第3章「日光とビタミンDは欠かせません」

(5)



 今の今まで、想像したこともなかった。
 吸血鬼は成長も老化もしない。子孫を残すこともできない。だから、生まれながらの吸血鬼というのは、存在しないのだ。
 つまり、ご主人さまも、イアニスさまも、そしてルイさまも、最初は人間として生まれて、大人になってから一族の仲間入りをしたということ。
 筋道立てて考えればわかったはずなのに、今ごろ気づく私も情けない。
 この方は、子どもだったご主人さまが成長して、一族になられた次第のすべてをご存じなのだろうか。
 もしかすると、ローゼマリーさまと出会って結婚なさったいきさつも。
――知りたい。こわいけど、聞いてみたい。
 でも、今はもっと大切な質問がある。
「侯爵さま。お会いしたら、どうしてもお聞きしたかったことがあるんです」
 私は居住まいを正して、頭を下げた。「人を殺さずに、ご主人さまが血を召し上がるためには、どうすればよいのですか」
「教えてあげてもいいけれど」
 ルイさまは、柳眉をひそめた。「でも、あの子はそれを望んでいるのかしら」
「え?」
「私たちにとって、人間の血を拒否して生きるのは、ひどくつらいことなの。人間が食を拒否すれば、やがて数十日で死に至る。けれど、私たちは、いくら血を拒否しても死ぬことがない」
「はい」
「終わりのない苦しみだわ。けれど、レオンはあえて、それを選択した。死にたいからではなく、生きたいように生きるために」
「……生きたいように生きる」
 その言葉を繰り返しただけで、涙が湧いてくる。
 ご主人さまは、人生に絶望していらっしゃるのだと思っていた。ローゼマリーさまを失い、孤独の中で、死にたいのに死ねない苦しみにのたうち回りながら、緩慢な自殺をしていらっしゃるのだと思っていた。
 けれど、違った。ルイさまのお考えが本当なら、ご主人さまは、ご自分が納得の行く生を生きようとしていらっしゃるのか。
「なんか、うれしいです」
 私がぐしぐしとエプロンで目をぬぐっていると、ルイさまは私の肩を抱いて、背中をなでてくださった。
「あなたが来てくれてよかった。あなたはいつか、あの子の光になるわ」
「光だなんて、そんな大それた」
「いいえ、人は、誰もが誰かの光になれるのよ。たとえ、どんなに弱くとも、たとえ弱すぎて全然気づかれなくとも」
 侯爵さまは背筋を伸ばすと、ふっと柔らかい笑みをうかべて、扉に向かった。
「ほら、私の『光』が来た」
 玄関の扉を内側から押し開けたとたん、ひとりの男が飛び込んできた。
 と思ったら、貴柳神父だ。昨日のような祭服ではなく、Tシャツにコットンパンツ。肩までのさらさら髪を、書類用のクリップなんか使って後ろで留めている。
 こんなラフな格好をしていると、まるで別人だ。
「ルイ、あなたは……」
 息をはずませながら、神父さまは切れ切れに抗議する。「なんてことをするんです!」
 その手に握られていたのは、看護師のコスチュームだ。
 メイド服に看護師服。この百年来の古い伯爵家の館は、いよいよ怪しさ満点になってきた。
「教会の門の前に人だかりがしていると外に出てみたら、こんなものが。僕がどれだけ恥ずかしかったと思ってるんです!」
「持って歩くのが面倒だったから、通りがかりにちょっと置かせてもらっただけ。まさか神聖な教会の中で、神父さまの前で脱ぎ捨てたなんて、誰も誤解するわけないじゃないか」
「あ……悪魔」
 真っ赤になって顔を伏せる神父さまの前で、ルイさまが少女のようにころころ笑う。
 私は「あ」と声を上げそうになる口を、あわてて押さえた。
 服が置いてあったというだけで、わざわざ走って追いかけてきた神父。それをちゃんと見越して、からかっているルイさま。
 神父さまの名言を借りるならば、この挙動不審さは、明らかに恋。
 ふたりは、恋人同士なんだ。
 たとえ魔王の前に出たとしても涼やかな顔を崩さないだろう神父さまが、少年のように頬を染めている姿には、心臓ど真ん中をズギュンと射ぬかれそうだ。
 つい、からかいたくなるルイさまの気持ちもよくわかる。
「とにかく帰りましょう。陽の高いうちに外を出歩くなんて無茶は、もうやめてください」
「あはは。おまえよりも私のほうが、絶対に日に焼けていると思うぞ」
 笑いながら、ふわりとルイさまの背中が揺れたとき、私には何が起きたのかわからなかった。
 ゆっくりと崩れる体を、とっさに貴柳神父の差し出した腕が受け止める。
「ルイ!」
「あは、……ごめん」
 彼女は、神父さまの胸に顔を押しつけ、くぐもった声で謝った。「ちょっと、調子が悪いみたいだ」
「今日は救急搬送が二件もあったと聞いています。そんな激務の後に外を歩くだなんて」
「三人も死んだんだ。外に出ると、陽の光が……暖かくて……。それに、おまえが……来てくれるとわかっていたし」
 私は駆け寄って、貴柳神父の袖をくいと引っ張った。
「こちらへ」
 書斎の扉を開け、暖炉に急いで火をつけた。
 神父は、ルイさまを横抱きにして入ってきて、安楽椅子にそっと座らせた。
 その前にひざまずき、焦燥に割れた声で低く言う。
「ルイ。僕の血を」
「ユウト」
 うっすらと目を開けて、ルイさまは力なく首を振った。
「血を摂ってください!」
 貴柳神父は彼女をきつく抱きしめた。唇が首筋に当たるように。
 しばらくして、液体をすする「ズ……ズ……」という小さく規則正しい音が聞こえてきた。
 神父は苦しげに、体を小刻みに震わせながらも、ルイさまを抱く手をゆるめようとはしない。
 私は何もできずに茫然と、その光景を見つめていた。

 天羽ルイ侯爵は安楽椅子でのびやかに手足を伸ばし、寝息を立てていた。まるで幼い少女のようなあどけない顔だ。
 暖炉の前にうずくまっている貴柳神父に、私は温めたチョコレートを渡した。
「ありがとう」
 真っ青な顔に強ばった笑みを浮かべ、神父さまは黙ってマグカップを口に運んだ。
「だいじょうぶですか」
「たいしたことはない」
「侯爵さまは」
「栄養失調と過労だと思う。人の命が失われる現場に遭遇すると、ルイは我を忘れてしまうから。それに陽の光を浴びた」
「陽の光に弱いというのは、思い込みじゃないんですか」
「それでも、恐怖はそう簡単には消えないんだよ。ルイは消そうとがんばっているけど」
「さっきの、救急搬送という話ですけど」
 私は、丁寧に畳んで机の上に置いてある看護師のコスチュームに視線をやった。「もしかして、ルイさまは」
 貴柳さんはうなずく。
「病院で看護師として働いている」
 この制服はコスプレなんかじゃなく、本物だったんだ。吸血鬼一族の侯爵であられるルイさまが、看護師。
「百年前から、そうしている。年がごまかせなくなるたびに、あちこちを転々としてね。もちろん、そのたびに資格も取りなおして。それがルイにとって唯一の、罪をつぐなう方法だった」
「罪」
「そう。たくさんの人間を狩り、血を貪って生きてきた罪」
 神父さまは苦々しく笑った。「そういう意味で、大公とルイは似ている。方向は正反対だけどね。大公は――ミハイロフ伯爵は、血を拒否することで罪をつぐなおうとしている。ルイは血を吸う代わりに、ひとりでも多くの人命を救おうとしている」
「それじゃ、血を手に入れる方法って言うのは」
「吸血鬼にとって、血を吸うことは生命エネルギーを奪い取ることと同義であることを知っているかい」
 私は黙ってうなずいた。
「病院は、たくさんの生命エネルギーが再生される場所だ。生きたいと願う思いと命を救おうとする思いがうずまいている。ルイはそこで日夜、寸暇も惜しまず人々をケアしている。痛みや苦しみにうちひしがれる患者や家族が少しでも良くなって、希望を持って生きられるように」
 ああ、そうだ。私のうちも、父が入退院を繰り返していたから、よくわかる。
 ワラにもすがるような希望と期待。その反動としてやってくる失望とあきらめ。ハリネズミみたいに心が過敏になっていて、医師や看護師さんの何気ないひとことで一喜一憂した。
 ルイさまみたいに頼りがいがあって、包み込むような笑顔の看護師さんがいたら、患者も家族もどれほど救われることか。
「その見返りとしてルイは、ほんのわずかな生体エネルギーをもらっている」
「患者さんから?」
「もちろん、重病人からは摂らない。回復した患者、その家族、怪我で入院した人や検査に来た人などが対象だ。血液検査のときも、少し余分にもらう。魔力を使うから、ルイの検査は全然痛くないと評判になるほどだ。たとえわずかでも、何十人、何百人分が集まれば、ルイひとりが生きるに十分なエネルギーになる」
「でも、今日のように忙しい日は、つい血を吸うことを忘れて働いてしまうんですね」
「そう。自分が倒れるまでね」
 そして貴柳神父は見かねて、自分の血を差し出すことになるんだ。
「この人は、そういう人だから」
 彼は、想い人の寝顔を見ながら、うっとりと笑みを浮かべた。
「神父さまは、ルイさまのことを愛していらっしゃるんですね」
 貴柳さんは、すうっと表情を硬くし、目を伏せた。
「愛せると思うかい。僕は神父なんだよ」
「そんなこと、関係ありません」
「関係はある。ルイは僕にとって、敵だ。問答無用で滅ぼさなければならない存在だ」
 後から聞いた話だけど、貴柳司祭は、世界にたった三人しかいない「バチカン公認の最高位エクソシスト」のひとりという、ものすごい人だったのだ。
 最初に会ったとき、「吸血鬼ハンター」だと叫んだ私の直感は、あながち間違ってはいなかった。
「神の造り給わぬ生命を、神のしもべが愛することなど、ありえない」
 神父さまは、吐き出すように言った。
 想い合っているはずなのに、その気持ちを自分で認められない。それは、とてもつらいことなんだろうな。
 だからなのか。さっき抱き合っていたふたりの姿が、苦しみを共有しているように見えたのは。
「そんなにつらいなら、さっさと教会を破門になっちゃえばいいのに」
 私のことばに一瞬、呆気にとられた神父さまは、ぶっと吹き出した。
「簡単に言うね。ひとごとだと思って」
「そりゃ、ひとごとですけど」
「きみだって、料理人をやめろと言われても、そう簡単にはやめたくはないだろう」
「はい、やめません」
 決めポーズとばかりに私は、エプロンのひもに両手の親指をひっかけ、足をぐっと踏ん張った。「これは私の天職ですから」
「だったら、僕も同じだ」
「それじゃ、お互いに自分の天職で勝負しませんか。それが一番、大切な人のお役に立てると思います」
 貴柳神父は、しばらく口をつぐんでいたが、神妙な顔で頭を垂れた。
「まいったな。きみの言うとおりだ。ありがとう、恩に着るよ」
「あ、いえ、私の言ってることは口先だけで、全く中身ないですから」
「もう、素敵なお話は終わったかしら」
 朗らかな声。見れば、安楽椅子で眠っていらしたルイさまが、しなやかに立ち上がるところだった。
「いつまでも聞いていたかったけど、そろそろヤバい時刻だわ。あの子が起きちゃう」
 時計を見ると、確かにご主人さまのお目覚めの時刻だ。
「上位の者は、下位の者の屋敷を絶対に訪れてはならないっていうのが、一族の掟だから。今日私が来たことは内緒にしてね」
 天羽侯爵は、指を唇に当てる仕草をした。
「さあ、急がなきゃ。今から夜勤なの」
「夜勤?」
 貴柳神父が、みるみる顔色を変えた。「そんな急なスケジュールの変更は聞いていません」
「だって、ミワちゃんがデートだから替わってほしいって言うんだもの」
「無茶です。さっき倒れたばかりではないですか」
「あなたの血を飲んだら元気になった」
 ルイさまは笑いを含みながら、私に耳打ちした。
「ユウトの血は、フルーツ味でとっても美味しいのよ。童貞だからかな」
「ルイ!」
 ふたたび真っ赤になっている神父さまに、とうとう我慢できなくなって、私は呼吸困難になりそうなほど笑った。
 笑いながら、心のうちにふつふつと喜びが湧き上がってくる。
 吸血鬼でも、こんなに社会の中に溶け込み、人と支え合って生きられるんだ。
 人とともに生きて、互いを気づかい、相手を思うことができるんだ――たとえ、それが恋だと誰にも認められなくとも。
 天羽侯爵と貴柳司祭は並んで、一番星のまたたき始めた藍色の夜の中に去って行った。
「ルカ、必ずレオンを連れてきてね」
 最後に、ルイさまは私に念を押した。
「あの子は、自分を変えてくれるものを求めているの。ほんのわずかな一押しだけでいい。あなたなら、それができる」
 私は厨房に戻って、お目覚めのお茶を淹れながら、「よおし」とつぶやいた。
 ご主人さまに、百年の引きこもりを破っていただく。たとえ、どんな手段を使ってでも。

 急いでお茶を淹れて、ご主人さまの居室に入ると、レオンさまは腕組みをして立って私を待ち構えていらした。
「遅い」
 なんと珍しい。ご主人さまがこれほど苛立ちを露わにしておられるなんて。
「すみません。すぐにお茶を」
「何をしていた」
「はい、実は、いえ、その」
 思わず、口をすべらせそうになる。あぶないあぶない、ルイさまが来たことは絶対に秘密だったんだ。
「ご主人さまを完全になめてました。どうせ、まだお起きになってないだろうと」
 どす黒く立ち込める暗雲をふりはらうようにして、うやうやしくティーカップを差し出した。「すみませんでした。これからは絶対に時間を守ります」
 はあというため息が聞こえる。ご主人さまは、不機嫌そうにそれを飲み干すと、カップをぐいと突き返して、命じた。
「今日はそなたが着替えを手伝え」
「え? 来栖さんは」
「いまだに現れぬ」
 そう言えば、私も今日は一度も来栖さんを見ていない。天羽侯爵がいらしたときも、姿を現さなかったし。
「は、はい。ただいま」
  奥のクロゼットに行き、必要な一式をそろえる。今までご主人さまのお召し替えなど手伝ったことがなかったけれど、来栖さんがアイロンを当てたりブラッシングしているのを、そばで見ていたから、なんとかなりそうだ。
 ご主人さまは平然と寝台の端に座ったまま、じっとしている。私はその前にひざまずいて、シャツのボタンをはずし始めた。
 貴族は着替えのとき、自分では一切手を出さずに執事にさせるものだと聞いたけど、本当なんだ。
 横に回り、絹のシャツをそっと腕からはずして差し上げると、レオンさまの上半身があらわになった。
 うわ、うわ。
 なんて、きれいな体。百年間もだらだらと寝てばかりなのに、適度に引き締まった筋肉。お腹だって、うっすらと割れ目が見えている。
 肩甲骨は、天使の羽が生えていたと言われたって信じてしまいそうなほど優美な形をしている。思わず、鶏の手羽元みたいに、かぶりついてしまいそう……って、これじゃ私のほうが吸血鬼だ。
 皺ひとつない新しいシャツを、何とかお着せしようとするけれど、あせりまくって、ちっとも袖が通らない。
「下手くそ」
「むきーっ。腕を上げてくれるとか、ちょっとは協力しようって気になってください」
 やっとのことで両袖が通ると、また前に回って、ボタンをはめる。手が震えるのか、やたら時間がかかる。
 ご主人さまが、じっと私の顔をご覧になっているような気がして、顔が上げられない。
 ルイさまも、こうやって誰かに着替えさせてもらっているんだろうか。ううん、あの方はきっと何でも自分でやるのだろう。
 でも、ときどきは教会の中に入って、貴柳神父の前で看護師の制服を脱ぎ捨て、「ドレスの後ろのジッパーを上げて」なんて意地悪を言っていそうな気がする。神父さまはそのたびに真っ赤になっていたりして。
「何を、にやにやしている」
「インケンなご主人さま相手のつらいお勤めから現実逃避しているんです!」
 ズボンを脱がせるときだけ、しぶしぶ腰を上げてくださる。
 わあ、真っ黒なボクサータイプをお召しなんだ、などと心臓ばくばくさせながら、じろじろ見ないように顔をそむけて、きっちりと折り目のついた黒いズボンを履いていただく。
 ベルトを回すときなんか、まるでご主人さまの腰に抱きついているみたいで、もう少しで意識が途切れそうになった。
「そう言えば、死んだ父が入院していたとき、こうやって着替えを手伝ったんです。なつかしいなあ。ご主人さまが寝たきりになっても、ちゃんと面倒みますからね」
「……ことわる」
 洗濯物を腕に抱えると、私は一歩後ろに下がって、着替えを終えたレオンさまを眺めた。まるで彫刻家が自分の作品を検分するように。
「よし、カンペキ」
 ああ、すてきだ。この方の何もかもが、私の全身を甘く震わせる。
「私、ご主人さまが好きです」
 するりと本心が漏れて、ことばになった。
「ご主人さまに恋をしています。どんなに邪魔だと言われようと、よその男に払い下げられそうになっても、かまいません。そりゃ今度やられたら、ボディブローぐらいじゃすませませんけど。こうやって、お手伝いができるかぎり、そばにいさせてください。それだけで満足ですから」
 好きな人に好きと言えるのは、幸せだ。貴柳神父がルイさまを想いながら、決して口には出せないのに比べたら、私はとても幸せだ。
「あ、ご迷惑なのは、わかってますから。もう二度とこんなことは言いません。今日が最初で最後です。後は、元の無口な私に戻ります」
 どうせ、何も答えはかえってこないだろうと思っていた。
 顔をそむけて無視されるか、「誰が無口だ」とツッコミ入れられるか、そんなもんだろうと思っていた。
 けれど、レオンさまは、じっと私から視線をそらさなかった。蝋燭の灯火が瞳に映りこんで、果てのない宇宙のようだ。
 怒っておられるのだろうか。むしろ、安堵してくれてもいいはずなのに。今私が言ったことは、いわば永久片思い宣言なんだから、見返りは何もいらないですと言ってるのだから。
 まだ私を見ておられる。
 顔をそむけることもできない。まるで拷問の罰を受けているみたいに、動けない。足の感覚がなくなって、体がふわりと重さをなくしていくようだ。
 ご主人さまが急に歩き出したかと思うと、ぐいと手首を引っ張られる。
「供をせよ」
「は、はい」
 供をせよって、これじゃ強制連行なんですけど。
 ご主人さまは庭に出て、ずんずん歩いて行かれた。脚の長さの圧倒的な差のゆえに、私はほとんど小走りにならないとついていけない。
「待、待っ……」
 抗議のことばを飲み込んだ。ご主人さまの横顔は、固くこわばって、何かにせかされるような熱を帯びていたのだ。
 手首が自由になったのは、バラ園へ通ずる錆びた門の前だった。



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