(5)
「それでは、本日のメインディッシュです」
口を「え」の形にして振り向いたのは、給仕をしている来栖さんだ。けれど、さすがに声には出さない。
「その土鍋でよいのですか」
「はい、お願いします」
来栖さんは、あざやかな手際よさでアームタオルを使って土鍋の蓋をはずすと、中身を次々と碗によそった。松竹を藍色に染め付けた初期伊万里。これも、天羽子爵が集めておられたコレクションのひとつ。江戸初期の名品だ。
「これって」
給仕係のマユは、その様子を横から覗きこみ、とまどったような声をあげた。「……おかゆ?」
青磁の碗の中で、白くとろりと光っているのは米粒だった。おかゆは、日本人なら誰でも食べたことがある家庭料理だ。ことことと時間をかけて米を炊き、塩で味つけただけのもの。
マユがそれぞれの器を置いて、蓋をはずした。貴柳神父は今日の賓客で唯一の日本人として、まっさきにスプーンを取り上げ、ひとさじすくい上げて口に運んだ。
「違う」
すぐにつぶやいた。「かすかに甘い」
日本のおかゆにはあり得ない香りと風味に、ルイさまもすぐに気づかれた。「これは……カーシャ!」
私はうなずいた。
「カーシャです。米をブイヨンと牛乳で柔らかく煮ました。東欧やロシアで食される粥の一種で、地方によって、蕎麦の実やトウモロコシ、豆で作るものもあります」
レオンさまは一口頬ばり、すぐにスプーンを置いた。これは、ご主人さまが育った地方の、ごくごく庶民の家庭料理だ。たぶんご主人さまも子どもの頃、カーシャを召し上がったことがあるはず。
そして、その隣の大公は、ただ黙々と召し上がっている。無感動な瞳には、何かを感じておられる気配はない。
茶碗が引き下げられたあと、しばらくのあいだ気まずい沈黙が落ちた。
『これで、終わりか』
「はい。食後のお茶が残っていますが、メインのお料理はこれが最後です」
『やれやれ』
ナプキンでぬぐったアレクサンドルさまの口元には、人をからかうような笑いが浮かんでいた。
『茶番はすんだようだな』
「いかがでしたか」
『そなた、本当にやる気があったのか?』
椅子にもたれて、冷ややかに睥睨なさる。『こんな料理を、客をもてなす正餐に出すとは』
『特に、これだ』と、カーシャの皿に向かって顎をしゃくる。
『余の故郷ロシアの料理を出したつもりだろうが、あいにく余は宮殿で生まれた。こんな貧民の食するものを食したことはない』
「お口に合いませんでしたか」
『ただ、あきれただけだ。勝ち目のない戦いだとわかって、とち狂ったかと思ってな』
「実は……俺も、そう思った」
イアニスさまも、申し訳なさそうに同意した。
「もう何度も、ルカの料理を食べてる。こまかい味の違いなんか俺はわからねえけど、いつもは、手の込んだソースや珍しい食材を使った、すみずみまで気を配っているのがわかる料理だ。けど、今日のは違う。材料はありふれているし、飾り気もない。なによりも……味がほとんどしない。いつものルカなら、もっと美味く作れたはずだ」
「でも、イアニスさま」
マユが、泣きそうな顔で弁護してくれた。「素材の味が引き立つように、薄味にしていたんだと思います。だって、野菜スープだって、とてもおいしそうに柔らかく煮えていたし」
「柔らかすぎて、どろどろだった。歯ごたえも何もありゃしない」
「まるで――」
ルイさまはそこまで言って、はっと気づかれた。「そうか。そういうことだったのね」
私はコックコートのすそを引っ張り、帽子の傾きを正し、大公の前に立った。
「大公さま。今日の正餐のコンセプトは『いのち』です。けれど、もうひとつ、隠れたテーマがありました」
私は大きく息を吸い込み、言った。
「離乳食です」
アレクサンドルさまは、不快そうに眉をひそめた。
『余を馬鹿にしているのか』
「いいえ」
ご主人さまが私をじっと見つめておられるのが、わかる。がんばらなくちゃ。
私は、渾身の思いを言葉をすべく、両手を堅く握りしめた。
「先ほども申しましたが、母乳とは血が変化したものです。人は乳離れするとき、食物から栄養を摂ることを学ばなければならない。そのために、柔らかく煮たり、細かくつぶした離乳食を根気よく与えます」
『それで?』
「勝手ながら、大公さまのお生まれになったお国の離乳食を調べさせていただきました」
「離乳食……だったのか」
イアニスさまが、皿が引き下げられたテーブルの上を見つめる。「だから、あんな薄味に」
「はい」
私はうなずいた。
最初のカナッペの上に乗せたのは、カッテージチーズ。これはロシアでは『トヴァローク』といって、牛乳とヨーグルトを煮て、固まりを漉したもの。離乳食には欠かせない。
野菜のスープは、『シー』と呼ばれるもの。キャベツをメインにきのこや牛肉、じゃがいもを入れて煮込んだもので、栄養が溶けだしたスープは、赤ちゃんの離乳食に適している。
そして、『カーシャ』はおかゆ。日本人の主食は米だから、赤ちゃんの離乳食もまず米を炊いて作った重湯やおかゆを与えることが多い。ロシアや東欧の人たちは、挽き割り小麦やカラス麦、キビやソバを牛乳や水で煮込む。
「離乳食は、たとえ宮廷であろうと農家であろうと、そう変わらないはずです。……違いますか?」
宮廷の料理人は、離乳食までは作らない。作るのは、乳母か侍女。王侯貴族であっても、幼少期は庶民の赤ちゃんと同じものを食べるのだ。
『さあな。覚えておらぬ』
「そうでしょう。離乳食に何を食べたか覚えている人なんていません」
金の大公との、今にも切れそうな会話の糸がまだつながっている。奇跡だ。
私は安堵しながら、次の糸をたぐり出した。
「けれど、赤ちゃんのときに食べた離乳食は、その人の食べ物の嗜好に、決定的に影響します。一生のあいだ」
味つけの濃い離乳食を食べた人は、おとなになっても濃い味を好む。日本の離乳食で育った人は、和風の味を好むし、中国の離乳食で育った人は、中華を好むだろう。離乳食は、人の一生の味覚を決定すると言っても言い過ぎではない。
「ですから、大公さまに美味しいと思っていただける食事はどんなものだろうとあれこれ考えていたときに、お国の離乳食を作ってみようと思い立ちました。それが人間としてお生まれになった大公さまにとって、一番なつかしい味ではないかと思ったからです」
アレクサンドルさまの膝から、はらりとナプキンが落ちた。食卓から立ち上がると、その均整のとれた長躯は、間近にいた私を圧倒する。
まっすぐに私を見据える金色の瞳は、ぞっとするほど美しく、だが、生命を感じさせなかった。
『そなたは』
形ばかりの微笑が口元に浮かぶ。『どこまで、余のことを調べあげたのだ。生い立ちまですべて、か。ツァーリの家系でありながら、宮廷ではなくヴォルガの田舎町で育ったことも、農民の女が作ったものを食していたことも』
『わたしが教えたのよ』
ルイさまも席から立ち上がる。『あなたの本当の名は伏せておいた。でも、あなたが命を狙われ、祖国から逃げてきたことは話したわ』
「大公さまに、ロシアの料理をお出しすることは、ずいぶん迷いました」
私は、くじけそうになる自分の気持ちを励ましながら、言った。「つらいご記憶を引き出してしまうのではないかと。けれど、どんなに悲しい思い出があろうと、自分の生まれた国を心の底から憎むことはできないはず。だから、大公さまが召し上がったロシアの離乳食にできるだけ近いものをお出ししようと考えたんです」
『何も覚えておらぬと言っただろう』
「いいえ。頭では忘れていても、体のどこかが覚えているはず。何も知らなかった子どものころ、誰かの腕に抱かれて安らいだ思い出や、初めて口にした食べ物を噛みしめた味。それに、お腹いっぱいになって眠った心地よさも」
『そんなものは忘れた!』
心臓の鼓動が止まりそうになった。初めて、アレクサンドルさまが心底から激高した声を聞いたのだ。
だが、激したのはほんの一呼吸の間だった。次の瞬間には、厚さ十ミリの防弾ガラスの向こうにいるような、とりつくしまのない冷静さが戻っていた。
『人であったときのことなど覚えておらぬ。一族に加わったときにすべてを忘れた』
笑みさえ浮かべて、一族の方々を見渡す。『そうだろう。そなたたちも』
それを聞いて、私は落胆した。
舌の上に残る味覚が、人間であったときの遠い記憶を呼び覚まし、子どものころをなつかしく思い出してくれることが私の願いだった。いや、今のことばを裏返して言えば、少しは思い出してくださったということなのだろう。でも、あまりにも短すぎた。わずかな心の揺れも、巨大な怒りが完全に押し流してしまった。
アレクサンドルさまの心は、今も深く傷ついたままなのだ。
生きることの喜び。おいしいものを食べて、働いて、学んで、昨日よりもほんのわずか前進することの喜び。温かいふとんでぐっすり眠って、家族や友だちと笑い合って、思い出を重ね、いっしょに年を取って行くことの喜び。
そんなものをかなぐり捨ててしまえるほど、この方の心は、怒りと悲しみに満ちていたのだ。
いいえ、この方だけではない。レオンさまもルイさまも、イアニスさまも。
なんて悲しいんだろう。傷ついたまま永遠に生きられたとしても、待っているのは永遠の苦しみだけなのに。
『そなた』
大公は、私の顔をちらりと見て、金色の目をわずかに見開いた。『なぜ泣いている』
「だって……悲しいです」
ことばにして初めて、涙が頬を伝うのに気づいた。悲しい。
この方は、自分の過去を切り捨てたとおっしゃる。でも、それは多分、前に進めないということだ。永い時をぐるぐる堂々巡りをしながら過ごすということだ。
過去から逃げないで、真正面から向き合って癒していかなければ、人は過去に囚われたまま生きていくことになる。
私もそうだった。昔の彼氏に「女じゃない」と罵倒された心の傷。
イアニスさまに同じことばで罵倒されたとき、レオンさまが黙って散歩に連れ出してくださった。あのとき、私は過去にさかのぼって、傷を癒されていたのだ。
アレクサンドルさまにも、そうなってほしい。幼い頃から命を狙われ、従者の少年が身代わりとなって目の前で殺され、その従者になりすまして祖国から逃げ出さなければならなかった。
生涯、自分の名前で生きることができなかった。
その心の傷をここでさらけ出してほしい。思い切り怒って、思い切り悲しんで、癒されてほしい。
そのことをひたすら願って、このレシピを考えたのに。やはり私の力では、無理だった。
『……く……ははっ』
突然、金の大公が大声で笑い出した。
『ようやくわかったぞ。レオン。貴様がその女に喰われたわけが』
長い腕がすっと伸びてきて、私の顎をつかんで、くいと持ち上げた。避ける暇もない。
『ほら、この目だ。この涙だ。余のために「悲しい」と本気で泣く。余の生い立ちについて勝手にあれこれ妄想し、なつかしい料理とやらをこしらえ、余が食べる様子を瞬きもせずに、熱っぽい目で見つめ続ける。その目を見れば、この女の頭の中には余しか住んでおらぬとわかる』
喉を鳴らして、あざけるように笑う。『……たまらんな。そそられたぞ』
「アレクサンドル!」
ご主人さまが低く叫んだ。口の端から鋭い牙が覗いている。
『そう急くな』
私から離れると、大公さまは食事の席に戻り、ゆったりと背中を預けた。『まず、この茶番の幕を下ろそうではないか』
くいと人差し指を食卓に向ける。『そう。今日の晩餐が美味ければ、この国からしばらく手を引く。不味ければ、この女のいのちをもらう――確か、そういう約束だったな』
「ええ、そう」
誰も答えないので、ルイさまがしぶしぶ答えた。
絶望的だ。口が裂けたって、この方が美味かったなどとおっしゃるはずはない。
『美味かった』
――え。
「い、いま何と?」
『二度言わせるな』
アレクサンドルさまは驚く私をちらりと見上げ、口元を手で隠した。『美味かったと言ったのだ』
心がとろとろとハチミツのように流れだしそうだ。それほどに「美味い」という言葉は、料理人にとっては、ほしくてたまらない最大級の賛辞なのだ。
……そんな馬鹿な。食事のあいだ、ずっと仏頂面でいらしたのに。何を召し上がっても、せいぜい一口か二口、嫌そうに口に運ぶだけだったのに。でもそれはポーカーフェイスで、内心では喜んで召し上がっていたということなの?
信じられない。信じられないと思いながら、心臓が身体から飛び出しそうなほど、ばくばく鳴りだした。
「あ……ありがとうございます」
『だが、まだ少々物足りぬな』
「おかわりならあります。いくらでもお持ちします!」
『すぐ、ここにあると言うのに?』
次の瞬間、私は目まいを覚え、バランスを崩した。
気がつくと、すぐそばに金色の瞳がある。背中に腕が回され、うなじを誰かの大きな手が支えている。
ええと。
あれ? 私ってば、どうして大公に抱かれているんだろう。
『今日の晩餐で、そなたが一番美味であった。そなたを所望する』
全身の血がさーっと音を立てて引いていく。
じ、冗談じゃない。だまされた! 美味いと言ったのは、料理のことじゃなくて。
わ――わたし?
『レオンよ。死んだも同然だったきさまが、気力を取り戻した理由がわかった。この女の作った料理などではない。この女そのもの。きさまを誰よりも身近から見つめ、きさまの欲しているものを探り求め、きさまの心の奥底までを極めようとする眼差し。……ふふ、たまらぬであろうな、ローゼマリーの冷たい目を見続けていたきさまにとっては』
何とかして、首を動かしてご主人さまのほうを見ようとしたけれど、かなわなかった。身体の自由が全然利かない。
『じっとしていろ』
金の大公のざらざらした指の感触が、私の喉の線をゆっくりとなぞったとたんに、身体がびくりと跳ねた。
そんなつもりはないのに、全身がじわりと熱くなってくる。私の身体、完全にこの方の魔力にからめとられてしまっている。
『きさまが百年の沈黙を破ったのも、他の一族との絆を取り戻したのも、このやかましい小娘のおかげだとしたら、実に面白い。数百年ぶりに、わくわくと心が躍るぞ』
誰も、口をはさむ者はいない。大公ひとりの独壇場だった。
『これほど美味いものを味わわせてもらったのだから、この勝負は、余の負けだ。約束どおり、余はきさまらには指一本触れぬ。この東洋の島国から一切の手を引く。その代わりに、余はこの女を土産に持ち帰る』
(ご主人……さま)
いくら呼ぼうとしても、吐息しか出てこない。悔しい。悔しくて涙がにじむ。
「アレクサンドル」
レオンさまの声。久しぶりに、聞く者を凍りつかせるような、絶対零度の声だった。
「アレクサンドル、もうやめて」
ルイさまの懇願する声も聞こえる。「どうしてあなたは、そういうやり方しかできないの?」
『悪い取引ではないはずだが。リュドミラ。この国から手を引けば、そなたの大好きな人間どもが、大勢死ななくてすむのだぞ。この小娘たったひとりと引き換えに』
大公は、人形のように無抵抗な私をゆっくりと抱き上げ、耳元にささやいた。『ルカとやら。そなた余とともに来たいか』
「……はい」
『いい子だ』
とても優しい声だった。金色の瞳もうっとりするほど穏やかで美しい。でも、この方の本心が、私には手に取るようにわかる。
アレクサンドルさまは、ご主人さまのものを奪いたいだけなのだ。横取りすることでしか心が満たされないのだ。
だから、ローゼマリーさまを奪った。ご主人さまだけでなく、ローゼマリーさまも、そしてご自分自身でさえも、不幸にしてしまった。そして、今また私を奪おうとしている。
いくら魔力で心や体を奪ったとしても、それは本当の愛情ではないのに。
そんなことをして、全てのものを奪い取っても、孤独はもっと深まっていくだけなのに。
なんと可哀そうな方だろう。
ひとしずくの涙が、私の目からあふれて、こめかみに流れた。
「ルカから手を離せ」
レオンさまの声が聞こえる。怒りを内に秘めながら――静かに、決然と。
「俺のすべてを懸けて、この子は貴様には渡さぬ」