第5章「結局のところ、素材がいのちです」

(7)



 アレクサンドルさまは優雅にマントをひるがえした。部屋から出て行く一瞬――ほんの一瞬、その金色の目が私を見た。
「どうぞ、またいらしてください」
 料理人の性(さが)と言うべきか、とっさに、とんでもないセリフが私の口をついて出た。「おいしいものを準備してお待ちしております」
 金の大公は、唇に笑みを形作った。『楽しみにしているぞ。次に会うときは、そなたの血を一滴残らず、魂まで喰らってやろう』
 その次の瞬間、彼の姿は消えていた。まるで明け方の夢のように、私たちの前から掻き消えてしまった。
 大食堂にいた皆は、息をすることを忘れていたとでも言うように、深々とため息を吐き、おずおずと互いの顔を見合わせた。
「うわあっ」
 マユが歓声を上げながら、私が飛びついてきた。
「すごい、すごい! ルカさんがひとりで大公さまを撃退した」
「え、ちょっ、私?」
「そうよ、アレクサンドルを退けたのはあなた」
 ルイさまも、横から私を抱きしめた。「あなたの熱意と料理が、確かに彼の心を揺さぶったのだわ」
「まあ、そういうことだな」
「わたしたちは、とうとう何もできませんでしたね」
「そろいもそろって、大の男たちがでくのぼう以下とは」
 イアニスさま、神父さま、来栖さんも安堵した声で言い交している。
「でも、もう一度、日本を滅ぼしに来るって言ってらした」
 まだ、全然喜ぶ気になれない。私が無思慮にしたことが、かえって金の大公の怒りを増幅させてしまったのではないだろうか。
「それは大丈夫。いくら彼でも、そんなにすぐには手を出せない。もっと何か月も何年も先の話」
 ルイさまが、労わるように私の肩をなでた。「それまでに対策を講じればいい。私たちにまかせて。今は安心していいのよ、ルカ。さあ、もっと力を抜いて」
「本当に?」
 それを聞いたとたん、私の目からぶおっと涙があふれた。
 こわかった。
 恐かったよ。ご主人さま。
 ご主人さまの胸に飛び込んで、思い切り泣きたい。ポンポンと頭を撫でてもらいたい。
 だって、私がんばったよね? 身の程知らずに大勝負に打って出て、みんなにいっぱい迷惑かけたけど、それくらいのご褒美はいただいたっていいよね?
 けれど、駆け寄ろうと思った次の瞬間、私は逆に一歩後ろに退いた。
 ご主人さまが、いつもと違う。
 ただ静かに立っているだけなのに、近寄りがたいオーラをまとっておられる。首筋がぞわっとするくらい怖ろしく、そして神々しい。
 堂々たる美しさにうっとりして、なんだか無性に涙が出る。
 これが、レオニード大公として本来持っていらしたご主人さまの姿。世界を統べる永遠の一族の長としての威厳に満ちた姿。
 ルイさまとイアニスさまが、膝をかがめた。剣を肩に当てる儀式のときのようだ。
「レオニード大公」
 額を床に触れんばかりにひれ伏して、ルイさまが言った。「わたしたちは、あなたに忠誠を誓います。どうぞ、なんなりとご命令を」
 来栖さんも、そしてマユもそれに倣った。あわてて、私も。
 ただひとりだけ、貴柳司祭だけが膝をかがめなかった。神のしもべだから、神しか礼拝しないのだろう。でも、その目には、ご主人さまに対する深い敬意が表われていた。
 この方は、もう私だけのご主人さまじゃない。なれなれしく話しかけたり近づいたりしては、ダメ。
 もう私の手の届く方じゃないんだな。
 片や、吸血鬼。片や、人間。
 片や、世界を陰から支配してきた不死の一族の王。片や、ただのコック。
 笑っちゃうくらい、どこからどこまで違う、身分違いの恋だ。
 ご主人さまは、こんな大きな運命を背負うことになったんだもの。今までみたいな調子で、そばにいられない。何も知らなかったときのように、勝手なことをまくしたてたり、タメ口をきいたり、からかったりなんかできない。
 私のできることは、せいいっぱい静かに動き回り、薫り高い紅茶を入れて、なるべく目立たないように……。
 そっと後さずりして扉に近づき、急いで部屋を出て行こうと体をひるがえしたとき、がしっと腕をつかまれた。
「どこへ行くつもりだ」
「ご、ご主人さま」
 ご主人さまの黒い瞳が、冷ややかに私を見つめていた。
「屋敷に帰る。クルス。車を回せ」
「え?」
 部屋にいた全員が呆気にとられて、声を上げた。
「お待ちください。まずは、これからの戦略を立てるべきかと」
「一刻も早く資産を凍結し、安全な場所へ避難させないと危険です!」
「そんなものは、おまえたちでどうにかしろ」
 腕をつかんだまま、ご主人さまは私の顔をちらりと見た。
「俺は忙しい」
 「ぶっ」と、ルイさまが吹き出し、盛大に笑い始めた。
「レオン。あなたとは長い付き合いだけれど、これほどのツンデレだとは知らなかったわ」
「何の話だ」
 ご主人さまは、嫌そうに顔をしかめた。
「ああ、知らないわよね。ルカ、家に帰ったら、彼の腕の中でゆっくり何時間でも説明してあげて」
「ルカさん。良かったですね。とうとう思いが届いて」
 マユは、もう早々と感激に目をうるませている。
「何を言っているかは知らんが、ありえぬ光景を勝手に思い描くな」
 すっかり不機嫌になったご主人さまは、大股で部屋を出て行く。「クルス、ルカ、何をしている」
「は、はい」
「すぐに」
 周囲を高い樹木に囲まれた天羽邸は、まだ濃い闇に包まれていた。
 しばらく歩いている途中で、来栖さんの姿が見えなくなったかと思うと、黒のリムジンを回して来てくれた。この敷地内のどこかに隠してあったのだろう。
 炎天下の秋葉原を闊歩し、メイド喫茶で一休みし、神田川を渡ってニコライ堂までふたりで寄り添うように歩いたのは、まだ、ほんの一昨日のことなんだ。もう何百年も経ってしまったような気がする。
 車は首都高速に乗り、一昨日の道順を逆にたどった。
 なつかしい伯爵邸に着いたのは、東の空がしらじらと明け初めるころだった。
「ああ、疲れた」
 来栖さんの車を降り、伯爵家の錆びついた通用門をギギッと開いたとき、思わず吐息が漏れた。
 こうして、生きて戻って来られたのが夢のようだ。
 身の程知らずにも、ご主人さまの宿敵相手に大はったりをかまして、一世一代の料理勝負を挑んだ二日間。殺されそうになったり、拉致されそうになったり……。おまけに、ほとんど寝てない。
「早くベッドに倒れこみたい……いえ、自分の部屋のです。決してご主人さまのベッドじゃありませんから」
 大慌ての言い訳を無視して、ご主人さまは先だって歩き始めた。私もいつものように、その二歩後ろからついてゆく。
 樹木に囲まれた通い慣れた小径を、気だるい安堵とともに歩いているとき、ご主人さまが突然立ち止まった。
「そちらではない」
 強く、私の二の腕をつかむ。
「え?」
 見ると、ぼうぼうの雑草の中に、バラ園への門がぽつりと立ちすくんでいた。
「そなたには、真実を話しておきたいのだ」
 ご主人さまは遠くを見つめるような目で、門の向こうを見ておられた。「俺とローゼマリーのことを」
――とうとう、話してくださるんだ。
 みぞおちが、きゅんと縮んだ。
――奥方さまの愛されたバラ園で、奥方さまとの哀しい思い出を。
 それでも1ミリも前に進もうとしない私に焦れたご主人さまは、ぐいと私の手首をつかんで、まるで走るように歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待ってください。来栖さんにひとこと断ってきます。急にいなくなったら、心配……」
「クルスなら、わかっている」
 ご主人さまはぶっきらぼうに答えたきり、速度をゆるめようとはしない。
 道を覆い尽くす雑草の葉が、ご主人さまの脇をすり抜け、ちょうど私の顔だけに、ぱしぱしと当たる。こういうとき背の低い人間は損をするんだ。
 ようやく、長い迷路から抜け出た。ローゼマリーさまが最後まで愛したバラ園。
 いつも闇の中で匂い立つように咲き誇っていたバラたちは、朝もやの中でひどく色あせて、しょぼくれて見えた。まるで夜の魔法が解けてしまったみたい。
 そして、中央のダマスクローズは、ご主人さまが引きちぎってしまわれたまま枯れてしまい、骸骨のような無残な姿を見せていた。
「ルカ」
 ようやく私の手を離したご主人さまは、次の言葉を継ぐのがとても辛そうに、しばらく地面を見つめて立ち尽くしておられた。
「そなたはローゼマリーのことを、どこまで夢に見た?」
「ウィーンで、奥方さまと出会われたときまでです。ローゼマリーさまは、まだほんの子どもでいらした……」
「そうか……」
 ご主人さまは、ひどくつらそうに息を吸って、吐く。
「あの、私、そこまで知りたいとか、思ってませんから。そんなに無理しなくても――」
「黙って聞け!」
 私の言葉をぴしゃりと遮ると、弱々しく微笑まれた。「いいから、黙って聞いていてくれ。頼む、ルカ」
「は、はい」
 私は、あわてて両手を前でそろえて、目をぎゅっと閉じた。せいいっぱいの傾聴モードだ。
「俺はあのとき、まるで犬の子を拾うように、あれを拾った。引き取って、育て始めた。風呂に入れ、髪を切り、最上の絹の服を着せ、上流階級の立居振舞いと行儀作法を教えこんだ。……俺は、リュドミラが俺にしてくれたのと同じことを、忠実になぞった」
 ご主人さまの深くやさしい声は、私の鳥肌が立ちまくった皮膚を、ふうわりと包み込むように流れた。
「何の変化もない毎日に、俺は飽き飽きしていたのだ。単なる暇つぶしのつもりだった。だが、心のどこかで望んでいたのだ。同じ境遇の人間ならば、きっと俺の心を理解してくれるに違いない。そして、俺の横で永遠の時をともに歩んでくれるに違いない、と」
 ご主人さまはいつしか、枯れ果てたダマスクローズに視線を注いでおられた。
「ローゼマリーは俺の思いどおりの、気品のある貴婦人に成長した。俺は彼女が汚れることを恐れ、下僕でさえも決してそばに近寄らせなかった」
 だとしたら、ローゼマリーさまの瞳に映るのは、ご主人さまだけだっただろう。
 レオンさまは、庇護者であり、父であり、兄であり、そして恋人だった。まるで雛がどこまでも親鳥の後をついていくように、ローゼマリーさまにとって、ご主人さまはすべてだったはず。
「あの子が十八になったとき、一族の儀式をほどこした」
 ご主人さまは、きっとローゼマリーさまが成長するのを、指折り数えて待っておられたのだろう。ずっと孤独だったご主人さまに、永遠にともに人生を歩んでくれる伴侶が約束されたのだ。
 ご主人さまの瞳は、銀色の朝もやを映しながら、遠い想い出の中にたゆたっている。その瞳があまりにもやさしくて、私の心のケチな嫉妬心なんて、粉々に吹き飛ばされてしまう。
 ご主人さま……幸せだったんだね。ほんとうに、幸せだったんだね。
「最初は楽しい日々だった……と思う。だが、そのうちに、奇妙なことに気づいた。俺の身の回りの世話をする女中が、ひとり、またひとりといなくなっていくことに」
 ご主人さまの口調が、次第に虚ろなものへと変わった。「ローゼマリーは、知らないと繰り返すばかりだ。最初は気にもとめていなかったが、やがて真実を知ることとなった……片っ端からあの子が血を吸って殺していたのだ」
 ご主人さまの声は、さらに低く沈んでいく。
「それだけなら、とりたてて騒ぐ理由はなかった。俺たちにとって、身の回りの雇い人など鶏小屋の鶏と同じ。そばにいても、いずれは食するものだったからだ。だが……ことは、人間だけにとどまらなかった。一族の女たち、決まって前日に俺とことばを交わした者ばかりがいなくなった――そして、リュドミラの姿も消えた」
「……ルイさままで?」
 聞いていた私の肌が、ぞわりと泡立った。
 ルイさまは、天涯孤独だったご主人さまを拾って育ててくださった方。少年のころ、ルイさまに対して淡い恋心を抱かれたこともあったはずだ。そのことに感づいたローゼマリーさまは……彼女を殺したいほど憎んだのだ。
 ご主人さまはたったひとうの生きがいだから。世界のすべてだから。ローゼマリーさまはレオンさまを愛するあまり、誰かに奪われることを恐れて……片っ端から回りの人たちを消していったのだ。
「リュドミラはいち早く危険を察し、身を隠したと後になってわかった。それを知ったとき、俺は――」
 ご主人さまは、つらそうに息を吐かれた。「俺は、ローゼマリーを恐れた。ほんの気まぐれで拾った孤児に、自分の身勝手な欲望を押しつけ、思い通りに育てようとした代償は、あまりにも大きかった。俺は、決して満たされぬ大きな空洞をかかえた、ひとりの怪物を作り上げてしまったのだ」
 ご主人さまはしばらく口をつぐんだ。愛した人を仮にも怪物と呼んだことに耐えられかったのだろう。
「アレクサンドルはその頃、ツァーリを陰からあやつってロシアの近代化を成し遂げ、バルカン半島へ、中央アジアへ、樺太へと急速な拡大政策を推し進めた。世界最強の帝国を作り上げようと戦争を繰り返すアレクサンドルに、俺は真っ向から異を唱えた」
 戦争で人間を間引くか。それとも、繁栄へと導くか。一族を二分する激論が戦わされたと言う。
 ギリシアを支配するイアニス・ヴァラス子爵は、オスマントルコとの戦いでロシアの援助を受けていたので、アレクサンドルさまに賛同するしかなかった。
 強力な味方であるルイさまは、そのときローゼマリーさまを恐れて身を隠しておられたし、気がつけば、一族のほとんどがアレクサンドルさまの味方についていた。
「大公の座を追われた俺に、あいつは大公夫人であるローゼマリーをも要求した」
 アレクサンドルさまは、レオンさまの持つもの全てを奪うことでしか、喜びを感じられない方なのだ。
「普通ならば、耐えがたき仕打ちに違いない。だが、俺は即座に承諾した。本当は、心のどこかが……ほっとしていたのだ」
 園を渡ってきた夜明けの風に長い黒髪をなぶられながら、ご主人さまはかすかに口元をゆがめて笑った。「俺はローゼマリーと離れられることに、まぎれもなく安堵を感じていた。その気持ちは、すぐに妻に伝わっただろう。いらなくなった玩具のように他の男に投げ渡されたことに、気づいたはずだ」
「俺とアレクサンドルは、役割をすっかり入れ替えた。やつがレオニード大公として一族を把ね、俺はミハイロフ伯爵としてロシアの片隅に領地を与えられた」
 そして、新しくアレクサンドルさまの妻となったローゼマリーさまは、自分を争いの道具として扱った二人の男に、激しい憎しみをたぎらせたに違いない。
 そのころのローゼマリーさまに会ったことがあるイアニスさまは、こう言ってたもの。

――あの女は確かに美人かもしれねえが、極めつけの性悪女だった。優しさのかけらもなく、頭の中は他人を陥れることばかり考え、いつも冷たい醜悪な笑みを浮かべていた。

 ローゼマリーさまは、ご主人さまに復讐することで、なんとか自分を保っておられたんだと思う。
 あまりにも、哀しすぎるよ。アレクサンドルさまもローゼマリーさまも、そしてレオンさまも。三人が三人とも、決して満たされぬ思いを抱えて、のたうち回っておられたんだ。
「俺は領地に引きこもるふりをして、その一方で、なんとかしてアレクサンドルの世界帝国への野望を阻もうと欧州を飛び回った。そして、ストックホルムで日本の明石大佐に出会ったのだ」
 明石元二郎陸軍大佐は、日本政府の密命を受けて、ロシア革命を陰から扇動したと言われる人だ。
 機密工作員、つまり、スパイ。
 レーニンなどの革命分子を支援して、日露戦争を勝利に導いた影の立役者だと言われる……らしい。実は、後で調べたんだけどね。
「その時のご主人さまって、すごい人だったんだ。そうやって近代日本史を動かしていたんですね」
 レオンさまは喉がつまったような音を出した。私の能天気な言葉にあきれ果てて、二の句が継げなかったのだと思う。
「すいません、続きをお願いします」
「明石大佐の部下だった来栖馬之助に出会ったのも、そのときだ」
 来栖馬之助、つまり、来栖さんのお祖父さまだ。
「俺の企みに気づいたアレクサンドルは、烈火のごとく怒った。その復讐として実行したのが、ローゼマリーを俺に返すことだった」
 ローゼマリーさまのレオンさまに対する激しい憎しみに、あの方は気づいていたに違いない。
 ご主人さまを苦しめるために無理やり自分の妻にしたローゼマリーさまを、ふたたびご主人さまを苦しめるために、モノのように投げ返したんだ……。
「そのことで、一族の分裂は決定的となった。アレクサンドルに与する者たちの激しい妨害によって、俺はヨーロッパにはいられなくなった」
 ご主人さまだけではない。ロシア革命によって、全部で160万人の亡命者が、ロシアと東欧から全世界に難民として移動したと言われる。
 革命の混乱に乗じて、レオンさまとローゼマリーさまはロシアを離れた。最初から一貫してご主人さまに与していたリュドミラさまもいっしょだった。
 イアニスさまは最初はアレクサンドルさま一味についていたが、その強引なやり方に次第について行けなくなって、日本に来たのは、その後だったということだ。
 シベリア鉄道を乗り継ぎ、樺太を経て日本の函館に到着する。昼の光を避けての逃避行は、困難をきわめただろう。
 その一切の手配をしたのは、明石大佐の従者、来栖馬之助だった。馬之助は今の相場で二百億円もの多額の借金と引き換えに、ご主人さまの執事として五百年働く契約を結んだのだ。
 もしかして、その二百億円って、明石大佐の諜報活動のために使われたんだろうか。いつか聞いてみたい。
「ローゼマリーは、その道中も俺とはひとことも口を利かなかった。まるで心を亡くした、生きた人形を見ているようだった」
 ご主人さまの視線は、ダマスクローズが植えられていた場所だけに注がれている。
 今は、ローゼマリーさまの思い出だけが見えているのだろう。私のことなど完全に忘れて。
「俺たちは、馬之助が用意したこの屋敷に居を構えた。軍を退役した馬之助は、そのときから俺の片腕となり、巨額の資産を動かして、世界の国々がアレクサンドルの思い通りにならぬように手を尽くしてくれた」
 そして、うめくように呟かれた。「俺が今もこうして、この国で生きていられるのは、馬之助のおかげだ……あのときの俺は、それどころではなかったゆえ」
 大公の座を追われ、すべてを失って日本に落ちのびて来られたご主人さま。どれほど憔悴しておられたんだろう。
 そして、そのとき隣にいたのは、心を閉ざしたローゼマリーさま……彼女を見るたびに、ご主人さまは、どれほどの苦痛にさいなまれたんだろう。
「馬之助は、ローゼマリーの世話をさせるために、日本人の娘をひとり連れてきた。貧しく身寄りもない、十四、五歳ほどの娘だった。もちろん」
 ご主人さまはそこで、ほんのわずか口をつぐんだ。
 もちろん……最後には血を吸われて殺されてしまう運命だったのだろう。だから、あえて身寄りのない少女が選ばれたのだ。
 ご主人さまたちが血を吸う人間を提供し、誰にも知られぬように死体の後始末をする。それが、来栖一族がご主人さまと取り交わした契約だったのだから。
「その娘は多恵といった。多恵はここに来た最初の日から、親身になって妻の世話を焼いた。ことばは全く通じなかったが、懸命に話しかけたり、食事を摂ろうとしないローゼマリーを気づかって、あれこれ食べ物を用意した」
……まるで、このお屋敷に来たばかりのころの私みたいだ。
「ある夜、騒ぎが起こった。女中部屋で寝ていたはずの多恵が大声で泣き始めたのだ……恐ろしい夢を見たのだと。旦那さまと奥さまが、書斎に見知らぬ男を連れ込んで、ふたりでかわるがわる食べていたと。恐ろしくて悲鳴を上げることもできずに、布団にもぐりこんだところで目が覚めたのだと」
「え、それって」
 夢? 夢でなく、もしかすると……。
「おそらく多恵は、夜中に厠へ行く途中で俺たちが血を吸っているところを見たのだろう。馬之助がすぐに駆けつけて、うまくなだめ、言いくるめた」
――多恵さんや。それは確かに夢でござろうよ。寝ぼけて頭の中でありえぬ光景を見たのだ。
「それで、夢だとすっかり本人も思い込んだらしい。たとえ誰かに話しても、頭の足りぬ女中が言う戯言と誰もが思うだろう」
「……そうですよね」
「だが」
 ご主人さまは、そこで言葉を切った。その昏い色の瞳を覆っているのは、決して取り戻すことができない過去への後悔。
「長い逃避行の末、やっと落ち着いたばかりの異国だ。ヨーロッパとは風習も文化も違う。教育もない、たかが十五の小娘の言うことを、もしひとりでも真に受ける者が現れたら、何が起きるかわからぬ。無用な騒ぎを起こしたくはない。そんな保身の計算が俺を揺り動かした。俺はためらうことなく多恵の血を吸って殺した」
 以前、レオンさまがおっしゃっていた。
――俺たちにとって、身の回りの雇い人など鶏小屋の鶏と同じ。そばにいても、いずれは食するもの。
 わかっている。以前のご主人さまが、人間を殺すことをなんとも思っておられなかったことは。
 けれど、遠い外国での話と日本での話は別だった。私と同じ日本人の少女が、しかも『多恵』という名前を持つ存在が、殺されたのだと聞くのは……やはりショックだ。
「死体はいつものように馬之助に始末させた。いなくなったことすら誰も気づくまい……そう、高をくくっていた。だが、多恵が死んだことを悟ったとき、妻は顔色を変えた」
 ご主人さまは、つらそうに息を吐きだす。
「日本に来てからというもの、俺はローゼマリーに触れることすらなかった。妻の体に触れるのは多恵だけだった。着替えを手伝い、髪をくしけずり、言葉が通じぬとわかっていながら必死に話しかけるのは、多恵だけだった」
――ねえ、奥さま。今朝、桜のつぼみがほころびているのを見ましたよ。今年は春が早いですねえ。
――奥さまの手、つめたい。こんなに白く、冷え切って。さすってさしあげましょうね。
――どうして召し上がらないのです。一口でいいから食べてください。お願いです。
 涙があふれてくる。私がご主人さまに最初に出会ったときのように、多恵さんはきっと、手を尽くして美味しい食事を作り、思いつくかぎりのことを話しかけたのだろう。
 心を完全に閉じたローゼマリーさまにとって、多恵さんは、外へ通ずるたったひとつの窓のような人だったのだろう。
「妻があれほど激昂したのを見たのは、それが最後だった。泣きわめき、俺を殴り、ののしり、そして沈黙したとき、妻は抜け殻となっていた。血を吸うこともやめ、毎夜このバラ園にぼんやりとたたずむだけ……そして数年経ったある夜、自分の胸を銀のナイフで貫いた」



web拍手 by FC2