第5章「結局のところ、素材がいのちです」

(2)



「リュドミラ」
「……はい」
「イアニス」
「ああ」
 それは、まるで王の謁見の儀式のようだった。レオンさまは、ひとりひとりの返事を聞くたびに、満足げにうなずかれた。
「クルス」
「ここに」
「貴柳神父」
「はい」
「マユ」
「は、はい!」
 私の名を呼ぶ声の代わりに、重々しい靴音がした。私を支えていた来栖さんの手がそっと離れる。
「どうして……来ちゃうんですか。呼んで……ないです、私」
「すまぬ」
「どうせ、来るんなら、もっと早く……来てください。……苦しかった」
「すまぬ」
 大きくて力強い腕が私を包み込んだ。
 その腕は、とても温かくて。
 ひなを包む親鳥の翼のように、もう何も心配はいらないのだという平安に満ちていた。
 胸に押し当てた耳に、ご主人さまの声が直接響いてきた。
「ルカ」
「……ご主人さま」
「もう、そなたをひとりにはせぬ」
 ご主人さまは、私を抱きかかえたまま、レオニード大公に向き直った。
『アレクサンドル』
『久しいな。レオン』
『なんのために、ここに来た』
『ふふっ』
 金髪の大公は、笑いを含んだまま、ご主人さまをねめつける。金色に戻っていた瞳が、ふたたび紅く染まり始めた。 『貴様の動きが、ちょろちょろと目ざわりなのでね。ミハイロフ伯爵』
 アレクサンドルさまは、かつてご自分のものだった名を、ことさらに強く発音した。『貴様は数十年、少しずつ、この極東の国から支配を強めてきた。戦争に敗けてボロボロだった国を復興させて、一時は世界一の経済大国にまでのし上がらせた』
『そう見えるのか』
 レオンさまは低く、静かに答える。『それは、俺の力ではない。この国の人間の総意だ。たとえ短命でも、人間には自分の運命を自分で決める力がある。俺たちが決めてやる必要はない』
 戦後数十年の日本史を、この方たちは、まるでチェス盤でも眺めているような調子で話す。
『今までは見逃してやっていたが、そろそろそうはいかぬ。余を妨げる者は、一族の掟により処罰されねばなるまい』
『そう言えば、俺がおまえに言ったのだったな、俺を滅ぼしに来るのを待っているぞと』
 まるで昨日の会話を思い出すように、ご主人さまはつぶやいた。『三百年か。長かったな』
『楽しみは、長く取っておくものだ』
 大公は笑った。美しく、穏やかに。それなのに、憎悪しか表わさない笑顔というものもあるのだ。
『アレクサンドル』
『なんだ』
『本当の目的は違うだろう』
『なんだと?』
『もし、俺を滅ぼすためだけなら、暗殺者を差し向けるだけでよかったはずだ。サンクト・ペテルブルクのときのように。樺太のときのように』
 ご主人さまの口元に、冷ややかな笑みが浮かんでいる。『おまえが極東まで、わざわざ足を運んできた来た理由は、おのれの過失に気づいたからではないのか』
 ぴんと張り詰めた空気は、皮膚の毛穴を突き刺すようだ。
『俺は大公の座をおまえに譲った。レオニードの名を渡し、城も領地も明け渡した。その代わりに、おまえはミハイロフの名と自分の妻を俺に寄越したな。いらない玩具を、いともたやすく放り投げるように』
 私は、たぶん呼吸さえ忘れていた。いいえ、ご主人さま以外のこの場にいる人たちは、みな息を止めていたに違いない。
『一夜にしてキングとポーンの駒が入れ替わったようなものだ。おまえはキングとして一族の頂点に立ち、すべての権勢と支配をほしいままにした。俺はポーンに落ち、盤の片隅へと去った。だから、完全に見落としていたのだ。たったひとつ、俺がおまえに渡していないものがあることを』
 ふっと笑い声が漏れる。アレクサンドルさまは笑顔で、揶揄するようにパン、パンと拍手していた。
『そなたのことが愛しくてたまらないよ、レオン。そなたが苦しみにのたうつ顔を想像しただけで、心が躍る』
『残念ながら、そういう不毛な遊びに付き合ってやる義理はない』
 ご主人さまがいつもと違う。いつもは、動きがいちいち気だるそうで、話し声も覇気がない。要するに、典型的なぐーたらでズボラで、無精でものぐさなのに、今日は言動に深みと張りがあるのだ。
 これが、本当のご主人さまなのか。
 これが、レオニード大公と呼ばれていたころの、真のお姿なのか。
『変だとは思わなかったか。俺が大公の位を譲り受けたときと、何かが違っていたことを』
 ご主人さまの問いに、アレクサンドルさまは遠い目をした。『あのときは、ささいなことだと思っていたよ』
『大公の譲位とは、生命を一滴残らず後継者に注ぎ込むことで完了する』
 ご主人さまは、教え諭すかのように一語一語をゆっくりと発音した。『それゆえ、譲った者は譲位を終えたあと、たちどころに干からびて、ほどなく死ぬ』
 短く息を吐かれる。世界の歴史を変えるひとことを宣言するために。
『俺は干からびても、死んでもいない。したがって、大公の権威は今でも俺のものだ』
 恐ろしいほどの沈黙が、場を支配した。
『余は、あいつに騙されたのだ』
 芯を失ったうつろな声で、アレクサンドルさまはつぶやいた。自らの失策をいさぎよく認めたのだ。
『あいつは――レオニードは、大公にふさわしいのはわたしのほうだと言った。レオン、おまえを奮い立たせるために、体(てい)の良い当て馬にされただけなのに』
『間違ってはいない。大公にふさわしいのは、おまえだった』
 ご主人さまは答えた。『俺は、一族の支配に熱意が持てなかった。かと言って非情にもなりきれなかった。おそらく先代もそうだったのだ』
 同意を求める視線を受け、ルイさまは小さくうなずいた。
『だが、おまえは違う。アレクサンドル。おまえは大公の務めを一番よく理解していた。それはなんなのだ?』
『簡単なことだよ』
 金髪の大公は、かすかに笑った。『人間は生かさず、殺さずが基本だ。世の中が乱れれば、その原因を排除する。平和が続けば、掻き乱す。大国を衰退させ、新しい国を発展させる。その繰り返しだ』
『おまえは忠実にそのセオリーを守った。二度の世界大戦で人間を間引き、文明を発展させ、平和と破壊を交互に作り出した』
『そう。そのセオリーに従えば、そろそろ新しい戦争でも起こして、増えすぎた人間を間引かなければならぬ時期だ』
『おまえは、非情で、冷静で、熱心だ。理想的な一族の指導者だった』
 ご主人さまの背中は、悲しげに見えた。『だからこそ、先代はおまえではなく、俺を跡継ぎに選んだのかもしれぬ』
『どういう意味だ』
『俺たち不死の一族は、この千年、人間の生と死を定めてきた。だが、それは誤りだった。もう終わりにするべきだ』
 ふたたび、痛いほどの沈黙。
『ありがとう、ミハイロフ伯爵』
 レオニード大公は、今までと明らかにちがう静穏な微笑を浮かべた。
『やっと、おのれの道を思い定めることができたよ。余は心のどこかに迷いがあったのかもしれぬ。貴様に会って、ようやくわかった。余は、人間は滅ぼすために、ここにいることを』
 人は、怒りが極限に達すると、メーターの針がふっきれてゼロに戻るように無になれるのかもしれない。
 だとすれば。
 この方は今、最強だ。
『試してみようではないか。互いの血を吸い合い、どちらが先に干からびるか。大公の座に何の未練もなかった貴様に負ける気はせぬ』
 ご主人さまは私から手を離し、後ろにいた執事のほうに押しやった。
 ひとり悄然と立ち、彼を見つめる。『俺たちはやはり、どこまで行っても相容れることはできぬのか』
『そのようだな』
「レオン」
 ルイさまが悲痛な声で叫んだ。「だめっ」
 レオニード大公とミハイロフ伯爵は、一歩ずつ互いの距離を縮めた。キングとポーン。名を替え、役割を取り換えたふたりが、ついに、ここで決着をつけようとしているのだ。
 でも、百年間血を吸わなかったご主人さまが、かなうはずはない。一週間断食したボクサーじゃ試合にならないのと同じ。
 ご主人さまが負けてしまう。死んでしまう。
 そう思ったとたん私は、捕まえようとする来栖さんの手をすり抜けて、飛び出した。
 気がつけば私は、睨み合うふたりのあいだに割って入っていた。
 真正面にはアレクサンドルさまの冷たい美貌がある。
 後ろで、さすがのご主人さまも唖然としておられる。それだけではない。部屋じゅうの仲間たちから、「いったい何を考えてるんだ!」と心の叫びをびんびんと感じる。
 ええ、さすがにこの時は、自分の馬鹿さ加減に、我ながら泣きたくなりましたとも。
 何の考えもあったわけではない。まったくの無為無策。まるで、魔王の前に立ったレベル1の勇者みたいな気分だ。
「ルカ、そこをどけ」
 聞くだけで瞬間冷凍されそうなご主人さまの命令が、背中に浴びせられた。
「どき……ません」
 喉をしぼるような声で、答える。
「ご主人さまは、こんなところで戦ったりしちゃいけません。戦いたくないから、逃げてきたんでしょう? 人を殺したくないから、血を吸わないんでしょう? 初心、貫いてください」
『おもしろい女を飼っているな、レオン』
 アレクサンドルさまも虚をつかれているみたいだ。『自分を犠牲にして、貴様を助けたいようだぞ』
「お待ちください、大公さま。犠牲になるつもりなんかありません。私の本分は、コックです。美味しいお料理をお出しすることです」
『なに?』
「ご主人さまと戦う前に、私がお出しする料理を召し上がっていただけませんか」
 金の大公は、予想外の答えにとまどったようだった。『料理を食べろだと?』
「はい」
『わが一族にとって、人間の食べ物など何の意味もないことを知らぬのか』
「いいえ、それは違います」
 私は、自信たっぷりに胸を張って答えた。「料理には、想像もできない力があります。その証拠に、百年間引きこもって血を吸わずにおられたご主人さまが、私の料理を食べたとたんに元気にあふれて、こうやって太陽の下を歩いて来られたのですから」
 うそ八百の大はったりだ。それでも、堂々と宣言しているうちに、なんだか自分でもその気になるから不思議だ。最初はご主人さまを助けたい一心の時間稼ぎのつもりだったのに、本当に大公と対決している気分になってきた。
「とりあえず、今夜の晩餐で、私の作る料理を召し上がってみてください。そして、もし大公さまの心や体が少しでも元気になれば、ご主人さまと戦うのをあきらめてくださいませんか」
『あきらめろ、だと』
「永久にとは言いません。一年か二年か、ともかくも休戦協定を結んでください」
『それで?』
「はい?」
 アレクサンドルさまは私を見つめ、嘲るように笑んだ。
『それで、そなたの料理を食べても、余の体に何の変化もなければ――ないに決まっておろうが、そなたは何を差し出すと言うのだ』
 大きく息を吸い込んだ。これを言えば、もう後戻りはできない。
「……私の、いのちを差し上げます」
 言っちゃったよーっ!
 自分のいのちを賭けた大ばくち。しかも、条件はとてつもなく一方的ときている。
 なにせ、おいしいと言わせたら、私の勝ち、けれど、まずいと言われれば、私の負けというのだから。
 つまり、たとえどんなに料理がおいしくても、アレクサンドルさまがまずいと言うだけで、勝負は決する。
 それでも、私にはこれしかご主人さまを助ける方法はない。たとえいっときの時間稼ぎにしかすぎなくとも。
 料理は、私の唯一の武器だから。
 ご主人さまは隣で、もはや怒りを通り越して、脱力しておられた。
『アレクサンドル。今のは聞かなかったことにしてくれ』
 と力のない声で、つぶやく。
「何を即座に全否定してるんですか。私の渾身の力をこめた愛の戦いを!」
「そなたが何かを企むと、先にこちらがいのちを削られそうだ」
「永遠に生きてるんだから、二、三年くらい削られてください」
 いさかいを始めた私たちを、大公は驚きの目で注視している。あまりにもばかばかしいので、かえって警戒心を抱いてしまったのだろうか。
 くすくすと男性の笑い声が上がった。
 見れば、貴柳司祭だ。神父さまはさらりと髪を揺らしながら、凛然と前に進み出た。
「レオニード大公、と今はお呼びしましょう。あなたは、ルカの賭けを受けるしかないようです」
 「ご覧ください」と、言葉づかいは慇懃ながら、貴柳神父の命令には、有無を言わせず人を従わせるおごそかな響きがあった。さすがに神に仕える人だ。
 部屋にいる全員が、一斉に天井を見上げた。
 この応接間の天井は、一角が斜めに切り取られて、天窓になっていたのだ。今まで気づかなかったのは、アコーディオン式に折りたためる木製のシェードが覆って、視線をさえぎっていたからだ。
 神父はさらに、その下の壁のカーテンをしゃっと開け放った。四方の壁のうちの二辺に、細長い高窓がいくつも並んでいる。
 そのすべてに、細密なステンドグラスがはめ込んである。
「この家を設計したのは、フランスの数々の大聖堂を手がけた建築士です」
 貴柳さんは微笑んだ。「ご存じだと思いますが、天羽忠孝子爵は、あなたがた一族の支配が日本に及ぶことを警戒し、防衛策をめぐらせていたひとりでした。その子爵がお建てになった邸宅が、あなたがたへの対策を何もしていないとお思いですか」
 壁を軽く叩くと、かちりと隠し窓が開き、電気のスイッチのようなものが現われた。「もちろん、後世に一段の改良を加えました。このスイッチを押すだけで、すべての部屋の天窓の覆いが電動で開き、太陽光がプリズムと鏡で拡散され、屋敷の中に陰はなくなります。そして、今はちょうど日の出の時刻」
 神父の長い指が、スイッチに触れる。
「ここにいる三人は、ルカの作った食事をいつも摂っているので、すでに太陽光に対する免疫はできています。あなたおひとりだけは、苦しまれることでしょうね」
 どんなハッタリも、この人が言うと真実に聞こえるから不思議だ。
 アレクサンドルさまは、不快そうに眉根を寄せた。
「どうです。この続きは、今日の夜にしませんか。それまでにルカは、あなたのために最高の料理をととのえていることでしょう。気に入らなければ、あなたの思い通りになさればよいだけのこと」
 かちりとスイッチが押される音がしたのと、金の大公がマントをひるがえしたのは、同時だった。
「今はいったん引く」
 大公の捨てゼリフには、底知れぬ凄みがあった。「今夜、決着をつけよう。レオン。その目障りな女は、余計なことをせぬよう縛りつけておくのだな」
 彼の体は、来たときと同じように、応接間から掻き消えた。外には来栖さんのような執事が待っていて、すぐに陽のあたらぬ暗闇が用意されるのだろうか。
 私は安堵のあまり、へたへたと床にくずおれた。考えなしに自分のいのちを張ったりしたから、その反動が来たのだ。
「ルカさ……ぁん」
 同じく、腰を抜かしているらしいマユが這い寄ってきて、私の首にしがみついて、泣き出した。



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