(6)
『ほう、えらく勇ましいな。変われば変わるものだ』
大公は、満足げに声をはずませた。『きさま、ローゼマリーのときは何と申した。「どうぞ、心のままに」と、ひどくつれなく答えたではないか』
「俺が少しでも執着を見せれば、おまえはどこまでも奪おうとするからだ」
ご主人さまの声は、深い洞窟を渡ってくる風のようだ。「だが、そういう計算をしている時点で、すでに俺は間違っていたのかもしれぬ。今ならわかる……本当に失いたくないものを前にして、人は計算などしていられぬということが」
普通のときに聞いていたなら、めちゃくちゃ有頂天になるような言葉。私は部屋の中を踊りまわって、「一ヶ月間この言葉だけで、ご飯三杯はいけます!」と連呼しているだろう。来栖さんは大笑いで、ご主人さまは眉をひそめて逃げ出して……。
ああ、私、ご主人さまのそばで生きていたいよ。脳みそ操られても、偽りの愛情で心を満たされても、絶対に忘れるはずはない。こんなに、こんなにもご主人さまのことが大好きなんだから。
「もう一度言う。ルカを返せ」
『ふふ。本人に聞いてみればよいではないか。きさまか、余か、どちらを選ぶのか」
私を抱きしめている大公の手が、あやすように背中を撫ぜる。いい気持ち。もう何も考えられない――。
『さあ、ルカ。どちらを選ぶ?』
「……たい、こう……さ」
「ルカ」
ぼんやりと薄れる意識の中で、ご主人さまが私を引き戻すように呼ぶ声が聞こえた。
「ルカ。戻ってこい。俺には、そなたが必要なのだ」
はい、ただいま。ご主人さま。
すぐに、お茶をお持ちします。
何か召し上がりたいものはありますか。どんな注文でも、おっしゃってください。私の力の及ぶ限り、レシピを調べて研究して、何度失敗しても作り直して、必ずお持ちします。
だって私が料理人になったのは、ご主人さまのためですから。
ご主人さまが元気になって、笑顔になって、生きていてよかったと思ってくださるためですから。
私が素直に堕ちれば、この国には手を出さないと大公さまはおっしゃった。ご主人さまやルイさまやイアニスさまは、もう一族と戦わなくてすむんだ。
こんな私が日本を救うことができるんだって……そんな誘惑に、ちょっぴり駆られなかったわけじゃない。
だけど。
それは、ご主人さまをもっと苦しめること。もっと不幸にすること。ローゼマリーさまのときの悲しみをもう一度味わわせてしまうこと。
それだけは、絶対にしちゃいけないんだ。
「……い」
声が出た。指が動く。私、体の自由を少しだけ取り戻せた。
ご主人さまの暖かく強い呼びかけが、私の身体に流れ込んでくる。
「……いや」
『なに?』
「手を離して……アレクサンドルさま。私は……ここにいます」
まるで、体じゅうを縛っていた縄がいちどきに切れたように、私は力を取り戻した。
「ご主人さまとともにいます。あなたとは……あなたとは、行きません!」
先制攻撃。
はがいじめされそうになった私は、鉄のフライパンで鍛えた手首のスナップを利かせて、思い切り金の大公の横面を張り飛ばした。
ほとんど同時に、たくさんのことが起こった。
来栖さんは、食卓を覆っている白いリネンのテーブルクロスをさっと引き抜いた。その上に乗っていた皿やコップやカトラリーががちゃがちゃと生き物のように跳ねて、大公さまに襲いかかる。
反対側から、貴柳司祭は首にかけていた大きな銀の十字架を投げつけた。
その鋭さは、まるで手裏剣。さだめし神父さまのご先祖は忍者だったに違いない。
マユは「きゃあああっ」と超音波のような金切声をあげた。ただそれだけのことだけど、一番大公さまの動きを封じたのは、この声だったかもしれない。
あとから考えても、不思議だと思う。とっさに息の合った連携プレイを演じてくれたのは、三人が三人とも人間だった。何百年も生きる不老長寿のいのちを持ち、すぐれた身体能力と魔力を持つ一族の方たちは、その間ほとんど動けなかった。
わずか数十年そこそこの経験しかない、非力な人間たち。
でも、非力だからこそ。弱いからこそ。すぐに死んでしまうからこそ。
生きたいという願い、仲間を助けたいという願いは、きっととても強いのだ。
「榴果!」
「ルカさん!」
私は無我夢中で大公さまの腕をすり抜け、ご主人さまの胸めがけて走り込んだ。
「ご主人……さま!」
私はよろけるように、ご主人さまの腕の中に飛び込んだ。心地よい温もりにすっぽり包まれて、何度も何度も息を深く吸い込む。
ひんやりと冷たい森の香り。いつも手にしておられる古い書物の香り。かすかな薔薇の香り。いろんなものがないまぜになった、知り尽くしているご主人さまの匂い。安堵とともに全身がほどけていく。
私、やっぱり、この方が好きだ。この方のそばでしか生きられない。
「ルカ」
やさしい声とともに、ざらざらとした感触の指が頬に触れ、それからそっと唇に触れる。
それから、レオンさまは顔を上げ、大きく胸をふくらませた。
「アレクサンドル」
決然とした響きが、部屋の空気を震わせる。
「もう一度言う。ルカは渡さぬ。このまま立ち去れ」
背後で、くくっと喉を鳴らす音が聞こえた。
『よいのか、それで』
「かまわぬ」
『余は全力で、きさまと、この島国をつぶすぞ』
「そうはさせぬ。受けて立とう」
『ならばよい』
金の大公は、タキシードの上にひらりとマントを羽織った。『いったん城に戻り、総攻撃の準備をして来よう』
「ま……待ってください!」
私のあえぎ声に、部屋じゅうの視線が集まった。
「まだ最後のデザートが残っています」
大公さまは一瞬、「何の話だ」という顔をした。
「お約束では、私のお出しする晩餐を召し上がってから判断してくださる、ということでした。晩餐はまだ終わっておりません」
『時間の無駄だ。何をしても決定は覆らぬ』
「永遠に生きられる御方が、時間など気になさるのですか。たった数分で終わるような簡単なことが待てないのですか」
震えそうになるのに耐えて、大きく息を吸い込んだ。「ご決定を覆す自信はあります。私とあなたの、最後の勝負です」
「ルカ」
ご主人さまの手が肩の上に置かれるのを感じる。大丈夫ですという印に、うなずいてみせる。
それを見て、アレクサンドルさまの顔に冷たい笑みが浮かんだ。
『わかった。それほどの自信があるのなら、見せてみよ』
私は厨房に飛び込んだ。またやっちまった。自信なんか、あるわけない。
でも、はったりでも何でもいいから、この最後のメニューを大公にお出ししたかった。
どうしても、これだけは大公さまに召し上がってほしかった。
数分後、来栖さんはうやうやしく銀の盆を捧げ持って、大食堂に入った。
見事な金彩がほどこされたティーセットは、19世紀のドレスデン。そして、それを扱う来栖さんの所作も、ほれぼれするほど美しい。
「晩餐の最後をしめくくるデザートでございます」
来栖さんはレオニード大公の前にプレートとスプーンを置いた。そしてテーブルの角を回り、レオンさまの前にも同じものを置いた。
他の三人の前には何も置かない。「ん?」と、ルイさま、イアニスさま、貴柳神父が不思議そうな顔をした。
「申し訳ありません。デザートは、おふたりにしか用意されていません」
と、来栖さんが一礼する。一同の目が、一斉にふたりの大公の上に注がれる。
このひと時が終われば、袂を分かって敵同士になるふたり。正真正銘、ふたりでともにする最後の晩餐。
私は、デザートを盛りつけたばかりのガラスの器をマユに渡した。彼女はそれを、ふたりのプレートの上に置いた。
それはまるで、きらめく宝石だった。
来栖さんに伯爵家の屋敷に飛んで帰って、取ってきてもらったダイヤカットの型で作ったゼリー。透き通った淡い紫色の中央にバラのつぼみが浮かんでいる。
「薔薇のジュレでございます」
「ダマスクローズ……」
ご主人さまが、うめくように呟いた。
「はい。ミハイロフ伯爵家のバラ園で咲いていたダマスクローズです。ローゼマリーさまがご生前に愛されたバラ園の中でも、とりわけ見事に中央で咲き誇っていたダマスクローズです」
アレクサンドルさまの金色の眉がわずかに上がった。
「ご主人さまが、そのバラを引きちぎってめちゃめちゃにされたとき、残骸の中から、いくつかの蕾や花びらを拾い集めました。蕾は砂糖漬けにし、花びらはジャムにして保存しておりました。このシャンパンジュレは、それを用いて作らせていただいたものです」
薄紫色の透き通ったジュレの中央に、ゆらゆらと頼りなげに濃紫の蕾が浮かんでいる。
「どうしても大公さまとご主人さまには、これを召し上がっていただきたかったのです。どうぞ、お召し上がりください」
だが、ふたりはジュレを見つめたまま、スプーンに触ろうともしない。
「どうぞ」
部屋の中は、凍りついたように誰も動かない。コトリとの物音もせず、息遣いさえも聞こえない。
「食べろって言ってるでしょ!」
とうとう私の身体の中で、何かが泡のようにはじけた。
「あなたたちの身勝手なケンカの道具にされたローゼマリーさまの無念を味わいなさい。何百年もふたりの男にはさまれて、もらうだの、返すだの、まるでモノ扱いされて、どれだけ苦しんだことか。ローゼマリーさまの心はどれだけズタズタになったことか!」
たぶん、その瞬間、私は、ローゼマリーさまとひとつになっていた。
『苦しんだ?』
アレクサンドルさまの口角が皮肉げに上がった。
『あれは、けなげに苦しむような女ではないわ。捨てられたことを根にもって、こやつを困らせることは何でもやった。そこにいるヴァラス子爵が知っておろう』
「そうだ」
イアニスさまが暗い表情でうなずいた。「俺はあのとき、大公のもとにいたから知ってる。ローゼマリーは恐ろしい女だったよ。大公の命令と称して、レオンに無理難題をふっかけた。ローマに行くことを命じて、次の日にウィーンに行け、なんてことはザラだったよ」
『こやつの前では、わざと余にしなだれかかり、そのくせ、ふたりきりのときは微笑すら浮かべぬ。そうやって、こやつに捨てられた復讐をしていたのだ』
「そうでしょうか」
私は、静かに問い返した。「それは、復讐ではないと思います。ローゼマリーさまは魂の底から叫んでおられたのです。わたしはここにいる。わたしを見て、と」
『何?』
「ご主人さまだけではなく、大公さまに対しても、ずっとそう叫んでおられたのだと思います。仮にも、ローゼマリーさまと結婚なさったのでしょう。夫婦となられたのでしょう。夫から愛されたい。夫に自分だけを見てほしい。女というのは、そういう業の深い生き物なんです」
そのとき、私の目から一粒の雫がしたたり落ちた。まるでローゼマリーさまの涙が私の目に宿ったかのよう。
「あなたのほうから優しく接してくだされば、きっとローゼマリーさまは心を開かれたはずです。復讐の道具としてしかローゼマリーさまを見ていなかったのは、大公さま、あなたのほうです!」
大公は、頑なに私から視線をそらせた。
「ローゼマリーさまは、あなたからの愛を求めておられたのだと思います。だから、要らないもののように、ふたたびレオンさまのもとに戻されたとき、その衝撃はあまりにも大きかった。シベリヤを通って日本にたどりついたとき、ローゼマリーさまは、もう生きる気力をなくしておられたのだと思います。レオンさまも、奥方さまにどう接してよいかわからなかった」
ご主人さまの肩がぴくりと揺れる。
「とうとうローゼマリーさまは、最後まで誰とも心を通い合わせることができなかった。あなたたちおふたりの、どちらを選ぶこともできなかった。本当はおふたりを愛しておられたはずなのに。本当はおふたりから愛してほしかったはずなのに」
ガラスの器の中で、悲しげにただずむ薄紫のダマスクローズの蕾。
「ローゼマリーさまのお心を形にしたくて、作ったジュレです。どうぞお召し上がりください。これだけは、何が何でも召し上がってお帰りください」
かちりと金属が鳴る音がした。ご主人さまが皿からスプーンを取り上げたのだ。
その手を静かに動かして、ジュレを口に運ぶ。部屋の全員が見守るなか、ゆっくりと噛みしめ、喉に運ぶ。
「アレクサンドル」
黒の大公レオンさまは、金の大公に向いて穏やかに言われた。「食べよ。そして、俺たちの罪をともに味わおう」
『そんなものは知らぬ』
アレクサンドルさまは、頑なに否んだ。『ローゼマリーを捨てたのは、きさまだ。恨まれていたのは、きさまだ。余には関係ない』
「アレクサンドル」
ご主人さまの声が一瞬にして、刃のような鋭さを帯びた。「いや、アレクサンドル・ミハイロフ伯爵。真のレオニード大公であるわたしが命じる。食べよ」
大公さまはふたたび抗おうと口を開いたが、声が出なかった。白く透き通った肌が赤黒く染まり始める。そばで見ていてもわかる、ものすごい重圧。真の大公のみが持つ圧倒的な魔力が、彼を押さえ込んでいるのだ。
『わ……かっ……』
ぶるぶると震える手で、金の大公はスプーンを取り上げた。
ひとくち。そして、またひとくち。
薄紫の宝石が、口に吸いこまれていく。金色の瞳にまとっていた荒々しさが溶けていく。
ひんやりとした甘みが喉を通るたびに、ダマスクローズの芳香が脳髄に広がるような心地。その香りは、何百年も昔の、ひとりの女性を思い出させる。とても美しく、とても哀しい目をした人。
ふたりの男の愛と憎悪の板挟みになって、みずからも愛と憎悪のはざまに揺れ動くしかなかった、かわいそうな人。
がしゃりと乱暴に食器が鳴った。
『余は認めぬぞ』
追憶に満たされた優しい時間を、全身で拒否するかのように、アレクサンドルさまは肩をいからせて立ち上がった。
『この百年、一族を統べて来たのは、余だ。世界を動かしてきたのは、余だ。受け継がれた力などなくとも、何の支障もない。見ていろ。余の命令ひとつで、たちどころにこんな島国ひとつ消し去ってみせるわ!』
ご主人さまも、膝のナプキンを食卓に置いて、ゆっくりと立ち上がった。
「結局、俺とおまえは、どこまで行っても敵同士なのだな」
『初めからわかっていたことだ。最初に会ったときからな』
金の大公は冷ややかに笑むと、その隣に視線を移した。『ヴァラス子爵。そなたはどうする』
イアニスさまはいきなり名指しされて、はっと藍色の目を見開いた。
『ミハイロフ伯爵の側に与するならば、そなたの領地ギリシアも、日本とともに滅ぼすことになるが?』
「なんだと」
ひどい。今度はアレクサンドルさまは、ご主人さまの陣営の切り崩しを仕掛けてきた。特に、イアニスさまはご主人さまとは犬猿の仲だった。言っちゃなんだけど、ルイさまはともかく、この軽そうな男なら、脅しに屈してホイホイついていくかもしれない。
「見くびるな」
つんつん頭の子爵は、尖った歯をむき出して叫んだ。「今さら、はいそうですかとそっちに寝返ることなんかできるか!」
イアニスさまは席を蹴って立つと、一歩斜め後ろに退いた。
その不自然な動きに、あれっと思った。そして後ろを見て得心した。
ああ、そっか。イアニスさまはマユを背後にかばおうとしているんだ。たぶん無意識なのだろうけど。
この方が私たちの味方をしてくれるのは、ご主人さまが好きだからでも、大公に反発しているからでもない。
ただ、マユを守りたいんだ。マユのいる日本だから、守りたいんだ。
なんだかうれしい。あれだけ自分勝手だった人が、恋する女性のためにこんなに変わった。
「聞くまでもないこと」
次いでルイさまが、気品高く言い放った。「わたしも、レオンとともにいます。忠孝が守ろうとしたこの国を、わたしも守ります」
それを聞いた貴柳司祭が、頬の筋肉を引きしめた。本当は「ユウトを守るために」と言ってほしかったのかな。ううん、神父さまだったら、そんなことは望まないだろう。この人は強い。神父さまならきっと、天羽子爵に命がけで恋したルイさまを、丸ごと愛せるはず。
私もそうなりたい。
「アレクサンドル」
ご主人さまが、最後に口を開いた。「おまえに預けていた称号を返してもらおう。今このときから、レオニード大公は俺だ」
『レオン、その言葉を待っていたぞ』
アレクサンドルさまは、至上の喜びを得たかのような会心の笑みを浮かべた。『きさまがオスマン・トルコとの戦いの前夜、余に言った言葉を、今そのまま返そう』
――待っているぞ、アレクサンドル。おまえが俺を滅ぼしに来るのを。
『待っているぞ。レオン。きさまが余を滅ぼしに来るのを』
「俺は、おまえを滅ぼしたりはせぬ」
ご主人さまは静かな声で答えた。「ただ、あくまで挑んでくるなら、受けて立とう」
『ふふ。せいぜい、血をしこたま吸って英気を養っておくのだな』
ふたりの大公は睨み合った。内に秘めたすさまじい気迫は、互いに噛みつき合い、殺し合う二匹の獣。まさしくウロボロスの蛇だった。
片や、真のレオニード大公レオンさまと、その賛同者――数は本当に少ないけれど。
片や、僭称大公であるアレクサンドルさま。こっちが一族の方々の圧倒的な支持を得ている。
何百年も世界を陰から支配してきた、永遠の生命を持つ一族の上に、ふたりの大公が立った。
今このとき、世界は真っ二つに割れたのだ。