第8章 「ビナー(理解)」 BACK | TOP | HOME 「大臣命令が取り消されたぞ」 【すずかけの家】にいるセフィロトに、犬槙博士が満面の笑みで通信をよこした。 「そうですか」 「なんだ、あまり嬉しそうじゃないな」 「冷静になって考えると、わたしはとんでもないことをしてしまったような気がします。あのときは、すっかり頭に血が昇ってしまって」 「ふうん、頭に血がねえ」 「あのあと、柏局長には蹴飛ばされるし、武藤さんには思い切り笑われるし、木田さんは口を利いてくれないし、きわめつけは、園長室に行くと、栂野園長がまっ蒼な顔で心臓の薬を飲んでいらっしゃいました」 「はは。でも栂野園長も、あっさり辞意をひるがえしてくれたんだろう」 「こんな物騒な副園長に、あとをまかせては辞められないと思ったのかもしれません」 「じゃあ、万事うまくいったと喜ぶべきじゃないか」 犬槙の暢気なことばに、セフィロトはようやく苦笑まじりの笑顔を取り戻した。 「博士も、胡桃と同じことを言うのですね」 「きみたちと違って人間は、これくらいでいちいち落ち込んでちゃ寿命がもたないんでね」 「わたしも、パーツの耐用年数が十年ぐらい減ったような気がします」 しばらく軽口を叩いていたふたりだったが、セフィロトは急に暗い表情になった。 「実は、あのときの柏局長がふと漏らしたことばが気になっているのです」 「やっこさん、何を言ったんだ?」 ――おまえは、奴のことを何も知らないんだ! 「わたしは、何を知らないというのですか。クリフォトには、わたしの知らない秘密がまだあるんですね」 犬槙は、視線を反らせた。表情が明らかに強ばっている。 「博士。教えてください」 「僕の口からは言いたくない」 「なぜですか。わたしなら、どんな秘密でも守れます」 眼鏡の奥の犬槙の目が、しばらく逡巡していた。 「すまない。やっぱり口が裂けても言えないよ。きみのためにじゃない……きみの中の樹のためにだ」 「古洞博士のため?」 その頃、胡桃はクリフォトの部屋に駆けつけていた。 「今、あなたに対する大臣命令が取り消されたって一報が入ったわ」 扉を開けるなり、有頂天になって報告する胡桃を、クリフォトは椅子の上からぼんやりと見上げている。 「みんな大喜びよ。今晩は祝勝パーティをするって。小さい子はもう食堂の飾りつけを始めてる。大きい子は、調理師さんと相談してクリスマスみたいな大きな七面鳥を焼くんだとか、三段重ねのケーキを作ろうとか、今日は一日すごい大騒ぎになりそう」 部屋じゅうをくるくる歩き回りながら話し続けていた胡桃は、ふと動きを止めて振り返った。 クリフォトが片手の拳で口を押さえて、笑っているのだ。 「どうしたの?」 「あんたを見てると、ユイとの類似点をいくつも発見できる。興奮すると部屋じゅうを踊り回るところなんか、そっくりだ。それが日本の女の特徴なのか」 「ユイって?」 「リウ博士の助手だ」 「じゃあ、リウ博士には日本人の助手がいらしたのね?」 胡桃は慎重に言ったつもりだったが、クリフォトは急に正気に戻ったかのように手を降ろし、背筋を伸ばした。 「……わからない。いったい何の話だ?」 「ユイという女性のことよ」 「ユイ?」 クリフォトは眉をひそめた。眼球が小刻みに揺れ、次第に金色に光り始める。胡桃はセフィロトがそういう状態になったのを何度か見たことがある。【デバッグ】と呼ばれる、人工知能の強制チェック機能。 数十秒もすると、クリフォトは再び胡桃の顔を初めて見るかのように不思議そうに見上げ、「ユイ」と呼んだ。そして、また我に返って、自分に腹を立てている苛立った素振りをした。 「クリフ。どうしたの?」 明らかに異常な様子に、胡桃は心配して彼の顔をのぞきこんだ。光のないうつろな瞳が、次の瞬間彼女を見つめ返し、そして手が胡桃の細い首にゆっくりと伸びてきた。 「柏局長!」 セフィロトは、思わず声を荒げた。 犬槙との会話を終えた彼は、続いて科学省の柏に緊急連絡を取ったのだ。 『忙しい』と通信スイッチを切ろうとする彼に対して、セフィロトはコンピュータに回線のオープンを命じ続けた。 「教えてください。クリフォトにいったい何があったんですか」 「何もないと、さっきから言ってるじゃないか」 「これ以上隠すようなら、中国当局のコンピュータをハッキングしてでも調べますけど、いいんですか」 「セフィロト。おまえはだんだんと性格が悪くなっていくなあ」 「局長に、しっかり仕込まれましたからね」 ふたりはモニターをはさんで、刃のような視線をからませ合った。 「真実を知るのは、いいことばかりじゃないぞ。後できっと、知らなければよかったと後悔する」 「後悔などしません。クリフォトを理解するために必要ならば、どんな事実でも受け止めます」 柏は大きな長いため息を吐き出した。 「わかったよ」 しかし、降参の白旗を揚げたあとも、局長はしばし口の中でことばをころがしている。 「リウ博士には、ひとりの助手がいた。日本人女性で、姫榁結衣(ひむろゆい)という名だ。彼女はちょうど古洞博士と同い年だった。死ぬまで結婚はしなかったが、リウ博士と結衣はずっと恋人同士だった。父親がひとり娘を溺愛するみたいに、博士は彼女を心から愛しんでいたという」 「……」 セフィロトは、胸が痛むような錯覚を覚えた。すでに何かの予感が全身を覆い始めている。 「結衣さんは、亡くなられたのですね」 「ああ、一年ほど前に死んだ」 「……まさか」 『古洞博士と同い年』と言ったときの、柏局長の声がわずかに上ずっていたのだ。 「ああ、察したとおりだ。彼女は――」 ごくりと唾を飲み込む音が、ここまで聞こえてくる。「【第12ロット世代】のひとりだった。享年30才、死因は――老衰だ」 膝が力を失い、セフィロトは手近な椅子に崩れこんだ。 「同僚の話によれば、リウ博士は彼女の死後数ヶ月間、抜け殻のようになっていたそうだ。ちょうどそのとき、ユエ・コンツェルンからAR8型のデータを渡され、設計図どおりのロボットを作れと命じられた」 柏局長は苦しそうに咳払いした。 「同僚の誰もが、リウ博士はそんな大プロジェクトを引き受けられるような精神状態でない、きっと断るだろうと思っていた。だが実際、博士は二つ返事で引き受け、それ以来まるで魅入られたように、ロボットを作ることに没頭した」 思考回路が麻痺しているとセフィロトは感じた。聴覚の捕らえた音を意味ある言葉に変換するまで、とてつもない時間がかかっている。 「クリフォトが完成するまでも、完成してからも、博士は一歩も外へ出ず研究室に閉じこもった。まるで気がふれたようだったと同僚は証言している。まっさらで無垢な状態のクリフォトに対して、博士は徹底的に教え込んだ。自分がどれだけ結衣を愛していたか。どれだけ結衣を失って悲しいか。そして――結衣の命をもてあそんだ人間の傲慢をどれだけ憎んでいるか。人間はどれほど、万物の支配者としてふさわしくない愚かな存在であるか」 柏は、ふたたび長い沈黙に落ちた。 「語るだけ語りつくすと、リウ博士は衝動的に別室に飛び込んで自分の命を絶った。まるで、もうこの世に未練はないと言わんばかりに。そして最後に隣の部屋のクリフォトに向かって聞こえるように、ひとつの言葉を叫んだ」 『こんな世界など、滅びてしまえ』 「中国当局は、リウ博士の最後のことばを体制の破壊をもくろむ危険思想とみなし、あわててクリフォトの記憶回路の中から消去しようとした。だが、それは結果として、博士の憎悪だけではなく、結衣に関するすべての記憶までも消すことになった。そのために記憶に整合性を欠いたクリフォトは、それ以降、感情の欠落した、いびつな成長をするロボットになってしまった。それを知った俺たちは、犬槙を杭州に呼び寄せ、クリフォトを徹底的にメンテナンスさせたが、結局うまくはいかなかった――」 柏は大きな罪をざんげし終えた者のように、きつく組んでいた両手をほどいて、顔を上げた。 「セフィロト。おまえは死を前にした古洞博士から、自分の代わりに生きることを託されたそうだな。だがクリフォトは、まったく出発点からして反対だった。わかるか。クリフォトは自分を創った創造者から、生ではなく、死を託されたんだ」 遠くからかすかに、胡桃の悲鳴が聞こえてきた。 「どうした、セフィロト」 画面の中で叫ぶ柏局長を残して、彼は事務室を飛び出した。 生徒寮へと続く廊下の角で、子どもたちが何か大声で騒いでいる。急いで駆けつけると、木暮アラタが、さらに向こうの廊下の突き当たりを指差して、叫んだ。 「胡桃先生が!」 クリフォトがゆっくりと歩いてくる。その脇に抱えられているのは、ぐったりとした胡桃だった。 セフィロトの喉の奥から、声にならない声が漏れた。瞬時に、胡桃の脈拍や血圧を計測する。意識を失っているだけで怪我はしていない。 だが、胡桃の無事を確認しつつも、決して安心はできない。もしクリフォトの思考回路が完全に狂っていて、【暴力禁忌プログラム】に反する暴走を始めたら、自分はどうするべきか。 胡桃に危害を与えようとした瞬間に、ためらわずにクリフォトを破壊するだろう。 それがセフィロトのプログラムに組み込まれている生命最優先の法則だ。人間の生命はロボットの生命にまさる。 (たった今、クリフォトが背負っている重荷が何かを知ったばかりなのに。同じ悲しみを共有する者同士、これからようやく理解し合えるはずだったのに) 今彼の中で形成されつつあるのは、無力な胡桃を人質にしているクリフォトへの、計算づくの冷酷な殺意だ。昨日は頭をすりつけて助命を嘆願した対象を、今日は片手で殺すことができる。なんと、ロボットの【心】というものは理不尽で移ろいやすいのだろう。 「クリフォト」 セフィロトは生徒たちをかばうように、一歩前に進み出た。 「胡桃を解放してくれないか」 クリフォトは焦点の合わない瞳で、はじめて見るかのように彼を見つめた。何が起きているのか、自分でもわかっていないのだろう。 「ユイが死んだ……」 「うん。そうだね」 セフィロトは、泣きじゃくる幼児をなだめるときのように、静かな声で答えた。 「きみは、結衣に関する記憶を強制的に消去させられた。今それを取り戻して混乱している。今きみの隣にいるのは、胡桃だ。結衣じゃない」 だが、どんなに言い含めても、クリフォトはまったく反応しない。 セフィロトは、次第に募る苛立ちとあせりに、何もかも忘れて飛びかかりたくなる衝動を必死に抑えた。 胡桃に万一のことがあれば、たぶんわたしは生きていけない。正気ではいられない。 愛する人を失う喪失感は、人工知能のあらゆるシュミレーションをはるかに越える。 胡桃は古洞博士を失ったとき、どれほど苦しんだだろう。リウ博士は結衣を失ったとき、どれほど悲しんだだろう。 「クリフォト」 手を差し伸べて一歩近づきながら、セフィロトは繰り返した。 「きみは、人工知能をデバックすることで、消されていた記憶を取り戻したんだ。リウ博士は結衣のことをとても愛していた。結衣が亡くなって、博士はとても悲しんだ。生きることをあきらめてしまうほど深い絶望に陥った。その絶望の中のひとすじの希望として、博士はきみを創ったんだ」 クリフォトは顔を伏せたまま、けいれんしたように首を振った。 「なぜ、俺は生きているんだ。苦しい。痛い……。生きることがこれほど痛いなら、死んだほうがましだ」 「クリフ。それは本来は隠されているはずのリウ博士の人格移植プログラムだ。混同してはいけない。きみはリウ博士じゃない。AR8自律改革型ロボット【クリフォト】なんだ」 「うるさい!」 クリフォトは胡桃を抱えたまま廊下を走り始めた。セフィロトはその前に両手を広げて立ちふさがる。だが、最後のぎりぎりの瞬間、退かざるを得なかった。胡桃の体に激突の衝撃を与えるわけにはいかない。 「クリフォト!」 セフィロトの必死の叫びもむなしく、彼は寮の通用口から走り去った。 「クリフ! 胡桃先生!」 小さな子どもたちが、一斉に泣き出した。 「みんな、ここは頼みます」 セフィロトは落ち着いた声で、心配そうに見ているアラタや上級生たちに言った。「先生たちに訳を話して、みんなで待っていてください。ふたりは、わたしが追いかけます」 「……セフィ先生」 「約束します。きっとふたりとも、無事に連れ戻しますから」 半分は自分自身に向かってそう言い切ると、セフィロトは血のように赤い夕闇の中に飛び出して行った。 使用したお題「セフィロト十一題」および「クリフォト十題」は、霜花落処 さまからお借りしました。 NEXT | TOP | HOME Copyright (c) 2003-2009 BUTAPENN. |