第3章「日光とビタミンDは欠かせません」

(6)



 私は立ちすくんだ。
 今からご主人さまが何をしようとしているか、ようやくわかった。
 ここに私を連れて来て、ローゼマリーさまが愛されたバラを前にして、どれだけご自分が奥方さまを愛しておられたのか、語るつもりなのだろう。
 私のご主人さまに対する想いが、一縷の希望も、一片の可能性もないものだということをわからせるために。
 こんなのひどい。あんまりだ。
「ついて来い」
 抑えた声で短く命じると、ご主人さまは先に立って、門をくぐって行かれる。
 私はロボットのように、ぎくしゃくと従った。肺が痛くて熱くて、焼け溶けそうだ。
 いくら覚悟していたとは言え、こういうやり方で、恋心を踏みにじられたくはなかったよ。
 一歩踏み出すたびに、目にたまった涙が、ぼろりと頬に伝い落ちる。それと合わせて、心もいっしょに粉々に砕けて、地面にぼとぼと落ちて、痕をつけていくような気がする。
 何百本あるかわからない薔薇は、今夜も美しく咲き競っていた。
 灯も何もないはずなのに、打ち捨てられた古い園は、ぼうっと淡く暗闇に輝いているようだ。「匂い立つ」とは、こういう景色のことを言うのだろう。
 予想どおり、ご主人さまは、中央のひときわ見事な紫のバラの前にお立ちになった。
 ローゼマリーさまが大切になさっておられたダマスクローズ。
 奥方さまの存在は、亡くなって百年経っても、ご主人さまの心を強く縛りつけているんだ。
「きれい――」
 バラも、そのまえにたたずむご主人さまのお姿も。
 思わず、吐息が漏れた。やっぱり、かなわない。死さえも超えた強いご夫妻の結びつきを、私なんかが絶対に壊すことはできない。
 レオンさまは敷石をまたぎ、築山になっている花壇の中央へと進んだ。間近からじっとダマスクローズをご覧になる。
 私はつらくなって、顔を伏せた。
 そのとき、何かを壊すようなが私の耳に飛び込んできた。
「ああっ」
 目を上げると、ご主人さまがバラの枝を素手で折り、引きちぎっておられた。
 私が茫然として動くことすらできないうちに、みるみる両手は棘で血だらけになっていく。
 さらに、靴のかかとで踏みしだき、根っこから引き抜こうとまでする。
「何を――」
 ありえない、こんなこと。
 私が触ることさえお許しにならなかったバラなのに。寂しさのあまり、頭がどうかなさってしまったの?
「やめてください!」
 私は、ようやく走り寄って、ご主人さまの背中に抱きついて、止めようとした。
「これはローゼマリーさまのバラじゃないんですか。大切な奥方さまのバラに、なぜこんなことをするんです!」
「そなたが、それを言うのか」
 聞いたこともないような荒々しい声とともに、私は振り払われて、地面に尻餅をついた。
「『好きです、そばにいたいです』などと勝手にほざいておいて、わずか数十年で死んでしまう分際のくせに」
 ご主人さまは、叫んでおられた。深い深い、地の底から響いてくるような叫び。
「人間ごときが、永遠の生などに耐えられるはずはない。耐えられずに、やがて憎み合い、ののしり合い、相手の死を願うだけの毎日が待っているというのに、どうやって愛などというものを信じればよい。答えてみろ!」
 私は地面に座り込んだまま、ご主人さまを見上げるだけだった。
「それでも、まだ何かほざくつもりならば、これに触れるがよい」
 棘でひっかき傷だらけになった御手を、私の目の前に差し出す。
「俺の血を自分の傷口にこすりつければ、そなたも変化できる。永遠に死ぬことなく、人間の食物で満たされることもなく、夜ごと人の血を欲してさまよう、神の造り給わぬ生き物に」
 レオンさまの口元に、あざけるような笑みが浮かんだ。「そなたにその勇気があるか」
 何も答えられない。あまりにも哀しすぎて。
 ああ、ご主人さまは、こんなにもずっと傷ついていらしたんだ。人を愛することに。
 誰かをそばに置きたくも、みんないなくなってしまう。あれほど愛しておられた奥方さまも、ひとりで旅立ってしまわれた。
 そんなお気持ちなど、私は何も考えてなかった。一方的な押しつけの告白で自己完結して。
「さあ、触れてみよ。触れられぬだろう」
 ご主人さまは、くつくつと笑い出した。「迷っていること自体、もう答えは出ているではないか」
 今まで、何も考えていなかった。
 ご主人さまのそばを歩むのは、一族の仲間入りをすること。どんな美味な食物よりも人間の血を欲し、太陽の光を恐れる吸血鬼になってしまうこと。
 永遠の生を得て、代わりに、人間としてかけがえのないものを失うこと。
 たぶん、そうなったら、私はもうコックとしては歩めない。自分のお腹を満たすことさえできない食物を、心をこめて作ることは不可能だろう。
 料理は、私の天職だ。少しでもご主人さまのお役に立てるとすれば、料理しかないと思っていた。それさえ捨てなければならないとしたら、私はただの役立たずになり果てる。
「わたしは……」
 立ち上がった。地面に落ちていた折れ枝をつかむ。
「迷ってなどいません」
 迷うというのは、ふたつの数式を計算して、答えに不等号をつけるようなものだ。私には、そんな必要はない。だって、差は歴然なんだから。
「もう答えは決まってます」
 と言いながら、私は親指のつけねを、バラのとげで強くひっかいた。
「私は、ご主人さまといっしょに人生を歩みたいです。そりゃ、血を吸えない苦しみを考えたら恐いけど、ご主人さまが我慢するなら、いっしょに我慢します。その代わり、どんな食べ物だったら美味しく感じるか、少しでも栄養になるか、かたっぱしから試します。ええ、何を作っても感想を言ってくれないご主人さまの代わりに、自分の体で実験しちゃえるなんて、もう最高です」
 手のひらから少しずつ滲み出す血を見ながら、ああ、もう人間じゃなくなるんだと、じわりと涙があふれてくる。
「コックとして働けなくて、それでいい。役立たずで、いくら嫌われても、私はご主人さまが好きです!」
 私はご主人さまの手をつかんで、血が流れている場所に自分の傷を押し当てようとした。
 吸血鬼の血を傷口から自分の体に取り入れること。それが、一族に加わるための方法なんだ。
 だが、その前に、ご主人さまの腕がすばやく動いた。私はあっというまに、温かい檻の中に囚われていた。
「やめろ」
「いやです」
「やめろと言っている」
「いやだと言っています」
 反駁の言葉を重ねて、なおももがいている私の唇に何かが当たった。
 あ。
 これって。
 もしかして、これって。
 レオンさまの唇は、やさしかった。
 どうして、こんなにやさしく触れられるんだろう。牙はどこに格納しちゃったんだろう。
 もっと口の中がグサグサになりそうな、激しい、奪い取るようなキスがほしいとも思ったけど、唇や頬や顎へご主人さまの与えてくださる焦らすような感触だけで、もう十分に私の腰はくだけてしまって、ひとりでは立っていられなくなって、小さい子が腕に抱くぬいぐるみみたいに、ふにゃふにゃになっていた。
「そなただけは、ずっと人間でいてもらわねば困るのだ」
 耳元で低い声でささやかれる。
 その言葉を聞いたとたん、背筋に冷たい棒が当てられたような心地になった。正気に返った私は、とっさに自分から体を引き離した。
「それって、私だけは一族になったら困るってことですか。人間のまま、さっさと死んでくれなきゃ迷惑だってことですか」
 ご主人さまは、まじまじと私を見ていたが、ふいと横を向かれた。
「そなたほど、にぶい女はおらぬな」
「ご、ご主人さまが何を言っておられるか、全然わかりません。日本人も昔は以心伝心という伝統文化がありましたけど、西洋文明とともに、その伝統もすたれたんです。好きなら好き、嫌いなら嫌いってちゃんと言わなきゃ、伝わらないんです。ただし、私に嫌いとか言うのは禁止です」
 ぽんと、頭に手が乗った。顔をそむけたまま、ご主人さまはポツリとつぶやいた。
「待てるか?」
「え?」
「そなたは、待てるのか」
 何を待つの?
 ご主人さまが、ローゼマリーさまのことを忘れて、私を受け入れられるまで?
「いつまでですか。八十年後とか言ったら、死んでますからね、私」
 ご主人さまと私の視線が、少しのあいだ絡まった。
「待ちます」
 私は決意を固めて、答えた。
「五十年経とうが何年経とうが、しわくちゃになって認知症になったって、ご主人さまが、いいとおっしゃるまで待ちます。そのつもりで覚悟していてください」
「わかった」
 ご主人さまは目をそらし、そっけない声で言う。「わかったから、早く傷の手当てをせよ」
「あ、はい」
 私はあわてて、いつもポケットに入れて持ち歩いている絆創膏を取り出した。ほんのり血の匂いがする。ご主人さまはさぞ吸血の衝動を抑えるのが大変だったろう。
 ご主人さまはと見ると、血は乾き、あれほどの腕の傷が、あとかたもなく消えていた。
 一族の方の治癒力は脅威的だ。それこそ、ヴァラス子爵の切り離された腕が数日でくっついてしまうくらい。
 一族の仲間入りをするためには、一瞬たりとも迷ってはいけないのだ。すぐにふさがっていく傷に即座に飛びついて行くくらいの覚悟が必要なんだ。
 私は迷ってしまった。だから、今は一族にはなれなかった。
 けれど、ご主人さまは「待てるか」と言ってくださったのだ。
 私は、待つ。
 足元に落ちていたダマスクローズの枝を拾った。そして、バラ園を立ち去ろうとされるご主人さまを呼び止めた。
「これを、私にくださいませんか」
「なんだと?」
「おいやでなければ、私に接ぎ木をさせてください。もう一度よみがえらせたいんです」
「……接ぎ木」
 ご主人さまは、ご自分が無残に倒したダマスク・ローズの木を、振り返ってじっと見つめた。
「好きにするがよい」
「ありがとうございます」
 ローゼマリーさまの大切にしていたバラ。私なんかが手を入れるのは恐れ多いことかもしれない。
 でも、このまま枯らせたくはない。
 本当は、ご主人さまには奥方さまのことを忘れてほしい。でも、こんなんじゃない。こんな悲しい形じゃない。
 おだやかに微笑みながら、ローゼマリーさまの思い出を語れるように。その日のために、このバラは生きていてほしい。
 私は、さっそく接ぎ木の準備を始めた。
 折れた枝の中で良さそうなものを何本か拾い、館に持ち帰った。トゲを切り、下の部分を斜めにそぎ落とし、皮を薄く剥く。
 水につけておいて、明日の朝一番に、台木になるノバラの苗を買ってこよう。
 小さいころ、父がバラの接ぎ木をしているのを見ていてよかった。料理といい、バラの世話といい、死んだ父は本当に私にいろいろなものを遺してくれた。

 ミハイロフ伯爵家にこれだけの急展開があった夜が明けても、執事の来栖さんはまだ姿を現わさなかった。
 庭の一角を区切り、買ってきた大量の土にバラの苗を植えこんで、ダマスクローズの接ぎ木をするという重労働も、全然手伝ってもらえず、「来栖さんのバカーッ」と声高く叫んでみても、やはり影も形もない。
 とうとう次の夜が訪れ、また私がご主人さまの着替えを手伝うというハメになってしまった。
「いったい、どうしたんでしょう」と訊いても、ご主人さまからは「さあ」という素っ気ない返事が返ってくるばかりだ。
 正直、心細い。そして、さびしい。
 私がこのお屋敷でご奉公するようになってから、来栖さんの姿をこれほど見なかったことはなかったのだ。
 そして、執事不在のまま、真夜中の晩餐の時間になった。
「ああ、心にすきま風が吹き荒れるようです。二晩続けて、来栖さんが『今日のコンセプトは?』と言ってくれないなんて」
 食卓についたレオンさまは、ぐったりとしおれている私を横目に見て、思い切りイヤな顔をされた。
「で、何なのだ。今日は」
「はい!」
 私は、とたんに直立不動の姿勢になった。「今日のテーマは、不老長寿です!」
「不老……長寿」
 またこいつは何を始めたんだという呆れた吐息とともに、ご主人さまは食卓の皿に目を落とした。
 敷き皿の上には、四角くなめらかな灰色のかたまりが入ったガラスの器が乗っている。
「まず、前菜はゴマ豆腐です。ゴマは古来インドから日本にもたらされ、『仙人の妙薬』と呼ばれていました。最初は寺の僧侶たちが怪我の薬としていましたが、やがてゴマから油を搾り、精進料理としても用いられるようになり、一切の肉食を絶つ僧たちの健康を支えてきました。ビタミンE、カルシウム、不飽和脂肪酸、マグネシウムなどに富み、細胞を活性化し、不老長寿の薬と呼ばれています。その次は」
 厨房に戻り、熱いキャセロール鍋を持ってきて、テーブルの上にでんと置く。
「クコの実のリゾットです。クコも不老長寿の果物とされていて、特に強い抗酸化作用があり、ガンを抑制し、肝臓を保護し、女性は美肌効果、男性の精子なんかも増えちゃったりするほど栄養価が高いです。最後に」
 銀製の足つきの器の蓋を取ると、宝石のような美しいデザートがあらわれる。
「不老長寿の代表といえば、イチジク。イチジクをワインで煮含めて作ったコンポートと、そのシロップを固めたゼリーです」
 ご主人さまは気が進まなさそうに、ゴマ豆腐を一口、スプーンですくって口に運ばれた。
 ひそめていらした眉が、ゆっくり解けた。喉がこくりと鳴る。
「ね、おいしいでしょう」
「俺にこれ以上、不老長寿を求めるのか」
「やだ、違います。これは全部、私のためですよ」
 私は大いばりで言った。「ご主人さまに付き合って、長生きすることにしたんです。私も後で同じものをいただきますから」
「ならば、そなただけで食べればよかろう」
「もちろん、ご主人さまの体のためにも、いい栄養がいっぱい入ってます。細胞が活性化されれば、色気は無理にしても、少しは元気が出ると思うし。何よりもいっしょのものを食べているという意識が、ふたりの愛を細胞レベルで育むんです」
 私の意味のない軽口を、ご主人さまはいつものように無視していたが、突然、「近くへ」とおっしゃった。
「は?」
「もう少し、近く寄れ」
 わけがわからず、一歩前に進み出ると、突然、レオンさまの手がすばやく動いて、あっという間もなく私の口にゴマ豆腐の乗ったスプーンが差し入れられていた。
「ん……ぐっ」
「そなたのおしゃべりを封じるには、何かを口に入れておけばいいようだな」
 いたずらに成功したガキみたいに、すました顔をしておられる。
 ご主人さまの使われたスプーンが、私の口に入ってる。これは、いわゆるひとつの間接キス?
 いや、すでに本当のキスもした仲だけど、なんだかこれって、本当の、本当の恋人みたいで。
 口の中でどんどん形を失っていくゴマ豆腐を飲み込まないようにがんばりながら、じわりとヨダレと涙が湧いてくる。幸せすぎて、夢みたいだ。
 そのとき、バタンと玄関の扉が開く音がした。
 じゅうたんに吸い取られた、くぐもった靴音が近づいてくる。
 この歩き方は来栖さんだ。二日も留守だった来栖さんがようやく帰ってきたんだ。
 この二日間、長かった。
 ルイさまがいらしたり、来栖さんの代わりにご主人さまの着替えを手伝ったり、勢いで「好きです」と告白したり。
 その告白に怒ったご主人さまは、ローゼマリーさまのバラを引き倒してしまわれたり。
 キスもしたし、ゴマ豆腐入り間接キスもした。来栖さんがいなかったからこそ、ご主人さまと一対一で向き合えたのかもしれないとも思う。
 それでも、やっぱり来栖さんには、ここにいてもらわなきゃだめだ。
 いつまでも三人で、この館で暮らしていきたい。私が軽口をたたき、ご主人さまが眉をひそめ、来栖さんが鋭い突っ込みを入れる。穏やかな、楽しい日々がいつまでも続いてほしい。
 そんなささやかな願いは、扉を開けた彼の顔を見たとたん、ぼろぼろと崩れていった。
「伯爵さま。本国からの知らせが」
 息をはずませながら、うめきに似た押し殺した声をあげた来栖さんの顔は、目のふちが疲労でくまどられていた。
「あの方が――レオニードさまが城を発たれ、あと数日でこちらにお越しになります」
 死刑宣告のような重々しい響きが部屋から消え去ったとき、パリンという音がした。
 振り返ると、ご主人さまはテーブルの席に座したまま、虚空をにらみつけておられた。
 その手の中にあったはずのグラスは破片となり、血のように紅いワインの海の中に力なく横たわっていた。






               第三章 終


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