第5章「結局のところ、素材がいのちです」

(8)



 ご主人さまは、すぐかたわらにある白い、崩れかけたあずまやを見やった。
「庭師の叫び声で駆けつけると、このあずまやの中で、ローゼマリーは自分の心臓にナイフを突き立てていた。とっさに、抜かなければと思った。俺たちの治癒力ならば、すぐにナイフさえ抜けば、傷口はふさがる。だが、俺はとうとう手を出せなかった。このまま放っておけば、ローゼマリーの苦しみは終わる……いや、そうではない。俺の苦しみだ。俺はそのとき、自分が楽になることしか考えていなかった。そのとき妻は目を開き、俺を見つめて、笑った」
 ……笑った?
「笑ったのだ。まるでこう言っているようだった。
『ほら、あなたは私を殺したいんでしょう。だから死んであげる』
俺は……妻が目を閉じ、完全にこと切れるまで、そのままじっと立っていた」
 膝が力をなくして、私は地面にへなへなと座り込んだ。ご主人さまの言葉はまるで鋭いとげだった。このとげで、ご主人さまは百年間、自分の心を刺し続けてきたのだ。
「庭師が一部始終を見ていたため、取り繕わねばならなかった。馬之助が『奥さまは病気を苦に自分の命を絶ったのだ』と言いくるめ、多額の金を与えて事をもみ消した。ローゼマリーの死を誰よりも悼んだのも、馬之助だった。魂の救済を願って、神田の東京復活大聖堂で埋葬式をする段取りまでひとりで決めてきた」
 来栖さんのお祖父さんの馬之助さん。もしかしてローゼマリーさまのことが好きだったのかな……なんて、何でも恋愛というバイアスをかけて見るのは私の悪い癖だ。
「俺は万世橋の赤煉瓦の停車場で馬車を降り、徒歩で大聖堂まで向かった。朝から雲が低く雨模様の日だった。太陽の光と炎熱に焼け溶けることをひそかに願ったが、とうとう最後まで、俺の上に天から光が射しこむことはなかった」
 なんて悲しいんだろう。おととい私といっしょに通った秋葉原の中央通りも、神田川の上に架かる昌平橋も、ご主人さまはたったひとりで孤独の苦しみに耐えながら歩いておられたのだ。
 そして、ローゼマリーさまの埋葬式はニコライ堂で行われた。荘厳な祈祷とさんびとともに。

『主よ、なんじの眠りし婢(ひ)の幸いなる眠りに永遠の安息を与え、彼に永遠の記憶をなしたまえ』
『永遠の記憶、永遠の記憶、永遠の記憶』

「そのとき、俺は悟った。ローゼマリーは、俺に永遠に記憶されるために自らの命を絶ったのだ。それが、あれを捨て猫のように拾い、気まぐれに可愛がった挙句に疎み、遠ざけた俺に対する最高の復讐だった」
 地べたに座り込んでいた私の隣で、レオンさまは空を仰いだ。まるで、天罰が下ることを待ち焦がれながら叶わぬ罪人のように。
「俺はその日以来、血を吸うことをやめた。大公の位を誰にも譲らぬまま、死ぬことは俺には許されぬ。生きることも死ぬこともなく、飢えの苦しみにのたうちながら永劫の時を過ごすだけが、俺にできるたったひとつの贖罪だった」
 ダマスクローズの枯れ果てた枝が風に小さく震えているのを、私はただぼんやりと見ていた。
 以前、来栖さんはこう話していたっけ。
『ローゼマリーさまは他の命を犠牲にしてまで生きたくはないと言って、自らの命を絶たれた。だから伯爵さまも血を吸わないのだ』と。
 それはたぶん、お祖父さんの馬之助さんがそう伝えたんだ。幼い孫に語るには、あまりに真実はつらいから。
「だから、ルカ」
 突然、ご主人さまの大きな手が私の頭にぽんと乗った。ローゼマリーさまの追憶の前では吹き飛んでしまったはずの私の名前、ちゃんと覚えてて呼んでくださった。
「何も感じず、何も望まず、死人として生きることしかできない俺に、ふたたびそなたを愛することなどできるのだろうか。……いや、そもそも俺は人を愛したことなどないのだ。ローゼマリーを身勝手な欲望のために利用して、最後には捨てたように、そなたのことも、いつかきっと同じ目に合わせてしまうだろう」
 レオンさまの漆黒の瞳が光のさざなみを立てている。ご主人さま……泣いておられるんだ。
「俺はそれが怖くてたまらないのだ。ルカ……そなたをあの子と同じように傷つけたくない」
 その目を見たとき、がくがくになっていた私の足腰が、まるでホウレンソウを食べたポパイみたいに力を取り戻した。
「いいえ……いいえ!」
 私は叫びながら、すっくと立ち上がった。「大丈夫です。ご主人さまは、ちゃんとローゼマリーさまを愛しておられました。夢の中でちゃんとわかっちゃったんです。ご主人さまがローゼマリーさまをウィーンの街角で見つけて、家に連れて帰って、美しいドレスを着せて……どれほど慈しんで育てられたか。誰の目にも触れないように、まるで宝物みたいに大切にされていたか。あれが愛情でなくて、何だというんですか。ご主人さまは心の底からローゼマリーさまを愛したんです」
 今の私は、他人から見れば本物のバカに見えるだろう。自分の愛する人がほかの女の人を愛してるって大声で叫んでいるなんて。ひとこと叫ぶたびにキリキリと胸が痛い。でも、そうせずにはいられなかった。だってレオンさま、今途方に暮れた子どもみたいに泣いているんだもの。
「さすがの私が裸足で逃げ出すほど、ふたりは愛し合っていらっしゃいました。だから、ちゃんと自分の気持ちを認めてあげてください。身勝手な欲望とか、気まぐれとか、そういう取り澄ました反省の言葉でお茶をにごさないで、もう一度、心の奥の奥に封印した気持ちを解き放ってあげてください」
 ご主人さまは驚いたように、涙でぐしゃぐしゃになった私の顔を見つめている。
「真実と向き合わないから、前に進めないんです。ご主人さま、つらくても向き合って」
 私は枯れ果てたダマスクローズに向かって、人差し指を突き出した。
「ローゼマリーさまに、とうとう最後まで伝えられなかった思いを……どうか今伝えて」
 とても長い時間が経った。
 私を見つめていたレオンさまの視線が、スッと横に逸れた。
 一歩、二歩と花壇に近づく。ご自分が引き抜いて、めちゃくちゃにしてしまったダマスクローズへと。
「ローゼマリー」
 彼方の人に呼びかける声は、小さくても、遥かな空に届くかのようだった。
「ローゼマリー。俺は……そなたを愛していた。心の底から愛していた」
 私の知らない外国語の調べ。きっとご主人さまとローゼマリーさまは、その言葉で語り合っておられたのだろう。
 ふたりきりで。
「そなたを失って、どれだけ俺は……さびしかったか」
 ご主人さまの肩が小刻みに震えている。泣いておられるんだ。百年を経て、初めて心の奥底から泣くことができたんだ。
 よかった。ご主人さま。ほんとうに、よかった。
 そのとき、私の頭や腕に、かすかな温もりが触れているのに気づいた。
 顔を上げて、その理由がわかった。雲間から日光が射しこんでいる。
 涼やかな朝の風が園を渡り、小鳥の鳴き声があちこちの木々から聞こえてくる。
 今まで、魔力で閉ざされたこの薔薇園には、絶対にありえなかった生命のしるし。
――封印が解けたんだ。
 ローゼマリーさまがたった今、封印を解いてくださったんだ。
 枯れたダマスクローズを取り囲むように咲くたくさんのバラたち。花びらが、つぼみが、緑の葉が、朝露をいっぱいに湛えて震えている。
 命があふれていた。命がふたりを祝福していた。
 ローゼマリーさま、解き放たれたんだね。つらくて悲しい記憶から。愛しても報われない過去から。憎悪のかたまりになるしかなかった自分自身から。
 そして元どおり、レオンさまに必要とされ愛された、たったひとりの女性に戻れたんだね。
 よかった。
 口からあふれでる嗚咽を隠そうとして、私は両手で口を押さえ続けた。
 ふたりはこれからも、永遠にお互いを愛し合うだろう。私ごときが、割り込む隙間なんかない。
 それでいいんだ。ローゼマリーさまを想って泣いておられるご主人さまが……私は一番大好き。
 だから、これでいいんだ。
 そのとき、私の肩に新しい温もりが加わったのに気づいた。太陽の光よりも、もっと重く、確かな温もり。
「ルカ」
 ご主人さまのやさしい声が、頭に触れる。ご主人さまのたくましい腕が、私の背中に回される。
「ルカ、ありがとう」
 口に当てていた手がそっと取り払われ、代わりにご主人さまの唇が触れた。
「そなたを愛している」
「……わたし?」
「そなただ」
「でも……でも、私じゃなくて」
「そなたでないと、駄目なのだ」
「でも、ローゼマリーさまが……」
 それ以上の反論のことばは、唇でふさがれてしまった。
 あとは、さわさわと鳴る木々の音しか聞こえない。
 ご主人さまのやさしい口づけしか感じるものはない。
 気が遠くなるほどの幸せな時が過ぎると、ご主人さまは私の手を引き、バラ園の出口へと導いた。
 形のくずれた迷路を抜けて、鬱蒼と茂る下生えの草を踏みしめ、森の陰に私が切り拓いたハーブ園を横目に見ながら進むうちに、ようやく私は気づいた。
 夏の強い日差しが庭をくっきりと照らし出している。今まではまるで霧にかすんだように、ぼんやりとしていた。暑さとも寒さとも無縁な、時の止まった庭が、今確かに時を刻み始めたのだ。
 お屋敷の建物に近づいたとき、私は茫然と立ちすくんでしまった。つないでいた手を思わずぎゅっと握りしめる。レオンさまは振り向いた。
「バラが……」
 小さな花壇に、ダマスクローズの折れた枝を接木して植えていた。枝は伸びて順調に育っていたけれど、つぼみはひとつもなかった。
 でも、今。
 薄い紫のつぼみが、いくつも開こうとしている。まるでそれは、紫のドレスを着た貴婦人がすっと手を空に向かって伸ばしているよう。
「ローゼマリーさま……」
 ローゼマリーさまは、赦してくださったんだ。
 だからすべてを託してくださった。ダマスクローズの生命を引き継ぐことを。その花びらでローズティーを淹れることを。そのお茶を毎日ご主人さまにお出しすることを。
――そして、私がご主人さまの隣を歩むことを。
 新たな涙が伝い落ちる私の頬を、ご主人さまは人差し指の腹でそっとぬぐってくださる。
 なんという、深い愛情に満ちたしぐさだろう。今まで受けたことのないお優しさに、私は余計に泣けてしまう。次々とあふれる涙に頬がふやけそうだ。
 そのことに業を煮やしたのか、いきなりご主人さまは私の脇に腕を差し入れた。
 あっというまに体のバランスが崩れ、足が宙に浮いた。いわゆるひとつの、お姫様だっこってやつ?
「だあーっ! な、なにをなさるんです」
「庭を歩く間に、そなたは何回立ち止まったと思う。十度だ。十度。もう待てん」
 長い髪がなびくほどの勢いで、レオンさまは私を抱いたまま、軽々とテラスの階段を駆け上がり、掃き出し窓を押し広げて、お屋敷の中に入った。
「お……降ろしてください」
「だめだ」
「あの……そ、そうだ。わたし、お茶を用意しなきゃ。おやすみ前のお茶を」
「休まぬから、必要ない」
 高速で廊下を歩くご主人さまの腕の中で、私は首をねじまげて後ろを見た。どこかで来栖さんが笑いを噛み殺しながら、こちらをうかがっているんじゃないかと。
 でも何も見えないまま、角を曲がる拍子にご主人さまの髪の先がバサリと私の目に当たって、死ぬほど痛かった。
 うわあん。これは、何かの罰ゲームですか。
 とても不安で、とても幸福な罰ゲーム。私はご主人さまの腕にぎゅっとしがみついて、目を閉じた。
 世界がくるくると回り、扉を開ける音がして、やがて私はそっと柔らかな地面の上に降ろされた。
 おそるおそる目を開くと、予想していたとおり、そこはご主人さまの部屋。
 私はご主人さまのベッドの上にいる。
 そして見上げると、かたわらでご主人さまはコートを脱ぐところだった。
 コートを椅子に掛け、ストールを放り投げ、カマーバンドをはずして脱ぎ捨てる。
 プリーツシャツの一番上のボタンをはずすと、リボンタイをしゅるりと音を立てて引き抜いた。
「あの、あのっ」
 あわてて身を起こそうとした私は、ふたたび有無を言わさぬ力で倒された。ご主人さまの羽根枕が背中にぽすんと当たる。
 両膝で脇腹をはさみこまれ、気がつけば、ここはご主人さまの完璧な牢獄。1ミリだって逃げ出す隙間はない。
「こ、これって、以前に私がやったことと真逆のシチュですよね。さりげなーく仕返しなさってるとか?」
「黙っていろ」
 お叱りの言葉とともに、首元のスカーフが引き抜かれた。
 それでようやく思い出した、私、コックコートのままなんだ!
 料理勝負を終えて、着替える暇もなくルイさまのお屋敷を出てきた。今の私は、およそベッドシーンにはありえない、世界一色気のないコスチューム。
「ま、待って。この服ではさすがにあのっ。脱ぎます。自分で脱ぎます」
「黙れと言ったはずだ」
 脳みそがとろけそうな声で、レオンさまは低く耳元でささやいた。「そうだ。そなたを黙らせるには、口の中に何かを入れておけばよいのだな」
 前にも同じセリフでスプーンを差し入れ、ごま豆腐を口に入れてくださったのを思い出すが、今度唇を割って入ってきたのは、もっと温かくて、もっとざらざらとした感触。
 この方のキスは、いつも私の全身の力を奪い、空の高みにまで昇らせてくれる。
 コックコートのボタンが外され、ご主人さまのはだけた胸と私の乳房が直接触れ合う。それだけで、脳天までしびれるような快感が全身を貫いた。
 これまでだって、私の毎日はご主人さまのことだけで埋め尽くされていた。買い出しに行くときも、献立を考えるときも、料理をするときも、頭の中にはご主人さましか住んでいなかった。
 けれど、体のすべてがご主人さまとひとつになる感覚は、それとはまったく異次元のものだった。想像をはるかに超えていた。
 全身が震えて、崩れて、とろけだしていきそう。
 天に昇るような心地にうっとりと意識をゆだねていた私は、ちくっという感覚で正気に戻った。
 ご主人さまは顎をもたげて、ひと声苦しそうにうめいた。
 髪がみるみる銀色に、深い黒の瞳は紅蓮の炎の色に染まる。唇から覗く歯の形も変わっていた。その歯の先で私の口の内部に触れてくださったのだろう、頬の裏がかすかに痛み、舌先で触れると血の味がする。
 ああ、そうか。
 たぶん、これは一族に加えられるための儀式。そして、たぶん……恋人同士のための儀式。
 レオンさまがかつてローゼマリーさまに施したはずの儀式。
 私が夢の中で見た激しく残酷な儀式とは全然違って、ひたすらに優しい。
 大事なのは、血が触れ合うこと。一族の方の傷はあっと言う間にふさがってしまうから、すぐに互いの傷口同士を触れ合わさなければならない。
 あとは、ご主人さまがご自分の唇かどこかを噛んで、キスをしてくれれば……それで完了。
 私の血はご主人さまの血と混じりあってすぐに変化し、血がなければ生きられない体になる。人間の食べ物を食べても、まったく栄養が摂れない。どんな美味しいものを食べても、美味しさを感じない体に。
 後悔はない。コックとして死刑宣告を受けるようなものだとしても、ご主人さまの隣を歩んでいけることのほうが私には大切。だから後悔は――絶対にしない。
「ルカ……」
 私をひたと見据える、血への欲望に染まった赤い瞳に、指先までからめとられてしまう。
 体の奥底から噴き出てきたマグマが身もだえするほど、熱い。
「大好き……ご主人さま……お願い、お願いだから……早く」
 私はとうとう耐えきれなくなり、むせび泣きながら、目を閉じた。
 目を閉じて、そのときを待った。
 待った。
 けれど、何も起こらなかった。
 我慢できなくなって、そろそろと瞼を持ち上げる。鎧戸の隙間から射し入る朝の光の中で、ご主人さまが私を見降ろしておられるのが見えた。漆黒の髪を垂らし、悲しそうな漆黒の瞳で。
「ご主人さま……なぜ?」
 なぜ、そんなに早く元の姿に戻ってしまわれたの?
「すまない」
 かすれた声で、答えがあった。「俺は、もう少しで取り返しのつかぬ過ちを起こすところだった」
「過ち?」
「やはり、そなたを一族に加えることはできぬ」
「どうして……」
「そなたを、俺と同じ闇へと引きずり込んでしまうからだ」
「それでいいんです」
 私はありったけの力でご主人さまの腕にぎゅっとしがみついた。「私は永遠にご主人さまの隣を歩みたい。闇だろうと何だろうとかまわない。私を一族に加えてください!」
「それでは目標をなくしてしまうのだ」
 レオンさまの指がそっと私の髪に触れた。「そなたには人間でいてほしい。ルカ。そして、これからも俺の目標でいてくれ」
「何を言っておられるか、さっぱりわかりません」
 とうとう私は声を上げて泣き出した。「目標なんて、いやだ。そんなものになりたくない。私はあなたの隣にいたい。なぜそれが……いけないことなんですか」
 腕にしがみついてわんわん泣いている間も、レオンさまはじっと私の髪をなで続けてくださった。
 以前にも、ご主人さまは同じことをおっしゃった。耳元でかぎりなく優しい声で、
『そなただけは、ずっと人間でいてもらわねば困るのだ』
 あのときは、まだローゼマリーさまを忘れておられないからだと勝手に誤解してしまったけれど。
 そういうことではないんだ。別の理由があるんだ。
「納得できません。今ここで、ちゃんと理由を教えてください」
「今は言えぬ」
「じゃあ、やっぱり納得できません」
「ただひとつ言えるのは、そなたが人間でいる限り、俺はどんな困難にも立ち向かうことができる。一族の長レオニード大公として最大の事業を成し遂げるまで」
「アレクサンドルさまとの闘いに勝つまでってことですか」
「それよりももっと大きなことだ」
 わからない。ご主人さまはいったい何をしようとしてるんだろう。全然わからないよ。
「それまで、そなたは、はるか彼方の灯台として、これからの俺を導いてほしい」
「灯台……私が……」
 なぜですか。非力な私がご主人さまを導けるはずなんてない。
 千年も続く一族のことなんか、何も知らないのに。たかだか二十数年生きただけの人間にしかすぎないのに。
 突然、頭の中でおぼろげに何かが見えたような気がした。
『あなたはいつか、あの子の光になるわ』
 少し前に、ルイさまが話してくれたことがある。ルイさまにとって貴柳神父が光であるように、いつか私もご主人さまの光になると。
 吸血鬼と神父。たとえ、どんなに相容れない存在でも、憎みあわねばならない存在でも、人間とともに生き、人間と愛し合う。それが、自分らしく生きるために、ルイさまが選び取った道だった。
 ご主人さまもたった今、ご自分の道を選び取った。レオニード大公として一族を導き、人間を滅ぼそうとするアレクサンドルさまの野望を打ち砕こうとしている。人間とともに生き、人間と助け合って生きることを望んでおられる。
 だから、私は一族に加わることはできないんだ。
「わかりました」
 私は、ぐしっと手の甲で頬に伝う涙を拭った。
「私は人間でい続けます。もしそれが、ご主人さまのお役に立つのなら」
「すまぬ」
「灯台でも懐中電灯でも何でもなります。そのかわり、ひとつだけ我がままを聞いてください」
 私は立ち上がった。元通りコックコートをきちんと整え、床に落ちていたトックを拾ってかぶりなおした。
 そして、親指をエプロンのひもにひっかけた決めポーズで、ご主人さまの前に立った。
「私を今までどおり、専属コックとして雇ってください。給料もちゃんと払ってください。私はこれからも、ご主人さまのために食事を作ります」
 夕方に朝のおめざめのお茶を。
 真夜中に正餐を。
 明け方におやすみ前のお茶を。
 はじめから何もなかったかのように淡々と、けれどもっと心をこめて、もっと工夫をこらしてご主人さまのお好きな料理を作りたい。
 それが私の最高の愛情の表し方。ご主人さまに一番喜んでいただける方法だから。
 ご主人さまはじっと私の顔を見つめておられたが、ふふっと唇をゆるめた。
「わかった。好きなようにするがよい」
「ありがとうございます、ご主人さま!」
 私はくるりと翻って、小走りに部屋を出た。
 厨房の大理石の調理台のかたわらに、来栖さんが座っていた。
 呆けたような表情で、私を見る。まるで幽霊が飛び込んできたかのように。
「な……なぜ」
 来栖さんの脳内では、私はとっくにご主人さまに一族の儀式を施され、吸血鬼になっていたのだろう。
 血以外の何も美味しいと感じることができなくなって、コックコートを脱ぎ捨て、夜更けに青ざめた顔で現れると思っていたのだろう。
「ご主人さまのおやすみのお茶を淹れます」
 私はコンロに薬缶を乗せ、火を点けた。とっておきのアールグレイの缶を取り出し、最高級のレミー・マルタンの黒瓶の封を切った。
 今日は、ティー・ロワイヤルだ。コニャックをたっぷり染み込ませた角砂糖に青い火を点ければ、ご主人さまの部屋全体に得も言われぬ芳香が広がるはず。
 二日間の死闘の疲れを取って、ぐっすり休んでいただくために、最高の飲み物だ。
 私は振り向いて、にっこり笑った。
「来栖さん。ティーセットを準備してくれますか……ご主人さまと私と来栖さんの三人分」
 唖然と開けられた執事の口元にも、ようやく笑みが浮かんだ。
「おまかせを」

***

「あ〜 あち」
 うっかり気を抜くと遭難するほど広大な庭を歩きながら、私は何度も荷物を背負いなおした。
 魔力のバリアかはたまた結界か、これまで得体のしれない力で季節の移り変わりから隔絶されていたこの庭。
 ここの主(あるじ)が百年来の引きこもりを破り、つらい過去に囚われていたご自分を解放なさったとたんに、すべてのものが時を刻み始めたのだ。
 おりもおり、季節は梅雨明けの盛夏。気温はとっくに30℃を突破し、35℃をうかがおうという勢いだ。一足ごとに汗がだらだら。雑草もハーブ園のハーブも、旺盛な生命力を発揮して、ぐんぐん丈を伸ばしている。
 はるか遠くからかすかに、電車の警笛が響いてくる。今までは絶対に聞こえなかった音。
 外界の空気が自由に出入りするようになったということは、台風もミサイルもPM2.5も容赦なく侵入してくるのだろうな。
 もちろん、遠い国の刺客だって。
 でも、以前のような暑さも寒さもない閉ざされた空間よりは、こっちのほうが私はずっと好きだ。はるかに、生きているという感じがする。
 美しく咲き誇るダマスクローズのそばで立ち止まった。
 真正面のテラスにご主人さまが腰かけて、仏頂面でじっとこちらを見ておられた。
「なんなのだ。これは」
 19世紀風の貴族の服を身にまとったご主人さまのすらりと伸びた長い脚。その先は水を張った金だらいの中に突っ込まれている。
「クルスにここに連れて来られ、無理やり足を氷水に浸された。どういうことだ」
「私が頼んだんです。梅雨明けの日本の風物詩。日本人は古来より、夕涼みと称して、縁側や縁台でたらいの水で足を冷やして涼を取るんです。そして、きわめつけはこれ」
 肩に背負っていた紐つきの大荷物をぶんと振り回す。
「西瓜の丸かぶりです」
「スイカ?」
 厨房へ走って行き、ざくざくと四等分に切る。
「キンキンに冷やしてあります。鋭い歯でガブッと真ん中から行っちゃってください」
 ご主人さまはさすがに戸惑った面持ちで、皿の上を注視する。Lサイズ西瓜の四つ割、ヨーロッパの貴族さまは初めて見るデカさだろう。
「ご主人さまが最初に召し上がってくださった記念すべき私のレシピは、スイカのジュレでした」
 なつかしい思い出に思わず頬がゆるむ。あのときから、私の料理人としての本当の歩みが始まったのだ。
「だから、いつかスイカを丸かぶりしていただきたかったんです。だって、そのほうがはるかに美味しいし、はるかに本物ですから」
 レオンさまは私の顔を穴が開きそうなほどじっと見つめると、言った。「ここに座れ」
 隣に腰かけると、「皿を持っていろ」とのたまう。
 大皿ごとご主人さまの前に差し出すと、さくっと音がして、スイカの真ん中が大きく削ぎ取られた。
「これでよいのか」
 ご主人さまの口から頬にかけて、うっすらと赤いスイカの汁で染まっている。まるで血を吸ったばかりの吸血鬼のように。
 かわいい。いたずらっ子みたいで、悶絶しそう。
「完璧です」
 持っていた手ぬぐいで口を拭って差し上げる。反対側からナプキンを差し出そうとした来栖さんが、すぐに手をひっこめた。
「もうすぐ、ルイさまと貴柳神父が仕事を終えていらっしゃるので、この残りは冷やしておきますね。それに、日が暮れたらイアニスさまとマユも交えて、晩餐の前の花火大会という趣向になっています」
「すべては、そなたの計画どおりか。百年間静寂が満ちていたこの館が、まるで場末の酒場のようだ」
「賑やかなのは、おいやですか?」
 ご主人さまは立ち上がり、庭にしばらく見入っておられた。鬱蒼としげる樹木に囲まれて、花壇のダマスクローズは夕方の風に揺れながら、まるで美しい少女が笑いさざめいているように見えた。
「いや」
 ご主人さまは振り向いた。「嫌いではない」
 そして、ベンチに腰かけたままの私の上にかがみこみ、一言ささやかれた。
 とても小さな声だったけれど、すぐ背後に立っていた来栖さんには、きっと聞こえていただろう。
「だが、そなたと二人きりになれぬ」
 笑いを含んだあたたかな息が、私の耳をくすぐった。



  第5章 終



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