第4章「想い出はタンパク質のせいですか」

(4)

 ご主人さまは目を伏せたまま、何も答えない。
(ご主人さまが、真のレオニード大公?)
 そう言えば、貴柳神父が最初に屋敷を訪ねてきたとき、「大公にお目にかかりたいのだが」と言っていたっけ。どさくさにまぎれて忘れていたけど、あれは確かに、ご主人さまを指した言葉だった。
 いくら爵位にうとい私でも、わかる。大公は公爵の上で、侯爵や伯爵や子爵のずっと上。
 つまり、ご主人さまは本当は、一族の長を継ぐ方だった。でも、今はニセもののレオニード大公が本国にいて、ご主人さまは極東の島国で、伯爵の地位に落ちてしまっている。
 いったい、過去に何があったのだろう。とてもつらい、恐ろしいことだったという気はするけれど。
 ご主人さまは、まだ口を開かない。
 その黒々と底のない瞳に浮かんでいるのは、静かな怒りだ。ご主人さまは心底から怒っておられる。
「そのつもりはない」
 低い声で言い残すと、立ち上がった。
「今さら、俺に何を要求する。きさまらが、それを選んだのだろう」
「レオン」
「あいつの口車に乗り、全員で俺を追い落としたくせに」
 沈黙に落ちた後もしばらく、まだ空気がびりびりと電気を帯びているようだった。
「あんたが怒るのは、よくわかる」
 ヴァラス子爵が口を開いた。「俺たちは結局、あんたを見捨てたんだもんな。悪かったよ。あんたが嘘を言っていないとわかったときには、もう遅かった」
 驚いた。こんな神妙な態度のイアニスさまを見るのは、初めてだ。
「もし、もう一度やりなおせたら――」
「ううん、やりなおす必要なんてない」
 ルイさまは、イアニスの謝罪をやさしく遮った。
「私は、後悔してないわ。シベリアから日本に渡ってこなければ、私は忠孝に会えなかったし、ユウトにも会えなかった。イアニス、あなたはマユに会えなかったのよ」
 私たちは、互いに顔を見合わせた。ルイさまと貴柳神父。イアニスさまとマユ。そして私。
「レオン、こうならなければ、あなたは今もレオニード大公と呼ばれていたでしょう。一族の長として君臨し、権勢を一手に握っていたでしょう。けれど、もしそのままなら、あなたはルカに会えなかったのよ」
 ご主人さまがゆっくりと顔を巡らせた。そして、私をまっすぐに見つめる。
 私を、私だけを見ておられる、なんて深い色の瞳。
 ご主人さま、あなたは一族の長になることよりも、私と会えたことを喜んでくださいますか。それとも、やっぱり、無理っぽい?
 ご主人さまは目をそらし、そのまま荒々しい足取りで部屋を出て行かれた。
 部屋に気まずい沈黙が降りる。ただ、マユが必死で嗚咽をこらえようとする不規則な息づかいだけが聞こえてきた。
 来栖さんがその場を離れようとしたとき、「待ちなさい」と水晶のように澄みきったルイさまの声がした。
「クルス、あなたはここにいて。――ルカ」
「は、はい」
「あなたが行きなさい」
「私が?」
 おろおろと助けを求めて、部屋の中を見回した。貴柳神父は「それがいいよ」とうなずき、イアニスさまは「ふん」とそっぽを向き、来栖さんは「しかたありませんね」と肩をすくめる。
 ルイさまは、励ますように微笑んでいてくださる。
「ルカさん、なにしてんの。ファイトッ」というマユの一喝に背中を押されて、放たれた鉄砲玉のように部屋を飛び出る。
 離れを取り囲む廊下をぐるりと回りながら、ご主人さまの姿を捜した。
 奥まった座敷にしつらえられた小さな縁側に、求めていた姿はあった。ラタンの寝椅子に身を預けて、庭をながめておられる。
 静かにそっと忍び寄るつもりだったのに、古い畳がミシリと大きな音を立てた。
「わ、しー、しーっ。静かに」
「そなたのほうが、よほどうるさい」
 寝椅子の上で、ご主人さまは、いつもの毒舌を吐かれた。うん、思ったよりお元気だ。
「悪かったですね。畳と張り合うつもりはありません」
「何の用だ」
「満場一致で、突撃隊長に任命されました。だから突撃してきました」
 私は縁側にぺたりと座って、ご主人さまを見上げた。
「まだ怒ってらっしゃるんですか」
「何を」
「みんなに裏切られて、大公の位をはく奪されて、日本に逃げてきたことを、です。あのイアニスさまが、めちゃ謝っていらしたじゃないですか。百年も経ったんだから、そろそろ赦してあげたらどうなんです」
 ご主人さまは庭に向けた目を半分閉じておられた。半眼になると、自分のまぶたの裏側も見えるものだ。まるで、心の内側の景色を覗いているように。
「俺は、誰のことも恨んでおらぬ」
 うめくようにおっしゃる。「すべては自分の意志で決めたことだ。それゆえ、もう二度と大公に戻るつもりもない」
「本当に、それで後悔なさらないんですね?」
 私は、念を押すように訊ねた。「ルイさまのお言葉どおりです。それって、過去に向き合った結論じゃないですよね。ちゃんと未来に進むための」
「……そなたに、何がわかる」
 寝椅子に投げ出していた足を下ろし、ご主人さまは乱暴に、私がコックコートの襟に巻いている緑のスカーフタイをつかんだ。
「わからないから、訊いているんです!」
 私も負けずに、わめいた。ご主人さまと私は、鼻先が触れそうなほど間近で睨み合う。
「悲しいなら、悲しいって。つらいなら、つらいって言ってください。どうせ私は、料理人として、何のお役にも立てません。来栖さんみたいに、財産を管理することもできないし、ククラになって血を差し上げることもできません。なら、せめて――」
 大きく、息を継いだ。「せめて、少しくらい教えてくれたっていいでしょう」
「そなたは、どうして――」
 歯がゆさに焦れているような、低い声が返ってきた。「何度言えばわかる。俺のことは放っておいてくれ」
「ほっときたくても、私のスカーフをつかんで離さないのは、ご主人さまです」
 私はスカーフタイのリングをそろそろと指で引き抜き、自由になった首をそむけようとした。
 とたんに、レオンさまの両手が私の背中に回された。胸に引き寄せられ、もう身動きもできない。
「く、苦し……、ご主……人さ」
「黙っていろ」
 スカーフがするりとはずされ、私の顎に手が添えられる。「そなたがしゃべりすぎるから、いけないのだ」
 唇にご主人さまの唇が触れる。
 以前のような、やさしいキスじゃなかった。
 唇も、歯も、舌も、口の中のあらゆる場所が犯し尽くされるような、激しいキス。
 意識が、たちまち遠のいていく。
 私の体は、存在をなくしたようだ。

 レオン……。

 レオン。

 どこかで、誰かの声がする。
 その声に、耳をすませているうちに、時間も、空間も、意味をなさなくなった。


 私はたちまち、ご主人さまの心の中の風景に引きずり込まれていった――。
 

「おまえ、名は?」
 見知らぬ太った男が、ぐいを顔を近づける。
 首を振ると、男はふんと鼻を鳴らした。
「名もつけてもらえなかったのか」
 男の背後には、空が見えた。こちらの目の位置は、かなり低いのだ。
 男は、ボッティチェリの絵に出てくるような服装をしていた。赤いぺちゃんこ帽、ちょうちん袖に短い外套、黒タイツにとんがり靴。イタリア・ルネサンスというか、ともかく、そういう時代の服だ。
「こんな垢だらけの汚いガキを、誰が買うというのですか?」
 男が後ろにいる誰かに問いかけると、その誰かは女の声で答えた。
「詮索は無用。さっさと金を受け取り、立ち去るがよい」
 商人の姿が消えると、女は近づいてきて、ビロードの長い袖からほっそりした白い手を出し、小さな手を握った。
「さあ、行きましょう。大公がお待ちかね」
 東欧かどこかの田舎町。旅の民である親に捨てられ、森をさまよっていた少年は、わずかな金と引き換えに売られ、馬車に乗せられる。
 女は彼を『レオン』と名づけた。本当の名は本人さえも忘れてしまっていたから。

 レオン――レオンですって?
 もしかして、この子はご主人さま? 私は、ご主人さまが子どものころの記憶に入り込み、過去を見ているの?

 次の場面は、石造りの城の内部だった。
 城と言っても、間違ってもディズニーランドのシンデレラ城なんか想像しちゃいけない。石の壁は、湿ってカビくさく、どこもかしこも黒ずんでいた。
 そして、私は天井あたりから見下ろしているアングルで、起こっていることを眺めていた。幽体離脱ってこんな感じかもしれない。
 扉から、小さな男の子が入ってきて、おどおどした目つきで、あたりを見回している。
 ぼさぼさの長い髪、ぼろきれと言ったほうがいいような服。手足はガリガリに痩せこけて、骨が皮をかぶったようだ。
(ご主人さま……小さいころは、こんなお姿だったんだ)
 生まれたときから絹をまとっているような優雅な生活をしていらしたのだと思っていた。親に捨てられ、飢え死に寸前で捕まり、金で売られてきたなんて。
 先ほど商人から彼を買い取った女性が入ってきて、彼と手をつないだ。
「さあ、レオン。こっちへ来て」
 その女性が顔を上げたとき、誰だかわかった。やっぱり、ルイさまだ。
 まぎれもなく、天羽ルイ侯爵。だが、今のような凄絶な美貌はなく、化粧っ気もない。
ー―まだ、人間のころのリュドミラ。
 そんな言葉が、するっと頭の中に入ってきた。
「さあ、お腹いっぱい食べなさい」
 ベンチのような椅子に座らされ、木の汁椀が目の前の長卓に置かれたとき、レオンさまは躊躇なく手をつっこんで、食べ物をわしづかみにして、むさぼり始めた。
――フーシュレヴェシュ。
 また、内なる声が響いた。
 これがご主人さまの頭の中の記憶だとしたら、ご主人さまの声なのだろう。
 フーシュレヴェシュは、ご主人さまが、何度もリクエストなさるハンガリーのスープ。これのおかげで、極限の飢えから救われたという過去があったのか。こんな悲しい思い出のまつわる料理だったなんて。
 そう考えながらも、だんだんと私というものの境界があいまいになって、空気のように溶けていく。
 ご主人さまの意識が鮮明になるにつれ、私の意識はあいまいになり――ついに私は自我を失い、ご主人さまの追憶のかたわらに立つ、ただの目撃者となった。

「さあ、レオン」
 食べ終わったとき、若い女は少年に手を差し出した。「今から、大公さまにお目にかかります。その格好では失礼にあたるから、お風呂で体を洗いましょうね」
「風呂?」
 生まれてから、一度もお湯になど入ったことはない。ひどい責め苦を与えられるような恐怖におそわれ、レオンは逃げ出そうとした。
 女が呼んだふたりの下男が、彼の体を押さえつけて、服をはぎとった。皮膚が赤く剥けそうになるまでこすられ、熱い湯を浴びせられたときは、もうこのまま煮られて、食べられてしまうのだと少年は泣き叫んだ。
 女は彼の伸び放題だった爪を摘み、髪を梳いて、しなやかな肌触りの衣服を着せた。
「やはり、思ったとおり」
 女は満足そうにほほえみながら、レオンの黒い髪を撫でた。
「あなたなら、私の代わりに、りっぱに大公さまのお役に立てるわ」
 女に手を取られ、長い廊下を歩く。
 大きな館は天井も高く薄暗く、今にも何か恐ろしいものが落ちてきそうだ。ランプの光に浮かびあがる肖像画や彫刻は、明かりが動くにつれて亡霊のように表情を変え、少年を身体の芯までおびえさせた。
「何をするの?」
 少年は、女の袖にしがみついて訊ねた。「おれは、つなわたりも曲芸もできない」
「心配しなくてよいのよ。レオン」
 女は、あわれむように答えた。「何も特別なことをする必要はないの。持って生まれたものを使って、大公さまにお仕えするだけ。私が十年間、そうしてきたように」
「あなたも……?」
「私の名は、リュドミラ」
 彼女がその名を口にしたとき、空気が芳香を含んで、花びらのようにあたりに舞い散った。
「十八歳になれば、大公さまの召しを受けることが決まっている。そうしたら、あなたは私の後を継いで、血を集めればよいのよ」
「血を……」
 女の言ったことは、レオンにはさっぱりわからなかった。どうやれば、血を集められるのだろう。森でたきぎを集めるように、集められるのだろうか。
「大公さま」
 リュドミラは、扉を開けると、ドレスをつまみ、深くお辞儀をした。
 中は、細長い大広間で、両側には鎧が立ち並び、長いカーペットの果てには、ひとりの男が、背もたれが天井まで届きそうなほどに高い椅子に座っていた。
 レオンは、その男の姿を見ただけで、おびえた。
 男は若く、まだ二十をいくつも越していないように見える。けれど、同時に、その細い指先から、とがった優美な鼻から、白い髪の毛から、何よりも白ずんだ両眼から放たれているものは、大聖堂の身廊に立ったとき、わけもわからず涙が出てくるときのような畏怖――そう、年経たものだけが持つ威圧感だった。
「お話ししていた子どもを連れてまいりました。レオンと名づけました」
「レオン?」
 男は、片手を顎に当てたまま、愉快そうな口調で問い返した。「ずいぶん意味ありげな名前ではないか」
「あなたさまが、お望みだと思いましたので」
「生意気な」
 大公は、女のくびれた腰をつかむと、椅子の片腕に凭れかかるように引き寄せた。
「リュドミラ。そなたを今日このときから、わが一族に迎える。手始めに男爵の地位と相応の所領を与えよう」
「レオニードさま……」
 玉座の男は、とがった牙をむき出して笑い、自分の手首を噛み切った。
 紅くほとばしる血を、リュドミラは自分の口で余すところなく受ける。
 彼女の体が大きくのけぞると、大公は屈みこんで、彼女の鎖骨の上のくぼみに牙をさしこんだ。
 レオンは、悲鳴も上げず、逃げ出すこともできないまま、部屋のすみで震えながら、その光景を見つめていた。
 
 それからの歳月は、幼い少年にとって幸せなものだった。
 毎日、贅沢な服を着て、お腹いっぱい食べることができ、夜は暖かく柔らかな寝台を独り占めにして眠った。
 誰にも怒鳴られず、ぶたれず、盗みやかっぱらいを命じられることもない。
 天国と言ってもよかったかもしれない。ただひとつ、退屈だという点を除けば。
 唯一の知己と言ってもよいリュドミラは、あまり彼の前に現われなくなった。ほんのときたま、薄暗くなってから城の中を歩いているときに出会うことがあった。
 以前と同じリュドミラには違いないけれど、まったくの別人のようにも見える。髪の色も目の色も、初めて会ったときは、普通の茶色だったはずなのに、今は紫色。肌は透き通るように白く、ぞっとするほど美しい。
 人間にはない異質なものが、大公さまの血を通じて、彼女にも具わってしまったようだった。
 リュドミラは彼を見つけて、「レオン、元気?」と近づいてくる。額に唇を受けるとき、ふわりと薔薇の香りがした。
「狩りは、慣れた?」
 との問いに、レオンは少し誇らしげにうなずいた。
 レオンがこの城で暮らしていくための唯一の条件として、大公さまに命じられたこと。リュドミラから受け継いだ彼の務め。
 それは、人間を狩ることだった。



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