第5章「結局のところ、素材がいのちです」

(3)



「とりあえずは、時間が稼げましたね」
 貴柳神父は、手の甲で額の汗をぬぐった。そうは見えなかったけど、彼も内心は緊張していたのだ。
「日没サスペンディッドならぬ、日出サスペンディッドですか」
 来栖さんも、いつもはぴしっと着こんでいる執事スーツが、心なしかよれよれになっている。
「どうでもいいけど、俺は太陽光に免疫などないからな。くだらんことに巻き込むな」
 イアニスさまは脱力して座り込み、ぶつぶつ口の中で抗議した。
「おや、では試してみますか?」
「おいっ、よせ!」
 マユの悲鳴をよそに、神父は何食わぬ顔でスイッチを押した。
 少しして、カラカラと軽やかな音とともに、涼しい風を頬に感じた。見上げれば、レトロな天井扇が回っている。
 堪えきれなくなったルイさまが、腰を折って笑い出した。それを見て、私もようやく気づく。
「司祭さま。まさか、そのスイッチって、この天井扇の?」
「みたいですね」
「うそつき、ペテン師!」
 イアニスさまとマユとの三人で、ぼろくそにけなす。「もう、神父さまの教会のお説教は、一生信じませんから」
 和やかなムードに浸りかけたとき、背中にぞわりと殺気を感じた。
「一番のペテン師は、そなたであろう」
 ご主人さまの長い指が、私のうなじに触れる。
 かと思うと、一気にはがいじめにされた。足が床から浮き上がって、ほとんど宙吊りだ。
「きゃあ、何を」
「アレクサンドルに、おまえを縛りつけておけと言われた。俺も同感だ。紐で縛って、蔵にでも放り込んでおく」
「ひええ、そんな緊縛プレイと放置プレイを同時に?」
「そなたは、自分のしたことがわかっているのか!」
 雷鳴のような怒鳴り声とともに、どさりとソファの上に投げ出された。逃げ出そうとしたところを、ご主人さまの片脚がぎゅっと脇腹に押しつけられる。
 ソファの隅で完全に逃げ場を失ったところへ、ぐいと首のスカーフをつかまれ、怒りに染まったご主人さまの顔が、近づいてくる。
 首を伸ばせば、すぐにでもキスができそうな距離だ。恐いからやらないけど。
「必ずこちらが負けるとわかっている勝負を持ちかけるなど、何を考えている!」
「え、えへへ、何も考えてませんでした」
「おとなしく引っ込んでおれ! そなたの力など借りるつもりはない」
 ご主人さまは手を離し、屈めていた背を伸ばすと、横を向かれた。「これは俺とあいつとの問題だ」
「引っ込んでいることなんて、できません」
 私は、消え入りそうな声で反論した。「ご主人さまだって、百パーセント勝てっこない勝負に臨もうとしておられるんですよね。だったら私だって」
「そなたが殉じたとて、俺が喜ぶとでも思っているのか」
「喜ぶとかじゃありません。ご主人さまがいなくなったら、私が生きていけないだけです」
「それは、こちらの台詞だ! だから後ろで引っ込んでおれと言っている」
「人の台詞、勝手に盗らないでください。著作権違反で訴えますよ!」
 部屋の隅から、大きなため息が聞こえた。
「らぶらぶ、ですよねえ?」
「なんか、いろんな意味で聞いてられねえ」
 マユとイアニスさまがささやき声で会話を交わしている。それを聞いたルイさまが、吹き出した。
「く、苦しくて、もう我慢できない」
 いつまでも笑い続けるので、レオンさまもようやくソファから渋い顔で離れていった。
 今さら気づいたけれど、傍目から見れば、ご主人さまと私は熱烈な愛の告白をし合っているように見えていたのだ。
「ごめんなさい。うるわしい場面を邪魔して」
 まだ含み笑いながら、ルイさまが近づいてきた。「レオン、ルカが必ず負けるとあなたは言うけど、本当にそうかしら。私はそうは思わない」
「どういう意味だ」
 ご主人さまは、腕を組んで立ったまま、睨みつける。「アレクサンドルがルカの作った食事を食して、あっさり気を変えるとでも言うのか」
「そうなるかもしれないわ」
「ありえぬ」
「あなたは、ルカを信じないの?」
 ルイさまは、貴石のような紫の瞳をきらめかせた。「あなた自身が体験したのでしょう。ルカの作った料理を食べて、生きる力を取り戻したのでしょう。まさか忘れたと言うの?」
「あれは……」
 ご主人さまは、言いかけて絶句した。
「勝手にしろ。いずれにせよ、決着をつける時が先に延ばされただけだ」
「お許しが出たわ、ルカ」
 ルイさまは、はずんだ声をあげた。「うちの厨房を使ってちょうだい。古めかしいけどリフォームしてあるから、だいたいの道具はそろっているはずよ」
「食材の調達は、まかせなさい」
 いつのまにかピシッと服を整えた来栖さんが、自信たっぷりに言う。「どんな食材でも、夜までにそろえてみせましょう。ピエモンテのトリュフでも、アルマスの白キャビアでも、ツバメの巣でも、神戸ビーフでも」
「俺も、ジェット機くらいなら、すぐにチャーターしてやるぜ」
 イアニスさまが請け合ってくださる。
「わたしは、何もお手伝いすることはできませんが」
 貴柳神父がほほえむ。「バチカンの総力をあげて、成功を祈りますよ」
「すごい」
 マユが身震いした。「ルカさん、がんばって。みんなで応援してるから。史上最高の料理を作って」
 私は黙ってうなずくと、部屋を飛び出した。

 厨房の冷蔵庫を開け放ち、中のものを片っ端から検める。使えそうなものは調理台に置き、要らないものは戻す。
 手早く、瞬時に判断する。すべては直感だ。
「何か、手伝うことはある?」
 髪をきりりと結い上げたルイさまが、入ってくる。スリット入りロングドレスの上にフリルのエプロンを着けた姿は、男ならぶっ倒れそうになるほどの可愛さだ。貴柳神父はひそかにハンカチで鼻血を拭っているだろう。
「お願いします。そのときは、頼みます」
「献立は決まっているの?」
「いいえ、まだ何も」
「何にも?」
 驚きの叫びに、私は顔を上げた。「はい、まだ何も決めていません」
「すごく自信たっぷりに見えたのに……」
 ルイさま、かなり期待してくださっていたのかな。がっかりさせて悪いことをした。
「そうだ」
 私は作業台の上に両手をついて、身を乗り出した。「アレクサンドルさまのこと、知っているかぎり教えてください。何でもいいんです」
 厨房に立ったとたん、勝負のことは私の頭から吹き飛んでいる。
 ご主人さまの敵であろうと何であろうと、料理をお出しする以上、食べて楽しんでいただきたい。
 そのためには、できるかぎり相手のことが知りたい。どこでお生まれになったか。どんなものを召し上がり、どんな人生を送ってこられたのか。
 ルイさまはしばらく、どう話そうか考えあぐねていらした。天窓から射しこむ早朝の光が、目元に影を作り、まるで気高い女神の彫刻が立っているようだ。
「アレクサンドルは……本当の名前ではないの」
 また名前が違うって。一族の方々は何百年の生のあいだに、何度名を変えるのだろう。
「彼は、ロシアのツァーリの家系に生まれた。けれど、幼い頃に父君が亡くなり、兄がツァーリの座を継ぐと、兄の妻の父親が権勢をふるうようになった。王位継承権を持つ彼は、田舎で幽閉同然の生活を強いられることになり、そして……」
 ルイさまは、目を伏せた。「刺客に襲われ、暗殺されそうになったの。わずか八歳のときよ」
「え……」
「けれど、いっしょにいた従者の少年が身代わりに殺され、彼は、とっさにその従者になりすまして逃げることができた。その少年の名がアレクサンドル・ニコラエヴィチ・ミハイロフ」
 ……なんという悲惨な運命なんだろう。たった八歳なのに。
「それ以来、彼は本当の名を捨てて、東欧に落ちのびてきたの。祖国ロシアに対する深い憧憬と憎悪を心に刻みつけて」
 祖国に対する深い憧憬と憎悪。
 これはむずかしい。普通ならば誰だって、自分が生まれ育った国の食べ物には愛着があるはず。
 でも、金の大公は、相反する思いを祖国に抱いている。
 自分をはぐくんだ祖国。自分を追放した祖国。ロシアの料理をお出しすれば、つらい思い出まで引き出されてしまう可能性があるのだ。
 困ったことになったと、私は頭をかかえた。
「アレクサンドルさまがお育ちになったのは、どこですか」
「生まれたのは、モスクワ。流刑されてから住んでいた地は、ヴォルガ川のほとりの古い町よ」
「ヴォルガ……ロシアの母なる川。アジアとヨーロッパを結ぶ十字路とも言われますよね」
 料理もタタールやポーランドなど、多民族の多彩さを反映している。
 ルイさまは、私の考えていることを見透かしたとでもいうように、悲しそうに微笑み、首を振った。
「ヴォルガの郷土料理も……食べないと思うわ」
「やはり、そうですか」
 私の頭の中のレシピ集から、ごっそりと、たくさんの料理が消えていく。だとすれば、何をお出しすればよいのだろう。
 手がかりを探すために、もう少し情報が必要だ。
「そういえば、アレクサンドルというのも、偽名ですよね。本名は何とおっしゃるんですか?」
「知らないほうがよいと思う」
 ルイさまは、あっさりと答えた。「彼は公式には死んだことになっているの。そうでなければ、ロシアの歴史は変わっていたはずだから」
「それじゃ……」
 なんということだろう。
「世が世なら、あの方がロシアの皇帝になっていたんですね」
 なのに、悪意ある者たちによって、歴史の闇に葬り去られてしまった。存在自体を消されてしまった。
 アレクサンドルさまの心の底に深く巣食っている権力への欲望、人間そのものへの憎悪の理由がわかったような気がする。いや、他人には絶対にわからないほどの孤独かもしれない。
 あまりにも可哀そうだ。
 ご主人さまの不倶戴天の敵として、漠然と憎しみをいだいていたけれど、だんだん憎むことができなくなってくる。
「ルカ。その顔」
 ルイさまは、私をまじまじと見つめ、感に堪えないという表情になった。「わたしが男なら、今すぐ押し倒してしまいそう」
「ど、ど、どんな顔です」
「ダンボールの箱に入った捨て犬を拾ってきて、ミルクをやろうとしている顔ですよ」
 来栖さんが横から、笑いを寸前でかみ殺したという、ふやけた声で口をはさむ。「わたしも、それにやられたのです」
「うんうん、レオンもたぶん、同じだわね」
 わけがわからない。
「そんなことより」
 私はばしっと自分の頬を両手で叩いた。
 結局、まだひとつもメニューが決まっていない。ふりだしに戻ってしまった。
 でも、今の会話で、ある変化が私の心の中に生まれていた。
 勝負に勝つためじゃない。
 ご主人さまの命を救うためじゃない。
 あの方が、人間への憎しみから解き放たれるために。
 忘れてしまったことを思い出して、人間の心を少しでも取り戻してくださるために。
 私が、今日の料理にこめるのは、アレクサンドルさまへの希望だ。
 地球上のすべての生命は、意味があって生きていることを知ってほしい。
 ううん、そんなだいそれたことまでは望まない。あの方が私の料理を食べて、ほんのわずかでも苦しみや憎しみを忘れるほど楽しい時間を過ごしてくだされば、もうそれだけで十分だ。
 それが、私の料理人としての使命。
 私は、スケッチブックを広げた。料理の盛りつけの予想図や、アイディアをメモるのに使う、少し大きめのスケッチブック。来栖さんは食材といっしょにそんなものまで用意してくれていたのだ。
 一枚目に思い切り大きな字で殴り書きした。

『本日のコンセプト: いのち』

 そして今日の献立を、すごい勢いで次々と書きつけていく。
 あっけにとられてその様子を見ていたルイさまと来栖さんに、私は振り向いた。
「大至急、取り寄せてもらいたいものが、いくつかあります。力を貸してもらえますか」
「もちろん!」
「どんなレアな食材でも、見つけてみせますよ」
 私は首を振る。「大丈夫。ごくありふれたものですから」

 下ごしらえが調い、一段落がついたのは、もう日が傾くころだった。
 ルイさまが気に入って豆買いしているというブラジルサントスを、来栖さんが丁寧に挽いて淹れてくれた。私は、マグカップを片手に屋敷の中をぶらぶらと歩いた。
 応接間に入ると、眠そうに目をこすりながら、マユが立ち上がった。
「イアニスさまは鎧戸を下ろした蔵みたいな部屋で寝てらっしゃる。レオンさまは……わからない。いつのまにか私も寝ちゃって。ごめんなさい」
「いいってば。大変な夜だったものね」
 そう言えば、今日は月曜日。高校生のマユは、学校には行かなくてよかったのだろうか。
 このところ、あまりにも現代日本とかけ離れた世界にとっぷり浸かってきたので、すっかり頭から飛んでいた。私たちはまた、あの穏やかな日常に戻れるのだろうか。それとも、底知れぬ深い穴に落ち込んで、二度と出られなくなってしまうのだろうか。
 離れの奥座敷の縁側に、ご主人さまはいらっしゃった。三百年の過去へと旅をした、あのラタンの寝椅子に寝そべって。
「ここにいらしたんですか」
 私は、ご主人さまの隣にそっと腰をおろした。「こんなに日光を浴びて、だいじょうぶなんですか。ほとんど寝られなかったんじゃありません?」
「そなたこそ丸二日、一睡もしていないだろう」
「私は平気です。ご主人さまより、うんと若いですから」
 手に持っていたマグカップを差し出す。「来栖さんのコーヒー、すごく美味しいですよ。いっしょに飲みませんか。要らないと言っても、飲ましちゃいます。私が飲んだマグカップだから、いわゆるひとつの間接キッスってやつ? あ、直接キッスでもいいですよ。口に含んでごっくんって」
「元気だな」
 レオンさまは呆れたようにつぶやいて、顔をそむけた。
「ごめんなさい……徹夜明けでハイになってました」
 私は縁側の床に座り直し、マグカップを傍らにそっと置いた。
「ご主人さま、やはりお嫌なんですね。私がアレクサンドルさまとの勝負に口を出したこと」
「そういうわけではない」
「おふたりの何百年もの因縁に、私ごときが関わってよいことじゃないって、重々わかってます。でも、私……」
「そうではない」
 ご主人さまは、少し強い声で私をさえぎった。
「そなたが、あの男のために料理を作るのが、気に食わぬだけだ」
「え?」
「どうせ、身体に良い食材、心を癒す思い出の品とあれこれ工夫し、今日はずっとやつのことばかり考えておったのだろう――まったく気に食わぬ」
 レオンさまは、私の頬を大きな片手でぐいとつかむと、私を間近から睨みつけた。
「そなたは、俺のことだけ考えて、料理を作っておればよいのだ」
「ふ…え。ほへっへ」
 それって。なんですか。いわゆるひとつの、焼きもちってやつですか。
――ご主人さま、かわゆすぎます。
「俺のもとにコックとして来たときから、そなたの頭の中は俺のことでいっぱいだったろう」
 ご主人さまが耳元でささやく低く甘い声が、三半規管をマヒさせる。床と天井が引っくり返りそう。
「出身はどこかと詮索し、あらゆる国の料理を食卓に並べた。一口食べた、食べなかったで一喜一憂し、表情のわずかな変化でさえ見逃さぬようにと目をこらした。俺が吸血鬼だとわかってからも、あきらめるどころか、ますます闘志を燃やして、料理の工夫を重ねた。あのときのそなたは、一日じゅう俺のことだけを考え、俺のために生きているように見えた」
 私の頬をつかんでいたご主人さまの手は、ゆっくりと首筋に移っていく。
「そこまでされて、心を動かされぬ男などおらぬ」




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