第4章「想い出はタンパク質のせいですか」

(5)

 少年は道端にうずくまり、震えている。
「どうした」
 ロバを引いて通りかかった行商が、立ち止まった。
 愛らしい子どもだ。なめらかで傷のない陶器のような肌。動きに合わせて揺れる長い髪。人を疑うことを知らない、純真な黒い瞳。
 一目見ただけで、吸い込まれそうになる。
「足を……くじいたの」
 訴えると、少年はぽろりと真珠のような涙をこぼした。
「家はどこだ」
「丘の上の城」
「送っていってやろう」
 抱きかかえて、ロバに乗せてやる。お礼が目当てでなかったとは言い切れない。
 城の門をくぐった行商は、もう決して外に出ることはなかった。
 人ひとりが行方知らずになったからと大騒ぎになるような時代ではない。食いつめて山賊になった者どもが森をうろついていたし、オスマン・トルコの軍勢が突如として押し寄せ、村を略奪することなど、日常茶飯事だ。
 足をくじいていたはずの少年は、くつくつと笑いながら、中庭に走って出て、咲いているバラを次々とむしり取った。
 花びらは、凱旋将軍の行進に投げかけられる花吹雪のように、くるくると舞い散った。

 その国は、『森の彼方の国』という名で呼ばれていた。ローマ帝国が衰退したあと、ハンガリー、ルーマニア、ドイツなどの民族が入り乱れ、16世紀からは、オスマン・トルコ帝国によって分割支配された。
 トランシルヴァニアは、時代によってめまぐるしく為政者の変わる、数奇な運命をたどった国だ。

 幼いころ、レオンの役目は人間を狩ることだった。
 助けを求める哀れな子どもに扮して、城に誘い込む。大勢の人間に感づかれてはならない。巧妙に、ひとりだけを群れから引き離して、おびき寄せる。
 彼には才能があったのだろう。一度これと思い定めた獲物は、決して途中で逃がさなかった。
 城の中に入れば、仕事はそこで終わる。その後、連れて来た人間がどうなるのか、彼は知らない。
 いや、うすうすは分かっていた。
 ある日、広間の扉から覗いてしまったのだ。
 やんごとなき方々が玉座の回りに集っていた。最上の衣と豪華な装身具を身にまとい、優雅で美しい。それなのに、タペストリに映る影は、獲物に群がる猛禽だった。
「レオン」
 リュドミラが微笑みながら近づいてきた。彼女なのに、彼女ではない。髪は銀色、瞳は紅。
 唇は血に濡れて赤く染まっている。
 逃げ出そうと試みるのに、膝がまったく用をなさない。
「恐がることはないわ。あなたも大きくなれば、私たちといっしょになるのよ」
 リュドミラは、彼の唇に口づけた。舌先に触れたのは鉄さびの味なのに、なぜか極上のワインにも感じられた。

 レオンは十四歳になった。
 もう、その頃になると、人間をおびき寄せて殺すことへの罪悪感など、みじんも感じていなかった。
『人が、鳥や豚を殺して喰らうように、わたしたちは人を殺して血を吸う。何も違いはないのよ』
 恐怖にむずかっていた少年を、リュドミラはよく、そう言って諭した。『神がわたしたちをこの世界に置かれたのは、みずからをこの世の主とする人間の傲慢を正すため。だから、わたしたちは善をおこなっているの』
 それが幼子をなだめる詭弁であったことは、今ならわかる。
 馬をあやつるようになったレオンは、城から遠くはなれた場所でも狩りができるようになった。
 刺繍入りのジレとキュロット。最上の絹のシャツを着こめば、誰も彼が貴族であることを疑わない。
 標的は、若い娘。甘い微笑を浮かべて、意味ありげな眼差しでたぶらかせば、面白いほど虜にできる。
 とろけるような表情で彼にすがりついてくる娘たちを、生贄として惜しげもなく大公に引き渡す日々は、レオンの嗜虐心を満たした。かつては卑しい旅の民だと蔑まれ、あげくの果てに親にも捨てられた彼は、そうやってこの世に復讐する術(すべ)を覚えた。

 しかし、その傲慢が罰せられる日が来た。
 娘を誘惑して馬に乗せようとしたとき、待ち伏せしていた村人たちに取り押さえられたのだ。
 彼は村の集会の真ん中に引っ張り出された。小さな礼拝堂だ。
「近くの村で、娘が行方不明になる事件がいくつも起きている」
 噂が立たないように気をつけて、狩り場は分散していたはずなのに。あちこちの村をめぐって話を聞きつけた小賢しい行商人でもいたのだろうか。
「俺じゃない」
 村人たちに取り囲まれても、レオンは平然と否認した。証拠などあるわけがない。あとでこっそり村人の誰かに金貨の袋でも握らせれば、たちまち釈放になるにちがいない――。
「まことに無実のキリスト教徒ならば、主の十字架に口づけせよ」
 司祭が胸にかけていた鎖を外した。差し出したのは、黒くくすんだ銀のロザリオだった。
 魔なるものを、オスマン・トルコの略奪と同じくらい恐れていた人々は、怪しい人間にはこうやって誓いを立てさせることを常としていた。
 レオンは、腹の底から震えが駆け上がってくるのを感じた。
 彼は人間だ。まだ、吸血鬼の一族ではない。それでも、差し出されたロザリオは、身がすくむほど恐ろしかった。
 光なるもの。善なるもの。暗闇を食い尽くすもの――ロザリオが象徴するものすべてが、恐ろしい。
 レオンの顔に走ったおびえの影を見て、村人たちはわっと怒声を上げた。
「悪魔だ! 悪魔の手先だ」
「火あぶりにしろ!」
「司教さまが明日、この村へお越しになる。きさまは、悪魔の手先としての裁きを受けるのだ!」
 代官屋敷の地下牢へ放り込まれるとき、レオンは歯噛みして、叫んだ。
「くそっ。人間め。人間どもめ。皆殺しにしてやる」
 叫びながら、彼は感じていた。もう自分は人間ではないのだと。人間を狩る緩慢な歳月のあいだに、いつのまにか、人間であることを捨てていたのだと。
 満月の光が石のすきまの空気穴から漏れ入るころ、牢の扉が音を立てて開いた。バラの香りがたちまち、澱んだ空気を染め上げる。
「リュドミラ?」
「何をぼんやりしているの。早く出て」
 夢心地で外に出ると、馬車が屋敷の前に横づけされている。
「どうやって、ここが?」
「村の代官が、城に使いをよこしたの。あなたを保護しているから引き取りに来てくれと」
「まさか」
 走り出した馬車の座席にゆったりと座ると、リュドミラは言った。「知らなかった? 大公はこの地の領主でいらっしゃるのよ」
「ここは、トランシルヴァニア公が治めているのではなかったの」
「いいえ」
 彼女は、愉快そうな笑い声をこぼした。「この地を治めているのは、オスマントルコの皇帝でも、ハプスブルグ家の皇帝でも、まして、トランシルヴァニア公でもない。あなたもいずれ知るときが来るわ」

 城に帰るとすぐさま、レオンは大公のもとに呼ばれた。
「面倒ごとを起こしてくれたな」
 玉座に座す方の目は、白光を帯び、見る者を凍てつかせるようだった。「そなたはわが後継ぎと定めていたのに、考え直さねばなるまい」
 ほとぼりが冷めるまで外に出てはならぬとの命令を受け、レオンは城に閉じ込もる日々を送った。
 陽が沈むころ目覚め、厨房に行き、まるで悪いことをしているかのように、そそくさと食事を摂る。城の中には彼以外にも、侍女や下働きの人間がいたが、ほとんど互いに口を利くことはなかった。
 月が煌々と照る夜は、庭に出て、太陽を恋しい気持ちをなだめるかのように、全身に光を浴びた。
 レオンは孤独だった。
 リュドミラ以外に彼に話しかける者はおらず、一族の方々に出会っても、まるで存在しない者のように無視される。そのリュドミラも姿を見かけない日が多くなった。
 あの一件で、彼は不適格者の烙印を押され、見捨てられたのだ。
 そのことを、はっきりと知ったのは、数ヶ月経ったある夜のこと、見知らぬ少年が、大広間の玉座の前に立っているのを見たときだった。
 ほっそりと長い手足。冷たく整った相貌。月の光を束ねたような、金色の髪。
「紹介しよう」
 大公は壇上から彼にかけた声は、皮肉な響きが混じっていた。
「彼の名は、レオンだ」
 黒髪のレオンと金髪のレオンは、大公の玉座の前で向き合った。
「同い年だそうだ。十八になるのも同時」
 大広間に居並ぶ一族たちは、ひそひそと囁き合った。 「果たして、そのとき大公はいずれを選ばれる?」
「新顔は、ロシアのツァーリに近い家系だそうだ」
「勝負にならぬではないか。どこの馬の骨ともわからぬ捨て子とツァーリでは」
 金髪のレオンはゆっくりと、勝ち誇ったように口角を引き上げた。
「今日より、そなたに任せていた血の狩りは、このレオンが引き継ぐ」
 大公は頬杖をつき、眇(すが)めるようにこちらを見た。「そなたは、どうする。しばらくは、この屋敷にとどまってもよいぞ」
 敗北の苦く酸い味が、口中に湧き上がる。
「いえ、夜のうちには、ここを発ちたいと思います」
「好きにするがよい」
 扉の陰で、リュドミラが物言いたげに立っていたが、彼はその視線から逃げるように広間を飛び出した。
 そぼふる雨の夜、厩から引き出した馬の鞍には、ずっしりと真珠が詰まった袋が括りつけてあり、ほのかにバラの香りがした。
 この城で得たものすべてを奪われ、みじめさに打ち震えながら、レオンは黒々とした闇の中に旅立った。

 四年の月日が流れた。
 黒雲の垂れこめる冬のある日、城門の前にひとつの人影が立った。
 誰何しようとした門番は、訪問者からひたと注がれた眼光に縫いとめられたように、途中で声を失った。
 大広間に通された若者は、扉の前にて優雅な所作でひざまずいた。
 玉座には、数年前とまったく変わらぬ若さを保つ白の大公。その傍らには、おとなへと成長した金髪のレオンが立っていた。
 その瞳は、かつての落ち着いた蒼色が抜け、人間にはありえない発光した金色に染まっていた。
 十八の誕生を迎えたその日に、一族の儀式を受けていた彼は、誰からも大公の後継者だと目されている。
 許しを得て、玉座の前に進み出た若者は、ふたたび彼らふたりに拝跪した。
 大公の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「顔を見せよ」
 極上の目の詰んだマントを肩からはずすと、その下から現れたのは、貴族の服に包まれた、鍛え上げられた武人の肉体。
「レオン……」
 他の一族たちとともに壁ぎわに立っていたリュドミラは、思わずうめき声を漏らした。
「お久しゅうございます。大公さま」
 深みのあるバリトンが、聞く者の鼓膜を心地よく震わせる。
「孤児レオン。四年間、どこへまいっていた」
「トランシルヴァニアを皮切りに、ハプスブルグ皇帝のいるウィーン、オスマントルコ皇帝のいるイスタンブル、ツァーリのいるサンクト・ペテルブルクと行き巡っておりました」
「何を見てきた」
「この世界の理(ことわり)を」
 よどみのない答えは、何者をも恐れぬ矜持に満ちていた。
 レオンは金に困るたびに、袋に入っていた餞別の真珠を一粒ずつ売った。
 やがて、商人の口から出るよもやま話の中から、ほんのわずか、真に重要な情報を選り分けることを学んだ。それは、石ころの中から稀なる真珠を探し出すのに似ていた。
 たとえば、戦争に必要だから、金が動くのではない。逆だ。金が流れるから、戦争が起きる。十字軍がその良い例だ。
 そして、この世を動かしている者は、王侯貴族でも大商人でもなく、彼らの背後で、ひそかに彼らを操る者の存在がいるのだということ。
 人は強者に隷属する、弱くずるい生き物であり、レオニード大公を頂点とする不死の一族がまさしく、その人間を支配する強者であること。
 それらのことを、レオンは流浪の四年間で学んだ。
 大公は、黒髪の若者の答えを聞いて、愉快そうに喉の奥で笑った。
「なぜ今頃になって、帰ってきた」
「もうすぐ戦争が起きます」
「戦争など、いつも起きているではないか」
「今度は、神聖ローマ帝国を挙げての大戦争です。オスマントルコはトランシルヴァニアから追い出され、ハプスブルグが支配するでしょう。ロシアも、着々と支配の手を広げてきます」
「まるで、いんちき予言者だな」
「嘘かどうか、あなたはご存じのはず」
 レオニード大公は、笑みを消し、殺気のこもった声で叫んだ。
「わがもとに来い!」
 黒髪のレオンは、一礼して玉座に近づいた。大公は身を乗り出し、彼の襟を荒々しくつかんだ。
「レオン、そなたを今日このときから、わが一族に迎える」
 大公は、自分の手首を傷つけると、若者の口にあてがった。
 何をすべきかはわかっている。レオンは、したたり落ちる高貴な血を一滴もこぼさぬように受け止める。
 喉が心地よさそうに数回ほど鳴った頃合い、突如として、苦鳴の声が聞く者を凍りつかせた。
 全身の毛穴から毒を流し込まれたかのようだ。
(なぜ……。一族の儀式なら何度も見ている。これほどの痛みがともなうはずは)
 大公は白ずんだ瞳で、もだえ苦しむレオンを見下ろして、笑った。
「そのような体たらくで、我が名を名乗れると思うのか」
 一族の長は、乱暴に彼を引き寄せ、首筋に深く牙を立てた。
 鮮血が、真っ赤な絨緞の上に飛び散る。
 体内から急激に血が失われていく。それを補うために、受け入れた異物がゆるゆると体内をくまなく循環する。
 硬直し、震えていた筋肉が、関節が、内臓が、抵抗をやめた。変化に耐えきれない細胞は崩壊を始めた。
 そして、まったく異なる法則によって生命をつかさどる細胞が、新しく活動を始める。
 渇きが襲ってきた。目の前が真っ白になるほどの、猛烈な飢餓感。
 欲しい……血ガ欲シイ。
 レオンは手探りで、大公のマントを引きちぎり、肩口に噛みついた。
 広間の人々は、身じろぎすらしない。上になり下になり、激しく争いつつ、互いの血を吸い合うふたりの男は、あたかも、自分の尾に噛みつくという、ウロボロスの蛇だった。
 組み伏せられ、先にぐにゃりと力を失ったのは、レオニード大公のほうだった。
 勝者の瞳は紅玉の光を放ち、髪は精錬したばかりの銀の色に輝いている。
 だが、敗者はすべての色を失い、黄ばんだ羊皮紙のごとく、全身から生気が奪われていた。
「大公が譲位なされた」
 広間で固唾を飲んでいた一族の中から、ため息が漏れた。
「新しい大公、ばんざい」
「一族に、さらなる繁栄を」
 喝采が広間にうずまく中、レオンは戸惑いながら立ち上がった。
 その目に最初に映ったのは、壇上から睨みつける金髪の若者の憎悪に染まった眼差しだった。
 老大公の体が運び出され、人々が出ていくと、広間に残されたのは、レオンとリュドミラだけになった。
「なぜ……大公は、見捨てたはずの俺に譲位したんだ」
 リュドミラは首を振った。
「見捨ててなどいないわ。彼はずっと、あなたを後継者にするつもりだった」
「では、なぜあいつに俺と同じ名をつけて、手元に置いた」
「あなたの慢心を正すため……かしらね」
 レオンは苦く笑った。「残酷だな。俺たちはふたりとも、いいように操られた競争馬だったわけだ」
「大公の位に就くのは、誰でもよいというわけではないのよ」
 レオンは、空の玉座に片手で触れた。すりきれた革は、かつての主の温もりなど忘れたかのように冷たかった。
「でも、なぜ譲位などを?」
 レオンはうめくように言った。「一族は、死すべき人間とは違う。若き者に後を託す必要などなかったのに」
 喜んで譲ったはずはない。あのとき、彼の白い眼差しは、怒りと絶望とに満ちていたのだから。
「いいえ」
 と、リュドミラは首を振った。「大公は生きることに倦み疲れられたの。生命など手放してしまいたかったのだわ」
「みずから、永遠の生命を捨てたと?」
 レオンには信じられなかった。
 あの暗い森の中で、親に捨てられ、飢えに死にかけていたとき、どれほど生きることを望んだか。
 城に連れてこられて、フーシュレヴェシュをすすったとき、どれほどうれしかったか。これで、生きられるのだと。もう死ななくてよいのだと。
 だから、戦争が起こると知ったとき、彼は急いで城に舞い戻ってきた。
 永遠の生命が欲しい。どんな戦乱の中でも、死なずにすむ生命が欲しい、と心から願った。
「あなたには、まだわからない」
 リュドミラは、紫の瞳を悲しげに眇めて、ほほえんだ。「永遠に生きることは、地獄よ」



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