(4)
ぞくぞくっと背筋から脳天まで微弱電流がつきぬける。
ご主人さま。
あのころから、ご主人さまは私を見ていてくださったんだ。心を動かしていてくださったんだ。
「そなたの料理は、千の愛の言葉にまさった」
レオンさまの口元に、やわらかな微笑みが浮かんだ。
ああ、涙がとまらないよ。
いつも引きつるような皮肉な笑いしか浮かべなかった唇が、こんなにきれいな形で微笑むことができるなんて。
あきらめないでよかった。料理をしていてよかった。
「だから」
抱きしめられる寸前で、私の身体は乱暴に引き離された。
「アレクサンドルには、そなたの料理を食べさせたくない」
ご主人さまは、昏い目をして宙をにらんだ。「昔からそうだった。やつは、俺の大切にするものを根こそぎ奪い去ろうとする。自分からは何ひとつとして欲しがらず、俺のものを奪い去り、俺の絶望した顔を見て、ようやく満たされる。その繰り返しだった」
「ああ」と、私はつぶやいた。「そういう人、私も知ってます」
調理師専門学校のときの女の同輩。最初はすごく親しくなって、バッグでもマグカップでも、何でもおそろいのものを欲しがった。
そのうちに、気づいた。私が誰かに話しかけようとすると、割り込んでくる。誰かが私に近づいてくると、その関心を自分に向けようと陰で工作する。
嫉妬なんて、生やさしいものじゃなかった。あれは、狂気すら感じるほどの憎悪だった。私からすべてのものを奪い去ったうえで私を支配しようとする、恐ろしいまでの執念。彼女がぶつけてくる途方もないエネルギーに私は疲れ果て、逃げるようにして卒業した。それ以来、連絡を絶っている。
「大公さまも、その人に似ています」
いくら与えられてもダメ。底なし沼のように際限がない。奪い去ることでしか満ち足りることができない。
「だからなんですね。大公さまがローゼマリーさまをご自分の妻になさったのは」
想い合っていたふたりを引き裂いて、自分のものにした。レオンさまの愛する女性だという理由だけで、奪い去ったんだ。
「ローゼマリーさまが可哀そう」
どんなお気持ちだったろう。もし私がローゼマリーさまだったら、気がおかしくなる。自分がご主人さまを苦しめる道具にされるなんて。
「違うのだ、ルカ」
ご主人さまは、私の髪を撫でて、苦しそうに息を吐いた。「そなたは誤解している。俺はもっと、自分のことしか考えぬ人でなしだ」
「え?」
前触れなしに、立ち上がられた。「俺は、ローゼマリーのことを――」
その続きを聞くことは、とうとうできなかった。
「レオン」
ルイさまの声と、小走りに離れの廊下を急ぐ足音。
「アレクサンドルが戻ってきたわ」
「ルカ」
ご主人さまは、私の手をぐいと握った。
「何があっても、そなたを離しはせぬ。俺がアレクサンドルからそなたを守る」
「だいじょうぶ」
千々に乱れる思いをかき集めながら、私はにっこり笑った。「必ず勝ちます。ご主人さまは大船に乗った気持ちで見ていてください。そして、私に惚れ直してください」
「よく言う」
ご主人さまは、鼻を鳴らして笑われた。「『惚れ直す』とは、すでに惚れている者が使うことばだ」
「ええっ。ご主人さまは私に惚れてらっしゃらないんですか」
「それを、俺に言わせるのか」
私の耳に唇を触れんばかりにして、小さくささやく。あまりにも声が小さかったので、何を言っているか聞き取れない。
「え、待って。今――」
ふわりと片手で私の抗議をふさぐと、ご主人さまは笑った。
「クルスが困っているぞ」
振り向くと、本当に来栖さんが立っていた。もちろん、困った様子なんて微塵も見せない、すまし顔で言う。
「伯爵さま。お召し替えを」
そう言えば、ご主人さまが本当は大公だとわかっているのに、来栖さんは呼び方を変えようとはしない。三代にわたってミハイロフ伯爵家に仕えて来たのだから、そう簡単には変えられないのだろうな。
「アレクサンドルは」
「天羽侯爵さまと貴柳司祭がお相手をなさっておいでです」
「イアニスは起きているか」
「はい、マユさんがお支度のお手伝いを」
「そうか」
ご主人さまは、私の手を取って寝椅子から立ち上がられた。いつのまにか訪れた薄闇の中で、ご主人さまの黒い瞳が私を見つめた。
「行こう。ルカ」
手を握られたまま廊下を歩く。私の定位置は、ご主人さまの斜め後ろだったはずだ。こんなふうに隣を歩めるなんて夢みたい。
「クルス」
来栖さんの前で立ち止まる。
「はい」
「そなたには、すまぬと思っている」
「いえ、こうなることは、初めからわかっておりましたから」
来栖さんは、やわらかく微笑んだ。
「榴果さんがお屋敷に来た最初から、何かの予感がいたしました。自分から辞めるようにといろいろ画策したのですが――かないませんでした」
そのまま背中を見せて、廊下を先立って行ってしまう。
来栖さん。私がお屋敷に奉公にあがったばかりのときは、ひどいことばかり言ってたけれど。
意地悪な執事だと、心の中で恨んでしまったけれど。
私ひとりでは、とてもご奉公なんかできなかった。心を開いてくださらないご主人さまにボロボロに傷ついて、とっとと逃げ出していただろう。
来栖さんがそばにいてくれたから、くじけそうになったときも頑張れた。
たぶん、私と来栖さんは似ているのだ。
ご主人さまのことが大好きで、ご主人さまのわずかな視線の動きに注意をこらし、寝ても覚めてもご主人さまのことばかり考えてる。私たちは、ご主人さまへの思いでつながっている盟友同士なんだ。
「来栖さん」
私は言った。
「なんですか」
来栖さんが答えた。
「ご主人さまをお願いします。鼻血が出るくらい、いい男に仕上げてください」
「わかりました」
微笑を交わし合うと、私は急いで台所に向かった。
ここからは、私ひとりの戦場。
オーブンに火を入れる。下ごしらえした食材を並べる。
すべての準備が整ってから、私はエプロンを外し、とっておきの真っ白なエジプト綿のコックコートを着た。ふだんはほとんど被らない、丈の高いトックを頭にかぶった。トックとは、料理人の象徴である、あの円筒形の高い帽子のことだ。
コックの正装がととのった。
さあ、勝負だ。
天羽侯爵家の大食堂のステンドグラスは黒々と沈み、室内の灯を反射して鈍くきらめいているだけだった。
もうすでに、夜の気配が漂っている。一族の方が動くことのできるぎりぎりの薄暮の時間に、レオニード大公アレクサンドルさまはふたたび訪れた。それだけ焦れながら、この時を待っていらしたのだろう。
私が食堂に入ったとき、すでに全員が着座していた。
正面の上座には金の大公。左隣に、この家の主である天羽ルイさま。右隣には、わがご主人レオンさま。
そして、レオンさまの隣には、ヴァラス子爵イアニスさま。
ルイさまの隣には、貴柳裕斗神父が着いている。
後ろに立つのは、来栖執事。マユも今日はメイド服に身を包んで、手伝いに回ってくれた。
「今宵は、お越しくださってありがとうございます」
私は客人たちに向かって、一礼した。
「本日の晩さん会の料理を担当いたします、ミハイロフ伯爵家料理人の茅原榴果です。せいいっぱい務めますので、よろしくお願いいたします」
『御託はよい。さっさと始めろ』
冷たい声で、大公は命じた。全然知らない外国語なのに意味だけは通じる不思議さにも、すっかり慣れてきた。
「わかりました。ではさっそく最初の料理を」
それぞれの席の前に木のプレートが置かれ、小ぶりのショットグラスが乗せられる。
来栖さんが優雅で無駄のない所作で、グラスに水を注いで回った。
「本日のコースの最初でございます」
食堂は一瞬、静まり返った。
「あの……ルカさん」
気づかわしげに、マユが訊いてきた。「最初のお料理は?」
「ん。これだよ。このお水」
「水?」
一同はいぶかしげに手元のグラスを手に取り、角度を変えて透かしたりしている。アレクサンドルさまだけが身じろぎもせず、私を睨みつけた。
ご主人さまの視線が氷だとすれば、この方の視線は炎で焼かれるようだ。さすがに大公の位にあるだけのことはある。心臓が止まりそうなほどの怒りのオーラ。
『そなたは、ただの水を料理と呼ぶのか』
「確かに、普通は呼びません」
私は、逃げ出したくなる足をむりやり踏ん張った。「今日の晩餐には、ひとつのコンセプトがあります。そのコンセプトに沿って最高の食材を吟味し、料理人の誇りにかけてお出しするのです。この水は、大公さまに召し上がっていただくために考え抜いた、晩餐の最初のメニューです」
『そのコンセプトとは』
大公さまが、話に食いついてくれた!
「『いのち』です」
私はあえぎそうになるのを堪えつつ、言葉をつづけた。
「人間は哺乳類です。生まれたとき最初に飲むものは、母親から与えられた母乳です。そして、その母乳は母親のいのちそのものです。なぜならば、母乳とは血でできているからです」
「母乳が血?」
「はい。人間の母乳とは、血液からヘモグロビンを濾し取ったもの。母親の乳腺細胞内で白く変わります。血液内の栄養は、乳脂肪や乳糖という形になって赤ちゃんに与えられ、母体の免疫物質や抗体もいっしょに受け継ぎます」
マユは「へえっ」と口をあけっぱなしだ。初めて聞いたのだろう。「おっぱいってすごい」
「聖書には、『血はいのちである』ということばがあります」
貴柳司祭が感慨深げに言った。「子どもは乳を通して、母親のいのちそのものを受け継いでいるわけだ」
「つまり、人間は生まれながらにして吸血鬼であると言うわけね」
ルイさまが、私の言いたいことを的確にまとめてくださる。
「はい。もし一生母乳を飲み続けるとすれば、人間は吸血鬼と言ってもよいかもしれません。けれど」
私は、大きく息を吸い込んだ。
「人間は、途中で血を飲むことをやめ、食物という、人間とはまったく成分の異なる異物から栄養を摂ることを始めます。そして、最初に人間が口にする異物は、ほぼ百パーセント、水であると言ってよいと思います」
「だから、あなたは」
ルイさまがグラスを手に取って、ゆっくりと回した。
「わたしたち吸血鬼に、一番最初に水を飲んでほしかったのね」
「どうぞ、みなさま、召し上がってみてください」
私は、今夜の最賓客であるアレクサンドルさまに、じっと視線を注いだ。
彼は皮肉げに唇をゆがめて、グラスを一息にあおった。それを皮切りに、ほかの方々も口に含む。
が、みんなの期待に満ちた目が、失望に変わるのがよくわかった。
金の大公は、渋い表情で言った。『ただの水ではないか』
「はい、ただの水です」
私は大いばりで答えた。「この水は、富士山のふもとに湧き出るミネラルウォーターです。ちなみに私は、ミハイロフ伯爵家で料理人をさせていただいておりますが、料理に使う水はすべて、お米を研ぐ水に至るまで、この水を使っています」
「そんな無駄づかいをしていたんですか。どうもこのところ食事関係の請求書の金額が増える一方だと思いましたよ」
「だって、お金はいくら使ってもよいと、最初に言われてますし」
どうでもよいやりとりを始めた来栖さんと私は、ご主人さまの咳払いで、口をつぐんだ。
「さて、この水を使っているのには、理由があります。富士山の地下には幾層もの玄武岩の地層があります。雨や雪解け水はこの地層の中を何百年もかかってゆっくりと通り抜け、たくさんのミネラルが溶け込んだ水と変わります」
もったいぶった口調でしめくくる。「つまり、今飲んでいらっしゃる水は、みなさまの人生よりもずっと長い時間をかけて生み出された、というわけです」
『それで?』
「私はときどき、この水がどんな旅をしたか想像することがあります。何百年も前、つまり江戸時代の人々の肩を濡らした雨や雪が、富士山の裾野に集まり、溶けて地面に浸み込み、いくつもの地層を通ってゆっくりと濾過されていく。現代の私たちはそれをくみ上げる技術を開発し、こうしてボトルに詰められ、皆さんの喉をうるおしています」
『だから、それがなんなのだ』
「もうひとつ、お見せしたいものがあります」
来栖さんが、うやうやしく真っ白なナプキンに包んで、一本のボトルを持ってきた。
「グラン・シャンパーニュのコニャックです。もともとコニャックは三十五年もの、五十年ものと、歳月を経るにつれて深みが増していきますが、このコニャックはなんと、百五十年前のものです」
「百五十年?」
マユが、しゃっくりのような音を立てた。
「天羽忠孝子爵がコレクションなさり、それ以来百年間、このお屋敷で死蔵されていたものだそうです。ルイさまが今日の晩餐に使ってもよいとおっしゃってくださいました」
ルイさまは紫の瞳を潤ませ、睫毛を伏せた。
「忠孝の最後の思い出だったけど……きっと、いいって言ってくれるわね」
愛する人の形見。そんな大切なものを、ルイさまは今この時のために惜しげもなく出してくださったのだ。
濃い琥珀色の液体はボトルの中でとろりと揺れている。
来栖さんが、ひとりひとりのグラスにコニャックを注いで回った。すばらしい芳香が部屋にあふれ出す。
「人の寿命は悲しいほど短いものです。愛する人を残して死ななければならない。し残したことがあっても、置いていかねばならない」
私は、病気で死んだ父のことを思い出して、胸が熱くなった。母と私を残して、父はどれほど生きたかっただろうかと思う。
生きていれば、三人でもっともっと楽しい時間が過ごせたのに。おいしいごはんが食べられたのに。
その無念を思うと、一族の方々のように永遠の生命を持つ存在が、うらやましくてならなかった。
「けれど、人間には、代わりにすばらしい力がそなわっていると思うんです。それは、自分のなしたことを後世の人に託す力です」
来栖さんから渡された瓶をそっと撫でた。
「このお酒を樽に仕込んだ人は、もうこの世にはいません。けれど、彼らは自分の死後はるか先の未来に、このお酒を飲んでくれる人々のことを思ったと思います。何十年の歳月が豊かな香りを増し加えてくれることを祈りつつ、このお酒に自分のいのちを込めたんです」
たとえ、自分の寿命が尽きて、その光景が見られなくとも。
「何百年の時を経てくみ上げられた富士山ろくの水。百年以上の時を経て封を切られたコニャック。人は短いいのちの中で、食べることをとおして永劫の時を味わうことができるんです。どうぞ召し上がってみてください」
みな、神妙な面持ちでコニャックを口に含んだ。
天羽忠孝子爵に会ったことのある方々は、この香りと味に、さまざまな記憶を呼び覚まされておられるだろう。
「それでは、前菜をお持ちします」
前菜は、薄く切った黒パンの上にカテージチーズを乗せてカナッペ風にしたものだ。カテージチーズはニンニクやバターを下味に、ディルをまぜたもの、ビーツと和えたものなど、色も鮮やかに飾りつけてある。
次は、グリーンサラダ。レタスやベイリーフとともに、ミントやバジルなどのハーブをふんだんに使った。
「さきほどのディルもそうでしたが、今日用いたハーブはすべて、ミハイロフ伯爵家のハーブガーデンで収穫したものです」
皿がアレクサンドルさまの前に置かれるとき、誇らしげに言葉を添える。
「ハーブガーデン? そんなものを作っていたの?」
ルイさまが顔をほころばせた。「あの時の止まった呪われた庭で育てるのは、さぞ大変だったでしょう」
「ええ、そりゃあもう。根を引っこ抜くときには、必ず衣を裂くような女の悲鳴が」
「やだーっ、マンドラゴラみたい!」
笑いが起きる。緊張していた場の空気も、少しずつほぐれてきたみたいだ。
次は、スープ。牛肉、キャベツ、玉ねぎやきのこ類を煮込んだ、味わい豊かな野菜スープだ。
「おいしいですね。少し酸味が効いていて、さわやかだ」
と、貴柳神父。
さすが、司祭さま。舌が肥えておられる。隠し味に酢漬けのキャベツを使っているのだ。
「けど……」
イアニスさまがじっとスープの湖面を見ながら、何か言いたそうに首をかしげている。「いや、何でもない」
金の大公は、何を召し上がっても、機械のように口に運ぶだけだ。
表情も変えない。ほんの少しでいいから、眉をひそめたり、スプーンの動きが止まったり、何かを探るように視線がたゆたわないかと期待して見つめているのに、その糸口さえ見せてくれない。
くじけそうになる気持ちを奮い立たせ、私は背筋を伸ばした。
「それでは、本日のメインディッシュです」