。退職したと聞いたけれど」
その口調は、とても楽しげに聞こえた。「どうやら、僕のせいで逃げられなくなってしまったみたいだね」
「いいえ、そんな」
私は、ワインテーブルにティーセットを置いた。目を伏せていても、ご主人さまの視線を痛いほど片側に感じる。
指が震えそうになるのを懸命にこらえて、紅茶を注いだ。
「おや、これは」
渡したティーカップを受け取った貴柳司祭は、満足げな笑みを浮かべた。「すばらしい。一級品のアール・グレイだね」
「はい」
ベルガモットの香料を混ぜたフレーバーティーのことを、「アール・グレイ」と呼ぶ。これは、スリランカ産の渋みの少ないリーフに、最高級のベルガモット・オレンジのオイルが配合されている、超レアな逸品だ。
「なるほどグレイ伯爵(Earl Grey)か。いい選択だ」
一口含んだ神父は、ご主人さまのほうを見て、いたずらっぽく微笑んだ。「ここにいるのは、グレイ(Gray)どころか、腹の中がブラックな伯爵だけどね」
「ユウト」
ご主人さまは、ため息を吐いた。「いったい、何しに来た」
「ヴァラス子爵から話は聞いているはずです。ルイとお会いになってください」
「イアニスには返事をした。答えをひるがえすつもりはない」
「頑固者」
「何か申したか」
「いえ、何も」
司祭は立ち上がった。「今日のところは失礼いたします。けれど、あきらめたわけではありませんので」
部屋を出ていく背中を、あわてて追いかけた。
「あの、貴柳神父さま」
「何か」
さらさら髪を揺らして振り返り、にっこりとほほ笑む。
この人すごい。不機嫌オーラ出しまくりのレオンさまに向かって、『腹黒』とか『頑固者』とか言って平然としているなんて普通じゃない。ご主人さまも、一目置いているみたいだ。
もしかするとご主人さまは、この人の上にいる天羽侯爵が苦手なのかもしれない。だいたい名前からして、眼光鋭く、巨大なひげもじゃの閻魔大王みたいなイメージだし。
「あの……社会に溶け込みながら、人を殺さずに血を飲む方法って、どんなものなんですか」
吸血鬼は人ひとりの命を奪わなくては、十分な生命力を取り入れることができない。ククラは殺さずに血を飲んでいるけれど、それはただの慰みで、食事は別にしているのだ。
だから、吸血鬼は社会から身をひそめて生きるしかないと思っていた。
だけど、人の命を奪わずに、人間社会とも敵対せずに、血を摂取できる手段があるなら、ご主人さまも苦しまなくてすむんじゃないか。
貴柳神父は、心の中を見透かすような目で、私をじっと見つめた。
「あなたは、伯爵に恋しているのだね」
「……はい?」
「吸血鬼だということを知っていて、つまり人間の食物は何の役にも立たないことを知っていて、それでもシェフとして仕えている。僕を見て早とちりして、命に換えても会わせないと啖呵を切る。出ていくと言いながら、結局は戻ってきてしまう。その挙動不審さは、明らかに恋そのものじゃないかな」
「あの、その」
神に仕える神父さまの口から、「恋」だなんて言葉がするりと出てきて、私はおたおたしてしまった。
「あきらめるなら今のうちだと、忠告しておこう。さもないと、僕のようにつらい思いをすることになる」
……え? 今、なんと言いました?
彼は、ぽんと私の腕をたたき、踵をかえした。
「血を手に入れる方法が知りたかったら、あなたの力で無理にでも伯爵を引きずって、ルイのもとに連れて来なさい」
「わ、わたしが?」
「案外あなたの言うことなら、あの頑固者も聞いてくれそうだ」
ぽかんとしている私を残して、さらさら髪をなびかせて司祭さまは行ってしまった。
我に返って、玄関から大広間に戻ろうとして、はたと気づいた。
どうしよう。私ってば、今日で辞めると、ご主人さまに宣言したばかりじゃないの!
ご主人さまや来栖さんの気配を避けて、館の中をあちこち歩き回っているうちに、夜明けが近づいてきた。
私は覚悟を決めて、自分の部屋に戻り、いつものコックの制服に着替えた。そして厨房でお休み前のお茶を淹れて、ご主人さまの部屋に運んだ。
ノックをして、いつものように返事のないままドアを開ける。
「お茶をお持ちしました」
安楽椅子に向こうを向いて座っていらっしゃるレオンさまを見ないようにして、さりげなくテーブルにお茶を置き、さりげなくお辞儀をして、さりげなく出ていこうとしたとき、
「待て」
と呼び止められた。
なんでーっ。いつも知らんぷりしてるくせに、なんで、こういうときに限って、からんでくるの?
「そなたは確か、ここにはいないはずの人間だが」
「そ、そうでしたっけ。気のせいじゃ」
「今日で辞めると申していたな」
「それが、よんどころない事情があって……そ、そう、私ここに住み込みが決まったとき、アパートを引き払ってきちゃったもんで、とりあえず住む場所が決まるまで、ここに置いてもらおうかな、なんて」
「クルスに言えば一時間で、どこでも好きなところに家を用意する」
「……インケン」
「何か申したか」
うなじに、何かざわりとするものを感じた。まるで静電気が起きたみたいに。
いつのまにか、私のすぐ後ろにご主人さまが立っている。
「確かに、そなたはバカな女だ」
レオンさまの低く柔らかい声が、耳元をくすぐる。
「払い下げられただと? 俺がそなたを邪魔にしたと? 何もわかっておらぬくせに」
「だ、だって、来栖さんが、そう言ったんです。ご主人さまの回りに邪魔な女性が現れたら、来栖一族が身をもって始末するんだって」
私の頬に温かなものが触れた。
こ、これって、ご主人さまの手? 私の頬にご主人さまが触れておられるの?
ひゃあ、頭の後ろにも、何かが当たってる。まさか、これはご主人さまの胸板ってやつ?
私ってば、ご主人さまに後ろから半抱きにされてるって、そういうありえない状況にいるわけですか。
「俺からクルスに言い訳をくれてやっただけだ。そうでもしなければ、あの男は動けまい」
「言い訳……って」
「そなたに口づけしたのは、クルスの本心だということだ」
「えっ」
すっと温もりが消えた。
私の背後にいらしたはずのご主人さまは、まるで何もなかったかのように、安楽椅子に戻っていた。
「晩餐には、フーシュレヴェシュを所望する」
「あ……はい」
「まもなく陽が昇る時刻だ。出ていけ」
今の言葉は――どういうことだったんだろう。あまりにもたくさんのことを言われて、ごちゃごちゃになって訳がわからないよ。
でも、ひとつだけわかることがある。
ご主人さまは、明日のメニューをリクエストされた。私は明日も、ここにいていいんだ。
お盆を下げて、厨房に戻ると、来栖さんが入ってきて、奇妙な目で私を見た。
「まだいるのですか」
「ご主人さまが、明日の晩餐にフーシュレヴェシュをリクエストされたんです」
私は大いばりで答えた。「作れと言われたものを作らないと、料理人の名折れですから。このお屋敷にいさせていただきます」
「めげない人ですね」
「それだけが取り柄ですから」
彼はくすりと笑って、背中を向けた。「それでは、どうぞご勝手に」
「あ、待ってください」
私は、彼のそばに駆け寄った。「もうひとつ、辞めないのには理由があります」
「なんでしょう」
「貴柳神父さんに頼まれました。血を手に入れる方法が知りたかったら、ご主人さまを無理にでも天羽侯爵さまのもとまで連れてこいって」
「……」
「私、その方法を知りたいんです。来栖さんも手伝ってくださいませんか。どうしたら、ご主人さまは外出する気分になれるのか」
来栖さんは、首を振った。「無理ですね」
「絶対に外出なさらないってことですか」
「それもありますが、もうひとつのほうも無理です。天羽侯爵と同じ方法では、伯爵さまは血を得ることはできない」
「どうして? 何が違うんです」
「色気、ですかね」
「はあ?」
色気が必要条件なんだ。ということは、天羽侯爵って、閻魔大王どころか、背景にバラを背負ってらっしゃるような色気むんむんのお方なのだろうか。だから、簡単に人間の血を吸うことができるのだろうか。
それだと、確かにレオンさまには無理だ。
だって、ご主人さまって、どう考えても色気方面は枯れていらっしゃる。見た目は若いのに、イアニスさまが持っているような、ぎらぎらした生気がない。
百年も血を召し上がっていないからだと思う。もしご主人さまが、普通に血を吸ったりしたら、どれほどの色気にあふれるか、想像しただけで恐ろしくなる。イアニスさまなんか目じゃない。きっと、そばにいるだけで息が止まってしまうと思う。
その日が来てほしいような、来てほしくないような、複雑な気持ち。
「まあ、ともかく、辞めないということになったわけですね」
来栖さんは、妄想にふけっている私をひとり残して、厨房の扉を出て行った。
「あ、来栖さん、待……」
消えてしまった背中に、言葉を途中で飲み込む。
来栖さん、あのときのキスは本心からだったんですか。
ご主人さまがおっしゃったとおり、本当に私のことを想っていてくれてるんですか。
でも、その言葉は言わないほうがよいと思った。たぶん、永久に。
なんだか、涙がこみあげてくる。
来栖さん、ありがとう。
そして、ごめんなさい。
私はいつものとおり、市場に買い出しに出かけた。
最高の材料を手に入れ、気持ちのよい朝の光を体いっぱいに浴びながら、帰ってくる。
短い時間だが、ぐっすり眠って、シャワーを浴びて体をすみずみまで清め、新しい制服に身を包み、エプロンのひもをしっかりと締め、深く帽子をかぶる。
毎日繰り返している日常だけど、明日も同じことができるとは限らない。一度は「辞める」と宣言して、戻ってきた職場だから、余計にそう感じる。
『今日が最期だとしても決して後悔しないように』
これは、死んだ父の言葉だ。父が闘病生活をしているとき、そう自分に言い聞かせるようにつぶやいていたのを、私は聞いたことがある。
人間は誰でも、いつか死ぬのだ。だから、いつ死んでも悔いの残らないように、今日が最高の日になるように生きたいと言っていた。
死ぬことがない人生とは、どんなものだろう。成長することも老いることもなく、今日と変わらない日々が永遠に続くというのは。ご主人さまの一日は、私の一日と全然違うものだろうか。
そんなことを考えながら、晩餐の下ごしらえをしているとき、玄関のノッカーが鳴った。
誰だろう。まったく、このお屋敷は、急に来客が増えた。
「はい」
扉を開けて、外に立っていた人を見たとたん、私は呆気にとられた。
そこにいたのは、凄絶な美貌の外国人女性だった。雪をもあざむく白皙の肌。腰まで達するまっすぐな黒髪。ロングドレスには、深くスリットが入り、美脚が覗いている。きつく鋭角にシャドーを入れた目は、木漏れ日を映して妖しく輝いている。
まるで黒衣の魔女。女の私でさえ、魂を抜かれそうだ。
「あなたが、ルカさん?」
彼女は私を検分するように、目を細めた。
「は、はい」
厳しく引き締まった口元が、柔らかく笑み崩れた。
ふわりと髪が風になびいたかと思うと、彼女は玄関を通り抜け、私の隣に来ていた。すっと肩を抱かれ、両頬に交互に唇を押し当てられる。
「はじめまして。私は、天羽ルイ」
「えーっっ!」
天羽侯爵。この女性が?
私が貴族制度とか、爵位とかに疎いせいかもしれないけれど、今の今まで天羽侯爵は男性と固く信じてきたのだ。
女性の侯爵だっているってことに思い至らなかった。
「し、失礼しました」
私はあわててお辞儀した。「どうぞ、中でお待ちください。すぐに、伯爵さまにお知らせしてきます」
「待って」
侯爵さまは、行こうとする私の手首をつかんだ。「彼には知らせないで。どうせ、まだ目を覚ましてはいないでしょう」
「あ……」
「そのために、わざわざこの時間を選んで来たのだから」
そう言えば。
まだ日は暮れていない。吸血鬼が絶対に起きない時刻に、この人は外を歩いて来られたんだ。
「私、あなたに会いに来たのよ」
彼女は、私の耳に温かい息を吹きかけた。かくっと膝の力が抜けそうになって、あわてて踏ん張る。
「私――ですか?」
「今朝ユウトから、あなたのことを聞いたの」
ユウトとは、貴柳神父のことだ。
ルイさまは私を、間近からたっぷりと見つめておられる。室内の灯の下でよく見ると、瞳も髪も、吸い込まれそうなほど深い紫色だ。
イアニスさまは髪も瞳も藍色だし、一族の方々って、本来の銀色の髪と紅い目のほかに、それぞれのテーマカラーがあるのだろうか。
「美味しいアールグレイを淹れてくれるそうね。私にもお願いできる?」
彼女は迷うことなく、玄関の間を奥に向かった。「準夜勤のあとの日勤だったから、疲れて眠くて」
「は、はい。ただいま」
大食堂にお客さまをご案内すると、私は厨房に急ぎ、お茶を用意した。
こういうときに限って、来栖さんが出てこない。いったいどこへ行ったのだろう。
「おいしいわ」
ルイさまは、優雅な手つきでカップを置き、ソーサーに添えてあったバタークッキーを自然に口に運んだ。
「侯爵さまは、人間の食べ物を召し上がられるのですね」
「もちろんよ。にんにくたっぷりの焼肉だってペペロンチーノだって、いただくわ」
「でも一族の方は、人間の食物では満足できないのでしょう」
彼女は私を見て、微笑んだ。「そう言えば、あなたはレオンに食事を作っているのですって?」
面白がっておられる声だ。
「気に入られたものに限っては、どうにか食べてくださるようになりました。たとえば、フーシュレヴェシュとか」
「ああ、あれね。城にいたころは、よく食べさせられたもの。私はもう見るのもいやだけど」
「ご存じなんですか?」
私は使用人の礼儀も忘れて、テーブルの向かい側から身を乗り出した。「昔のご主人さまを」
「ええ、あの子が子どものころからね」
「子どものころ……」
あったんだ。そんなものが。